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始まり
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あの時の心境をひと言で言い表すならば、そう『自棄になっていた』に尽きる。
何しろ私は2年付き合った彼氏にフラれて間もなかったし、最近なかなか結果を残せない仕事にも行き詰まりを感じていたし、いつもの部長のセクハラには心底うんざりしていた。
だから────。
「…大丈夫?」
意外なほど優しい声が外から聞こえ、私は慌てて「大丈夫!」と返した。
思いのほか大きくなってしまった自分の声が浴室の中に響いている。
本当は、大丈夫かどうかは解らない。
いや、実際はそんなに大丈夫じゃないことには自分でも薄々気づいている。
何で私はいくら自棄になっていたからといって、いつもは割りと犬猿の仲の同期とラブホなんぞに来ているのだ?
そして日頃はまったくプライベートの垣間見えない鉄壁のあの男は、何で私なんかを誘ったのだ?
我に返ると毎日顔を合わせる同じ部署のライバル同期とひなびたラブホで愛のないセックスに及ぶなんて、失恋女の愚行を絵に描いて額に入れたぐらいのショボさではないか。
そんなの、今なら簡単に解ることなのに。
──じゃあ、試してみるか?
あの時、同期の江川純太はそう言った。
詳しい流れはあまり記憶にないが、何しろ3時間にも及ぶ会議で何の進展も得られなかったことにイラついていた私の背中を追いかけてきた彼が、何かいつものノリでひと言ふた言文句を言ってきた。
私は「あんたってほんとに人の気持ちが解らない男ね」とか何とか返した。
今にして思えば自分のプライベートがごたついていたことで、いつもより少しばかり尖っていたことは認めざるを得ないが。
──あんたみたいなやつ、どうせベッドでも自分勝手なんでしょうね──
あれはまずかった。本当にダメだった。
立派なセクハラ発言でした。すみません。
ハッとして、さすがに訂正して謝ろうと、私は振り返って江川の顔を見た。
彼は動きを止めて頭ひとつ分くらい上から私を見下ろしていたが、その顔は特に怒っている様子でもなく無表情で。
──ごめん。
そう言いかけた瞬間に江川の口から出た言葉がさっきの「試してみるか?」だったと言うわけ。
咄嗟に「は?面白いじゃん」なんてバカな意地を張ってしまったのは、やっぱりどう考えても自棄になっていたからとしか言いようがない。
仕事が終わり、何とかそのまま帰れないものかと思案を巡らせていた私の前に現れた江川は、どことなく神妙にも見える面持ちで「行こーぜ」と言った。
己の失言を認めるのが悔しかったというのもあるかも知れない。それに、まったく動じる様子もない彼の挙動がちょっとばかり気に食わなかったというのもある。
とにかく、勢いで乗り込んだ江川の車は、何の迷いもなく少し郊外にあるこのラブホに滑り込んだ。
その間、私たちはほとんど会話も交わさなかった。
結局、いざ部屋に入った途端に私は「これは絶対あかん」という気持ちに支配され、為す術もなく素っ裸で浴室のシャワーの下に座り込んでいる。
今ならまだ、間に合うだろうか。
さっきはごめん。何だかわからないけど、私、意地になっちゃってた。
失恋したばっかで、あんたに八つ当たりしちゃってたのかも知れない。ごめんね。
そう、きちんと伝えれば──
「藤咲?」
呼ぶ声が聞こえ、私はびくりと身を固くする。
江川とは、もう6年目の同期だ。
