新説 鄧艾士載伝 異伝

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第一章 武勲までの長い道のり

第二十一話 二四八年 司馬懿を見舞う

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 そんな鄧艾の元に、司馬懿が病気を理由に都を離れて引退したと言う報告が届いた。

 本来であれば諸葛亮との戦いの時には副将まで務めた郭淮が見舞いに行くべきなのだが、暴動鎮圧直後と言う事もありまだ身軽に動ける状態ではないと言う事もあって、鄧艾が名代として司馬懿の見舞いに向かう事になった。

 随伴として媛も付き従う事になったが、夫婦の馴れ初めを聞いた郭淮もそれならば一緒に行った方が良いと言う許可も得ていた。

 今回は副将の杜預は残って郭淮の助手と言う事になり、鄧艾と媛の二人で向かう事になった。

 あくまでも私的な見舞いと言う事にしている。

 事の経緯は陳泰を経由して教えてもらっていたので、大将軍側を刺激しない為の配慮でもあった。

「まぁ、太傅もお年ではあるから」

「病気で弱ってる仲達様って、いまいち想像出来ないんだけど」

 鄧艾と媛は道すがらそんな話をしていた。

 まったく老いを感じさせない司馬懿ではあるが、その年齢はまもなく七十になろうとしていた。

 これまで最前線にいる事が多かった事の方が不思議なくらいの高齢であり、引退自体はごく自然な事とも思える。

「自然かなぁ。だって、あの仲達様よ?」

 媛が言う事ももっともだ。

 世間一般ではいたって常識的判断とも言える引退だが、相手は一筋縄ではいかない曲者の中の曲者である。

 しかも自分で言い出した事ではなく、大将軍である曹爽陣営の思惑に乗った形での引退なのだから、何か企んでいると思うのもまたごく自然な流れでもあった。

 今回の見舞いは、そこを見定めると言う意味もある。

「士載殿、わざわざ南安からのお越し、兄も喜んでおりますよ」

「こ、これは司馬孚しばふ様!」

 鄧艾と媛は慌てて馬を降りて、頭を下げる。

「いやいや、そこまで大仰な事をなさらないで下さい。聞きましたよ? 異民族の暴動を収めた際には、かなりの手際の良さだったとか。近々正式に南安太守の任が与えられる事でしょう。それに対し私は無位無冠。悠々自適の引退生活の身ですから」

「そんなとんでもない。無位無冠と申されていますが、司馬懿様は太傅の職のまま、司馬孚様は尚書令の職のまま。その様な要職にある方に軽々な事など出来ようはずもなく」

「はっはっは。相変わらずの様で安心しました。遠方に任を受けた者は怠惰になり易い傾向が強いのですが、士載殿は大丈夫のようですね」

「そんな事したら、ひっぱたいてやりますから」

「それは心強い」

 媛の言葉に、司馬孚は本当に楽しそうに笑う。

 司馬孚は司馬懿の実弟である。

 いかにも曲者な兄とは打って変わって、温厚で誠実な人柄は広く知られているが、見るからに人の良さそうな笑顔の似合う老人だった。

 それでもただ温厚なお人好しと言う訳ではなく、かつては武帝の息子として皇帝候補にもなった曹植そうしょくの側近であった頃には、武帝の息子として自由奔放に振舞う曹植に対して諫言出来る数少ない人物でもあった。

