9 / 21
009
しおりを挟む
「……一体、どこに行きやがったんだ?」
月光と星光煌く夜空。その光を一身に受ける鉄竜は電柱の上に立つ。
古里町の全体を見渡せるこの場所で、町の様子をグルリと見渡すが、めぼしいものは見つからない。
元々、視力には自信があったのだが、どうも状況が違う。
月光に照らされ、星たちが輝いていたとしても、光の量が足りていない。
古里町全体を思うように照らさず、深夜という時間帯もあってか、闇に染まっている。一部、街頭が照らされている場所ならば視認できるが、照らされていない場所は最早暗黒が広がるだけで、殆ど見えない。
鉄竜は電柱の上にしゃがみ込み、顎に手を当てる。
「姫の奴……急に居なくなりやがって……」
そもそも、この原因が分からない。
何故、姫は家を何も言わずに出て行く必要があったのだろうか。
昨日、きちんと話しをして、彼女の事を受け入れる事が出来たはずだ。自分たちの気持ちをしっかりと伝える事が出来たはずだ。なのに、彼女はたった一晩で居なくなってしまった。
もし、彼女が誘拐されたと考えるのなら、あの血痕は抵抗をした跡だと納得できるし、それはそれで別に構わない。構わない、というのには語弊があるが、そうだったとしたら、鉄竜のすべき事は一つだからだ。
けれど、もし、彼女が自分の意志で出て行ったとするのなら。
だとしたら、あの争ったような形跡の血痕に血の蒸発の説明がまるで付かない。
鉄竜が顎に手を当て考え込んでいると、唐突にパーカーのポケットに入れっぱなしになっていた携帯電話が鳴る。
「ん? 誰だって……愛か」
鉄竜は発信者の確認をしてから、通話ボタンを押す。
「愛、どうした?」
『あ、テツくん? 今、家を出たんだけど。テツくんはどのあたりを探してるのかなって』
「俺は一応上から探してるが、町の全体からして、東側をメインにしてる」
『了解。じゃあ、私は西側を探してみるね』
「ああ、任せた。っと……悪い、ちょっと電話を切る」
『へ? あ、うん……とりあえず何かあったら、すぐに叫ぶね』
「おう。気をつけるんだぞ」
その言葉を最後に鉄竜は電話を切り、先ほど、視界に入り込んだ人間を見つめる。
その人間は昼頃に出会った男、名刺を渡してきた男。名前は――獅子堂正義。
正義は何かを探すように辺りを見渡し、フラフラと町の中を彷徨っている。
「……アイツ、何やってんだ?」
最初に出会った頃と同じようなダボダボの黒いロングコートを羽織り、夜に染まる町の中を歩き回っている。
時折、足を止め、辺りを探るように見渡し、またも歩き始めている。
その姿はあまりにも怪しい。鉄竜は電柱の上に立ち上がり、近くの屋根に飛び移る。
あの男、初めて出会った時から鉄竜の中で違和感が覚えた男だ。
何か――人間とは混ざってはいけないものが混ざった――鉄竜と似た空気を。
鉄竜はパーカーのフードを頭まで被り、立ち上がる。
「……アイツ、あの事故現場に居た奴だよな。だったら、姫に何か関係あるかもしれねぇ。姫を探しつつ、上からアイツも一緒に尾けるか……」
その言葉と同時に鉄竜は飛び、他の屋根へと飛び移る――。
□
「さてと……私も私で頑張らないと!」
フンス、と胸の前で両腕を構え、気合を入れる愛。
場所は鉄竜が暮らすアパートの一階、階段前。ちょうど街灯の照らされる場所。
愛は腕を組み、目を閉じて、考え込む。
「姫ちゃんがどこに行くか……」
こうした人間の捜索をする場合、その人間が行くかもしれない場所から探るのが定石だ。
けれど、姫の場合はどこに行くのだろうか。愛は考えるが、首を傾げた。
「この町の事、姫ちゃんはあんまり知らないよね……400年くらい前の人だし……ん?」
と、ここで、愛はようやく気が付いた。
