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兄と弟と弟だった人

寝るのはふたりで

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 焦るような足取りで、玲がこちらへと近寄って来る。
 玲が近づくほどに、その香りが濃くなっていく。

 玲の顔は無表情なようで。
 それでいて困惑しているようで。
 それでいて緊張しているようで。
 それでいて、どこか――

「あの……参りました……」

 そして、玲が目の前までやってきた。

 しかし目の先数十センチの距離は、
 会話をするには十分だが、
 匂いを嗅ぐにはまだ遠い。

「……一宏様? それで私は、どうすれば――」
「もっと近くだ、玲」
「えっ――っ!?」

 長襦袢の襟を引っ掴んで、無理やりにその体を寄せる。

「っ!? ――!?!?!?」

 ここまで密着していると、身じろぎだけで玲が動揺しているのがわかる。
 もしかしたら、今玲は目を白黒させているのかもしれない。

「香水をつけたのはどこだ? 髪か? 首か?」
「っ……う、うなじです……」
「……ここか」
「ひゃっ――!?」

 玲の後ろ髪をかき上げて、その首に鼻先を寄せる。

 そして、静かに息を吸い込んだ。

「っ……っ……」

 静寂の部屋の中。
 俺の肺の中に空気が溜まっていく音と、
 玲が吐息を漏らす音だけが聴こえる。

「――――」
「ぁっ……っ……」

 香水のことなんて詳しくない。
 花だろうが、果物だろうが、香りだけでその原料なんて当てられない。

 だから思うのはシンプルな感想だけ。

 甘い香り。
 軽い香り。
 印象にも残らないような。
 それでいていつまでも感じていたくなるような。
 優しい印象を受ける、そんな香りだ。 

「――――」
「んっ……ぅっ……」

 どうしてこの香りが気になったのかは、自分でもわからない。
 もしかしたら、母親が関係しているのかもしれない。
 あの人が玲にこの香りを教えたのなら、あの人自身もこの香りを纏っていた可能性はある。

 しかし、俺の記憶の中にあの人との思い出なんて欠片も無い。
 正直苦手だった親父よりも、その印象は薄い。

 あの人の役割は親父に仕えることと、玲への教育だけだったから。
 記憶の中のあの人は玲よりもずっと無表情で、
 それこそ本当はロボットだったと言われても納得できてしまうような人だ。

 それでも。
 もしかしたら。
 忘れているだけで。
 何か思い出があったのだろうか。

 香りで呼び起こされるくらいには。
 なんのイメージも湧かない程度だけれども。
 俺にも、母親との思い出が――

「っ……かっ、かずひろさま……?」
「……寝る」
「へっ? えっ!?」

 溜まっていた疲れのせいか。
 それともこの香りのせいか。

 とにかく、眠たくて仕方がない。

 部屋の明かりを消して、玲を抱いたまま布団に寝転がる。
 もどもどと身じろぎする玲を右手で強く抱き寄せて、左手で掛け布団をかける。

「かっ、かずひろさま!? ね、寝るとはいったい……ま、まさか、このまま……!?」
「俺が寝入ったら、その後は勝手に出て行ってくれ……」
「しっ、しかし――」
「おやすみ……」

 目を閉じると、すぐに意識が微睡へと落ちていくのを感じた。

「かっ、かずひろさま……? ほ、ほんとうに……?」

 もう玲の声は聴こえても、その意味はわからない。
 思考は波にさらわれるように、ゆらゆらと宙ぶらりんに漂っている。

 感じるのは玲と香水が入り混じった匂い。
 動揺した呼吸。
 温かい体温。
 それと、少し早い心音。

 一定の速度で鳴る命の響きは、これまた寝るにはちょうどいい。
 まさか、玲がここまで抱き枕に適していたとは。

 溜まっていた疲労に溶けていくように。
 玲で満たされた五感に導かれるように。

 俺の意識は空っぽの眠りへと落ちた。
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