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第一章 武勲までの長い道のり
第十八話 二四七年 異民族の不穏な気配
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二四七年。
石苞も収集され、司馬懿の指揮の元行われていた、高句麗討伐が完了した。
総大将の毌丘倹は、遼東での公孫淵との戦い以降、そのまま高句麗討伐の任に当たっていた。
南安で遊んでいた様に見えた石苞も、実は高句麗討伐で情報を得られない毌丘倹の為に動いていたらしいと言う事を、後になって教えられた。
先年、漢中侵攻の大敗の後と言う事もあってか、その勝報は大々的に伝えられ、魏の軍事力未だ健在を周囲に知らしめる事となった。
そんな中にあって、鄧艾のいる南安では不穏な動きを掴んでいた。
「士載さん、まただよ」
そう言って来たのは、豪族に復帰した元荒くれ者の段信だった。
このところ、南安に妙に余所者が入り込んでは魏に対する不満や不公平、蜀であればもっと厚遇してくれると言う事を話していると言う。
鄧艾は直接その話を聞いた訳ではないので具体的にどう言う事が言われているのかは分からないが、中々に聴かせる話らしい。
「今日は張家のヤツらが話を持ちかけられたそうだ」
「これは、前兆でしょうね」
鄧艾は書状から顔を上げて、段信に向かって言う。
「どうも南安だけでは無いみたいで、この近辺で頻繁にそう言う事例が報告されています」
鄧艾はこの年、南安の太守補佐になっていた。
先年の蜀征の際に兵を動かさなかった事は司馬懿、司馬昭からは高く評価されたものの、実際に戦った曹爽陣営からはまったく評価されず、その時の昇進は無かった。
その後、雍州の各地を転々と回って治安や開墾の指示を出して回る役を得て、南安に戻って太守補佐に就いたのである。
これは司馬昭の人事らしく、鄧艾が涼州の姜維を警戒した報告を受けて、その近辺の警戒を強める様にとの司馬昭からの警告だったのではないかと鄧艾は思っている。
それが的中したかの様に、最近では妙に反魏の兆しが強まってきていた。
言うまでもなく、と言うのも妙な話ではあるのだが、国の統治に対して完璧に何ら不満が無いと言う事はまず有り得ない。
日々の暮らしの中で何かしらの不満は発生するものであり、当然魏と言う国に不満を漏らす者もいる。
それでなくとも貧富の差は激しいのだから、役職付きの者に対して一般の人夫が貧しい事に対する不満を漏らすのは、むしろ当然の事であると言っても良かった。
が、最近の噂は度が過ぎている時があり、過激さを増している。
「しーさーいー。戻ったよー」
そう言って来たのは媛だった。
媛は相変わらずの行動力と人柄のせいもあって、行動範囲や顔の広さで言えば鄧艾以上である。
「どうでした?」
「うん、やっぱり異民族が多いわね。ほら、前の戦で補給部隊がやられたでしょ? その失敗の責任を押し付けられてるみたいで、中々の不満っぷりだったわね」
媛も情報収集の為に各地を転々としていたが、その中で気になったところを報告する。
確かに先の蜀征の際には、郭淮の元で異民族までも招集して補給に当たらせたのだが、それは上手く機能しなかった。
しかしそれは異民族の補給部隊の働きが問題だったのではなく、進行形路を正確に予想して対策を立てた蜀将の王平が非凡であったと言う事で、補給を担当した者が悪いと言う訳ではない。
と、第三者である鄧艾などは考える事も出来るのだが、当事者である曹爽としては自身の戦術面の甘さを認めるより、実働の異民族を責める方が楽だったのだろう。
その結果、魏の西方である雍州各地で民衆の不満が高まっているらしい。
のだが、どうにも気になる。
「あれ? 元凱は?」
「兵の訓練ですよ。ひょっとすると兵を動かす事態になりかねないので」
「あの子、文官だって言ってなかった?」
「兵の調練も上手いので、つい」
鄧艾は苦笑いしながら答える。
