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捻くれ子爵の不本意な結婚
◎38
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街路樹の木の葉が風に吹かれ、夕陽を浴びて黄金色に輝いた。窓の外を通り過ぎていく街並みも、徐々に夜の闇に染まりつつある。豪奢な箱型の四頭立て四輪馬車に揺られながら、シャノンはゆったりと瞼を閉じた。
セオドア・ガーデンで過ごしたあの日々から、すでに二ヶ月が経っていた。事件のあとトリスタンは、シャノンが暴漢に襲われたことで塞ぎ込み、夜会に出ることを恐れるようになるのではないかと心配していたようだった。けれどもそれは杞憂に過ぎず、シャノンはレディ・アーデンとして夫と共に夜会に招かれることを心から望んでいた。
シャノンがトラウマを負わずに済んだのは、おそらく事件の真相が思いの外はやくに判明したからだ。セオドア・ガーデンでのパーティーが終わり、秋も深まったある日、トリスタンの元に思いもよらない報せが届いた。あの夜、シャノンの強姦未遂の現行犯で捕らえられたシャーウッドが、取り調べで黒幕の名前を明かしたのだ。
シャーウッドを唆し、シャノンにけしかけたのはレディ・バークレイ。トリスタンに別れ話を持ちかけられた彼女はシャノンを逆恨みし、姦淫の罪でアーデン夫妻を離婚沙汰に持ち込もうと画策したのだった。シャノンの父の友人である弁護士のボーマン氏の話によれば、バークレイ侯爵も今回の件にはお怒りで、レディ・バークレイは近々離縁されるのではないかということだった。
馬車で混み合う通りの先に、煌びやかな屋敷が見えた。シャノンは馬車の窓に張り付くようにして、その豪奢な夜会会場を目で追った。シャノンは以前、一度だけこの屋敷を訪れていた。トリスタンのたっての願いで今夜ふたりが訪れたのはグレシャム邸――春の社交シーズンにトリスタンと出会ったあの屋敷だった。
馴染みの面々との挨拶を済ませると、トリスタンはシャノンを庭園に連れ出した。賑やかな会場から切り離されたその場所は、あの夜と同じように月明かりに薄らとその影を浮かばせていた。
「きみにとっては良い思い出がない場所かもしれないけれど……」
トリスタンは一言そう呟くと、石敷きの道をゆっくりと歩き出した。あの夜は庭園の景色を眺める余裕なんてなかったけれど、それでもシャノンには彼がどこへ向かっているのかがすぐにわかった。やがて剪定された植木の向こう側に、東屋の白い屋根が見えた。
「懐かしいわ。あれから半年しか経っていないのね」
誰もいない東屋の中を覗き込み、シャノンはくるりとトリスタンを振り返った。
「どうして今夜、この場所でなければならなかったの?」
今となっては笑い話で済ませることもできるけれど、グレシャム邸はふたりにとって良い思い出のある場所ではないはずだ。シャノンが小首を傾げて見せると、トリスタンは躊躇いがちに口を開いた。
「それは……」ゆったりとした足取りで、彼はシャノンの隣にやってきた。「ぼくたちの出会いは――ぼくは始め方を間違ってしまったから……やり直したかったんだ」
東屋の白いベンチを見下ろして、彼は続けた。
「ぼくの父は厳格な人で、ぼくは子供の頃から紳士は誠実であるべきだと——女性に対しては殊更にそうあるべきだと教えられて育ったんだ。だから、女性関係では一定の線引きを越えたことはなかったし、レディ・バークレイとも初めに交わした契約通り、彼女の体裁を傷付けない範囲で愛人関係を続けてきたつもりだった。でも、ミス・メイウッド——きみのお姉さんに出会ったことで、すべてが変わってしまった。一目で彼女に魅せられたぼくは、勝手にのぼせあがり、父の教えに背いてとんでもない行動に出てしまった。ぼくにとってあの夜の愚行は、人生で初めての――一世一代の賭けだったんだ」
トリスタンの瞳が真っすぐシャノンに向けられた。シャノンはなにも言わず、ただ彼の視線を受け止めて、頷いた。
「ずっと悔やんでいたんだ。ぼくはあんな愚行に走るべきじゃなかった。ミス・メイウッドに真正面からぶつかって、潔く玉砕するべきだったんだってね。なぜなら、彼女の隣にはきみがいた。きみはいつもぼくの目の前にいたんだ。もし、一度でもきみをダンスに誘っていたら——きみと踊ることができていたら、ぼくは間違いなくきみに魅せられていたはずだから……」
「きっと、あの頃の私では、あなたの手を取ることはできなかったわ。だから、これで良かったのよ」
「そうかもしれない。でも、それでもぼくはやり直せるものならやり直したい。だから、かたちだけでも良い。ぼくの自己満足に付き合ってくれないか?」
彼があまりにも真剣だったから、シャノンは思わず笑ってしまった。
「私が断ると思うの?」
軽い咳払いが夜の庭園に響いた。トリスタンは姿勢を正し、恭しく一礼してシャノンに告げた。
「ミス・メイウッド、ぼくと踊ってくれるかい?」
「ええ、喜んで」
シャノンが彼の手を取った、ちょうどそのとき、どこからか微かなワルツの旋律が風にのって聞こえてきた。
