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告白
憧れと尊敬と
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「高橋先生っ!新人と処置には行かないで下さい。必ずリーダーか、上の看護師に声を掛けて確認して頂かないと困ります。」
高橋医師が冬にまた怒られていた。
医師が看護師に注意をされている時には、傍観者に徹する。逆の時も然り…だ。
小鳥遊 学医局長は、色々と部下に口出しをするタイプでは無い。
然し、高橋は注意を受けているのにも関わらず、口では謝りつつも、嬉しそうにみえるのは何故か?
…彼は月性さんのファン…なのか?
注意をしていた冬は、
今は柔かに新人看護師の対応をしている。
あっさりしていて、切り替えができる冬は、医師からも信頼されている様に見えた。
「また月性さんに怒られちゃった♪ついつい新人に頼みやすいから、処置の時も声掛けちゃうんですよね。」
聴かれちゃいましたか?と照れ隠しに笑いながら、小鳥遊の所へやって来た高橋医師。
「なんだかとても嬉しそうですね。」
小鳥遊は、口角を少しあげて薄く笑みを浮かべながらも、モニターからは目を離さず、重症患者の指示を入力していた。
「あの可愛い顔で怒られちゃうと、堪らないんですよね。」
高橋は、小鳥遊の隣の空いている席に座りオーダーの入力を始めた。高橋は小峠の後輩で、転勤したばかりだ。性格は素直で真面目である為に、注意を受ける事は多いが、看護師達には、頼りにされている。
癖も無く、看護師達の小峠への愚痴を聞かされる事も多い様だ。要するにそこそこ人気もある医師だ。
「そうなんですね…。」
小鳥遊は実は、彼自身も冬の事を気になっていた。
当然だが言えないし、自分自身が離婚した事も誰にも知らせてはいない為、“既婚者医師”の肩書きがついたままの自分が冬に相手にされるとは、到底思えない。
「では…あなたは小峠先生のライバルと言う事になりますね。」
医師も看護師も、誰が独身で、素敵で綺麗だとか、物腰が穏やかで優しいとか、不倫をしてくれそうだとか、密かに情報交換をしている。
…何処の病院でも良くみられる光景だ。
小鳥遊は笑った。
「小峠先生だったら、断然僕の方が有利だと思うんだけどなぁ。」
大きな独り言だ。それを認めて欲しいのだろうか?
…確かに。
小鳥遊は、言葉には出さずに含み笑いをした。
高橋は身長も高くみるからに、何かスポーツをやっている様な、がっしりとした体格をしている。高橋が“動”だとすると、小峠は“静”といったところだろうか。
看護師にちゃらんぽらんで叱られる小峠と、失念で叱られる高橋では、全く違う。
「あ…こんなこと言ったのは内緒にしてて下さいね。」
ナースステーションのPC前で身体の大きな医師ふたり、肩を並べてコソコソと話をしていた。話すのは専ら高橋の方だが。
「小峠先生と来たら、月性さんを追い回してばかりで、見ちゃいられませんよ。でも流石に彼女…上手く交わしてますけど。」
病棟のゴシップに疎い小鳥遊は、若い医師や看護師達から噂話を聞くことが多い。ナースステーションに居れば、聞きたく無くても情報は入ってくる。
「禿…またやらかしたらしいよ。他病棟で…同じ病棟の看護師ふたりに手を出して壮絶バトルだって。」
病室から戻ってきた中堅看護師達が、話しながらナースステーションへと入って来た。
「うわっ…なんであんな禿が良いの?信じられない…。」
「キモ過ぎ~。」
看護師は丁度カウンターからは見えない位置で指示を入力している小鳥遊と高橋が居ることも知らず、大きな声で話をしている。
「小峠先生は散々な言われ様ですね。」
小鳥遊は、その辛辣さに苦笑してしまった。
「他の病棟で看護師漁りが激しいですからね…。いつも楽しそうでいいけれど、僕は真似できません。」
根が真面目な高橋は、普段から小峠よりも小鳥遊と良く話をした。
それには何も答えず小鳥遊はただ笑って聞いて居た。
医師の中には手短なところで遊んでいる者も多いが、小鳥遊には理解が出来なかった。
…遊びならもっと上手くやらないと。
「あら…吹野さん?
お荷物持ってどちらに行かれるんですか?」
椅子から少し背伸びをして覗いてみると、冬が患者に声をかけていた。
…脳神経内科の患者?
病棟は東西南北に分かれていて、北が脳外科病棟、南が脳神経内科病棟、ICUとER、オペ室からも近い。
…せん妄患者か?