杜預自身は自分の事を文官だと言って譲らないのだが、その武才は並の武将を遥かに超えているので、どちらかといえば武官寄りの仕事の方が多い。
しかし、相変わらず馬には乗れていない。
「士載さん、これはこのまま放っておいても良い案件なんですかね?」
段信の質問に、鄧艾は首を振る。
「不満が出る事それ自体はごく当たり前の事ですが、どんな不満でも出るのが当たり前として対策しないのは誤りです。ましてそれが敵の策動であるのなら尚の事」
「策なの?」
媛は不思議そうに首を傾げる。
「まだ確証はありませんが、それも十分に考えられます。どうにも不満の出方が不自然な気がして」
鄧艾は書状を見ながら考える。
段信や媛が言う様に、書状でも民の不満が送られてくるがその内容も一致している。
これは自然な事の様にも思えるのだが、鄧艾には時期が奇妙に思えた。
戦の直後であればそう言う不満もごく自然に出るし、正直なところ曹爽が全て異民族の補給部隊の責任だとするのは無理が過ぎる。
それが二年経ってから表面化してくると言うのは、少々時期が遅過ぎる様な気がするのだ。
誰かが煽っているのではないか。
では誰が煽っているのか。
それはもう、蜀か呉しかなく、南方であればともかくこの西方となると蜀の可能性が極めて高い。
それは何故か。
兵を動かそうとしているのだろう。
魏と呉であれば双方共に攻撃目標が多く設定されるので、この様な策動があったとしてもその候補は絞りきれない。
だが、魏から蜀に攻め込める場所が限定されているように、蜀から魏に攻め込む場所も同じように限定されてくる。
その守りを固めさせない為に、広域において暴動を起こさせるつもりなのではないか。
最悪の可能性をつなぎ合わせているのだが、何故か妙に辻褄が合う。
「杜預殿を呼んでください。今後の事を協議する必要があります」
「はーい。私が呼んでくるー」
「奥方様、俺が行きますよ!」
飛ぶような速さで動く媛に、段信が慌てて後を追う。
「お呼びですか?」
杜預はほどなくしてやって来たが、来たのは杜預だけでは無かった。
「父上、何事ですか?」
「士載、どうしたの?」
何故か杜預だけでなく、呼びに行った媛と長男の鄧忠までもやって来たのである。
「忠にはまだ早いから、母と一緒に弟達の面倒を見ていてくれ」
「えー、私もー?」
「忠だけに弟の面倒を任せても大丈夫であれば、特に問題はありませんよ?」
「ちぇっ。段灼にでも任せれば良かった」
何故か残りたがった媛は、鄧忠を連れて家に戻っていく。
鄧艾と媛の間には、長男の鄧忠の他に二人の子供を設けていたが、まだ生まれて間もないと言う事もあり、幼い鄧忠に任せると言う訳にもいかなかった。
と言うより、生まれて間もない赤子がいる母親でありながら、媛の行動力が困ったものなのである。
「人払いしてまでの話なのですか?」
「いえ、人払いと言う訳ではなく、忠がいると何かと面倒が増えると思いまして。少なくとも子供が聞いていて面白い話ではないでしょうから」
「まぁ、そうですね」
忠は母親に似て行動力があり、何かにつけて口を挟みたがる。
とは言え、年の割にはしっかりしたところがあり、将来は有望だと親の欲目もあるかもしれないが、鄧艾はそう思っていた。
「それで、俺を呼んだのはどういった御用で?」
「近々、蜀軍が動く可能性があります。まだ確信には至っていませんが、その可能性は決して低くはありません。都の将軍に連絡したいと思いますが、私には知己が無いのです」
「太傅殿はいかがですか?」
「さすがにそれは騒ぎが大きくなりすぎます。出来る事ならすぐに動ける武将の方が良いですね。太傅であればすぐに動くでしょうが、それはむしろ余計な混乱を招きますから」
「そうですね」
司馬懿であればすぐに動いてくれるだろうが、そんな簡単に動くと周りが困る人である。
この南安は対蜀の最前線でありながら、多くの兵を駐屯させてはいない。
理由はごく簡単で、大軍を駐屯させるだけの余裕が無いのである。
故に南安の太守は蜀軍が攻めてきた場合には門を固く閉ざして戦わず、都からの援軍が来るのを待つ事になる。