ずっと商品開発部の同期でしのぎを削りあってきた。社や部の飲み会では何度も同席したことはあるけれど、プライベートでは2人で食事に行ったことさえない。
その初めてがまさか、ラブホになるなんて。
「な、なに!?」
慌てて返事をすると「一緒に入りてーんだけど」と、とんでもない提案が飛んできた。
「はあ!?」と、良いとも悪いとも返事をする前に、がちゃりと扉が開く。
「ちょ…!! あぁあああんたバカじゃないの!?」
大慌てに慌てた私は、結局浴室を飛び出すことも叶わず、そのまま湯船に飛び込む羽目になったのだった。
「……処女じゃあるめーし」
落ち着いた、ぶっきらぼうな江川の低い声が蒸気で湿った空気を静かに震わせる。
確かに、ここまでのこのことついてきて、自ら服を脱いでシャワーを浴びておいて、たかが裸を見せてしまったくらいでキャーもないだろう。私はもうそんなに若くないのだ。
自意識過剰が逆に恥ずかしくなり、鼻の下までをお湯に埋めながら、私はそーっとシャワーを使い始めた江川の背中を見た。
身長は多分前の彼よりも少し高い180センチ前後。殆ど無駄のないほどよい筋肉に覆われた背中は、想像よりもずっとまっすぐに力強く、しなやかに見えた。
少し重そうなほどに長い手足。それらに比べると、ややがっしりして見える肩から首にかけての稜線。
あぁ、そうだ。
こいつ、黙ってさえいればそこそこのイケメンだったのだ。
「ビビったんか」
半笑いでからかうように、そんな言葉が鼓膜を揺らす。
いつも江川はこんな風に、何かにつけては私を挑発するような物言いをした。
私たちは入社した時から同じ部署の別のチームで商品開発に携わってきて、とにかく競うようにして走り続けてきたのだ。
気がつけば、周囲も私たちを競わせた方が社にとって良い結果に繋がると思っているようで、比較される局面も年々増えていった。
お互いに、今年で30歳。
思えばこいつがいたおかげで、生活は殆ど仕事中心になっていた。
どんどん疎かになってしまったプライベートが上手く行かないのも、裏を返せばあんたのせいと言えなくもないんじゃないのー!?
「…あんたこそビビってんじゃないの」
また一気に逆恨みの八つ当たりに傾いた思考の末、私の唇はまた、そんな余計なひと言を紡いでしまっていた。
ゆっくりと振り向いた江川はシャワーでシャンプーを洗い流しつつ、その切れ長の目で私を見つめてくる。
「…藤咲ってさ」
「…何よ」
「可愛くないよね」
「…別にあんたになんか、可愛いところ見せる必要なんてないし」
「まぁ、そりゃそーだ」
「否定しないのかい」
「別に。可愛いとこなんてこれから自分で見りゃいいだけだし」
「…は?」
何しろ私は2年付き合った彼氏にフラれて間もなかったし、最近なかなか結果を残せない仕事にも行き詰まりを感じていたし、いつもの部長のセクハラには心底うんざりしていた。
だから────。
「…大丈夫?」
意外なほど優しい声が外から聞こえ、私は慌てて「大丈夫!」と返した。
思いのほか大きくなってしまった自分の声が浴室の中に響いている。
本当は、大丈夫かどうかは解らない。
いや、実際はそんなに大丈夫じゃないことには自分でも薄々気づいている。
何で私はいくら自棄になっていたからといって、いつもは割りと犬猿の仲の同期とラブホなんぞに来ているのだ?
そして日頃はまったくプライベートの垣間見えない鉄壁のあの男は、何で私なんかを誘ったのだ?
我に返ると毎日顔を合わせる同じ部署のライバル同期とひなびたラブホで愛のないセックスに及ぶなんて、失恋女の愚行を絵に描いて額に入れたぐらいのショボさではないか。
そんなの、今なら簡単に解ることなのに。
──じゃあ、試してみるか?