400年前? 鉄竜も疑問に持っていた、というよりも、愛自身も聞いた時から疑問に思っていた事。
何故――何故、彼女は400年もの時を生きているのか? というあまりにも常識的過ぎる疑問だ。
元々、人間の寿命は100年も生きられない。それはこの世の常識であり、理だ。
けれど、常識は時として覆る。それが――鉄竜と同じ、妖魔という存在だ。
人の理をはずれ、常識を超越した非常識の存在。常識を諸共しない、非常識の感覚でのみ生きる存在。
彼らに常識は一切合切通用しない。つまり、人間でのみ言える寿命の概念は無い。
「だとすると……やっぱり、妖魔絡みって事は間違いないわけだよね……。どんな妖魔か、なんだけど……やっぱり――だよね」
愛は独り言のように呟き続ける。
「うん、彼女は一緒なんだよね。全部が。けど、まだ断定は難しい……。うん。やっぱり、探さないと!!」
愛は一人で納得したように頷く。
「分からないなら、手当たり次第に探すしかないよね」
愛は夜の町へと足を踏み出す。
勿論、愛の居た場所には他の人間は存在せずに静寂が流れ、街灯が煌々と照らすだけ。
しかし、愛は一切気にせずに、足を踏み出し、路地を歩いていく。
この町全体は碁盤目状になっているのが特徴的である。
四角の敷地がいくつも並んで配置され、その間が全て路地になっている。けれど、その中で街灯が照らされているのは、路地の交差点のみ。つまり、路地の真ん中辺り、街灯が届きにくく、薄暗い。そのせいで、視界はかなり制限され、見通しが悪くなってしまう。田舎町の悪いところである。
愛は注意深く、歩き回りながら、時に足を止め、辺りを見渡し、姫の行方を探る。
けれど、手がかりらしい手がかりすらも得る事が出来ず、むしろ、住宅地が続くばかりで、静寂に包まれる。
「何処にも居ない……何処に行ったんだろ、そんなに、遠くには行ってないのかな?」
愛は一人で呟くが、すぐに首を横に振った。
遠くに行っていないという考えは捨てなければならない。近くに居るかもしれないし、遠くに居るかもしれない。そのくらいに柔軟な考えを持っていなければ、彼女を探す事は出来ないだろう。
けれど、打開策が無ければ、このまま探して終わりである。
愛は街灯の照らす角で一度足を止め、歩き続けた足を休ませる為に、壁にもたれ掛かる。
「ふぅ……何処に行っちゃったんだろ……隣町、とか?」
と、独り言を呟いた瞬間。
ふと――横にあったものが視界に入ってきた。それを見た瞬間に、愛はすぐさま口元を抑え、目を背け、叫びそうになる悲鳴を押し殺した。
あまりにも隣にあった光景が現実離れし、更には今も尚、進行していることだったからだ。
ちょうど愛に背を向けた闇に染まった何者かが、一心不乱に何かに喰らい付き、血を撒き散らしている。鮮血は愛のもたれている壁を汚し、地面を血で染めていく。その存在は一目見て分かった
――人間。それも――年若い女性だった。
愛の足元にも広がっていく血の海。それを視界で捉えた瞬間、愛は足が竦み始めた。
あまりにも現実離れした光景に。
あまりにも残酷すぎる状況に。
あまりにも未来が想像できてしまった絶望に。
愛は自身の両足を震える感覚、恐怖が胸の中にどんどんと膨れ上がっていき、呼吸も荒くなる。
けれど、ここで呼吸音すらも聞かせてしまえば――このすぐ近くにいる何者かに知られてしまう。
そもそも、今の状況は最悪ではあるが、まだ最良だと言える。
隣に居るにも関わらず、まだ気づかれていないからだ。そんな事があるか、と言えるが、その喰らう手を一切止めず、一心不乱に、わき目も見ずに、その存在は――人を喰らっている。喰らって、喰らって、喰らい続けている。
あまりにも非情すぎる現実が愛の心を掻き乱し、愛は目を閉じ、心の中で叫んだ。
――テツくん、たすけて!!
