42 / 42
捻くれ子爵の不本意な結婚
◎38
しおりを挟む
街路樹の木の葉が風に吹かれ、夕陽を浴びて黄金色に輝いた。窓の外を通り過ぎていく街並みも、徐々に夜の闇に染まりつつある。豪奢な箱型の四頭立て四輪馬車に揺られながら、シャノンはゆったりと瞼を閉じた。
セオドア・ガーデンで過ごしたあの日々から、すでに二ヶ月が経っていた。事件のあとトリスタンは、シャノンが暴漢に襲われたことで塞ぎ込み、夜会に出ることを恐れるようになるのではないかと心配していたようだった。けれどもそれは杞憂に過ぎず、シャノンはレディ・アーデンとして夫と共に夜会に招かれることを心から望んでいた。
シャノンがトラウマを負わずに済んだのは、おそらく事件の真相が思いの外はやくに判明したからだ。セオドア・ガーデンでのパーティーが終わり、秋も深まったある日、トリスタンの元に思いもよらない報せが届いた。あの夜、シャノンの強姦未遂の現行犯で捕らえられたシャーウッドが、取り調べで黒幕の名前を明かしたのだ。
シャーウッドを唆し、シャノンにけしかけたのはレディ・バークレイ。トリスタンに別れ話を持ちかけられた彼女はシャノンを逆恨みし、姦淫の罪でアーデン夫妻を離婚沙汰に持ち込もうと画策したのだった。シャノンの父の友人である弁護士のボーマン氏の話によれば、バークレイ侯爵も今回の件にはお怒りで、レディ・バークレイは近々離縁されるのではないかということだった。
馬車で混み合う通りの先に、煌びやかな屋敷が見えた。シャノンは馬車の窓に張り付くようにして、その豪奢な夜会会場を目で追った。シャノンは以前、一度だけこの屋敷を訪れていた。トリスタンのたっての願いで今夜ふたりが訪れたのはグレシャム邸――春の社交シーズンにトリスタンと出会ったあの屋敷だった。
馴染みの面々との挨拶を済ませると、トリスタンはシャノンを庭園に連れ出した。賑やかな会場から切り離されたその場所は、あの夜と同じように月明かりに薄らとその影を浮かばせていた。
「きみにとっては良い思い出がない場所かもしれないけれど……」
トリスタンは一言そう呟くと、石敷きの道をゆっくりと歩き出した。あの夜は庭園の景色を眺める余裕なんてなかったけれど、それでもシャノンには彼がどこへ向かっているのかがすぐにわかった。やがて剪定された植木の向こう側に、東屋の白い屋根が見えた。
「懐かしいわ。あれから半年しか経っていないのね」
誰もいない東屋の中を覗き込み、シャノンはくるりとトリスタンを振り返った。
「どうして今夜、この場所でなければならなかったの?」
今となっては笑い話で済ませることもできるけれど、グレシャム邸はふたりにとって良い思い出のある場所ではないはずだ。シャノンが小首を傾げて見せると、トリスタンは躊躇いがちに口を開いた。
「それは……」ゆったりとした足取りで、彼はシャノンの隣にやってきた。「ぼくたちの出会いは――ぼくは始め方を間違ってしまったから……やり直したかったんだ」
東屋の白いベンチを見下ろして、彼は続けた。
「ぼくの父は厳格な人で、ぼくは子供の頃から紳士は誠実であるべきだと——女性に対しては殊更にそうあるべきだと教えられて育ったんだ。だから、女性関係では一定の線引きを越えたことはなかったし、レディ・バークレイとも初めに交わした契約通り、彼女の体裁を傷付けない範囲で愛人関係を続けてきたつもりだった。でも、ミス・メイウッド——きみのお姉さんに出会ったことで、すべてが変わってしまった。一目で彼女に魅せられたぼくは、勝手にのぼせあがり、父の教えに背いてとんでもない行動に出てしまった。ぼくにとってあの夜の愚行は、人生で初めての――一世一代の賭けだったんだ」
トリスタンの瞳が真っすぐシャノンに向けられた。シャノンはなにも言わず、ただ彼の視線を受け止めて、頷いた。
