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第一章 武勲までの長い道のり

第一話 二三五年 全ての始まりとなる出会い

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 彼の姓は鄧、名は艾、字は士載しさい

 元は荊州の生まれだったのだが、幼い時に汝南へ越してきた。
 兵卒として戦に参加した父を失った母と子は非常に貧しく、名家の後ろ盾や人脈の無い彼らは農事に従事していた。

「士載、今日は講談師が来るぞ」

 鄧艾にそう声をかけてきたのは、ここで知り合った貧乏仲間とも言うべき石苞せきほうだった。
 彼も鄧艾と同じく貧しい家の出自であり、有力な後ろ盾も人脈も無いので農事に従事している。

 鄧艾との違いがあるとすれば、彼は見るからに男前と言う事だった。

 幼い頃には目立っていなかった上に、いつも泥だらけで薄汚い服装だった事もあって他の者と同類に見られてきたが、成長するに従って石苞は注目を集める様になってきた。
 今でも農事に従事しているとは言え、石苞は時々別の仕事を与えられる事も多くなっている。
 何をしているのかを具体的に聞いた事は無いが、本人が言うには女官達の仕事の手伝いをしていると言っていた。

 そんな彼らの楽しみは、時々来る講談師の話を聞く事だった。

 最近の話の主流は諸葛亮率いる蜀軍の侵攻を防ぐ話であり、大将軍だった曹真《そうしん》の活躍によってそれは防がれてきたと言うものだった。

 しかし、その曹真が病没し前回の防衛からその後任についた司馬懿は諸葛亮に敗れ、宿将の張郃を失うと言う大失態を犯した。
 とはいえ、かろうじて侵攻を防ぐ事には成功したと言う事を伝えていた。

 今でも鄧艾達が農事に従事していると言う事は、蜀軍の侵攻を防いでいると言う事だろうが、その情報が講談師を通してしか入ってこないのである。
 もっとも、その講談師の話も眉唾モノで、前回から思ったのが皇族の曹真に対し後任の司馬懿を不当に過小評価していると、鄧艾は感じていた。

 他の筋から話を聞いた限りでは司馬懿と言う人物は非常に優れた人物であり、その才覚は武帝(曹操そうそう)も高く評価し、文帝(曹丕そうひ)とは兄弟同然に育てられたとも言われるほどである。

 ……らしい。

 何しろ会ったことがないので、詳しい事は分からないのだ。

 そうは言っても、鄧艾は一農民であり司馬懿は大将軍。
 そう簡単に面識を得られる人物ではない。
 それに、司馬懿にはよからぬ噂も絶えない。

 その辺が講談師の槍玉に挙げられているのだろう。

 鄧艾と石苞はその日の仕事を終え、さっそく講談師の来る広場に向かう。

 広場にはさっそく人も集まっているのだが、これは全員が戦に興味があると言うより娯楽の少なさによるものである。
 そんな中、かろうじて話が聞こえる程度の離れたところに一人ぽつんと座っている人物がいた。

「爺様、また来てたんだ」

 石苞がその人物に声をかけると、その男性は笑顔で頷く。

 石苞は『爺様』と呼んでいるが、見た目には確かに老人に見えるのだが、鄧艾にはこの人物がただの老人とは思えなかった。
 具体的にどこが、と言う訳ではないのだが、何か独特の雰囲気を感じる。
 見た目には老人に見えるのだが、体はしっかりしているし、所作を見る限りでは見た目ほど年齢は上では無いと思えたのだ。

「爺様、もっと前で聞かなくていいのかい?」

「いやいや、ここで結構。耳は達者なのでな」

 老人は笑いながら言う。

「さあさあ、皆の衆。今日の話は取れたて、昨年の大戦『五丈原の戦い』だ」

 講談師は上々の客入りを確認した後、調子の良い口調で話し始める。 
 この戦いは、諸葛亮最期の戦として語り継がれる戦なのだが、講談師は面白おかしく話しているが、その実は地味な持久戦だった。

「最初から勝ち目がないって、消極策が成功したって訳か」

 一通り話を聞き終えてから石苞がそう分析するが、鄧艾は首を振る。

「最初から勝ち目が無かったんじゃなくて、それが必勝の策と踏んでの事だよ。そう考えると、色々と筋が通ると言うか腑に落ちるところがあるんだ」

「ほう、と言うと?」

 鄧艾の言葉に食いついてきたのは、石苞ではなく老人の方だった。

「講談師の話でしか状況を判断出来ないと言う前提だけど、曹真将軍は勝利してきたけど、司馬懿と言う人に代わってから敗戦が続いていた。それでも将兵の信頼は失われなかったのには、理由があると思っていたんですが、今回の事で答えが出たと思います」

 鄧艾はそう言うと自分の考えを説明する。

 蜀にとって北伐の出兵による出費はかなりのものだったはずである。

 もし曹真の様に勝利し続ければ蜀も北伐を一旦中止して、国力強化に努めたかも知れない。
 だが、魏と蜀では国力が違い過ぎる。
 諸葛亮でなくても、蜀が魏に勝つには兵の士気を高め個の力で数を凌駕しなければ戦う事そのものが出来なくなる。

 司馬懿が目を付けたのは、まさにそこだった。

 諸葛亮は、敗れれば退く事も出来たが勝利して士気が高まっている時、その士気を挫かれる事を嫌って戦うしか無い。
 蜀にとって、敗北より辛い勝利を重ね、高まる士気と引換に致命的な出費を重ねる事になった。
 実際諸葛亮の北伐は、連戦連勝の割に戦略拠点となる領地を奪い兵站を繋げるには至らず、ただ魏に対して勝利したと言う実績以外に何も得られていない。