あの時、同期の江川純太はそう言った。
詳しい流れはあまり記憶にないが、何しろ3時間にも及ぶ会議で何の進展も得られなかったことにイラついていた私の背中を追いかけてきた彼が、何かいつものノリでひと言ふた言文句を言ってきた。
私は「あんたってほんとに人の気持ちが解らない男ね」とか何とか返した。
今にして思えば自分のプライベートがごたついていたことで、いつもより少しばかり尖っていたことは認めざるを得ないが。
──あんたみたいなやつ、どうせベッドでも自分勝手なんでしょうね──
あれはまずかった。本当にダメだった。
立派なセクハラ発言でした。すみません。
ハッとして、さすがに訂正して謝ろうと、私は振り返って江川の顔を見た。
彼は動きを止めて頭ひとつ分くらい上から私を見下ろしていたが、その顔は特に怒っている様子でもなく無表情で。
──ごめん。
そう言いかけた瞬間に江川の口から出た言葉がさっきの「試してみるか?」だったと言うわけ。
咄嗟に「は?面白いじゃん」なんてバカな意地を張ってしまったのは、やっぱりどう考えても自棄になっていたからとしか言いようがない。
仕事が終わり、何とかそのまま帰れないものかと思案を巡らせていた私の前に現れた江川は、どことなく神妙にも見える面持ちで「行こーぜ」と言った。
己の失言を認めるのが悔しかったというのもあるかも知れない。それに、まったく動じる様子もない彼の挙動がちょっとばかり気に食わなかったというのもある。
とにかく、勢いで乗り込んだ江川の車は、何の迷いもなく少し郊外にあるこのラブホに滑り込んだ。
その間、私たちはほとんど会話も交わさなかった。
結局、いざ部屋に入った途端に私は「これは絶対あかん」という気持ちに支配され、為す術もなく素っ裸で浴室のシャワーの下に座り込んでいる。
今ならまだ、間に合うだろうか。
さっきはごめん。何だかわからないけど、私、意地になっちゃってた。
失恋したばっかで、あんたに八つ当たりしちゃってたのかも知れない。ごめんね。
そう、きちんと伝えれば──
「藤咲?」
呼ぶ声が聞こえ、私はびくりと身を固くする。
江川とは、もう6年目の同期だ。
ずっと商品開発部の同期でしのぎを削りあってきた。社や部の飲み会では何度も同席したことはあるけれど、プライベートでは2人で食事に行ったことさえない。
その初めてがまさか、ラブホになるなんて。
「な、なに!?」
慌てて返事をすると「一緒に入りてーんだけど」と、とんでもない提案が飛んできた。
「はあ!?」と、良いとも悪いとも返事をする前に、がちゃりと扉が開く。
「ちょ…!! あぁあああんたバカじゃないの!?」
大慌てに慌てた私は、結局浴室を飛び出すことも叶わず、そのまま湯船に飛び込む羽目になったのだった。
「……処女じゃあるめーし」
落ち着いた、ぶっきらぼうな江川の低い声が蒸気で湿った空気を静かに震わせる。
確かに、ここまでのこのことついてきて、自ら服を脱いでシャワーを浴びておいて、たかが裸を見せてしまったくらいでキャーもないだろう。私はもうそんなに若くないのだ。
自意識過剰が逆に恥ずかしくなり、鼻の下までをお湯に埋めながら、私はそーっとシャワーを使い始めた江川の背中を見た。
身長は多分前の彼よりも少し高い180センチ前後。殆ど無駄のないほどよい筋肉に覆われた背中は、想像よりもずっとまっすぐに力強く、しなやかに見えた。
少し重そうなほどに長い手足。それらに比べると、ややがっしりして見える肩から首にかけての稜線。
あぁ、そうだ。
こいつ、黙ってさえいればそこそこのイケメンだったのだ。
「ビビったんか」
半笑いでからかうように、そんな言葉が鼓膜を揺らす。
いつも江川はこんな風に、何かにつけては私を挑発するような物言いをした。
私たちは入社した時から同じ部署の別のチームで商品開発に携わってきて、とにかく競うようにして走り続けてきたのだ。
気がつけば、周囲も私たちを競わせた方が社にとって良い結果に繋がると思っているようで、比較される局面も年々増えていった。
お互いに、今年で30歳。
思えばこいつがいたおかげで、生活は殆ど仕事中心になっていた。
どんどん疎かになってしまったプライベートが上手く行かないのも、裏を返せばあんたのせいと言えなくもないんじゃないのー!?
「…あんたこそビビってんじゃないの」
また一気に逆恨みの八つ当たりに傾いた思考の末、私の唇はまた、そんな余計なひと言を紡いでしまっていた。
ゆっくりと振り向いた江川はシャワーでシャンプーを洗い流しつつ、その切れ長の目で私を見つめてくる。
「…藤咲ってさ」
「…何よ」
「可愛くないよね」
「…別にあんたになんか、可愛いところ見せる必要なんてないし」
「まぁ、そりゃそーだ」
「否定しないのかい」
「別に。可愛いとこなんてこれから自分で見りゃいいだけだし」
「…は?」
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