声に出す事は出来ない。精神を保つ事に、立っていることに、必死だから。
足を動かす事も出来ない。恐怖で足が竦んでしまっているから。
けれど、それでも助けを呼ばなければならない。この場から逃げなければならない。
このままここにいれば、確実に、愛自身も最悪の未来しか待っていない。
そんな未来は絶対に嫌だ。だからこそ、愛は必死の思いで、決死の思いで、足を一歩踏み出した。
けれど、瞬間、血の海を弾く水の音が、静寂の中、響き渡った。
失策だった。人を喰らい続ける悪魔は地面を血で汚していた。その血は水溜りのようになり、愛の足元を汚していた。その音が、その踏みしめた音が――辺りに響いてしまった。
愛の心の中に絶望が顔を出す。最悪の結果が頭を過ぎる。
愛はすぐに視線をその闇へと向けた瞬間、その存在を捉えた。
人を喰らう悪魔。その存在は言うなれば――闇だった。人の形を象る闇。ただ、その口元は――真っ赤な血で汚れていた。目も、鼻も、胴体も、足も、黒くて何も分からない。ただ人の形をした闇。それだけだ。
闇は愛と視線を交差した瞬間、両手で頭を抱えた。
「うぅぅうう、うがあああああああああああああああああああああああ!!」
悲鳴にも似た絶叫。慟哭とも呼べるのだろうか。闇は突如、叫び始め、悶え始める。
愛は絶叫を聞いた瞬間に、腰が抜け、その場にへたり込んでしまった。
足の力を完全に失ってしまった。この絶叫で、動く意志を、折られてしまった。
心の中に沸き起こる死への恐怖。頭の中を過ぎるフラッシュバックのような思い出たち。
愛はまだ僅かに動く両手を必死に動かし、その闇から距離を取る。
尻が血で濡れる感覚があるが、そんなものに構っていられない。愛は震える手を必死に動かし、距離を取る。けれど、闇は苦しそうに、迷いのある一歩、また一歩と足を進め、愛との距離をつめていく。
「あ、あぁ……ま、まって、わ、わたしは、その……」
「ウゥ……ゲロ……オネ……ゲロ……」
愛は恐怖にのみ突き動かされ、必死に距離を取る。けれど、その距離はすぐに詰められてしまった。
眼前に迫る闇。表情も、顔も何一つ分からない。ただ理解できるのは、闇の存在ではなく、愛がもう死んでしまうという事。愛は恐怖と絶望に顔を染まり、涙を流した。
「ま、まって、しにたくない……なんでもするから……ころさないでぇ……」
「メロ……イツハ……ヤツダ……タクナイ……」
闇は真っ黒な片手を貫手の形にし、構えた。これで心臓を一突きするといわんばかりに。
それを見た瞬間、愛の心臓は一気に脈動を早めた。そして、過ぎる己の死に様。
やだ、やだ、死にたくない。死にたくない。死にたくない。
そう心の中で叫び続け、愛は叫んだ。
「て、テツくん! 助けてよぉ!!」
慟哭にも近しい叫び声。瞬間、貫手は一気に動き出した。
愛はすぐにやってくるはずの衝撃に最後の抵抗でもある両腕で守り、目を閉じた。
けれど、その衝撃がいつまでもやってこない。愛は恐る恐る目を開けた瞬間、眼前にある光景に目を疑った。
「テツ……くん……」
「……間に合って……良かった……お前の烙印が滅茶苦茶に乱れてた……からな……」
愛と闇の間に割ってはいるように鉄竜が姿を現し、愛の変わりに貫手の一撃を胸で受けていた。鉄竜の左胸を貫く闇の腕は確実に鉄竜の心臓を抉り、貫いている。
飛び散る鮮血。地面、壁、愛にも跳ね返り、顔を衣服を汚す血は全て蒸発し、煙へと変わり、血痕が消える。
けれど、鉄竜はがっくりと膝から崩れ落ち、愛の元へと倒れこむ。
倒れこんだまま愛は鉄竜を受け止め、すぐに抱き締めた。
「テツくん!? 大丈夫!?」
「……わりぃ、ちょっとデカイ一撃貰っちまった……回復まで時間が掛かる……けど――恐らくだが……問題はねぇはずだ」
耳元で囁かれる声にくすぐったさを覚えるが、それ以上に気になったのは問題ないという言葉。
愛が疑問を抱いた瞬間、愛の眼前に居た闇の胸を貫く一筋の光と――銃声が鳴り響いた。