「あ…あっと…どこへ?家だっけね?」
冬は同じペースでゆっくり吹野の隣を歩きながら、話しかけていた。
「ここ病院ですよ?具合が悪くて入院してるのよ。」
吹野はトボトボと小さな歩幅で歩きながら、少し考えて居た。まだ60代後半ぐらいであろうか、顔に皺はあるものの艶々としていた。
「小鳥遊先生、すみませんが、脳内にお迎え来てもらえる様に電話して頂けますか~?」
小鳥遊に気が付いて冬が声を掛けた。
冬は、また歩き出そうとしている患者に、
ちょっと待ってて下さいね~と言いつつ寄り添っている。
「判りました。」
小鳥遊は脳神経内科病棟に電話を掛けたが、
呼び出し音が鳴るだけで、誰も出なかった。
「月性さん!脳内の看護師さん出払ってるみたいです。」
「ありがとうございます。じゃぁ病棟にお連れしちゃった方が早いかしらね。」
冬は、
脳神経内科病棟へとゆっくりと話をしながら歩いて行った。
「僕も、暇だから月性さんについて行っちゃおっと♪」
高橋医師は、オーダー入力もそこそこに冬の後をついていった。
…やれやれ。
冬が新人として入って来た時のことを小鳥遊はよく覚えていた。
幼い顔をしているのに、スタイルが良く、可憐で可愛いらしいので、院内でもちょっと騒ぎになった。
他科や院内の合同イベントがある度に、脳外科に可愛い人が居ると噂になった。
小鳥遊も病棟会などで話す機会はあったが、プライベートでの関わりは当然だが皆無だった。
病院近くのラーメン屋で数人の看護師と鉢合わせし、その中に冬がいた。
他愛の無い話をしたが、すぐに小鳥遊が食べ終わり、何も言わず、看護師達の支払いも併せて済ませて席をたった。
医者は、スタッフとの連携が欠かせない。
患者の為にと働くが、緊急入院/手術等、無理を押し付けてしまう事も多々ある。
医療に関わらず、どの職業でも
お互い“持ちつ持たれず”な関係が、必要だが、特に医療スタッフの連携は、患者の生存率をあげる。
楽しく食事を食べる看護師やスタッフの中に、
冬が居たからでは無く、知った顔のスタッフを同じ店で見かけたら、小鳥遊は、常に纏めて支払いを心掛けていた。
今時の若い子は、院内で顔を合わせてもお礼を言われない事も多いが、小鳥遊はそんな事は全く気にしていなかった。
ただ、冬は毎回必ずお礼に来ては、その費用をわざわざ返しに来ると言う律儀なところもあった。もちろん小鳥遊は受け取らなかったが…。
そんなところも、小鳥遊は冬の事を、年齢の割にはきちんとした人…との印象を持っていた。
「医局長。」
小峠が外来を終えて病棟へ、上がって来た。
「ちょっとお聞きしたいことがあるんですけれど…。」
小峠は看護師達に禿と言われている。そのあだ名の通り、30過ぎから禿はじめ、今ではM字を通り越し、潔く丸坊主にしている。
要領が良く、手術はそこそこうまいが、病棟での仕事を面倒臭がるので、看護師達には、嫌われていた。
「何でしょう?」
小鳥遊は術後患者のCTを見ていた。小峠も小鳥遊の後ろからその画像を覗き込んだ。
「あ…結構腫れてますね…点滴増やさないと駄目ですね。」
…この男は、脳外科医としてのセンスはあるのに。
小鳥遊は小峠に対し、ふとそんな風に思った。
「そうですね…今日の夜から増やしましょう。」
点滴のオーダーを入力し、担当の看護師に声を掛けた。
「先生が、月性さんと付き合ってるって本当ですか?」
小鳥遊は突然聞かれて驚いたが、顔には出さなかった。
「押し倒したって…聞いたんですが。」
小峠が、小鳥遊の反応を窺っている。
冬は常に上手にあしらって居る様だが、本心は良く判らなかった。
「…どうなんでしょうねぇ。」
否定も肯定もせず、
次々に患者の頭部CTの確認を続けた。
「先生と付き合ってるから、デートに誘わないで下さいって言われちゃいましたよ。」
小峠も小鳥遊の様子を伺うようにして聞いた。
「なるほど…そうですか…。」
…そういうことか。
「小鳥遊医局長!ERから電話です。」
病棟師長が、タイミング良く声を掛けてきた。
冬本人が言っていたという事は、もしかしたら自分にもチャンスがあるんじゃないかと密かに思った。
小鳥遊は否定も肯定もせずに、席を立ち電話に出た。
冬とプライベートな会話を出来るチャンスを貰えた訳だ。
使わない選択は無いだろう。
…ただ、どうやって冬にその件について聞こうか。
最適解を探さなくてはならないと小鳥遊は思った。
翌日の準夜勤。
月胜 冬は、
出勤するとすぐに、メンバー、空床状況、準夜勤の管理看護師長、当直脳外科医師の名前を確認した。
…今日の当直は、小鳥遊先生ね。
本日の重症患者や、新規で入院してきた患者、ERから日勤で病棟へと転病棟してきた患者、準夜勤で手術室から病棟へと戻る予定の手術患者。内服、点滴管理等、深夜勤勤務に比べて準夜勤は、基本的に忙しい。
冬は、小鳥遊の名前を見てほっとした。
医局長の小鳥遊は、当直に入らなくても良い立場。
それでも月に1-2度は、希望でシフトに入るのは、病棟の様子を知りたかったからだ。
「月性さん!今日は医局長ですって。」
「超ラッキーじゃないですか?久しぶりに当たった~。」
「わーい♩今日は、月性さんも居るし、楽勝っすね。」
新人や若い看護師達は、現金だ。冬はそれを聞いて笑った。
「あとで、きちんと医局長にお礼ぐらい言わなきゃダメよ。」
先に出勤していた後輩看護師達は、
冬をみると嬉しそうにはしゃいだ。
小鳥遊は当直時、病棟スタッフに夕食をご馳走してくれた。高級寿司、有名店のピザやカレーなどだ。
しかもERが空いてれば、暇があれば看護師の希望を聞きに来るマメさまであった。
…きっと奥様もしっかりされてる方なんだろうな。
他の医師より数倍忙しい筈なのに、その素振りすら小鳥遊は見せない。悪く言えばミスが全く無いロボット、良く言えば、チームで働くにはパーフェクトな医者だ。
…小鳥遊先生ってプライベートでも完璧過ぎて、逆に奥様は大変かも?
冬は以前から密かに慕い尊敬していたが、殆ど話す機会が無い…というよりも余り話す必要が無かった。
何故なら、スタッフの確認が必要な曖昧な指示は決して出さないし、スタッフの人数が少なくなる準夜勤や夜勤には、検査などのオーダーを極力避けてくれた。
薬剤部へ薬を貰いに行ったり、患者搬送を手伝うなど、部下以上にフットワークも軽い。
冬がこの病棟に来て5年になるので、研修医や若い医者からすれば、冬はお局看護師の部類だ。
…もっとマシな指示を書きやがれ!
