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第一章
着信②
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***
二人並んで店の外に出ると、サークルのメンバーの姿はすでにどこにも見当たらなかった。終電が近いとはいえ、柚木さん一人に会計を任せて酷いもんだ。
「みんな帰っちゃったんですかね。柚木さんは電車ですか?」
「うん、ひと駅だけどね。佐伯君は?」
「俺は徒歩です。家、ここから近いんで」
駅まで徒歩十分、というのが俺が部屋を借りてるアパートの長所のひとつだった。
鉄筋コンクリート製の防音壁で生活音が隣に聞こえにくい、わりと良い部屋ではあるものの、そのぶん家賃も高く、利点が利点に思えなかったりする部屋だ。
「俺はいいとして、終電の時間大丈夫なんですか?」
「うん、もう行っちゃったし」
それとなく尋ねると、柚木さんはあっけらかんとしてそう答えた。
「行っちゃった……って、どうするんですか?」
「歩いて帰れるよ。ひと駅だって言ったじゃない」
慌てる俺に、柚木さんがにっこりと笑ってみせる。
ひと駅と言ったって、歩いたら三十分はかかる距離だ。こんな深夜に若い女性が一人で歩いて帰るなんて、いくらなんでも無用心すぎる。
「あのですね、柚木さんはもう少し危機感というものを持ったほうがいいと思いますよ」
呆れたように俺が言うと、柚木さんは妙に嬉しそうに小首を傾げてみせた。
「こんな夜中に女の一人歩きは危険?」
俺が無言でうなずくと、柚木さんはゆっくりと俺に歩み寄り、
「じゃあさ、キミが家まで送ってよ」
はにかむように微笑んで、上目遣いでそう言った。
呆れてものも言えないというかなんと言うか。俺は思わずため息を漏らしてしまっていた。
あまり気は進まないものの、確かに一人で帰らせるよりはマシだろう。この際、柚木さん本人にノブアキとのことを聞いてしまおうかなどと思いながら、俺は渋々うなずいた。
街灯の明かりが点々と灯る線路沿いの細い道を、柚木さんとふたり並んで歩いた。隣を歩く柚木さんは、鼻歌まじりで足取りが軽い。酒が入っているせいか、俺もわりと良い気分だった。
しばらく当たり障りの無い会話を続けたあと、ノブアキのことを柚木さんに尋ねた。
「そういえば、柚木さんはあれからノブアキと連絡取ったりしてないんですか?」
直球すぎるとは思ったものの、どうせうまい言い回しなど思いつかないからと開きなおった。彼女も酔ってるみたいだし、多少のことは気にもしないはずだと思っていた。
「取ってないよ。どうして?」
それまで上機嫌だった柚木さんの顔色が急に変わった。明らかに不機嫌というか、口調から刺々しさを感じてしまう。
「どうしてって……ノブアキに何か言われませんでしたか?」
——もしかしてノブアキは告白できなかったのだろうか。やはり直接ノブアキに聞くべきだった。
そわそわと落ち着かない俺をの目を真っ直ぐに見据えて、柚木さんは責めるような、それでいて悲しそうな声で答えた。
「告白されたけど断ったよ。ノブアキ君に聞いてないの?」
「あ、振っちゃったんですか」
なるほど、ノブアキが報告できなかった気持ちもわかる。
柚木さんだって不機嫌にもなるわけだ。海に誘われたと思ったら好きでもない男と二人きりにされた挙句、突然告白されたのだから、今更蒸し返すなと言いたくもなるだろう。
「なんか、すみませんでした」
俺は頭を下げて謝った。だが、柚木さんは何か言いたいことでもありそうな複雑な顔で俺を見上げるだけだった。
「と、とりあえず、帰りましょうか」
「待っ……」
俺がふたたび足を踏み出したときだった。柚木さんの言葉を遮るように、俺の携帯の着信が鳴った。
着信音を聴いただけで、相手が誰かはすぐにわかった。彼女だ。
「すみません、ちょっと」
俺は慌ててポケットから携帯を取り出した。柚木さんに背を向けて、通話ボタンを押して耳を澄ませる。
「佐伯さん……?」
数日ぶりに聞いた彼女の声に、なぜだか胸を締め付けられた。
独特のこの感覚。まだ俺は、彼女を諦めきれていないらしい。
「うん、俺だよ。どうかした?」
冷静に心を落ち着かせて、そう口にした。
声は震えていなかっただろうか。いつもと変わらない調子を装えただろうか。
俺の気持ちを知ってか知らずか、いつもと変わらず彼女は落ち着いていた。
「もしかして今、外ですか?」
「うん、大学のサークルメンバーで集まって駅前で遊んできたところ」
