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複雑な心境
しおりを挟む冬は12時間勤務の繰り返しで、家に帰って来ると寝る生活だった。
就寝前に少し話をしてお互いの部屋で眠りについた。冬を待つ生活。
ふと3人で生活している時のことを思い出した。
…トーコさん、はこれを1年以上続けていたんだ。何も文句も言わず。
冬が寝た後、寝室に入りその寝顔を眺めていた。
長い睫毛はカールしていて、華にそっくりだった。夏のふっくらとした唇は、冬似だと小鳥遊は思った。
沁み一つ無い白い頬には少し赤みがさしていた。そっと触れると柔らかかった。
情けないと思いつつも、涙が零れてきた。
…愛してくれていたのに…裏切ってしまった。
突然冬の眼がぱっと開いた。
「…どうした…の…。」
眠そうだが、小鳥遊の涙を見て心配そうに言った。
「トーコさん…本当にごめんなさい。」
冬はベットの端から中央へ移動して、
ブランケットを持ちあげた。
「…入る?」
小鳥遊は、冬の隣に身体を滑り込ませた。
冬はうつらうつらした様子で、小鳥遊の頭をそっと自分の胸に引き寄せた。
まるで子供をあやすようにその腕で頭を包んだ。柔らかな冬の胸は温かかった。
「もう…寝た方が…いいわ…。」
冬はそういって、再び深い眠りについた。
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冬が目を覚ますと、温かい胸の中だった。
心地の良い胸にもぞもぞと寄り添うと、腕で抱きしめられ、再び目を閉じた。
そして次に目を覚ました時には、頭が混乱した。
…あれ?静さん…帰ってたんだっけ?
顔をあげると小鳥遊が静かに冬を見守っていた。
「わ…。びっくりした。」
冬は慌てて小鳥遊から離れた。ブランケットの中を思わず見て、自分がパジャマを着ていることを確認してほっとした。
「何もしませんよ…。」
小鳥遊は微笑んだ。
「あなたは、僕を慰めてくれたんです。」
夢うつつでしたことをよく思い出すと、確かにベットに小鳥遊を入れた覚えがあった。
冬は寝起きで混乱する頭を抱えた。
時計を見ると深夜を少し過ぎたところだった。
「あ…ごめん…私…寝ぼけていたのかも…。」
慌てて起き上がろうとした冬の体を小鳥遊は抱き寄せた。
「…もう少しだけ、寝ぼけたままでいて。」
そういうと小鳥遊は自分の胸の中に冬をしっかりと抱きしめた。
冬は鼻の奥がツーンと沁みるように感じた。
「お願いですから…もう少しだけ…。」
小鳥遊は泣いていた。
「どうして…ガクさんが泣くのよ?」
押しのけようとする冬を強く抱きしめた。
「何で女の子なんて家にあげるのよ。」
「そこからして間違って居ました。でも…気が付いたら女の子達がベッドに入って来て襲われたんです。」
冬はいらいらした口調で言った。
「誰がそんなこと信じるっていうのよ?」
冬の声はかすれていた。
「…本当なんです。抗おうとしたんですが、僕はトーコさんとずっとしてなかったから,つい…。」
冬は小鳥遊が言い終わらないうちに反論した。
「そんな都合の良いことある筈無いじゃない。」
「そうなんです…考えてみたら、若くて独身の高橋先生も、山口先生も、
小峠先生も居ましたし…出来過ぎているんです。」
…そのメンツならだ誰が見たってガクさんが良いに決まってる。
「若い子の中にも“渋い”おっさん好きだっているかも知れないでしょう?私みたいに…。」
「本当に…ごめんなさい。もう2度としませんから…許して下さ…い。」
小鳥遊は冬をきつく抱きしめた。
「心が壊れてしまいそうだった。だから華ちゃんと夏さんを連れて行ったの。でないと…私が駄目になってしまいそうだったから。」
冬は大きなため息をついた。
「これから先も華ちゃんにも夏さんにもガクさんに定期的に会わせるわ…それは約束します。あの子達のお父さんだから。」
「トーコさん。」
冬は一生懸命涙を堪えようとしていた。
「子供達と会えなくなるとガクさんが思っているのなら心配しないで。」
小鳥遊は冬が言わんとしていることが分かりショックを受けた。
「私とガクさんの関係は子供のこととは別…今もあの時のことを思い出すと辛いの。私と静さんのことはこのままそっとしておいて欲しい。」
「トーコさん…それは…。」
「それに、静さんとの三角関係があなたは我慢出来ないって気が付いてたわ。それなのに無理強いしたのは私だから。それは本当に申し訳なかったと思ってる。」
冬は気を落ち着けようと深呼吸をひとつした。
「あの人は、トーコさんと僕のように喧嘩もしない…だから嫉妬するんです。いつも。」
…そうだ。僕はあの男にいつも嫉妬している。
冬の辛いことをいつも敏感に感じ取って、上手に冬を慰める事に長けていて、静かに見守っている事が今泉はできた。
「ええ。」
冬はゆっくりと小鳥遊から離れ、ベッドから起き上がった。
「僕はいつも静さんに嫉妬してる。あの人は僕よりも何倍もあなたを理解して、あなたをイライラさせることも無い。」
包容力の違いなのか、愛されている余裕なのかは判らないが、繊細な癖におっとりとした振りをしている今泉に苛立ちを感じる事も多々あった。
「知ってるわ。」
「僕だってあなたのことを愛してる。なのにいつもあなたを怒らせてしまう。」
「だからもう自由にしてあげる。」
冬は小鳥遊のことをまっすぐ見つめた。
「トーコさんは僕がここに来たのは子供達のことだけで来たんだと思っているんですか?自由ってどういうことですか?」
小鳥遊は初めて声を荒げた。
「そういうことです。」
冬はじっと小鳥遊の顔を見た。
「僕は、あなたを愛してるからここに来たんです。どんなに自分が愚かなことをしたのか!」
小鳥遊がこんなにもイライラしているのを冬は見たことが無かった。
「人はそんなにすぐには変われないわ。」
冬の口調はそれ以上に厳しかった。
「それでも僕はあなたの為に変わりたいんです。」
冬は眉をひそめた。
「ガクさん!それは違う。私の為に変わろうと思っているのなら、あなたはこれから先も変われない。」
冬は語気を荒げて、ベッドから立ち上がった。
「トーコさん!」
「本当はね…思っていたよりも自分が強く無かったことに気が付いたの。」
冬は涙が零れそうになり、
小鳥遊に背中を向けた。
「裏切られるのが怖いし、辛いの。もう同じ想いはしたくない。裏切られるよりも、自分から離れる方がましなことが分かったから。」
冬は寝室から出て静かにドアを閉めた。
「ガクさん。おやすみなさい。」
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小鳥遊は、冬のベッドで眠れずに過ごしていたが、夜明け近くにガラスが割れるような音で目を覚ました。
…いつの間にか寝ていたらしい。
ゆっくりベットから起き上ると、2階の部屋を見て回った。
冬の寝室をそっと開けてみると、冬はおらず、ベッドに触れると冷たいままだった。
一階へと階段を降りていくと、キッチンの電気は付いたままで、その刺すような眩しさに目を細め、慣れるのに時間が掛かった。リビングのテレビもつけっぱなしで、少々違和感を感じた。
…トーコさんらしくない。
「トーコさん?」
きっちりしている冬は、電気をつけっぱなしにするようなことは、無いからだ。キッチンの窓から外を覗くと、冬の車も停まったままだった。
「どこですか?」
小鳥遊は声を掛けた。
再びリビングに戻り、テレビを消そうと近づいた時に、リビングのソファと、テーブルの間に倒れている冬を見つけた。
テーブルの上には、ワインのボトルと、ワイングラスそれに病院で処方された薬のボトルが置いてあり、水が入っていたであろうグラスが、テーブルの上で割れていた。
「トーコさん!」
小鳥遊は慌てて駆け寄り、脈を確認するために頸にそっと手を触れたその冷たさに一瞬驚いたが、ゆっくりとした拍動を感じた。
…全身が冷たい。
冬の顔色は悪く、体全体が冷たかった。脈はあるし、呼吸もあるものの、何度声を掛けても痛み刺激を与えても動かなかった。
薬のボトルには眠剤の名前が書かれてあり、ワインは新しく開けたものなのか、まだ2/3程残っていた。
…グラスに1-2杯。
冬にとってはそれでもかなり飲み過ぎだった。小鳥遊は慌てて救急車を呼び、冬の冷えた体を毛布で包んだ。
救急隊が10分程でやって来た。小鳥遊は冬の身分証などが入っているバックを持って一緒に病院へと向かった。
心電図や点滴のルート確保、酸素やパルスオキシメーターなどが手早くつけられた。救急車の中で行われた。
かなりの徐脈だったが、急激に低下もせず安定していた。規則的だがゆっくりとしたモニター音が聞こえ、徐脈を知らせるアラームが鳴り続けていた。
「アルコールと眠剤の併用だと思います。」
冬の顔を見ながら小鳥遊は大きな声で説明を続けたが、少しホッとした。
冬はかつて働いていたERに運び込まれた。ガラガラと大きな音を立ててストレッチャーで移動したがERから迎えにきた看護師が、冬の顔を見て驚いた。
「あれっトーコ?トーコじゃない?」
救急隊がERスタッフに手短に説明した。
「この人脳外の看護師よ。」
手伝いに来た看護師も冬の顔を見て言った。
ベットへ移動させると、採血などバタバタとスタッフが動き回っていた。
「ご家族の方は外でお待ちください。」
ERの看護師に追い出されてしまった。冬のことは気になったが、すぐに事務員が来て手続きに少々時間が掛かった。待合室で30分程待たされた。
「トーコが運ばれてきたって?部屋はどこ?」
一人の男性が、病棟から降りてきた。
「ドクター・ブラックの知り合いですか?」
ERの看護師が声を掛けた。
「友人だよ。さっきERのドクターが連絡くれたんだ。」
そういうとネイサンは処置室へ入っていった。
説明もされず、とても長い間待たされた気がした。先ほどの男性が処置室から出てきた。小鳥遊はその男性を呼び止めた。
「すみませんドクター。僕はトーコの夫です。」
ネイサンは驚いて長い間、小鳥遊の顔を見上げたままだった。
「初めまして…あの…トーコの様子を伺いたいのですが。」
小鳥遊に言われてはっとしてネイサンは答えた。
「ああ…あなたが…僕はドクター・ブラックです。済みません。トーコに旦那さんが本当に居るとは…思わなくって。」
ネイサンは戸惑いながらも手を出し、ふたりは握手を交わした。
「急性アルコール中毒ですね。血中濃度が、0.3を超えてましたから。あとでERのドクターからお話があると思いますよ。」
「そうですか…。」
小鳥遊は大きなため息をついた。冬を動揺させてしまったのは、自分だとは判っては居たが、どうしても自分の気持ちを伝えたかった。
「トーコ…と何かあったんですか?トーコらしくない...ので。」
小鳥遊はちらりとネイサンを見た。
「すみません…あなた達の関係を詮索するつもりはありません。ただトーコが心配だっただけです。」
小鳥遊はネイサンが、友人以上の何かを冬に抱いていることを感じ取った。
「僕は当直で患者に呼ばれたので、これで失礼します。お会い出来て良かったです。当直明けにお宅に様子をみに伺います。では…。」
ネイサンは、階段を駆け上がっていった。ERのドクターがやってきた。
「もう意識は戻ってます。トーコは、ここで少し働いていたんですよ。びっくりしました。」
ドクターは真面目な顔で言いながら小鳥遊を廊下の隅に呼んだ。
「トーコは眠剤を飲んで、効かなかったのでワインを飲んでしまったと言っていましたが…。」
小鳥遊の顔をじっと観察するように見ていた。
「これは皆さんに必ずお聞きすることになっているんですけれど、希死念慮があったり、自殺願望があったりなどは無かったでしょうか?」
「ええ判ってます。僕と彼女は色々あって別居しているので、普段の彼女のことはよく知りません。」
「そうですか…判りました。血中濃度が下がり落ち着いたら自宅に帰れますので。」
ドクターは慌ただしく去っていった。
暫くすると、小鳥遊は看護師に呼ばれ処置室に案内された。
「ガクさん…ごめんなさい。おおごとになっちゃって。眠剤飲んだけど眠れなくて、ついワインを飲んだら効き過ぎちゃったみたいで…。」
「僕は、あんな話をした後だったかてっきり…。」
小鳥遊は冬の顔をじっと伺っていた。まるでそれは物言わぬ患者を観察するようだった。
そのことに気が付いた冬は静かに微笑んだ。小鳥遊は冬の手をしっかりと握った。
「…ホントに…ごめんね。」
「いいんです…見つけるのが早くて良かった。」
小鳥遊の表情は硬かった。
「このこと静さんには言わないで。また心配させちゃうから。」
冬が静かに言った。
「ええ。判ってます。」
小鳥遊は優しく微笑んだ。
「それから…ドクター・ブラックが先ほど来てましたよ。」
「そう…。」
冬は何か考えていた。
「ええ。何でも当直だったみたいで、誰かが彼にあなたがERに運ばれたことを教えてもらったんじゃないですか?」
「全然知らなかった。」
「意識が無かったんだから当たり前でしょう。」
小鳥遊は大きなため息をついた。
「当直明けにアパートメントに寄りますって。」
ベッドで点滴を受けている冬の手に優しく触れていた。
「えーっ。ガクさん断ってよ!」
「そんなこと言ったって、お友達でしょう?」
…確かにそう説明したけど。
「そうですけど…何度断ってもデートに誘われるし、夕飯は食べに来るし、面倒なのよ。」
冬は大きなため息をついた。
「早くそう言ってくれれば良かったのに。」
…やはりそうだったのか。
「だって余計に心配させちゃうと思ったからよ。だから静さんにも言ってないの。」
冬は目を伏せた。
「思い出させるつもりはありませんが…シモーネの件もありますし、静さんには知らせておく必要があると思いますよ。」
小鳥遊は静かに言った。
「でも…面倒なのは、晩御飯を食べに来ることと、会うたびにデートに誘われることだけだから。」
冬は真面目な顔で言った。
「でも…は、無しです。僕からも彼に伝えますが、静さんが居ない時には家にいれない方が良いと思います。」
小鳥遊は少し緊張した顔になった。
「分かったわ。」
ERドクターが入ってきた。
「落ち着いたようなので、退院で良いでしょう。」
小鳥遊と冬は荷物を纏め、タクシーを呼んだ。
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