「ずっと悔やんでいたんだ。ぼくはあんな愚行に走るべきじゃなかった。ミス・メイウッドに真正面からぶつかって、潔く玉砕するべきだったんだってね。なぜなら、彼女の隣にはきみがいた。きみはいつもぼくの目の前にいたんだ。もし、一度でもきみをダンスに誘っていたら——きみと踊ることができていたら、ぼくは間違いなくきみに魅せられていたはずだから……」
「きっと、あの頃の私では、あなたの手を取ることはできなかったわ。だから、これで良かったのよ」
「そうかもしれない。でも、それでもぼくはやり直せるものならやり直したい。だから、かたちだけでも良い。ぼくの自己満足に付き合ってくれないか?」
彼があまりにも真剣だったから、シャノンは思わず笑ってしまった。
「私が断ると思うの?」
軽い咳払いが夜の庭園に響いた。トリスタンは姿勢を正し、恭しく一礼してシャノンに告げた。
「ミス・メイウッド、ぼくと踊ってくれるかい?」
「ええ、喜んで」
シャノンが彼の手を取った、ちょうどそのとき、どこからか微かなワルツの旋律が風にのって聞こえてきた。
トリスタンが一歩を踏み出した。初めて踊ったときと変わらない。彼のリードは力強く逞しかった。その感覚は心地良く、ただ身を任せていれば彼が正しいところへ導いてくれる——そんな安心感でシャノンを満たしてくれることだろう。今までも、そしてきっと、これからも。
セオドア・ガーデンで過ごしたあの日々から、すでに二ヶ月が経っていた。事件のあとトリスタンは、シャノンが暴漢に襲われたことで塞ぎ込み、夜会に出ることを恐れるようになるのではないかと心配していたようだった。けれどもそれは杞憂に過ぎず、シャノンはレディ・アーデンとして夫と共に夜会に招かれることを心から望んでいた。
シャノンがトラウマを負わずに済んだのは、おそらく事件の真相が思いの外はやくに判明したからだ。セオドア・ガーデンでのパーティーが終わり、秋も深まったある日、トリスタンの元に思いもよらない報せが届いた。あの夜、シャノンの強姦未遂の現行犯で捕らえられたシャーウッドが、取り調べで黒幕の名前を明かしたのだ。
シャーウッドを唆し、シャノンにけしかけたのはレディ・バークレイ。トリスタンに別れ話を持ちかけられた彼女はシャノンを逆恨みし、姦淫の罪でアーデン夫妻を離婚沙汰に持ち込もうと画策したのだった。シャノンの父の友人である弁護士のボーマン氏の話によれば、バークレイ侯爵も今回の件にはお怒りで、レディ・バークレイは近々離縁されるのではないかということだった。
馬車で混み合う通りの先に、煌びやかな屋敷が見えた。シャノンは馬車の窓に張り付くようにして、その豪奢な夜会会場を目で追った。シャノンは以前、一度だけこの屋敷を訪れていた。トリスタンのたっての願いで今夜ふたりが訪れたのはグレシャム邸――春の社交シーズンにトリスタンと出会ったあの屋敷だった。
馴染みの面々との挨拶を済ませると、トリスタンはシャノンを庭園に連れ出した。賑やかな会場から切り離されたその場所は、あの夜と同じように月明かりに薄らとその影を浮かばせていた。
「きみにとっては良い思い出がない場所かもしれないけれど……」
トリスタンは一言そう呟くと、石敷きの道をゆっくりと歩き出した。あの夜は庭園の景色を眺める余裕なんてなかったけれど、それでもシャノンには彼がどこへ向かっているのかがすぐにわかった。やがて剪定された植木の向こう側に、東屋の白い屋根が見えた。
「懐かしいわ。あれから半年しか経っていないのね」
誰もいない東屋の中を覗き込み、シャノンはくるりとトリスタンを振り返った。
「どうして今夜、この場所でなければならなかったの?」
今となっては笑い話で済ませることもできるけれど、グレシャム邸はふたりにとって良い思い出のある場所ではないはずだ。シャノンが小首を傾げて見せると、トリスタンは躊躇いがちに口を開いた。
「それは……」ゆったりとした足取りで、彼はシャノンの隣にやってきた。「ぼくたちの出会いは――ぼくは始め方を間違ってしまったから……やり直したかったんだ」
東屋の白いベンチを見下ろして、彼は続けた。