俺が答えると、わずかばかり間をおいて彼女が言った。
「今、誰かと一緒ですか?」
尋ねられて、俺は思わず柚木さんのほうを振り返った。柚木さんは俺から少し離れた場所で、不安げな顔で俺の様子をうかがっているようだった。
「大学の先輩と一緒だけど」
——他の人に聞かれたくないような話なのだろうか。
「いえ、聞かれて困るお話ではないです。待たせてしまったら悪いなって思って」
俺の心を読んだかのように彼女が答えた。
柚木さんには悪いけど、電話越しとはいえ彼女と会話ができたことを、俺は嬉しく思っていた。
悔しいけど、俺はきっと、まだ彼女に恋をしているのだろう。
「すぐ終わる話なら気にしなくていいよ。もし気になるなら、帰ってからかけ直そうか?」
「いえ、すぐ終わりますからそのまま聞いてください」
彼女はそうい言うと、ほんの少し黙って、それから躊躇いがちに俺に告げた。
「先日お話した件です。さきほど、縁談のお相手とお食事をしてきました。とても誠実で優しい方で」
無意識に、ごくりと生唾を飲み込んでいた。胸の内側でばくばくと心臓が暴れて、耳を塞ぎたくてたまらなくなる。
真っ白になった頭のなかに、彼女の声が静かに響いた。
「……わたし、婚約しました」
何を言われたのか、理解は出来ているはずなのに。
何か言わなければいけないのに、言葉が何も出てこない。
どうすればいいのだろう。「おめでとう」とでも言うべきなのか?
「そ、れは……」
緊張でからからに渇いた喉で、掠れた声を搾り出した、そのときだった。
プツッと音がして、突然通話が切れた。いつのまにか隣に立っていた柚木さんの指先が、携帯の切ボタンを押していた。
「あ……」
動揺を隠すこともできず、俺はただ、携帯と柚木さんの顔を見比べた。
「帰ろう」
柚木さんは俺の手をとって、足速に夜の道を歩き出した。
俺はきっと、心底情けない顔をしていたに違いない。覚悟はできたと思っていたのに、まったくできていなかった。俺はまだ、彼女が縁談を断って俺の元に戻ってくることを、心のどこかで期待していたんだ。
涙が溢れ、嗚咽が漏れた。
本当に情けない。女性に手を引かれて泣きながら歩く男なんて、情けなすぎて自分でも笑ってしまう。
「すみません……」
うつむいたまま謝った俺に、柚木さんは黙って首を振った——気がした。
二人並んで店の外に出ると、サークルのメンバーの姿はすでにどこにも見当たらなかった。終電が近いとはいえ、柚木さん一人に会計を任せて酷いもんだ。
「みんな帰っちゃったんですかね。柚木さんは電車ですか?」
「うん、ひと駅だけどね。佐伯君は?」
「俺は徒歩です。家、ここから近いんで」
駅まで徒歩十分、というのが俺が部屋を借りてるアパートの長所のひとつだった。
鉄筋コンクリート製の防音壁で生活音が隣に聞こえにくい、わりと良い部屋ではあるものの、そのぶん家賃も高く、利点が利点に思えなかったりする部屋だ。
「俺はいいとして、終電の時間大丈夫なんですか?」
「うん、もう行っちゃったし」
それとなく尋ねると、柚木さんはあっけらかんとしてそう答えた。
「行っちゃった……って、どうするんですか?」
「歩いて帰れるよ。ひと駅だって言ったじゃない」
慌てる俺に、柚木さんがにっこりと笑ってみせる。
ひと駅と言ったって、歩いたら三十分はかかる距離だ。こんな深夜に若い女性が一人で歩いて帰るなんて、いくらなんでも無用心すぎる。
「あのですね、柚木さんはもう少し危機感というものを持ったほうがいいと思いますよ」
呆れたように俺が言うと、柚木さんは妙に嬉しそうに小首を傾げてみせた。
「こんな夜中に女の一人歩きは危険?」
俺が無言でうなずくと、柚木さんはゆっくりと俺に歩み寄り、
「じゃあさ、キミが家まで送ってよ」
はにかむように微笑んで、上目遣いでそう言った。
呆れてものも言えないというかなんと言うか。俺は思わずため息を漏らしてしまっていた。
あまり気は進まないものの、確かに一人で帰らせるよりはマシだろう。この際、柚木さん本人にノブアキとのことを聞いてしまおうかなどと思いながら、俺は渋々うなずいた。
街灯の明かりが点々と灯る線路沿いの細い道を、柚木さんとふたり並んで歩いた。隣を歩く柚木さんは、鼻歌まじりで足取りが軽い。酒が入っているせいか、俺もわりと良い気分だった。
しばらく当たり障りの無い会話を続けたあと、ノブアキのことを柚木さんに尋ねた。
「そういえば、柚木さんはあれからノブアキと連絡取ったりしてないんですか?」
