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第二章
合鍵④
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***
シュンシュンと音をたてるポットを確認し、コンロの火を消す。沸かしたお湯でインスタントコーヒーを淹れて彼女に手渡すと、白い湯気にふぅふぅと息を吹きかけて、彼女は幸せそうにコーヒーを啜った。まだ温まっていないホットカーペットのうえで、彼女はちょこんと正座していた。その隣には、旅行用のボストンバッグが置かれている。
自分のぶんのコーヒーを片手にミニテーブルを回り込み、俺は彼女と向かい合った。
互いに話を切りだすタイミングが掴めないまま、静まり返った部屋にコーヒーを啜る音だけが聞こえていた。
先に口を開いたのは俺のほうだった。
「それで、なにがあったの?」
痺れを切らして尋ねると、彼女は少しふてくされたような表情でぽつりぽつりと呟いた。
「……母に、佐伯さんのことを話そうとしたんです」
何となく嫌な予感はしていたけど、彼女の様子から察するに、どうやら予感は的中のようだ。
俺は黙って話の続きを待った。
「ダメだって。わたしの話なんて、聞いてもくれませんでした」
彼女はそう言うと、しゅんと肩を落としてうつむいた。
彼女の母親はとある会社の社長の一人娘で、親に縁談を勧められて彼女の父親とお見合い結婚した。彼女の父親は相当なやり手だった。会社は瞬く間に業績をあげ、業界ではその名を知らないものはいないほどの大企業になった。
彼女の母親は、夫と結婚できたことを幸運に思った。両親に勧められた縁談を黙って聞き入れ、結婚を選択した自分は正しかったのだと、そう考えた。
それ故に、最愛の一人娘には自身が選び抜いた最高の結婚相手を用意した。娘の意思など考えもせずに。
「わたし、頭にきてしまって、家を飛び出したんです。でも、行く充てがなくて……」
「……ここに来たわけか」
後ろ手をつき、大きく息を吐く。彼女は申し訳なさそうに肩を竦め、上目遣いで俺をみつめていた。
彼女が俺の部屋に来た——それ自体は構わない。困ったときに充てにして貰えたのだから、むしろ嬉しいくらいだ。問題は別のところにあった。
「俺は親子喧嘩というものをしたことがないからわからないけど、こんなことをしても余計な反感を買うだけなんじゃないかな」
彼女の手荷物を見る限り、十中八九、衝動的に家を出てきたのだろう。だが、そんなことをしたら、余計に心象が悪くなるんじゃないだろうか。今まで従順でおとなしかった彼女が急に親の言うことに反抗し、家出なんかしたのだから、今の彼女の身近にいる人間から——つまり、俺から悪影響を受けたのだと考えられてもおかしくない。
彼女を悪く言うつもりはなかった。けど、彼女は俺の話を聞いて、しょんぼりと肩を落とした。もしかしたら、全面的に味方して貰えると思っていたのかもしれない。彼女は怯える小動物のように身を縮こまらせた。
ミニテーブルの上に身を乗り出して、彼女の頭をそっと撫でると、彼女が顔をあげて俺を見た。今にも泣き出しそうな、そんな表情だ。
俺はできる限り優しい声で、なだめるように彼女に言った。
「時間はかかるかもしれないけど、俺も認めてもらえるように努力するから。だから、一人で抱え込まないで、俺にも協力させてよ。きみだけの問題じゃないんだからさ」
俺が笑ってみせると、眉をハの字にして顔をくしゃくしゃにして、釣られたように彼女も笑った。
「それと、この先今日みたいなことがあると困るから……」
彼女が元気を取り戻したのを見計らって、俺はもうひとつ大事な話を切りだした。というか、俺にとってはむしろ、こっちの話のほうが重要だったりする。
席を立ってキッチンに向かい、食器棚の奥から小さな鍵を取り出すと、俺は部屋に戻り、さっきの鍵を彼女の手に握らせた。入居当初から触ることもなく忘れ去られていた、この部屋の合鍵だ。
「今日みたいに連絡がつかなかったときに、遅くまで外で待たれると困るっていうか……何かあってからじゃ遅いからさ」
玄関前に座り込んでいた彼女を見て、真っ先に考えたのはそのことだった。
今日はたまたま何も起きずに済んだけど、このアパートは遮音性だけがウリなわけで。もしも他の住人が彼女をみつけて部屋に連れ込んだりしたら、彼女はそこで何をされても助けを呼ぶことすら叶わない。まさに、俺にとっては最悪の事態だ。
「電話で連絡がつかなかったらメールだけ送って、あとは勝手に上がってくれて構わないから。俺が戻るまで鍵かけて待っててよ」
そう頼むと、俺は鍵ごと彼女の手を握った。
彼女はきょとんとして俺の顔をみつめていた。それから手のひらの小さな鍵と俺の顔を何度か見比べて。
「……謀らずしも、佐伯さんの部屋の鍵をゲットです」