「ぼくの父は厳格な人で、ぼくは子供の頃から紳士は誠実であるべきだと——女性に対しては殊更にそうあるべきだと教えられて育ったんだ。だから、女性関係では一定の線引きを越えたことはなかったし、レディ・バークレイとも初めに交わした契約通り、彼女の体裁を傷付けない範囲で愛人関係を続けてきたつもりだった。でも、ミス・メイウッド——きみのお姉さんに出会ったことで、すべてが変わってしまった。一目で彼女に魅せられたぼくは、勝手にのぼせあがり、父の教えに背いてとんでもない行動に出てしまった。ぼくにとってあの夜の愚行は、人生で初めての――一世一代の賭けだったんだ」
トリスタンの瞳が真っすぐシャノンに向けられた。シャノンはなにも言わず、ただ彼の視線を受け止めて、頷いた。
「ずっと悔やんでいたんだ。ぼくはあんな愚行に走るべきじゃなかった。ミス・メイウッドに真正面からぶつかって、潔く玉砕するべきだったんだってね。なぜなら、彼女の隣にはきみがいた。きみはいつもぼくの目の前にいたんだ。もし、一度でもきみをダンスに誘っていたら——きみと踊ることができていたら、ぼくは間違いなくきみに魅せられていたはずだから……」
「きっと、あの頃の私では、あなたの手を取ることはできなかったわ。だから、これで良かったのよ」
「そうかもしれない。でも、それでもぼくはやり直せるものならやり直したい。だから、かたちだけでも良い。ぼくの自己満足に付き合ってくれないか?」
彼があまりにも真剣だったから、シャノンは思わず笑ってしまった。
「私が断ると思うの?」
軽い咳払いが夜の庭園に響いた。トリスタンは姿勢を正し、恭しく一礼してシャノンに告げた。
「ミス・メイウッド、ぼくと踊ってくれるかい?」
「ええ、喜んで」
シャノンが彼の手を取った、ちょうどそのとき、どこからか微かなワルツの旋律が風にのって聞こえてきた。
トリスタンが一歩を踏み出した。初めて踊ったときと変わらない。彼のリードは力強く逞しかった。その感覚は心地良く、ただ身を任せていれば彼が正しいところへ導いてくれる——そんな安心感でシャノンを満たしてくれることだろう。今までも、そしてきっと、これからも。
0
お気に入りに追加
107
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
月城副社長うっかり結婚する 〜仮面夫婦は背中で泣く〜
白亜凛
恋愛
佐藤弥衣 25歳
yayoi
×
月城尊 29歳
takeru
母が亡くなり、失意の中現れた謎の御曹司
彼は、母が持っていた指輪を探しているという。
指輪を巡る秘密を探し、
私、弥衣は、愛のない結婚をしようと思います。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

白い結婚は無理でした(涙)
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたくし、フィリシアは没落しかけの伯爵家の娘でございます。
明らかに邪な結婚話しかない中で、公爵令息の愛人から契約結婚の話を持ち掛けられました。
白い結婚が認められるまでの3年間、お世話になるのでよい妻であろうと頑張ります。
小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。
現在、筆者は時間的かつ体力的にコメントなどの返信ができないため受け付けない設定にしています。
どうぞよろしくお願いいたします。


セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
お久しぶりです!優しいシャノンが幸せになれるのかハラハラしていましたがシャノンが幸せになれて良かったです。ヴァイオレットも幸せになってほしいですね…と、個人的な感想でした(^_^;)
お久しぶりです〜
読んでいただけて嬉しいです(*´ω`*)
ヴァイオレットも私の脳内ではハッピーエンド迎えてるんですけどかたちにできるかどうか…
小説書くの難しいです!