内心ぶち切れつつも、冬は全てのスタッフに、分け隔てなく対応し、とても面倒見が良いので、信頼は厚かった。
小鳥遊は患者がERに来ない限り、遅くまでステーションで部下達が漏らした指示を埋めたり、データーの確認する。
冬が見回りから戻ってくると、小鳥遊が患者のCTを見ていた。
ふと視線が合った。
「いつも、スタッフ・メンバーに、ご飯をご馳走して頂いて、ありがとうございます。」
冬は夕食のお礼を述べた。
「いやいや…そんなこと気にしないでください。看護師さん達の方が僕達よりも、大変ですから」
笑いながら、モニターで次々と患者の画像データーを確認していく小鳥遊。
「月性(げっしょう)さん…最近調子はどう?」
「え…っと…。」
話はいつもの様に、すぐに終わるかと思っていたが、続けて小鳥遊が話しかけてきたので、身構えた。
「か…変わりありません…あ!そうだ。看護師や理学療法士とも話してたんですが、また小鳥遊先生とみんなで、ご飯を食べに行きましょうって。」
いつもご馳走になってばかりなので、スタッフと時折話すが、小鳥遊が忙しく、実行できないでいた。
「あーそうでしたね!以前もみんなに誘って頂いたのに、緊急オペで、ダメになっちゃいましたよね?」
「先生もお忙しいとは思いますが、他の部署から移動してきた人も居るので、是非~。」
院長や医局長、師長も含めなど、役職付きとの交流がたまにはあっても良いと冬も思っている。特に小鳥遊は素敵で人気があるけど、無駄話などできない様な雰囲気もあった。
「僕を誘ってくれる看護師さんは、月性ぐらいですよ~。」
「またまた~。ファンが多いから、病棟後回しになっちゃうんでしょう?この病棟にも小鳥遊ファンの子多いのに…。」
…お世辞と分かってはいても、月性さんに言われると嬉しい。
小鳥遊は他のスタッフと、冗談を言ったりふざけたりすることもあるが、冬とは殆ど、世間話などをしたことが無い。
「そういえば…。」
切り出すなら今がチャンスだ。
「小峠先生から聞いたけど、月性さんって乗馬してるんだって?」
「えっ…ええ…。」
小峠の名前が出たので、一瞬冬は身構えた。
「へぇ…どこの乗馬クラブ?」
小鳥遊は常に、真っすぐに眼を見て話す。
大きくて形の良い瞳は、いつも優しさを湛えていて、冬の返事を興味深げに待っていた。
「クラブには入って無くて…友人が所有する馬に乗せて貰っているだけです。」
あと2時間ほどで消灯時間だ。
「なるほど~……それと…そう言えば…ですけどね…。」
小鳥遊は少し間を置いた。ふたりの周りには、他のスタッフもいないし、夕食後の束の間の休息時間で、患者も余りナースコールを押さなかった。
「小峠先生が…さりげなく聞いて来たんだけれど、僕と君が…。」
小鳥遊は冬の様子を伺うように聞いた。
「…‼︎」
冬はハッとして、その緊張は一気に高まった。
…まずい…まずい…バカバカバカ!!!!!
「あ…余りにしつこく…その…デートに誘われたもので…つい先生のお名前を出してしまいました。ホントにすみませんでした。」
冬は慌てて頭をさげたが、
顔も耳も完熟トマトの様に真っ赤になった。
その様子をじっと観察している小鳥遊。
流石に確認も出来ないだろうと思って、あの時は、咄嗟に小鳥遊の名前を出した。
「彼は…女癖が悪いって聞いたことがあったけれど、噂は本当だったんですね」
小鳥遊は気にする様子も無く、
にこにこしていた。
「すみません。まさかハ…小峠先生が、小鳥遊先生に直々に確認する…とは思わなくて…。」
冬は、小峠が自分の事を諦めると思ったからだったのだが、それが裏目に出た。
「あの…ホントに…申し訳ありません。」
いつもとは違って、あたふたして落ち着かない冬を見ているのは楽しい。
「これからは、彼の前では仲が良い振りをしなくちゃね♩」
小鳥遊は、恐縮する冬をよそに、完全に楽しんでいた。
「いえ…あの…本当に…本当にすみませんでした。」
あなたは謝る必要は無いですよ。しつこいあの人が、いけないんですから…と小鳥遊は笑った。
…相手をアイツとは関わりの少ない、他科の医者にしときゃ良かった。禿めっ!!
「僕は…。」
小鳥遊は、また少し言葉を溜めた。
「噂になる相手が、あなたなら…とても嬉しいですし、光栄です。」
「…‼︎」
爽やかな笑顔を浮かべた小鳥遊に、冬は不覚にもドキドキしてしまった。
目尻には笑うと皺が出来て、
とてもチャーミングだ。
…どういう意味なのだろう。
小鳥遊の笑顔に
クラクラし始めた時、良い具合にコールが鳴った。
「…先生ホントにすみません。失礼します。」
冬は、小鳥遊の前から足早に立ち去ったが、
その後ろ姿を、みてクスッと笑った。
夜勤者への患者の状態などの申し送りも終わり、準夜勤者が、そろそろ帰ろうとしたところだった。
内線が鳴ったので、新人が電話をとった。
準・深夜勤者の間に、一瞬ピリついた緊張が走る。
「月性さ~ん!小鳥遊先生からです~。」
皆の視線が今度は冬に集中する。
…緊急入院じゃありません様に。
スタッフ全員が同じことを考えてるのが、冬には分かった。
「小鳥遊です…。あの…申し訳無いんだけれど、空いてるタブレットを当直室へ持ってきてくれますか?患者が来てて、緊急で指示を出したいんだけど、当直室のタブレットの調子がおかしくって…お願いします」
本当に済まないけれど…と付け加えた。小鳥遊の言葉は、どんなに忙しくても、いつも相手を思いやる優しさがあった。
「判りました。当直室にタブレットですね?申し送り終わったんで、私がそちらにお持ちします。」
…ほっ。
スタッフ達は、それを聞くと、再び自分の作業へ血戻った。
「お疲れさま~。医局長に、予備のタブレット渡したら、帰りますね。」
冬はタブレットを抱えて病棟を離れた。当直室は更衣室からも近いし、ついでだった。
先ほどのドキドキが、再燃した。
…噂になる相手が私なら光栄ですって確かにさっきそう言ったよね?聞き間違いじゃないよね?