 曹植はそれを嫌ったところもあったらしいが、後にはワガママが過ぎるとまで言われた曹植の方から謝罪したと言う。

「ところで、太傅のご加減はいかがですか? あまり病状が優れないと言うのであれば日を改めますが」

 鄧艾が遠慮がちに言うと、司馬孚は髭を撫でながら少し考えるとニコッと笑う。

「ああ、なるほど、私が来た事を警戒されている訳ですか。なるほどなるほど」

 司馬孚は笑いながら何度も頷く。

 鄧艾は近くに来た事を知らせたが、その時の返書は司馬師の名で人を遣わすからその人に案内してもらう様に、と記されていた。

 当然司馬家の使用人程度の人物が案内をしてくれると思ったのだが、やって来たのが実弟の司馬孚だった事は想定外であり、異常でもあった。

 いかに鄧艾が司馬懿の属官で、南安太守に内定しているといっても所詮は地方の一官吏であって、政務官の頂点である尚書令がわざわざ使用人の様な真似をする必要は無い。

 これは来客を見定める意図があるのではないか、と鄧艾は思ったのだ。

 あの司馬懿が簡単に引退するはずがないと言うのは誰しもが思う事であり、大将軍陣営がそれを警戒しないはずがない。

 見舞い客が大将軍側の人間で、こちらに害意を持つ者である場合にはそれなりの対処をする為に司馬孚が来たのではないか。

「まぁ、まったくそう言う事が無いと言うわけではありませんが、警戒の必要はありませんよ? 兄からも言われていますが、基本的には来る者拒まずですから」

 司馬孚は笑いながら言う。

「士載、あんたそんな事にビビってたの?」

「媛ほど肝が据わってないもので」

「はっはっは。奥方は相当な女傑の様ですな? 兄も張氏も奥方の事は褒めていましたよ?」

 こう言う風に褒められる事に慣れていないのか、媛は恥ずかしそうに俯く。

 そんな世間話をしていると、司馬懿の家に到着した。

 太傅の館は別にあるのだが、病気療養をしていると言う私邸の方はその地位に対してこじんまりとした、地味で質素な建物だった。

 が、司馬懿と言う人には妙に似合うところもある。

 本人の印象が強いせいもあるが、華美な装飾が無くてもどこか華やかなところのある人物であるのだが、普通の人に紛れると分からなくなる地味なところも併せ持っているせいでもあるだろう。