「ウガッ……」
喉が潰れるような声を漏らし、闇はその場にへたり込む。
愛は視線を銃声の発生源へと視線を動かす。そこは、闇の背後、一人の男――獅子堂正義が一丁の銃を構え、出会った頃とは違い、眼光鋭く――闇を睨みつけていた。
「……ようやく見つけたよ、血濡れの伯爵夫人。君の命は僕、獅子堂正義が貰い受けるよ」
月光と星光煌く夜空。その光を一身に受ける鉄竜は電柱の上に立つ。
古里町の全体を見渡せるこの場所で、町の様子をグルリと見渡すが、めぼしいものは見つからない。
元々、視力には自信があったのだが、どうも状況が違う。
月光に照らされ、星たちが輝いていたとしても、光の量が足りていない。
古里町全体を思うように照らさず、深夜という時間帯もあってか、闇に染まっている。一部、街頭が照らされている場所ならば視認できるが、照らされていない場所は最早暗黒が広がるだけで、殆ど見えない。
鉄竜は電柱の上にしゃがみ込み、顎に手を当てる。
「姫の奴……急に居なくなりやがって……」
そもそも、この原因が分からない。
何故、姫は家を何も言わずに出て行く必要があったのだろうか。
昨日、きちんと話しをして、彼女の事を受け入れる事が出来たはずだ。自分たちの気持ちをしっかりと伝える事が出来たはずだ。なのに、彼女はたった一晩で居なくなってしまった。
もし、彼女が誘拐されたと考えるのなら、あの血痕は抵抗をした跡だと納得できるし、それはそれで別に構わない。構わない、というのには語弊があるが、そうだったとしたら、鉄竜のすべき事は一つだからだ。
けれど、もし、彼女が自分の意志で出て行ったとするのなら。
だとしたら、あの争ったような形跡の血痕に血の蒸発の説明がまるで付かない。
鉄竜が顎に手を当て考え込んでいると、唐突にパーカーのポケットに入れっぱなしになっていた携帯電話が鳴る。
「ん? 誰だって……愛か」
鉄竜は発信者の確認をしてから、通話ボタンを押す。
「愛、どうした?」
『あ、テツくん? 今、家を出たんだけど。テツくんはどのあたりを探してるのかなって』
「俺は一応上から探してるが、町の全体からして、東側をメインにしてる」
『了解。じゃあ、私は西側を探してみるね』
「ああ、任せた。っと……悪い、ちょっと電話を切る」
『へ? あ、うん……とりあえず何かあったら、すぐに叫ぶね』
「おう。気をつけるんだぞ」
その言葉を最後に鉄竜は電話を切り、先ほど、視界に入り込んだ人間を見つめる。
その人間は昼頃に出会った男、名刺を渡してきた男。名前は――獅子堂正義。
正義は何かを探すように辺りを見渡し、フラフラと町の中を彷徨っている。
「……アイツ、何やってんだ?」
最初に出会った頃と同じようなダボダボの黒いロングコートを羽織り、夜に染まる町の中を歩き回っている。
時折、足を止め、辺りを探るように見渡し、またも歩き始めている。
その姿はあまりにも怪しい。鉄竜は電柱の上に立ち上がり、近くの屋根に飛び移る。
あの男、初めて出会った時から鉄竜の中で違和感が覚えた男だ。
何か――人間とは混ざってはいけないものが混ざった――鉄竜と似た空気を。
鉄竜はパーカーのフードを頭まで被り、立ち上がる。
「……アイツ、あの事故現場に居た奴だよな。だったら、姫に何か関係あるかもしれねぇ。姫を探しつつ、上からアイツも一緒に尾けるか……」
その言葉と同時に鉄竜は飛び、他の屋根へと飛び移る――。
□
「さてと……私も私で頑張らないと!」
フンス、と胸の前で両腕を構え、気合を入れる愛。
場所は鉄竜が暮らすアパートの一階、階段前。ちょうど街灯の照らされる場所。
愛は腕を組み、目を閉じて、考え込む。
「姫ちゃんがどこに行くか……」
こうした人間の捜索をする場合、その人間が行くかもしれない場所から探るのが定石だ。
けれど、姫の場合はどこに行くのだろうか。愛は考えるが、首を傾げた。