どのような顔をして合えばよいのかも分からないので、小鳥遊が外来へ呼ばれている間に、タブレットを置いて帰りたかった。
当直室は各科の医者にひとつづつに割り当てられていた。簡易ベッドになるソファ、シャーカステンの他に、辞書や医学書なども備え付けられており、小さなキッチンや冷蔵庫等が備え付けられている。
――― トントン。
当直室のドアをノックするが返事は無い。
「失礼します」
冬はドアをそっと開けた。
電気は付いていたが、小鳥遊の姿は無い。
夕食に頼んだ、店屋物のかつ丼が手付かずで、届けられたままの状態で置いてあった。
…救急外来に呼ばれて今日は忙しいんだ。
冬はテーブルの上にタブレットを置き少しほっとした。
…そうだ患者さんに貰った缶コーヒーがあった筈。置いてってあげようっと♩
鞄にゴソゴソと手を突っ込み、
缶コーヒーをかつ丼の傍に置いた。
冬が立ち去ろうとした時だった。
突然ドアが開き、小鳥遊が入って来た。
「わっ!驚いた…。」
…盛大に驚き過ぎだ。
いつも冷静沈着な小鳥遊が、
驚く姿が可笑しくて、冬は思わず噴き出した。
「ごめん…ごめん。自分で頼んでおいたのに…月性さん来ること忘れてました。すみません。」
びっくりしたと胸を抑えながら、恥ずかしそうに笑った。小鳥遊が、テーブルの上のコーヒーに気付いた。
「患者さんからの頂きものですけれど、良かったらどうぞ。それでは…。」
冬は、慌てて説明した。
「あ…ありがとう。でも…僕…買って来ちゃっいました。」
見ると、ポケットから取り出したのは偶然同じ種類のコーヒーだった。
「外来も途切れたし食事も出来そうだから、月性さんコーヒー飲んでいきませんか?もう準夜お終いでしょう?」
小鳥遊は、部屋に付いている小さなキッチンで手を洗いながら言った。
「…ええ」
今買って来たばかりのコーヒーを冬に手渡した。
「あ…私こっちを飲みますから…。」
「いいの。いいの」
小鳥遊は、さっさとテーブルの上の生温いコーヒーを開けると、冬が持ってきたタブレットで、患者の撮れたばかりの画像を確認しながら、失礼しますと言って、丸椅子に座りご飯を食べ始めた。
「で…小峠先生との話だけど…何時からだったんですか?」
冬に大きな背中を向けたまま、急に話し出した。
…既にヤッた前提。まあ、本当のことだ。
その方が冬は話しやすかった。
「去年の忘年会で酔いつぶれた時に、気が付いたら、小峠先生が隣で寝てたんです…でも私…全く覚えて無いんです。」
…そうだ…それだけにしとけば良かった。
「なるほど…そうでしたか」
小鳥遊はまるで患者を問診するように静かに聞いた。
「その後からしつこく誘われて…困っているんです。2人の関係をみんなにバラすぞって脅されて…ずるずると…。」
冬をチラリとみたが、小鳥遊は、再び視線をタブレットとカツ丼へと戻した。
「しつこく…ですか。マメなのと、しつこいのは紙一重ってことですね…。」
小鳥遊はかつ丼をあっという間に食べ終わってしまった。
「じゃあ…面倒臭く無い僕と…でしたらOK?貴女を脅したりしませんし…。」
ふふっと笑うと、冬をじっと見つめた。
冗談か本気なのか、判断がつかない。
「おっしゃっていることが、良く分からないのですが…。」
冬は戸惑いを隠せなかった。
「僕となら、月性さん付き合ってくれる?」
「…。」
冬はショックだった。
小鳥遊も他の医者と変わらなかったのか…と。
「お誘い頂き、大変光栄なことですが…。」
小鳥遊は、冬を真っ直ぐに見つめたまま、返事を待っている。
「あの…奥様がいらっしゃる方との不倫は…出来ません」
小鳥遊は丸椅子に座ったまま、くるりと冬の方に向き直った。
「僕は今…妻と別れて独身ですけれど?」
小鳥遊は、真面目な顔で冬に告げた。
…えっ。
「去年の12月です。」
小鳥遊に限って嘘は無いと思った。
…こんなこと嘘で言えるとしたらそれこそ軽蔑してしまう。
「知りませんでした…。」
「うん…だってまだ誰にも言ってないもの。僕が離婚したことを知ってるのは、今現在は、月性さんだけです。」
きょとんとしている冬に言葉を続けた。
「僕は、月性さんのそういう生真面目な所が好きです。真っすぐで。」
冬に蕩けそうな笑みを浮かべた。
「でも…全然…真面目じゃないです」
冬も噂が拡がらないところで、それなりに遊んでいた。
結婚を前提に付き合うとか、彼氏を作るよりも、適当に遊んでいる方が冬は楽だった。
小鳥遊が、流しへ食器を置いたところで、救急外来から呼びだしの内線が鳴った。
「返事…急がないから…考えてくれませんか?次の僕の当直日ぐらい迄に。では…お疲れさまでした」
小鳥遊は当直室から風の様に去っていった。
…ちょっと待て。一体何が起こったんだ?今。
落ち着く時間が欲しかった。冬は流しへ行き、医局長が今食べ終わったばかりの器を無意識に洗っていた。
…年齢がおよそ一回り違う小鳥遊医局長と付き合う?
確かに尊敬していたし、小鳥遊は、外見も魅力的で憧れていた。それがホントであれば、興味は…ある!