直球すぎるとは思ったものの、どうせうまい言い回しなど思いつかないからと開きなおった。彼女も酔ってるみたいだし、多少のことは気にもしないはずだと思っていた。
「取ってないよ。どうして?」
それまで上機嫌だった柚木さんの顔色が急に変わった。明らかに不機嫌というか、口調から刺々しさを感じてしまう。
「どうしてって……ノブアキに何か言われませんでしたか?」
——もしかしてノブアキは告白できなかったのだろうか。やはり直接ノブアキに聞くべきだった。
そわそわと落ち着かない俺をの目を真っ直ぐに見据えて、柚木さんは責めるような、それでいて悲しそうな声で答えた。
「告白されたけど断ったよ。ノブアキ君に聞いてないの?」
「あ、振っちゃったんですか」
なるほど、ノブアキが報告できなかった気持ちもわかる。
柚木さんだって不機嫌にもなるわけだ。海に誘われたと思ったら好きでもない男と二人きりにされた挙句、突然告白されたのだから、今更蒸し返すなと言いたくもなるだろう。
「なんか、すみませんでした」
俺は頭を下げて謝った。だが、柚木さんは何か言いたいことでもありそうな複雑な顔で俺を見上げるだけだった。
「と、とりあえず、帰りましょうか」
「待っ……」
俺がふたたび足を踏み出したときだった。柚木さんの言葉を遮るように、俺の携帯の着信が鳴った。
着信音を聴いただけで、相手が誰かはすぐにわかった。彼女だ。
「すみません、ちょっと」
俺は慌ててポケットから携帯を取り出した。柚木さんに背を向けて、通話ボタンを押して耳を澄ませる。
「佐伯さん……?」
数日ぶりに聞いた彼女の声に、なぜだか胸を締め付けられた。
独特のこの感覚。まだ俺は、彼女を諦めきれていないらしい。
「うん、俺だよ。どうかした?」
冷静に心を落ち着かせて、そう口にした。
声は震えていなかっただろうか。いつもと変わらない調子を装えただろうか。
俺の気持ちを知ってか知らずか、いつもと変わらず彼女は落ち着いていた。
「もしかして今、外ですか?」
「うん、大学のサークルメンバーで集まって駅前で遊んできたところ」
俺が答えると、わずかばかり間をおいて彼女が言った。
「今、誰かと一緒ですか?」
尋ねられて、俺は思わず柚木さんのほうを振り返った。柚木さんは俺から少し離れた場所で、不安げな顔で俺の様子をうかがっているようだった。
「大学の先輩と一緒だけど」
——他の人に聞かれたくないような話なのだろうか。
「いえ、聞かれて困るお話ではないです。待たせてしまったら悪いなって思って」
俺の心を読んだかのように彼女が答えた。
柚木さんには悪いけど、電話越しとはいえ彼女と会話ができたことを、俺は嬉しく思っていた。
悔しいけど、俺はきっと、まだ彼女に恋をしているのだろう。
「すぐ終わる話なら気にしなくていいよ。もし気になるなら、帰ってからかけ直そうか?」
「いえ、すぐ終わりますからそのまま聞いてください」
彼女はそうい言うと、ほんの少し黙って、それから躊躇いがちに俺に告げた。
「先日お話した件です。さきほど、縁談のお相手とお食事をしてきました。とても誠実で優しい方で」
無意識に、ごくりと生唾を飲み込んでいた。胸の内側でばくばくと心臓が暴れて、耳を塞ぎたくてたまらなくなる。
真っ白になった頭のなかに、彼女の声が静かに響いた。
「……わたし、婚約しました」
何を言われたのか、理解は出来ているはずなのに。
何か言わなければいけないのに、言葉が何も出てこない。
どうすればいいのだろう。「おめでとう」とでも言うべきなのか?
「そ、れは……」
緊張でからからに渇いた喉で、掠れた声を搾り出した、そのときだった。
プツッと音がして、突然通話が切れた。いつのまにか隣に立っていた柚木さんの指先が、携帯の切ボタンを押していた。
「あ……」
動揺を隠すこともできず、俺はただ、携帯と柚木さんの顔を見比べた。
「帰ろう」
柚木さんは俺の手をとって、足速に夜の道を歩き出した。
俺はきっと、心底情けない顔をしていたに違いない。覚悟はできたと思っていたのに、まったくできていなかった。俺はまだ、彼女が縁談を断って俺の元に戻ってくることを、心のどこかで期待していたんだ。
涙が溢れ、嗚咽が漏れた。
本当に情けない。女性に手を引かれて泣きながら歩く男なんて、情けなすぎて自分でも笑ってしまう。
「すみません……」
うつむいたまま謝った俺に、柚木さんは黙って首を振った——気がした。
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