 かなり早い段階で諸葛亮は気付いたはずだったが、その時にはすでに司馬懿の罠にハマっていた。
 僅かな可能性にかけて出費を重ね、枯死するのを早める事になるか。
 あるいは天険の要害を盾に、魏に飲み込まれるのを待つか。

「そこで、五丈原の戦いでは、これまでと違って個人攻撃にまで走っている。これまでの事を考えると、コレはおかしいんだ」

 鄧艾は講談師が面白おかしく話している内容に、違和感があった。

 諸葛亮はこれまでに幾度か舌戦を行った事があると聞くが、その時には徹底して忠道や大義を語り、相手の私欲や不見識を責めると言う方法だった。

 しかし、五丈原では違う。

 司馬懿に対して女性の衣服を送ったり、個人の人格否定まで行っている。

 そこまで追い詰められていたのだ。

 そして、司馬懿は連敗しながらも諸葛亮を圧倒的に追い詰めていた。
 それが分かっているからこそ、司馬懿はその痛烈な挑発さえも笑っていなす事が出来たのだろう。

「でも、その後司馬懿は諸葛亮の木像を見て逃げ出したって言ってるけど?」

「うーん、慎重を期する事は悪い事じゃ無いと思うけどなぁ。かつて呉の周瑜しゅうゆは自身の陣没の虚報を流して、曹仁そうじん将軍に勝利した実績もあるからね。徹底した防戦によって蜀を追い詰めた司馬懿を引っ張り出す為、諸葛亮は自らの死と全軍撤退まで見せておびき出したとしたら、無理に追撃する必要も無かった局面だと思うんだ」

「ほうほう」

 鄧艾と石苞の話を、老人は興味深げに聞いている。

「だが、司馬懿は諸葛亮の空城の計で取り逃がしている。今回も同じ失態はさすがに取り繕う事は出来ないのではないかね?」

 老人が鄧艾に尋ねる。

「後任がいればそうでしょうけど、これほどの用兵家はいませんよ。それこそ諸葛亮でもなければ、後任は務まらないですよ。と言うより、誰もやりたがらないでしょうから、この程度は失態にもなりません。それより蜀軍を撃退した功績の方が大きいですし」

「士載、お前は何でこんなところで燻ってるんでよ」

 石苞は呆れた様に言う。

「なんでだろうねぇ」

 それには鄧艾も苦笑い気味に答える。

 鄧艾にしても石苞にしても、その能力の高さで言えばこの地域一帯において別格と言える能力を持っているのだが、何しろ彼らには後ろ盾が無い。

 武帝によって人材登用の門戸は開かれたとはいえ、それでも有力者の後ろ盾の有無は官職に直結している。
 石苞や鄧艾の様に貧しい出自の者は、どこかで有力者との人脈を繋がなければ現状の様に地方の一農政官で終わる事になる。

 が、それでもマシな方だと言えた。

 少なくとも能力を認められていると言う事であり、一応の官職なので今後に繋がる可能性もあるにはあるのだ。

「で、爺様は? と言うより爺様、普段何してる人なの? この辺じゃ見かけないけど」

 石苞は不思議そうに尋ねる。

「普段、か。ここには講談師の話を聞きに来ていて、普段はそうだなぁ。逃げ回ってる事が多いかなぁ」

 老人は髭をいじりながら答える。

「何だそりゃ。爺様がよければ、俺が仕事紹介しても良いぞ?」

「いやいや、こんな年寄りよりもっと若い者を優遇してくれ」

 老人はそう言って笑う。

 本当に不思議な老人だと鄧艾は思う。

 多くを語ろうとしないが、この老人の知的で深みのある雰囲気はただの老人のものとは思えなかった。
 そう思っていると、老人は後ろを向く。

 と言っても、首だけである。

「じ、爺様、首が……」

「この辺だなぁ。さて、普段の生活に戻るとするかの」

 そう言うと老人は立ち上がって、軽快な足取りで去っていく。

「……爺様、さっき首がこう、ぐるんって」

「うん、ぐるんってなってた」

 石苞と鄧艾はあまりにも非常識な光景を見て、動けなくなっていた。

 老人は首だけを回して後ろを見ていたのだが、常人の首の可動範囲からは考えられない事だった。

 そこへ一騎の騎兵がやって来る。

「あれ? 士載と仲容ちゅうよう(石苞の字)?」

 やって来た一騎は少女だった。

「あれ? お嬢? 俺達、別に仕事サボって来てる訳じゃないッスよ?」

「士載はそうでしょうけど、あんたは信用出来ないわね」

 騎乗した少女は石苞に言うと、鄧艾の方を見る。

「本当ですよ。今日の仕事は終わりました」

「はっはっは、冗談よ。仲容がいい加減な事は知ってるけど、そこまで疑ってないから」

「……お嬢、容赦ないッス」

「ところで、ここにお爺さんがいるって聞いてたから迎えに来たんだけど、二人は知ってる?」

「爺様? ついさっきまでいたけど、向こうに逃げていったよ」

「逃げた? 何で?」

「いや、俺に言われても。いつもの事って言ってたし」

「お嬢さんの知り合いですか?」

 鄧艾の質問に、少女は首を振る。

「直接は知らない。何か急に来た偉い人が講談師のところにいると思うから呼んで来いって。でもいないならしょうがないかぁ」

 それで済む話とは思えないのだが、少女はさほど重大事としては受け止めていない様に見える。

「まぁ、爺様いつも逃げてる言ってたし、逃げ慣れてるのかも」

「お嬢さんが来るのをだいぶ前に気づいてた見たいだしね」

 石苞と鄧艾は不思議そうに話していた。

 その時の老人の正体を知るのは、それから二年後の二三七年、急遽都に呼ばれた時の事だった。
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