…これは…きっと悪い冗談だ。
冬は洗い終えた食器を、キッチンペーパーで綺麗に拭きながら自分に言い聞かせた。
高橋医師が冬にまた怒られていた。
医師が看護師に注意をされている時には、傍観者に徹する。逆の時も然り…だ。
小鳥遊 学医局長は、色々と部下に口出しをするタイプでは無い。
然し、高橋は注意を受けているのにも関わらず、口では謝りつつも、嬉しそうにみえるのは何故か?
…彼は月性さんのファン…なのか?
注意をしていた冬は、
今は柔かに新人看護師の対応をしている。
あっさりしていて、切り替えができる冬は、医師からも信頼されている様に見えた。
「また月性さんに怒られちゃった♪ついつい新人に頼みやすいから、処置の時も声掛けちゃうんですよね。」
聴かれちゃいましたか?と照れ隠しに笑いながら、小鳥遊の所へやって来た高橋医師。
「なんだかとても嬉しそうですね。」
小鳥遊は、口角を少しあげて薄く笑みを浮かべながらも、モニターからは目を離さず、重症患者の指示を入力していた。
「あの可愛い顔で怒られちゃうと、堪らないんですよね。」
高橋は、小鳥遊の隣の空いている席に座りオーダーの入力を始めた。高橋は小峠の後輩で、転勤したばかりだ。性格は素直で真面目である為に、注意を受ける事は多いが、看護師達には、頼りにされている。
癖も無く、看護師達の小峠への愚痴を聞かされる事も多い様だ。要するにそこそこ人気もある医師だ。
「そうなんですね…。」
小鳥遊は実は、彼自身も冬の事を気になっていた。
当然だが言えないし、自分自身が離婚した事も誰にも知らせてはいない為、“既婚者医師”の肩書きがついたままの自分が冬に相手にされるとは、到底思えない。
「では…あなたは小峠先生のライバルと言う事になりますね。」
医師も看護師も、誰が独身で、素敵で綺麗だとか、物腰が穏やかで優しいとか、不倫をしてくれそうだとか、密かに情報交換をしている。
…何処の病院でも良くみられる光景だ。
小鳥遊は笑った。
「小峠先生だったら、断然僕の方が有利だと思うんだけどなぁ。」
大きな独り言だ。それを認めて欲しいのだろうか?
…確かに。
小鳥遊は、言葉には出さずに含み笑いをした。
高橋は身長も高くみるからに、何かスポーツをやっている様な、がっしりとした体格をしている。高橋が“動”だとすると、小峠は“静”といったところだろうか。
看護師にちゃらんぽらんで叱られる小峠と、失念で叱られる高橋では、全く違う。
「あ…こんなこと言ったのは内緒にしてて下さいね。」
ナースステーションのPC前で身体の大きな医師ふたり、肩を並べてコソコソと話をしていた。話すのは専ら高橋の方だが。
「小峠先生と来たら、月性さんを追い回してばかりで、見ちゃいられませんよ。でも流石に彼女…上手く交わしてますけど。」
病棟のゴシップに疎い小鳥遊は、若い医師や看護師達から噂話を聞くことが多い。ナースステーションに居れば、聞きたく無くても情報は入ってくる。
「禿…またやらかしたらしいよ。他病棟で…同じ病棟の看護師ふたりに手を出して壮絶バトルだって。」
病室から戻ってきた中堅看護師達が、話しながらナースステーションへと入って来た。
「うわっ…なんであんな禿が良いの?信じられない…。」
「キモ過ぎ~。」
看護師は丁度カウンターからは見えない位置で指示を入力している小鳥遊と高橋が居ることも知らず、大きな声で話をしている。
「小峠先生は散々な言われ様ですね。」
小鳥遊は、その辛辣さに苦笑してしまった。
「他の病棟で看護師漁りが激しいですからね…。いつも楽しそうでいいけれど、僕は真似できません。」
根が真面目な高橋は、普段から小峠よりも小鳥遊と良く話をした。
それには何も答えず小鳥遊はただ笑って聞いて居た。
医師の中には手短なところで遊んでいる者も多いが、小鳥遊には理解が出来なかった。
…遊びならもっと上手くやらないと。
「あら…吹野さん?
お荷物持ってどちらに行かれるんですか?」
椅子から少し背伸びをして覗いてみると、冬が患者に声をかけていた。
…脳神経内科の患者?
病棟は東西南北に分かれていて、北が脳外科病棟、南が脳神経内科病棟、ICUとER、オペ室からも近い。
…せん妄患者か?
「あ…あっと…どこへ?家だっけね?」
冬は同じペースでゆっくり吹野の隣を歩きながら、話しかけていた。
「ここ病院ですよ?具合が悪くて入院してるのよ。」
吹野はトボトボと小さな歩幅で歩きながら、少し考えて居た。まだ60代後半ぐらいであろうか、顔に皺はあるものの艶々としていた。
「小鳥遊先生、すみませんが、脳内にお迎え来てもらえる様に電話して頂けますか~?」
小鳥遊に気が付いて冬が声を掛けた。
冬は、また歩き出そうとしている患者に、
ちょっと待ってて下さいね~と言いつつ寄り添っている。
「判りました。」
小鳥遊は脳神経内科病棟に電話を掛けたが、
呼び出し音が鳴るだけで、誰も出なかった。
「月性さん!脳内の看護師さん出払ってるみたいです。」
「ありがとうございます。じゃぁ病棟にお連れしちゃった方が早いかしらね。」
冬は、
脳神経内科病棟へとゆっくりと話をしながら歩いて行った。
「僕も、暇だから月性さんについて行っちゃおっと♪」
高橋医師は、オーダー入力もそこそこに冬の後をついていった。
…やれやれ。
冬が新人として入って来た時のことを小鳥遊はよく覚えていた。
幼い顔をしているのに、スタイルが良く、可憐で可愛いらしいので、院内でもちょっと騒ぎになった。
他科や院内の合同イベントがある度に、脳外科に可愛い人が居ると噂になった。
小鳥遊も病棟会などで話す機会はあったが、プライベートでの関わりは当然だが皆無だった。
病院近くのラーメン屋で数人の看護師と鉢合わせし、その中に冬がいた。
他愛の無い話をしたが、すぐに小鳥遊が食べ終わり、何も言わず、看護師達の支払いも併せて済ませて席をたった。
医者は、スタッフとの連携が欠かせない。
患者の為にと働くが、緊急入院/手術等、無理を押し付けてしまう事も多々ある。
医療に関わらず、どの職業でも
お互い“持ちつ持たれず”な関係が、必要だが、特に医療スタッフの連携は、患者の生存率をあげる。
楽しく食事を食べる看護師やスタッフの中に、
冬が居たからでは無く、知った顔のスタッフを同じ店で見かけたら、小鳥遊は、常に纏めて支払いを心掛けていた。
今時の若い子は、院内で顔を合わせてもお礼を言われない事も多いが、小鳥遊はそんな事は全く気にしていなかった。
ただ、冬は毎回必ずお礼に来ては、その費用をわざわざ返しに来ると言う律儀なところもあった。もちろん小鳥遊は受け取らなかったが…。
そんなところも、小鳥遊は冬の事を、年齢の割にはきちんとした人…との印象を持っていた。
「医局長。」
小峠が外来を終えて病棟へ、上がって来た。
「ちょっとお聞きしたいことがあるんですけれど…。」
小峠は看護師達に禿と言われている。そのあだ名の通り、30過ぎから禿はじめ、今ではM字を通り越し、潔く丸坊主にしている。
要領が良く、手術はそこそこうまいが、病棟での仕事を面倒臭がるので、看護師達には、嫌われていた。
「何でしょう?」
小鳥遊は術後患者のCTを見ていた。小峠も小鳥遊の後ろからその画像を覗き込んだ。
「あ…結構腫れてますね…点滴増やさないと駄目ですね。」
…この男は、脳外科医としてのセンスはあるのに。
小鳥遊は小峠に対し、ふとそんな風に思った。
「そうですね…今日の夜から増やしましょう。」
点滴のオーダーを入力し、担当の看護師に声を掛けた。
「先生が、月性さんと付き合ってるって本当ですか?」
小鳥遊は突然聞かれて驚いたが、顔には出さなかった。
「押し倒したって…聞いたんですが。」
小峠が、小鳥遊の反応を窺っている。
冬は常に上手にあしらって居る様だが、本心は良く判らなかった。
「…どうなんでしょうねぇ。」
否定も肯定もせず、
次々に患者の頭部CTの確認を続けた。
「先生と付き合ってるから、デートに誘わないで下さいって言われちゃいましたよ。」
小峠も小鳥遊の様子を伺うようにして聞いた。
「なるほど…そうですか…。」
…そういうことか。
「小鳥遊医局長!ERから電話です。」
病棟師長が、タイミング良く声を掛けてきた。
冬本人が言っていたという事は、もしかしたら自分にもチャンスがあるんじゃないかと密かに思った。
小鳥遊は否定も肯定もせずに、席を立ち電話に出た。
冬とプライベートな会話を出来るチャンスを貰えた訳だ。
使わない選択は無いだろう。
…ただ、どうやって冬にその件について聞こうか。
最適解を探さなくてはならないと小鳥遊は思った。
翌日の準夜勤。
月胜 冬は、
出勤するとすぐに、メンバー、空床状況、準夜勤の管理看護師長、当直脳外科医師の名前を確認した。
…今日の当直は、小鳥遊先生ね。
本日の重症患者や、新規で入院してきた患者、ERから日勤で病棟へと転病棟してきた患者、準夜勤で手術室から病棟へと戻る予定の手術患者。内服、点滴管理等、深夜勤勤務に比べて準夜勤は、基本的に忙しい。
冬は、小鳥遊の名前を見てほっとした。
医局長の小鳥遊は、当直に入らなくても良い立場。
それでも月に1-2度は、希望でシフトに入るのは、病棟の様子を知りたかったからだ。
「月性さん!今日は医局長ですって。」
「超ラッキーじゃないですか?久しぶりに当たった~。」
「わーい♩今日は、月性さんも居るし、楽勝っすね。」
新人や若い看護師達は、現金だ。冬はそれを聞いて笑った。
「あとで、きちんと医局長にお礼ぐらい言わなきゃダメよ。」
先に出勤していた後輩看護師達は、
冬をみると嬉しそうにはしゃいだ。
小鳥遊は当直時、病棟スタッフに夕食をご馳走してくれた。高級寿司、有名店のピザやカレーなどだ。
しかもERが空いてれば、暇があれば看護師の希望を聞きに来るマメさまであった。
…きっと奥様もしっかりされてる方なんだろうな。
他の医師より数倍忙しい筈なのに、その素振りすら小鳥遊は見せない。悪く言えばミスが全く無いロボット、良く言えば、チームで働くにはパーフェクトな医者だ。
…小鳥遊先生ってプライベートでも完璧過ぎて、逆に奥様は大変かも?
冬は以前から密かに慕い尊敬していたが、殆ど話す機会が無い…というよりも余り話す必要が無かった。
何故なら、スタッフの確認が必要な曖昧な指示は決して出さないし、スタッフの人数が少なくなる準夜勤や夜勤には、検査などのオーダーを極力避けてくれた。
薬剤部へ薬を貰いに行ったり、患者搬送を手伝うなど、部下以上にフットワークも軽い。
冬がこの病棟に来て5年になるので、研修医や若い医者からすれば、冬はお局看護師の部類だ。
…もっとマシな指示を書きやがれ!
内心ぶち切れつつも、冬は全てのスタッフに、分け隔てなく対応し、とても面倒見が良いので、信頼は厚かった。
小鳥遊は患者がERに来ない限り、遅くまでステーションで部下達が漏らした指示を埋めたり、データーの確認する。
冬が見回りから戻ってくると、小鳥遊が患者のCTを見ていた。
ふと視線が合った。
「いつも、スタッフ・メンバーに、ご飯をご馳走して頂いて、ありがとうございます。」
冬は夕食のお礼を述べた。
「いやいや…そんなこと気にしないでください。看護師さん達の方が僕達よりも、大変ですから」
笑いながら、モニターで次々と患者の画像データーを確認していく小鳥遊。
「月性(げっしょう)さん…最近調子はどう?」
「え…っと…。」
話はいつもの様に、すぐに終わるかと思っていたが、続けて小鳥遊が話しかけてきたので、身構えた。
「か…変わりありません…あ!そうだ。看護師や理学療法士とも話してたんですが、また小鳥遊先生とみんなで、ご飯を食べに行きましょうって。」
いつもご馳走になってばかりなので、スタッフと時折話すが、小鳥遊が忙しく、実行できないでいた。
「あーそうでしたね!以前もみんなに誘って頂いたのに、緊急オペで、ダメになっちゃいましたよね?」
「先生もお忙しいとは思いますが、他の部署から移動してきた人も居るので、是非~。」
院長や医局長、師長も含めなど、役職付きとの交流がたまにはあっても良いと冬も思っている。特に小鳥遊は素敵で人気があるけど、無駄話などできない様な雰囲気もあった。
「僕を誘ってくれる看護師さんは、月性ぐらいですよ~。」
「またまた~。ファンが多いから、病棟後回しになっちゃうんでしょう?この病棟にも小鳥遊ファンの子多いのに…。」
…お世辞と分かってはいても、月性さんに言われると嬉しい。
小鳥遊は他のスタッフと、冗談を言ったりふざけたりすることもあるが、冬とは殆ど、世間話などをしたことが無い。
「そういえば…。」
切り出すなら今がチャンスだ。
「小峠先生から聞いたけど、月性さんって乗馬してるんだって?」
「えっ…ええ…。」
小峠の名前が出たので、一瞬冬は身構えた。
「へぇ…どこの乗馬クラブ?」
小鳥遊は常に、真っすぐに眼を見て話す。
大きくて形の良い瞳は、いつも優しさを湛えていて、冬の返事を興味深げに待っていた。
「クラブには入って無くて…友人が所有する馬に乗せて貰っているだけです。」
あと2時間ほどで消灯時間だ。
「なるほど~……それと…そう言えば…ですけどね…。」
小鳥遊は少し間を置いた。ふたりの周りには、他のスタッフもいないし、夕食後の束の間の休息時間で、患者も余りナースコールを押さなかった。
「小峠先生が…さりげなく聞いて来たんだけれど、僕と君が…。」
小鳥遊は冬の様子を伺うように聞いた。
「…‼︎」
冬はハッとして、その緊張は一気に高まった。
…まずい…まずい…バカバカバカ!!!!!
「あ…余りにしつこく…その…デートに誘われたもので…つい先生のお名前を出してしまいました。ホントにすみませんでした。」
冬は慌てて頭をさげたが、
顔も耳も完熟トマトの様に真っ赤になった。
その様子をじっと観察している小鳥遊。
流石に確認も出来ないだろうと思って、あの時は、咄嗟に小鳥遊の名前を出した。
「彼は…女癖が悪いって聞いたことがあったけれど、噂は本当だったんですね」
小鳥遊は気にする様子も無く、
にこにこしていた。
「すみません。まさかハ…小峠先生が、小鳥遊先生に直々に確認する…とは思わなくて…。」
冬は、小峠が自分の事を諦めると思ったからだったのだが、それが裏目に出た。
「あの…ホントに…申し訳ありません。」
いつもとは違って、あたふたして落ち着かない冬を見ているのは楽しい。
「これからは、彼の前では仲が良い振りをしなくちゃね♩」
小鳥遊は、恐縮する冬をよそに、完全に楽しんでいた。
「いえ…あの…本当に…本当にすみませんでした。」
あなたは謝る必要は無いですよ。しつこいあの人が、いけないんですから…と小鳥遊は笑った。
…相手をアイツとは関わりの少ない、他科の医者にしときゃ良かった。禿めっ!!
「僕は…。」
小鳥遊は、また少し言葉を溜めた。
「噂になる相手が、あなたなら…とても嬉しいですし、光栄です。」
「…‼︎」
爽やかな笑顔を浮かべた小鳥遊に、冬は不覚にもドキドキしてしまった。
目尻には笑うと皺が出来て、
とてもチャーミングだ。
…どういう意味なのだろう。
小鳥遊の笑顔に
クラクラし始めた時、良い具合にコールが鳴った。
「…先生ホントにすみません。失礼します。」
冬は、小鳥遊の前から足早に立ち去ったが、
その後ろ姿を、みてクスッと笑った。
夜勤者への患者の状態などの申し送りも終わり、準夜勤者が、そろそろ帰ろうとしたところだった。
内線が鳴ったので、新人が電話をとった。
準・深夜勤者の間に、一瞬ピリついた緊張が走る。
「月性さ~ん!小鳥遊先生からです~。」
皆の視線が今度は冬に集中する。
…緊急入院じゃありません様に。
スタッフ全員が同じことを考えてるのが、冬には分かった。
「小鳥遊です…。あの…申し訳無いんだけれど、空いてるタブレットを当直室へ持ってきてくれますか?患者が来てて、緊急で指示を出したいんだけど、当直室のタブレットの調子がおかしくって…お願いします」
本当に済まないけれど…と付け加えた。小鳥遊の言葉は、どんなに忙しくても、いつも相手を思いやる優しさがあった。
「判りました。当直室にタブレットですね?申し送り終わったんで、私がそちらにお持ちします。」
…ほっ。
スタッフ達は、それを聞くと、再び自分の作業へ血戻った。
「お疲れさま~。医局長に、予備のタブレット渡したら、帰りますね。」
冬はタブレットを抱えて病棟を離れた。当直室は更衣室からも近いし、ついでだった。
先ほどのドキドキが、再燃した。
…噂になる相手が私なら光栄ですって確かにさっきそう言ったよね?聞き間違いじゃないよね?