トリスタンが一歩を踏み出した。初めて踊ったときと変わらない。彼のリードは力強く逞しかった。その感覚は心地良く、ただ身を任せていれば彼が正しいところへ導いてくれる——そんな安心感でシャノンを満たしてくれることだろう。今までも、そしてきっと、これからも。
セオドア・ガーデンで過ごしたあの日々から、すでに二ヶ月が経っていた。事件のあとトリスタンは、シャノンが暴漢に襲われたことで塞ぎ込み、夜会に出ることを恐れるようになるのではないかと心配していたようだった。けれどもそれは杞憂に過ぎず、シャノンはレディ・アーデンとして夫と共に夜会に招かれることを心から望んでいた。
シャノンがトラウマを負わずに済んだのは、おそらく事件の真相が思いの外はやくに判明したからだ。セオドア・ガーデンでのパーティーが終わり、秋も深まったある日、トリスタンの元に思いもよらない報せが届いた。あの夜、シャノンの強姦未遂の現行犯で捕らえられたシャーウッドが、取り調べで黒幕の名前を明かしたのだ。
シャーウッドを唆し、シャノンにけしかけたのはレディ・バークレイ。トリスタンに別れ話を持ちかけられた彼女はシャノンを逆恨みし、姦淫の罪でアーデン夫妻を離婚沙汰に持ち込もうと画策したのだった。シャノンの父の友人である弁護士のボーマン氏の話によれば、バークレイ侯爵も今回の件にはお怒りで、レディ・バークレイは近々離縁されるのではないかということだった。
馬車で混み合う通りの先に、煌びやかな屋敷が見えた。シャノンは馬車の窓に張り付くようにして、その豪奢な夜会会場を目で追った。シャノンは以前、一度だけこの屋敷を訪れていた。トリスタンのたっての願いで今夜ふたりが訪れたのはグレシャム邸――春の社交シーズンにトリスタンと出会ったあの屋敷だった。
馴染みの面々との挨拶を済ませると、トリスタンはシャノンを庭園に連れ出した。賑やかな会場から切り離されたその場所は、あの夜と同じように月明かりに薄らとその影を浮かばせていた。
「きみにとっては良い思い出がない場所かもしれないけれど……」
トリスタンは一言そう呟くと、石敷きの道をゆっくりと歩き出した。あの夜は庭園の景色を眺める余裕なんてなかったけれど、それでもシャノンには彼がどこへ向かっているのかがすぐにわかった。やがて剪定された植木の向こう側に、東屋の白い屋根が見えた。
「懐かしいわ。あれから半年しか経っていないのね」
誰もいない東屋の中を覗き込み、シャノンはくるりとトリスタンを振り返った。
「どうして今夜、この場所でなければならなかったの?」
今となっては笑い話で済ませることもできるけれど、グレシャム邸はふたりにとって良い思い出のある場所ではないはずだ。シャノンが小首を傾げて見せると、トリスタンは躊躇いがちに口を開いた。
「それは……」ゆったりとした足取りで、彼はシャノンの隣にやってきた。「ぼくたちの出会いは――ぼくは始め方を間違ってしまったから……やり直したかったんだ」
東屋の白いベンチを見下ろして、彼は続けた。
「ぼくの父は厳格な人で、ぼくは子供の頃から紳士は誠実であるべきだと——女性に対しては殊更にそうあるべきだと教えられて育ったんだ。だから、女性関係では一定の線引きを越えたことはなかったし、レディ・バークレイとも初めに交わした契約通り、彼女の体裁を傷付けない範囲で愛人関係を続けてきたつもりだった。でも、ミス・メイウッド——きみのお姉さんに出会ったことで、すべてが変わってしまった。一目で彼女に魅せられたぼくは、勝手にのぼせあがり、父の教えに背いてとんでもない行動に出てしまった。ぼくにとってあの夜の愚行は、人生で初めての――一世一代の賭けだったんだ」
トリスタンの瞳が真っすぐシャノンに向けられた。シャノンはなにも言わず、ただ彼の視線を受け止めて、頷いた。
「ずっと悔やんでいたんだ。ぼくはあんな愚行に走るべきじゃなかった。ミス・メイウッドに真正面からぶつかって、潔く玉砕するべきだったんだってね。なぜなら、彼女の隣にはきみがいた。きみはいつもぼくの目の前にいたんだ。もし、一度でもきみをダンスに誘っていたら——きみと踊ることができていたら、ぼくは間違いなくきみに魅せられていたはずだから……」
「きっと、あの頃の私では、あなたの手を取ることはできなかったわ。だから、これで良かったのよ」
「そうかもしれない。でも、それでもぼくはやり直せるものならやり直したい。だから、かたちだけでも良い。ぼくの自己満足に付き合ってくれないか?」
彼があまりにも真剣だったから、シャノンは思わず笑ってしまった。
「私が断ると思うの?」
軽い咳払いが夜の庭園に響いた。トリスタンは姿勢を正し、恭しく一礼してシャノンに告げた。
「ミス・メイウッド、ぼくと踊ってくれるかい?」
「ええ、喜んで」
シャノンが彼の手を取った、ちょうどそのとき、どこからか微かなワルツの旋律が風にのって聞こえてきた。
トリスタンが一歩を踏み出した。初めて踊ったときと変わらない。彼のリードは力強く逞しかった。その感覚は心地良く、ただ身を任せていれば彼が正しいところへ導いてくれる——そんな安心感でシャノンを満たしてくれることだろう。今までも、そしてきっと、これからも。
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