「この町の事、姫ちゃんはあんまり知らないよね……400年くらい前の人だし……ん?」
と、ここで、愛はようやく気が付いた。
400年前? 鉄竜も疑問に持っていた、というよりも、愛自身も聞いた時から疑問に思っていた事。
何故――何故、彼女は400年もの時を生きているのか? というあまりにも常識的過ぎる疑問だ。
元々、人間の寿命は100年も生きられない。それはこの世の常識であり、理だ。
けれど、常識は時として覆る。それが――鉄竜と同じ、妖魔という存在だ。
人の理をはずれ、常識を超越した非常識の存在。常識を諸共しない、非常識の感覚でのみ生きる存在。
彼らに常識は一切合切通用しない。つまり、人間でのみ言える寿命の概念は無い。
「だとすると……やっぱり、妖魔絡みって事は間違いないわけだよね……。どんな妖魔か、なんだけど……やっぱり――だよね」
愛は独り言のように呟き続ける。
「うん、彼女は一緒なんだよね。全部が。けど、まだ断定は難しい……。うん。やっぱり、探さないと!!」
愛は一人で納得したように頷く。
「分からないなら、手当たり次第に探すしかないよね」
愛は夜の町へと足を踏み出す。
勿論、愛の居た場所には他の人間は存在せずに静寂が流れ、街灯が煌々と照らすだけ。
しかし、愛は一切気にせずに、足を踏み出し、路地を歩いていく。
この町全体は碁盤目状になっているのが特徴的である。
四角の敷地がいくつも並んで配置され、その間が全て路地になっている。けれど、その中で街灯が照らされているのは、路地の交差点のみ。つまり、路地の真ん中辺り、街灯が届きにくく、薄暗い。そのせいで、視界はかなり制限され、見通しが悪くなってしまう。田舎町の悪いところである。
愛は注意深く、歩き回りながら、時に足を止め、辺りを見渡し、姫の行方を探る。
けれど、手がかりらしい手がかりすらも得る事が出来ず、むしろ、住宅地が続くばかりで、静寂に包まれる。
「何処にも居ない……何処に行ったんだろ、そんなに、遠くには行ってないのかな?」
愛は一人で呟くが、すぐに首を横に振った。
遠くに行っていないという考えは捨てなければならない。近くに居るかもしれないし、遠くに居るかもしれない。そのくらいに柔軟な考えを持っていなければ、彼女を探す事は出来ないだろう。
けれど、打開策が無ければ、このまま探して終わりである。
愛は街灯の照らす角で一度足を止め、歩き続けた足を休ませる為に、壁にもたれ掛かる。
「ふぅ……何処に行っちゃったんだろ……隣町、とか?」
と、独り言を呟いた瞬間。
ふと――横にあったものが視界に入ってきた。それを見た瞬間に、愛はすぐさま口元を抑え、目を背け、叫びそうになる悲鳴を押し殺した。
あまりにも隣にあった光景が現実離れし、更には今も尚、進行していることだったからだ。
ちょうど愛に背を向けた闇に染まった何者かが、一心不乱に何かに喰らい付き、血を撒き散らしている。鮮血は愛のもたれている壁を汚し、地面を血で染めていく。その存在は一目見て分かった
――人間。それも――年若い女性だった。
愛の足元にも広がっていく血の海。それを視界で捉えた瞬間、愛は足が竦み始めた。
あまりにも現実離れした光景に。
あまりにも残酷すぎる状況に。
あまりにも未来が想像できてしまった絶望に。
愛は自身の両足を震える感覚、恐怖が胸の中にどんどんと膨れ上がっていき、呼吸も荒くなる。
けれど、ここで呼吸音すらも聞かせてしまえば――このすぐ近くにいる何者かに知られてしまう。
そもそも、今の状況は最悪ではあるが、まだ最良だと言える。
隣に居るにも関わらず、まだ気づかれていないからだ。そんな事があるか、と言えるが、その喰らう手を一切止めず、一心不乱に、わき目も見ずに、その存在は――人を喰らっている。喰らって、喰らって、喰らい続けている。
あまりにも非情すぎる現実が愛の心を掻き乱し、愛は目を閉じ、心の中で叫んだ。
――テツくん、たすけて!!