「叔父上、ありがとうございます」

 私邸の前では司馬師が出迎えに来た。

「いえいえ、私も楽しかったですよ」

「士載、今回はお手柄だったな。お前が陳泰に書状を送ってくれたおかげで、こちらもすぐに動く事が出来たぞ」

「いえ、私も確信が持てませんでしたので、私信と言う形でしか知らせられなくて申し訳なく思っています」

「それでも太守はそれを知らせてこなかったからな。お前の方が適任だ」

 司馬師はそう言うと、鄧艾の背中を叩く。

「父上の見舞いに来たのだろう? 弱っている姿は中々見ものだぞ? 存分に見て舞ってやってくれ」

「……あの、見舞いと言うのは別に舞う訳ではないのでは?」

「うん? 見て舞いに来たんだろう?」

「いえ、見舞いと言うのは舞いとは関係ないのですが」

 どこまで本気かは分からないが、不思議そうな表情を浮かべる司馬師に、鄧艾は念のためにそう伝える。

「何だ、舞う為に奥方を連れてきた訳ではなかったのか」

 司馬師は心底がっかりしている様に見える。

「私、田舎生まれの無作法者ですので、舞の嗜みなどは身につけてこなかったもので」

 媛が珍しくしおらしい態度で言う。

 この態度を見る限りでは、本気で舞とか嫌なのだろう。

「それはそれで良いじゃないか。弱っている父上なら喜ぶと思うし」

「そんなに弱っているのですか?」

「まぁ、ようやく年相応になってきたと言うところかな」

 鄧艾は心配そうだが、司馬師は平然としている。

 この親子は仲が悪いと言う事はないのだが、距離感が独特過ぎて常人では計り知れないところがあった。

 司馬師に案内されて地味な私邸に来た鄧艾夫妻だったが、そこで目を疑う様な光景を見る事になった。

「……何されているんですか?」

 鄧艾は中にいた司馬懿に、挨拶するより先にそう発していた。

「おお、士載か! よく来た。奥方も」

 司馬懿は鄧艾と媛に向かって言う。

「……何されているんですか?」

 媛も挨拶より先に、そう尋ねていた。

 そこには司馬懿と張氏の夫妻がいたのだが、病人で弱っているはずの司馬懿は元気そうに舞を舞っていた。

「何って、士載達が舞を見に来ると言うからこうやって練習を……」

「……いえ、見舞いに来るとは言いましたが、舞を見に来るとは言っていません」

 鄧艾はどんな表情で答えていいかわからず、なんとか言葉を絞り出した。

「ほら、父上。言ったじゃないか。士載は舞を見に来るんじゃなくて、父上に舞を見せに来たんだって」

「いや、一回舞から離れましょう」

 この親子はどこまで本気で言っているか分からないが、もしかすると本気でそう思っているのかもしれないと思わせるほど真面目に言っている。

「太傅、少し休みましょうか」

 張氏がにこやかに言う。

 この人は常識人のはずなので、見舞いが舞とは関係がない事は分かっているのではないだろうか。
 もしそうだったら、早い段階で止めて欲しかった。

「それではお薬を持ってきますね。士載さん達も、ゆっくりして下さい」

「あ、どうぞ、お構いなく」

 にこやかな張氏に鄧艾はそう答えたのだが、張氏に椅子を進められては腰を下ろすしかない。

「媛さん、少し手伝ってもらえます?」

「はい、奥方様」

 張氏に連れられて、媛はすぐに張氏の後について行く。

 媛は田舎の出身というのは間違いないが、一応役人の娘として田舎なりにそれなりの身分ではあるのだが、さすがに張氏とは比べ物にならない。

 その為、貴婦人と下女と言う絵が素晴らしくしっくりくる。

 とは本人には言えない。
 もっとも、案外喜ぶかもしれないが。

「ふー、ちょっと休むか」

 張氏と媛が席を外したところで、司馬懿も寝台の上に寝転がる。

「若い頃はもう少し動けたんだがなぁ」

「太傅は舞の嗜みを?」

「武帝時代にな。あの人は何でも出来る人と思われているが、実際には何でもやりたがる人と言う方が正しいだろうな。ついて行くのが精一杯だったよ」

 司馬懿は懐かしそうに言う。

 武帝、曹操の話は当時ただの農民だった鄧艾ですら知っている。

 魏建国の後、文帝曹丕によって武帝と諡されたが本人は生前には帝位にはついていない。

 漢最期の丞相であり、その政治を一手に引き受けながら自ら戦場に立つ将軍でもあった。

 それでいて自ら銅雀台と言う建物を建設し、さらに新しい料理を考案したり、神がかった詩を詠んだりと無尽蔵の才能の持ち主であったと言われている。

 しかし、それだけに謎の多い人物であり、人材に対して驚異的な執着心を持っているかと思えば、家臣に対して破滅的な処罰を与えたりもしていたと伝えられていた。

「あの人を常識で測る事は出来ないよ。武帝は、自分を凡人であると知っていたからこそ凡人を極めようとしたらしいのだが、そう思っていたのは本人だけでどこを取っても凡人どころの話では無かったよ。っと、武帝の話ではない」

 司馬懿はふと我に返って言う。

「涼州付近で姜維とやり合ったらしいじゃないか。どうだった? 戦ってみて」

「戦ったのは私ではなく夏侯覇、郭淮の両将軍ですので、私の方からどうと言う事は言えないのですが」

「あいつは強いぞぉ。士載や子元の前に出てくる敵としては最強だろうなぁ」

「楽しそうに話すなよ」

 司馬懿の言葉に、息子の司馬師は苦々しい表情になる。

「天水の麒麟児は伊達じゃないぞぉ。蜀に注目すべき者はまだまだ多いが、姜維はその中でも特別注意と警戒が必要だぞ」

「ベタ褒めだな。たまにはそれくらい息子を褒めても良いんだぞ?」

「ただ、才能のある者は他の誰かに任せるより自分でやった方が確実と、背負い込む事が多いからなぁ。姜維が諸葛亮から何を学んだかは知らないが、破格の天才だった諸葛亮でさえ一人抱えて寿命を縮める事になったのだ。姜維がそこまで真似てしまえば、おそらくその責務に潰されてしまうだろう。惜しい事だ」

「優秀な敵であれば、そうやって潰れてくれた方がありがたい」

 司馬懿に対して、司馬師はもっともな事を言う。

 だが、司馬懿には思うところがあるのだろう。

 天水の麒麟児、姜維伯約の話はいやでも耳に入ってくるほどの異才だった。

 諸葛亮の離間の計によって、その時の太守だった馬遵ばじゅんに見捨てられ蜀に降るしか無かった。

 一度は両親が魏に呼び戻そうとしたのだが、姜維は魏を捨て蜀での立身を志し、逆に蜀へ両親を呼んだと言う。

 南安でも耳に入ってきた話である。

 この時、司馬懿はそれをとやかく言えない地位であった為、どうする事も出来なかった。

 流出した異才に対する忸怩たる思いが、司馬懿にはあったのかもしれない。

「太傅、お薬ですよ」

「えー、それ苦いから嫌だー」

 張氏が薬湯を持ってきたが、司馬懿は露骨に嫌がる。

「ダメですよ、飲まないと。剣を研がないといけなくなりますからね」

「はい。飲みます」

 たおやかな笑顔でとんでもない事を言う張氏に、司馬懿は素直に頷く。

「うげー、やっぱり苦いー」

「こぼしたらダメよ、太傅」

 媛は笑顔で司馬懿がこぼした薬湯を拭きながら言う。

「あらあら、お客様にごめんなさいね」

「奥方様、お気になさらずに。私が好きでやってる事ですから。奥方様も大変だったでしょう?」

「良いのよ。私も好きでやってるんだから」

 優しく柔らかい笑顔で、張氏が媛に言う。

「せっかくだから、お二人のお子様も見たかったわね」

「言う事聞かなくて困ってるんですよ。失礼があってはいけませんから」

「子供はそう言うものよ」

 まるで本物の親子の様な張氏と媛の会話は、身分の差など感じさせないほど親密で微笑ましいものだった。

 その後、司馬懿夫妻の要望もあって、鄧艾夫妻は遅くまで夫妻と語り合った。

 それが、大恩ある司馬懿と話した最期の日であった。
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