その為南安の太守に求められるのは統治に重要な寛容さと細心な注意力であり、蜀軍の動きに敏感な者であり勇猛果敢な武将ではない。
それだけに二年と言う時間をおいて不満が膨れ上がると言う事に、鄧艾は作為的なものを感じたのである。
「太守に頼んでみては?」
「そうすると公的な情報になってしまうので、虚報となった場合には太守にも罪が及び兼ねません。注意を喚起しておきたいと言う程度なので、私信の形が理想なんですが」
「仲容さん……は、まだ北方ですよね?」
「戻ってはいるみたいですが、さすがに北方から戻ったばかり。いきなり西に軍を出してくれと言われても、毌丘倹将軍も兵を休ませているでしょうから難しいのではないでしょうか」
毌丘倹であれば能力的にも人格的にも問題ないのだが、連戦は避けるべきだろう。
「叔子がいれば、自然な形で司馬師様に連絡出来たんですけどね」
杜預が言う様に、もしこの場に羊祜がいれば義理の兄への私信と言う形で連絡出来たのだが、今の羊祜は職を辞して浪々の身。
音信不通となって、現状では消息不明である。
「あっ! 適任者がいますよ! 陳泰さんがいます! あの人なら名門の上に実績も人望もありますし、そこそこ好戦的ですから。確認を名目に軍を動かしたがると思いますよ!」
杜預は言いたい放題だが、いい具合に陳泰を理解しているとも言える。
「俺や士載殿が私信として陳泰さんに書状を送るのは、そこまで不自然じゃ無いでしょう?」
「なるほど、確かに適任ですね。陳泰殿に書状を送ってみましょう」
鄧艾と杜預は、あくまでも私信として陳泰に宛てて書状を書く。
その返信は、さほど時をおかずに届いた。
内容としては鄧艾の指摘する危険はまさに蜀の企みそのものであり、郭淮、夏侯覇の両名を討伐隊として派遣する。
もし両将が到着する前に蜀軍が動いたとしても、決して戦う事はせずに固く守って将軍の到着を待つ様に、との厳命も書き添えられていた。
「……何か、らしくない文面ですね」
杜預は書状を見ながら言う。
「あの人は陳羣様と荀彧様の娘の息子さんですからね。素養は十分過ぎるくらいにある事は知ってますけど」
「いやいや、どうやらこちらの方の指示みたいですよ」
鄧艾はもう一つの書状を見せる。
それは司馬懿からであり、そこには姜維と言う人物の事が書かれていた。
戦って一騎当千、率いて千軍万馬、知略においては神算鬼謀。当代においてこれほどの名将は天下に二人といない英傑であり、戦う際には率いる兵数に関わらず決して油断しない事。
だが、そんな姜維ではあるものの魏からの降将であると言う事やその才能故の好戦的な性格から、今の大将軍である費禕にその能力は高く評価されながらも、大兵力を与えられていないらしい。
その為、その策動は魏の戦力を測ると共に、出兵の機会そのものを作るつもりであると、司馬懿は推察していた。
「……何か、気持ち悪いくらい詳細ですね」
杜預は書状を読みながら、まるで怪談を読んだかのような薄気味悪さを感じている様だった。
「まるで見てきた様な感じですが、本当に行ってないですよね?」
「多分。でも太傅のやる事だから、正直どうかわかりませんよ」
酔っていたとは言え、前線から逃げ回っていた事を自慢していた様な司馬懿である。
蜀の様子が気になるあまり、自分から蜀に入り込んで調べる事もやりかねないと思わせるところはあった。
しかし、ここで司馬懿の奇行について考えても仕方が無い。
そこで情報だけに注視する事にした。
動員してもらう武将として、郭淮と夏侯覇と言うのは理想的と言える。
郭淮は先の蜀征に参加していたが、奮戦したにも関わらずその武勲を正当に評価されていない。
そこで再度の武勲を立てる機会を与えたのだろう。
さらに攻勢に定評のある夏侯覇を加える事で、中途半端な蜀の策動を徹底的に叩き魏に隙無しと、姜維に見せつけるつもりらしい。
気になるところがあるとすれば、郭淮と夏侯覇が不仲である事くらいだが、昔の合肥の際には張遼、楽進、李典と三人の不仲の武将達が驚異的な武勲を上げてきた。
今回もきっと上手くいくだろう、と鄧艾は思う。