声に出す事は出来ない。精神を保つ事に、立っていることに、必死だから。
足を動かす事も出来ない。恐怖で足が竦んでしまっているから。
けれど、それでも助けを呼ばなければならない。この場から逃げなければならない。
このままここにいれば、確実に、愛自身も最悪の未来しか待っていない。
そんな未来は絶対に嫌だ。だからこそ、愛は必死の思いで、決死の思いで、足を一歩踏み出した。
けれど、瞬間、血の海を弾く水の音が、静寂の中、響き渡った。
失策だった。人を喰らい続ける悪魔は地面を血で汚していた。その血は水溜りのようになり、愛の足元を汚していた。その音が、その踏みしめた音が――辺りに響いてしまった。
愛の心の中に絶望が顔を出す。最悪の結果が頭を過ぎる。
愛はすぐに視線をその闇へと向けた瞬間、その存在を捉えた。
人を喰らう悪魔。その存在は言うなれば――闇だった。人の形を象る闇。ただ、その口元は――真っ赤な血で汚れていた。目も、鼻も、胴体も、足も、黒くて何も分からない。ただ人の形をした闇。それだけだ。
闇は愛と視線を交差した瞬間、両手で頭を抱えた。
「うぅぅうう、うがあああああああああああああああああああああああ!!」
悲鳴にも似た絶叫。慟哭とも呼べるのだろうか。闇は突如、叫び始め、悶え始める。
愛は絶叫を聞いた瞬間に、腰が抜け、その場にへたり込んでしまった。
足の力を完全に失ってしまった。この絶叫で、動く意志を、折られてしまった。
心の中に沸き起こる死への恐怖。頭の中を過ぎるフラッシュバックのような思い出たち。
愛はまだ僅かに動く両手を必死に動かし、その闇から距離を取る。
尻が血で濡れる感覚があるが、そんなものに構っていられない。愛は震える手を必死に動かし、距離を取る。けれど、闇は苦しそうに、迷いのある一歩、また一歩と足を進め、愛との距離をつめていく。
「あ、あぁ……ま、まって、わ、わたしは、その……」
「ウゥ……ゲロ……オネ……ゲロ……」
愛は恐怖にのみ突き動かされ、必死に距離を取る。けれど、その距離はすぐに詰められてしまった。
眼前に迫る闇。表情も、顔も何一つ分からない。ただ理解できるのは、闇の存在ではなく、愛がもう死んでしまうという事。愛は恐怖と絶望に顔を染まり、涙を流した。
「ま、まって、しにたくない……なんでもするから……ころさないでぇ……」
「メロ……イツハ……ヤツダ……タクナイ……」
闇は真っ黒な片手を貫手の形にし、構えた。これで心臓を一突きするといわんばかりに。
それを見た瞬間、愛の心臓は一気に脈動を早めた。そして、過ぎる己の死に様。
やだ、やだ、死にたくない。死にたくない。死にたくない。
そう心の中で叫び続け、愛は叫んだ。
「て、テツくん! 助けてよぉ!!」
慟哭にも近しい叫び声。瞬間、貫手は一気に動き出した。
愛はすぐにやってくるはずの衝撃に最後の抵抗でもある両腕で守り、目を閉じた。
けれど、その衝撃がいつまでもやってこない。愛は恐る恐る目を開けた瞬間、眼前にある光景に目を疑った。
「テツ……くん……」
「……間に合って……良かった……お前の烙印が滅茶苦茶に乱れてた……からな……」