どのような顔をして合えばよいのかも分からないので、小鳥遊が外来へ呼ばれている間に、タブレットを置いて帰りたかった。
当直室は各科の医者にひとつづつに割り当てられていた。簡易ベッドになるソファ、シャーカステンの他に、辞書や医学書なども備え付けられており、小さなキッチンや冷蔵庫等が備え付けられている。
――― トントン。
当直室のドアをノックするが返事は無い。
「失礼します」
冬はドアをそっと開けた。
電気は付いていたが、小鳥遊の姿は無い。
夕食に頼んだ、店屋物のかつ丼が手付かずで、届けられたままの状態で置いてあった。
…救急外来に呼ばれて今日は忙しいんだ。
冬はテーブルの上にタブレットを置き少しほっとした。
…そうだ患者さんに貰った缶コーヒーがあった筈。置いてってあげようっと♩
鞄にゴソゴソと手を突っ込み、
缶コーヒーをかつ丼の傍に置いた。
冬が立ち去ろうとした時だった。
突然ドアが開き、小鳥遊が入って来た。
「わっ!驚いた…。」
…盛大に驚き過ぎだ。
いつも冷静沈着な小鳥遊が、
驚く姿が可笑しくて、冬は思わず噴き出した。
「ごめん…ごめん。自分で頼んでおいたのに…月性さん来ること忘れてました。すみません。」
びっくりしたと胸を抑えながら、恥ずかしそうに笑った。小鳥遊が、テーブルの上のコーヒーに気付いた。
「患者さんからの頂きものですけれど、良かったらどうぞ。それでは…。」
冬は、慌てて説明した。
「あ…ありがとう。でも…僕…買って来ちゃっいました。」
見ると、ポケットから取り出したのは偶然同じ種類のコーヒーだった。
「外来も途切れたし食事も出来そうだから、月性さんコーヒー飲んでいきませんか?もう準夜お終いでしょう?」
小鳥遊は、部屋に付いている小さなキッチンで手を洗いながら言った。
「…ええ」
今買って来たばかりのコーヒーを冬に手渡した。
「あ…私こっちを飲みますから…。」
「いいの。いいの」
小鳥遊は、さっさとテーブルの上の生温いコーヒーを開けると、冬が持ってきたタブレットで、患者の撮れたばかりの画像を確認しながら、失礼しますと言って、丸椅子に座りご飯を食べ始めた。
「で…小峠先生との話だけど…何時からだったんですか?」
冬に大きな背中を向けたまま、急に話し出した。
…既にヤッた前提。まあ、本当のことだ。
その方が冬は話しやすかった。
「去年の忘年会で酔いつぶれた時に、気が付いたら、小峠先生が隣で寝てたんです…でも私…全く覚えて無いんです。」
…そうだ…それだけにしとけば良かった。
「なるほど…そうでしたか」
小鳥遊はまるで患者を問診するように静かに聞いた。
「その後からしつこく誘われて…困っているんです。2人の関係をみんなにバラすぞって脅されて…ずるずると…。」
冬をチラリとみたが、小鳥遊は、再び視線をタブレットとカツ丼へと戻した。
「しつこく…ですか。マメなのと、しつこいのは紙一重ってことですね…。」
小鳥遊はかつ丼をあっという間に食べ終わってしまった。
「じゃあ…面倒臭く無い僕と…でしたらOK?貴女を脅したりしませんし…。」
ふふっと笑うと、冬をじっと見つめた。
冗談か本気なのか、判断がつかない。
「おっしゃっていることが、良く分からないのですが…。」
冬は戸惑いを隠せなかった。
「僕となら、月性さん付き合ってくれる?」
「…。」
冬はショックだった。
小鳥遊も他の医者と変わらなかったのか…と。
「お誘い頂き、大変光栄なことですが…。」
小鳥遊は、冬を真っ直ぐに見つめたまま、返事を待っている。
「あの…奥様がいらっしゃる方との不倫は…出来ません」
小鳥遊は丸椅子に座ったまま、くるりと冬の方に向き直った。
「僕は今…妻と別れて独身ですけれど?」
小鳥遊は、真面目な顔で冬に告げた。
…えっ。
「去年の12月です。」
小鳥遊に限って嘘は無いと思った。
…こんなこと嘘で言えるとしたらそれこそ軽蔑してしまう。
「知りませんでした…。」
「うん…だってまだ誰にも言ってないもの。僕が離婚したことを知ってるのは、今現在は、月性さんだけです。」
きょとんとしている冬に言葉を続けた。
「僕は、月性さんのそういう生真面目な所が好きです。真っすぐで。」
冬に蕩けそうな笑みを浮かべた。
「でも…全然…真面目じゃないです」
冬も噂が拡がらないところで、それなりに遊んでいた。
結婚を前提に付き合うとか、彼氏を作るよりも、適当に遊んでいる方が冬は楽だった。
小鳥遊が、流しへ食器を置いたところで、救急外来から呼びだしの内線が鳴った。
「返事…急がないから…考えてくれませんか?次の僕の当直日ぐらい迄に。では…お疲れさまでした」
小鳥遊は当直室から風の様に去っていった。
…ちょっと待て。一体何が起こったんだ?今。
落ち着く時間が欲しかった。冬は流しへ行き、医局長が今食べ終わったばかりの器を無意識に洗っていた。
…年齢がおよそ一回り違う小鳥遊医局長と付き合う?
確かに尊敬していたし、小鳥遊は、外見も魅力的で憧れていた。それがホントであれば、興味は…ある!
…これは…きっと悪い冗談だ。
冬は洗い終えた食器を、キッチンペーパーで綺麗に拭きながら自分に言い聞かせた。
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