心配があるとすれば、この事が鄧艾の杞憂だった時の言い訳程度の事である。
石苞も収集され、司馬懿の指揮の元行われていた、高句麗討伐が完了した。
総大将の毌丘倹は、遼東での公孫淵との戦い以降、そのまま高句麗討伐の任に当たっていた。
南安で遊んでいた様に見えた石苞も、実は高句麗討伐で情報を得られない毌丘倹の為に動いていたらしいと言う事を、後になって教えられた。
先年、漢中侵攻の大敗の後と言う事もあってか、その勝報は大々的に伝えられ、魏の軍事力未だ健在を周囲に知らしめる事となった。
そんな中にあって、鄧艾のいる南安では不穏な動きを掴んでいた。
「士載さん、まただよ」
そう言って来たのは、豪族に復帰した元荒くれ者の段信だった。
このところ、南安に妙に余所者が入り込んでは魏に対する不満や不公平、蜀であればもっと厚遇してくれると言う事を話していると言う。
鄧艾は直接その話を聞いた訳ではないので具体的にどう言う事が言われているのかは分からないが、中々に聴かせる話らしい。
「今日は張家のヤツらが話を持ちかけられたそうだ」
「これは、前兆でしょうね」
鄧艾は書状から顔を上げて、段信に向かって言う。
「どうも南安だけでは無いみたいで、この近辺で頻繁にそう言う事例が報告されています」
鄧艾はこの年、南安の太守補佐になっていた。
先年の蜀征の際に兵を動かさなかった事は司馬懿、司馬昭からは高く評価されたものの、実際に戦った曹爽陣営からはまったく評価されず、その時の昇進は無かった。
その後、雍州の各地を転々と回って治安や開墾の指示を出して回る役を得て、南安に戻って太守補佐に就いたのである。
これは司馬昭の人事らしく、鄧艾が涼州の姜維を警戒した報告を受けて、その近辺の警戒を強める様にとの司馬昭からの警告だったのではないかと鄧艾は思っている。
それが的中したかの様に、最近では妙に反魏の兆しが強まってきていた。
言うまでもなく、と言うのも妙な話ではあるのだが、国の統治に対して完璧に何ら不満が無いと言う事はまず有り得ない。
日々の暮らしの中で何かしらの不満は発生するものであり、当然魏と言う国に不満を漏らす者もいる。
それでなくとも貧富の差は激しいのだから、役職付きの者に対して一般の人夫が貧しい事に対する不満を漏らすのは、むしろ当然の事であると言っても良かった。
が、最近の噂は度が過ぎている時があり、過激さを増している。
「しーさーいー。戻ったよー」
そう言って来たのは媛だった。
媛は相変わらずの行動力と人柄のせいもあって、行動範囲や顔の広さで言えば鄧艾以上である。
「どうでした?」
「うん、やっぱり異民族が多いわね。ほら、前の戦で補給部隊がやられたでしょ? その失敗の責任を押し付けられてるみたいで、中々の不満っぷりだったわね」
媛も情報収集の為に各地を転々としていたが、その中で気になったところを報告する。
確かに先の蜀征の際には、郭淮の元で異民族までも招集して補給に当たらせたのだが、それは上手く機能しなかった。
しかしそれは異民族の補給部隊の働きが問題だったのではなく、進行形路を正確に予想して対策を立てた蜀将の王平が非凡であったと言う事で、補給を担当した者が悪いと言う訳ではない。
と、第三者である鄧艾などは考える事も出来るのだが、当事者である曹爽としては自身の戦術面の甘さを認めるより、実働の異民族を責める方が楽だったのだろう。
その結果、魏の西方である雍州各地で民衆の不満が高まっているらしい。
のだが、どうにも気になる。
「あれ? 元凱は?」
「兵の訓練ですよ。ひょっとすると兵を動かす事態になりかねないので」
「あの子、文官だって言ってなかった?」
「兵の調練も上手いので、つい」
鄧艾は苦笑いしながら答える。
杜預自身は自分の事を文官だと言って譲らないのだが、その武才は並の武将を遥かに超えているので、どちらかといえば武官寄りの仕事の方が多い。
しかし、相変わらず馬には乗れていない。
「士載さん、これはこのまま放っておいても良い案件なんですかね?」