愛と闇の間に割ってはいるように鉄竜が姿を現し、愛の変わりに貫手の一撃を胸で受けていた。鉄竜の左胸を貫く闇の腕は確実に鉄竜の心臓を抉り、貫いている。
飛び散る鮮血。地面、壁、愛にも跳ね返り、顔を衣服を汚す血は全て蒸発し、煙へと変わり、血痕が消える。
けれど、鉄竜はがっくりと膝から崩れ落ち、愛の元へと倒れこむ。
倒れこんだまま愛は鉄竜を受け止め、すぐに抱き締めた。
「テツくん!? 大丈夫!?」
「……わりぃ、ちょっとデカイ一撃貰っちまった……回復まで時間が掛かる……けど――恐らくだが……問題はねぇはずだ」
耳元で囁かれる声にくすぐったさを覚えるが、それ以上に気になったのは問題ないという言葉。
愛が疑問を抱いた瞬間、愛の眼前に居た闇の胸を貫く一筋の光と――銃声が鳴り響いた。
「ウガッ……」
喉が潰れるような声を漏らし、闇はその場にへたり込む。
愛は視線を銃声の発生源へと視線を動かす。そこは、闇の背後、一人の男――獅子堂正義が一丁の銃を構え、出会った頃とは違い、眼光鋭く――闇を睨みつけていた。
「……ようやく見つけたよ、血濡れの伯爵夫人。君の命は僕、獅子堂正義が貰い受けるよ」
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説

婚約破棄?一体何のお話ですか?
リヴァルナ
ファンタジー
なんだかざまぁ(?)系が書きたかったので書いてみました。
エルバルド学園卒業記念パーティー。
それも終わりに近付いた頃、ある事件が起こる…
※エブリスタさんでも投稿しています

王女殿下の死神
三笠 陣
ファンタジー
アウルガシア大陸の大国、ロンダリア連合王国。
産業革命を成し遂げ、海洋発展の道を進もうとするこの王国には、一人の王女がいた。
エルフリード・ティリエル・ラ・ベイリオル、御年十六歳の少女は陸軍騎兵中尉として陸軍大学校に籍を置く「可憐」とはほど遠い、少年のような王族。
そんな彼女の隣には、いつも一人の少年の影があった。
リュシアン・エスタークス。
魔導貴族エスタークス伯爵家を継いだ魔術師にして、エルフリード王女と同い年の婚約者。
そんな彼に付けられた二つ名は「黒の死神」。
そんな王女の側に控える死神はある日、王都を揺るがす陰謀に遭遇する。
友好国の宰相が来訪している最中を狙って、王政打倒を唱える共和主義者たちが動き出したのである。
そして、その背後には海洋覇権を巡って対立するヴェナリア共和国の影があった。
魔術師と諜報官と反逆者が渦巻く王都で、リュシアンとエルフリードは駆ける。
(本作は、「小説家になろう」様にて掲載した同名の小説を加筆修正したものとなります。)
能力値カンストで異世界転生したので…のんびり生きちゃダメですか?
火産霊神
ファンタジー
私の異世界転生、思ってたのとちょっと違う…?
24歳OLの立花由芽は、ある日異世界転生し「ユメ」という名前の16歳の魔女として生きることに。その世界は魔王の脅威に怯え…ているわけでもなく、レベルアップは…能力値がカンストしているのでする必要もなく、能力を持て余した彼女はスローライフをおくることに。そう決めた矢先から何やらイベントが発生し…!?