それはそれは嬉しそうに、顔を綻ばせてそう言った。
シュンシュンと音をたてるポットを確認し、コンロの火を消す。沸かしたお湯でインスタントコーヒーを淹れて彼女に手渡すと、白い湯気にふぅふぅと息を吹きかけて、彼女は幸せそうにコーヒーを啜った。まだ温まっていないホットカーペットのうえで、彼女はちょこんと正座していた。その隣には、旅行用のボストンバッグが置かれている。
自分のぶんのコーヒーを片手にミニテーブルを回り込み、俺は彼女と向かい合った。
互いに話を切りだすタイミングが掴めないまま、静まり返った部屋にコーヒーを啜る音だけが聞こえていた。
先に口を開いたのは俺のほうだった。
「それで、なにがあったの?」
痺れを切らして尋ねると、彼女は少しふてくされたような表情でぽつりぽつりと呟いた。
「……母に、佐伯さんのことを話そうとしたんです」
何となく嫌な予感はしていたけど、彼女の様子から察するに、どうやら予感は的中のようだ。
俺は黙って話の続きを待った。
「ダメだって。わたしの話なんて、聞いてもくれませんでした」
彼女はそう言うと、しゅんと肩を落としてうつむいた。
彼女の母親はとある会社の社長の一人娘で、親に縁談を勧められて彼女の父親とお見合い結婚した。彼女の父親は相当なやり手だった。会社は瞬く間に業績をあげ、業界ではその名を知らないものはいないほどの大企業になった。
彼女の母親は、夫と結婚できたことを幸運に思った。両親に勧められた縁談を黙って聞き入れ、結婚を選択した自分は正しかったのだと、そう考えた。
それ故に、最愛の一人娘には自身が選び抜いた最高の結婚相手を用意した。娘の意思など考えもせずに。
「わたし、頭にきてしまって、家を飛び出したんです。でも、行く充てがなくて……」
「……ここに来たわけか」
後ろ手をつき、大きく息を吐く。彼女は申し訳なさそうに肩を竦め、上目遣いで俺をみつめていた。
彼女が俺の部屋に来た——それ自体は構わない。困ったときに充てにして貰えたのだから、むしろ嬉しいくらいだ。問題は別のところにあった。
「俺は親子喧嘩というものをしたことがないからわからないけど、こんなことをしても余計な反感を買うだけなんじゃないかな」
彼女の手荷物を見る限り、十中八九、衝動的に家を出てきたのだろう。だが、そんなことをしたら、余計に心象が悪くなるんじゃないだろうか。今まで従順でおとなしかった彼女が急に親の言うことに反抗し、家出なんかしたのだから、今の彼女の身近にいる人間から——つまり、俺から悪影響を受けたのだと考えられてもおかしくない。
彼女を悪く言うつもりはなかった。けど、彼女は俺の話を聞いて、しょんぼりと肩を落とした。もしかしたら、全面的に味方して貰えると思っていたのかもしれない。彼女は怯える小動物のように身を縮こまらせた。
ミニテーブルの上に身を乗り出して、彼女の頭をそっと撫でると、彼女が顔をあげて俺を見た。今にも泣き出しそうな、そんな表情だ。
俺はできる限り優しい声で、なだめるように彼女に言った。
「時間はかかるかもしれないけど、俺も認めてもらえるように努力するから。だから、一人で抱え込まないで、俺にも協力させてよ。きみだけの問題じゃないんだからさ」
俺が笑ってみせると、眉をハの字にして顔をくしゃくしゃにして、釣られたように彼女も笑った。
「それと、この先今日みたいなことがあると困るから……」
彼女が元気を取り戻したのを見計らって、俺はもうひとつ大事な話を切りだした。というか、俺にとってはむしろ、こっちの話のほうが重要だったりする。
席を立ってキッチンに向かい、食器棚の奥から小さな鍵を取り出すと、俺は部屋に戻り、さっきの鍵を彼女の手に握らせた。入居当初から触ることもなく忘れ去られていた、この部屋の合鍵だ。
「今日みたいに連絡がつかなかったときに、遅くまで外で待たれると困るっていうか……何かあってからじゃ遅いからさ」
玄関前に座り込んでいた彼女を見て、真っ先に考えたのはそのことだった。
今日はたまたま何も起きずに済んだけど、このアパートは遮音性だけがウリなわけで。もしも他の住人が彼女をみつけて部屋に連れ込んだりしたら、彼女はそこで何をされても助けを呼ぶことすら叶わない。まさに、俺にとっては最悪の事態だ。
「電話で連絡がつかなかったらメールだけ送って、あとは勝手に上がってくれて構わないから。俺が戻るまで鍵かけて待っててよ」
そう頼むと、俺は鍵ごと彼女の手を握った。
彼女はきょとんとして俺の顔をみつめていた。それから手のひらの小さな鍵と俺の顔を何度か見比べて。
「……謀らずしも、佐伯さんの部屋の鍵をゲットです」
それはそれは嬉しそうに、顔を綻ばせてそう言った。
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