段信の質問に、鄧艾は首を振る。
「不満が出る事それ自体はごく当たり前の事ですが、どんな不満でも出るのが当たり前として対策しないのは誤りです。ましてそれが敵の策動であるのなら尚の事」
「策なの?」
媛は不思議そうに首を傾げる。
「まだ確証はありませんが、それも十分に考えられます。どうにも不満の出方が不自然な気がして」
鄧艾は書状を見ながら考える。
段信や媛が言う様に、書状でも民の不満が送られてくるがその内容も一致している。
これは自然な事の様にも思えるのだが、鄧艾には時期が奇妙に思えた。
戦の直後であればそう言う不満もごく自然に出るし、正直なところ曹爽が全て異民族の補給部隊の責任だとするのは無理が過ぎる。
それが二年経ってから表面化してくると言うのは、少々時期が遅過ぎる様な気がするのだ。
誰かが煽っているのではないか。
では誰が煽っているのか。
それはもう、蜀か呉しかなく、南方であればともかくこの西方となると蜀の可能性が極めて高い。
それは何故か。
兵を動かそうとしているのだろう。
魏と呉であれば双方共に攻撃目標が多く設定されるので、この様な策動があったとしてもその候補は絞りきれない。
だが、魏から蜀に攻め込める場所が限定されているように、蜀から魏に攻め込む場所も同じように限定されてくる。
その守りを固めさせない為に、広域において暴動を起こさせるつもりなのではないか。
最悪の可能性をつなぎ合わせているのだが、何故か妙に辻褄が合う。
「杜預殿を呼んでください。今後の事を協議する必要があります」
「はーい。私が呼んでくるー」
「奥方様、俺が行きますよ!」
飛ぶような速さで動く媛に、段信が慌てて後を追う。
「お呼びですか?」
杜預はほどなくしてやって来たが、来たのは杜預だけでは無かった。
「父上、何事ですか?」
「士載、どうしたの?」
何故か杜預だけでなく、呼びに行った媛と長男の鄧忠までもやって来たのである。
「忠にはまだ早いから、母と一緒に弟達の面倒を見ていてくれ」
「えー、私もー?」
「忠だけに弟の面倒を任せても大丈夫であれば、特に問題はありませんよ?」
「ちぇっ。段灼にでも任せれば良かった」
何故か残りたがった媛は、鄧忠を連れて家に戻っていく。
鄧艾と媛の間には、長男の鄧忠の他に二人の子供を設けていたが、まだ生まれて間もないと言う事もあり、幼い鄧忠に任せると言う訳にもいかなかった。
と言うより、生まれて間もない赤子がいる母親でありながら、媛の行動力が困ったものなのである。
「人払いしてまでの話なのですか?」
「いえ、人払いと言う訳ではなく、忠がいると何かと面倒が増えると思いまして。少なくとも子供が聞いていて面白い話ではないでしょうから」
「まぁ、そうですね」
忠は母親に似て行動力があり、何かにつけて口を挟みたがる。
とは言え、年の割にはしっかりしたところがあり、将来は有望だと親の欲目もあるかもしれないが、鄧艾はそう思っていた。
「それで、俺を呼んだのはどういった御用で?」
「近々、蜀軍が動く可能性があります。まだ確信には至っていませんが、その可能性は決して低くはありません。都の将軍に連絡したいと思いますが、私には知己が無いのです」
「太傅殿はいかがですか?」
「さすがにそれは騒ぎが大きくなりすぎます。出来る事ならすぐに動ける武将の方が良いですね。太傅であればすぐに動くでしょうが、それはむしろ余計な混乱を招きますから」
「そうですね」
司馬懿であればすぐに動いてくれるだろうが、そんな簡単に動くと周りが困る人である。
この南安は対蜀の最前線でありながら、多くの兵を駐屯させてはいない。
理由はごく簡単で、大軍を駐屯させるだけの余裕が無いのである。
故に南安の太守は蜀軍が攻めてきた場合には門を固く閉ざして戦わず、都からの援軍が来るのを待つ事になる。
その為南安の太守に求められるのは統治に重要な寛容さと細心な注意力であり、蜀軍の動きに敏感な者であり勇猛果敢な武将ではない。
それだけに二年と言う時間をおいて不満が膨れ上がると言う事に、鄧艾は作為的なものを感じたのである。
「太守に頼んでみては?」
「そうすると公的な情報になってしまうので、虚報となった場合には太守にも罪が及び兼ねません。注意を喚起しておきたいと言う程度なので、私信の形が理想なんですが」
「仲容さん……は、まだ北方ですよね?」
「戻ってはいるみたいですが、さすがに北方から戻ったばかり。いきなり西に軍を出してくれと言われても、毌丘倹将軍も兵を休ませているでしょうから難しいのではないでしょうか」
毌丘倹であれば能力的にも人格的にも問題ないのだが、連戦は避けるべきだろう。
「叔子がいれば、自然な形で司馬師様に連絡出来たんですけどね」
杜預が言う様に、もしこの場に羊祜がいれば義理の兄への私信と言う形で連絡出来たのだが、今の羊祜は職を辞して浪々の身。
音信不通となって、現状では消息不明である。
「あっ! 適任者がいますよ! 陳泰さんがいます! あの人なら名門の上に実績も人望もありますし、そこそこ好戦的ですから。確認を名目に軍を動かしたがると思いますよ!」
杜預は言いたい放題だが、いい具合に陳泰を理解しているとも言える。
「俺や士載殿が私信として陳泰さんに書状を送るのは、そこまで不自然じゃ無いでしょう?」
「なるほど、確かに適任ですね。陳泰殿に書状を送ってみましょう」
鄧艾と杜預は、あくまでも私信として陳泰に宛てて書状を書く。
その返信は、さほど時をおかずに届いた。
内容としては鄧艾の指摘する危険はまさに蜀の企みそのものであり、郭淮、夏侯覇の両名を討伐隊として派遣する。
もし両将が到着する前に蜀軍が動いたとしても、決して戦う事はせずに固く守って将軍の到着を待つ様に、との厳命も書き添えられていた。
「……何か、らしくない文面ですね」
杜預は書状を見ながら言う。
「あの人は陳羣様と荀彧様の娘の息子さんですからね。素養は十分過ぎるくらいにある事は知ってますけど」
「いやいや、どうやらこちらの方の指示みたいですよ」
鄧艾はもう一つの書状を見せる。
それは司馬懿からであり、そこには姜維と言う人物の事が書かれていた。
戦って一騎当千、率いて千軍万馬、知略においては神算鬼謀。当代においてこれほどの名将は天下に二人といない英傑であり、戦う際には率いる兵数に関わらず決して油断しない事。
だが、そんな姜維ではあるものの魏からの降将であると言う事やその才能故の好戦的な性格から、今の大将軍である費禕にその能力は高く評価されながらも、大兵力を与えられていないらしい。
その為、その策動は魏の戦力を測ると共に、出兵の機会そのものを作るつもりであると、司馬懿は推察していた。
「……何か、気持ち悪いくらい詳細ですね」
杜預は書状を読みながら、まるで怪談を読んだかのような薄気味悪さを感じている様だった。
「まるで見てきた様な感じですが、本当に行ってないですよね?」
「多分。でも太傅のやる事だから、正直どうかわかりませんよ」
酔っていたとは言え、前線から逃げ回っていた事を自慢していた様な司馬懿である。
蜀の様子が気になるあまり、自分から蜀に入り込んで調べる事もやりかねないと思わせるところはあった。
しかし、ここで司馬懿の奇行について考えても仕方が無い。
そこで情報だけに注視する事にした。
動員してもらう武将として、郭淮と夏侯覇と言うのは理想的と言える。
郭淮は先の蜀征に参加していたが、奮戦したにも関わらずその武勲を正当に評価されていない。
そこで再度の武勲を立てる機会を与えたのだろう。
さらに攻勢に定評のある夏侯覇を加える事で、中途半端な蜀の策動を徹底的に叩き魏に隙無しと、姜維に見せつけるつもりらしい。
気になるところがあるとすれば、郭淮と夏侯覇が不仲である事くらいだが、昔の合肥の際には張遼、楽進、李典と三人の不仲の武将達が驚異的な武勲を上げてきた。
今回もきっと上手くいくだろう、と鄧艾は思う。
心配があるとすれば、この事が鄧艾の杞憂だった時の言い訳程度の事である。
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