女神様、もっと早く祝福が欲しかった。
しゃーりん
ファンタジー
アルーサル王国には、女神様からの祝福を授かる者がいる。…ごくたまに。
今回、授かったのは6歳の王女であり、血縁の判定ができる魔力だった。
女神様は国に役立つ魔力を授けてくれる。ということは、血縁が乱れてるってことか?
一人の倫理観が異常な男によって、国中の貴族が混乱するお話です。ご注意下さい。
おにぎり屋さんの裏稼業 〜お祓い請け賜わります〜
瀬崎由美
キャラ文芸
高校2年生の八神美琴は、幼い頃に両親を亡くしてからは祖母の真知子と、親戚のツバキと一緒に暮らしている。
大学通りにある屋敷の片隅で営んでいるオニギリ屋さん『おにひめ』は、気まぐれの営業ながらも学生達に人気のお店だ。でも、真知子の本業は人ならざるものを対処するお祓い屋。霊やあやかしにまつわる相談に訪れて来る人が後を絶たない。
そんなある日、祓いの仕事から戻って来た真知子が家の中で倒れてしまう。加齢による力の限界を感じた祖母から、美琴は祓いの力の継承を受ける。と、美琴はこれまで視えなかったモノが視えるようになり……。
第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。

転生令嬢の食いしん坊万罪!
ねこたま本店
ファンタジー
訳も分からないまま命を落とし、訳の分からない神様の手によって、別の世界の公爵令嬢・プリムローズとして転生した、美味しい物好きな元ヤンアラサー女は、自分に無関心なバカ父が後妻に迎えた、典型的なシンデレラ系継母と、我が儘で性格の悪い妹にイビられたり、事故物件王太子の中継ぎ婚約者にされたりつつも、しぶとく図太く生きていた。
そんなある日、プリムローズは王侯貴族の子女が6~10歳の間に受ける『スキル鑑定の儀』の際、邪悪とされる大罪系スキルの所有者であると判定されてしまう。
プリムローズはその日のうちに、同じ判定を受けた唯一の友人、美少女と見まごうばかりの気弱な第二王子・リトス共々捕えられた挙句、国境近くの山中に捨てられてしまうのだった。
しかし、中身が元ヤンアラサー女の図太い少女は諦めない。
プリムローズは時に気弱な友の手を引き、時に引いたその手を勢い余ってブン回しながらも、邪悪と断じられたスキルを駆使して生き残りを図っていく。
これは、図太くて口の悪い、ちょっと(?)食いしん坊な転生令嬢が、自分なりの幸せを自分の力で掴み取るまでの物語。
こちらの作品は、2023年12月28日から、カクヨム様でも掲載を開始しました。
今後、カクヨム様掲載用にほんのちょっとだけ内容を手直しし、1話ごとの文章量を増やす事でトータルの話数を減らした改訂版を、1日に2回のペースで投稿していく予定です。多量の加筆修正はしておりませんが、もしよろしければ、カクヨム版の方もご笑覧下さい。
※作者が適当にでっち上げた、完全ご都合主義的世界です。細かいツッコミはご遠慮頂ければ幸いです。もし、目に余るような誤字脱字を発見された際には、コメント欄などで優しく教えてやって下さい。
※検討の結果、「ざまぁ要素あり」タグを追加しました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
少年神官系勇者―異世界から帰還する―
mono-zo
ファンタジー
幼くして異世界に消えた主人公、帰ってきたがそこは日本、家なし・金なし・免許なし・職歴なし・常識なし・そもそも未成年、無い無い尽くしでどう生きる?
別サイトにて無名から投稿開始して100日以内に100万PV達成感謝✨
この作品は「カクヨム」にも掲載しています。(先行)
この作品は「小説家になろう」にも掲載しています。
この作品は「ノベルアップ+」にも掲載しています。
この作品は「エブリスタ」にも掲載しています。
この作品は「pixiv」にも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる