メイウッド家の双子の姉妹

柴咲もも

文字の大きさ
上 下
38 / 42
捻くれ子爵の不本意な結婚

◎35

しおりを挟む
 遠ざかる賑やかな楽器の音と人々の声を背に、シャノンは逸る思いで目の前の人影を追った。西翼の廊下はひっそりと静まり返り、聞こえるのは騒がしく胸を打つ心臓の音だけだった。靴音すら飲み込む毛の長い絨毯に、月明かりが美しい幾何学模様を描いている。重厚なオーク材の扉が近付くたびに、息が詰まって苦しくなった。
 この長い廊下に並ぶどこかの部屋で、トリスタンが愛人に愛を囁き、その身体を抱き締めている。シャノンに口付けたその唇を白い肌に押し付けている。想像しただけでも身の毛がよだち、シャノンは身を震わせた。
「全ての女性関係を断てとは言わない」だなんて、よく言えたものだと思う。あのときのシャノンは何もわかっていなかった。彼が他の女性と関係するのを黙って見ているだなんて、そんなこと、できるはずがない。他の誰かが彼に近付くだけで、嫉妬でどうにかなりそうなのに。
 ミスター・シャーウッドが不意に立ち止まったので、シャノンは慌てて歩みを止めた。これまでに見てきたものと変わらない、何の変哲も無いオーク材の扉がそこにあった。彼は注意深く廊下の様子を窺うと、扉に耳を寄せ、ドアノブに手を掛けた。
 シャノンは息を飲んだ。この扉の奥で、トリスタンとレディ・バークレイが睦み合っているのだ。心臓が痛いほどに胸を打つ。喉の奥が締め付けられて、息をするのもままならない。胸元に伸ばしかけた手のひらが、突然ぐっと掴まれた。
 シャノンは目を見開いた。いったい何が起きたのか——その答えを導き出す隙も、抵抗する間もなかった。腕を引かれ、真っ暗な部屋の中に投げ出されて、シャノンは絨毯の上に倒れ込んだ。廊下から差し込む月明かりが、男の影を絨毯に映していた。彼は後ろ手に扉を閉めると、未だ動揺を隠せないシャノンを見下ろして、口元に薄っすらと歪な笑みを浮かべた。
「騙したのね」
 咄嗟に口にしたその言葉は、驚くほどすとんと胸に落ちてきた。疑う余地なんてなかったのだ。シャノンは思った。私は馬鹿だ。トリスタンは、ずっと私に誠実だった。
「レディ・アーデン」
 どこか不穏なその声でシャノンはハッと我に返った。シャーウッドは一歩、また一歩と足を踏み出して、獲物を追い詰める肉食獣のようにシャノンに近付いた。シャノンは後退りながら、素早く室内を見回した。
 月明かりに照らされた室内では、部屋の隅の暗がりを除けば、はっきりと物のかたちが確認できた。この部屋は客間のひとつのようで、使われていない暖炉の前にソファが対になって置かれている。壁際には棚やテーブルが並んでおり、壁には額縁に入った風景画が飾られていた。
 どうにかしてあの扉を抜けて、この部屋を出なければ。トリスタンの元に戻らなければ。威嚇するようにシャーウッドを睨み付けて、シャノンはゆっくりと立ち上がった。
 突然、シャーウッドが飛びかかってきた。シャノンは弾かれたように身を翻すと、扉に向かって走り出した。けれども、彼の動きは素早かった。すぐさま手首を掴まれて、シャノンは背中から絨毯に叩きつけられた。鈍い痛みに顔を顰めた矢先、黒い影がすかさずシャノンにのし掛かかった。
「いやっ、やめて! 放して!」
 シャノンはありったけの力を振り絞り、彼の胸を拳で叩いた。身を捩り、必死で逃れようと足掻くシャノンに馬乗りになると、シャーウッドは「しいっ!」と鋭く囁いて、シャノンの口を手のひらで覆った。
「騒がないで、美しい人。怖がる必要はありません。すぐに気持ち良くしてあげますから」
 誘うように微笑んで、もう一方の空いた手でシャノンの脇腹を撫であげる。
「レディ・アーデン、あなたは可憐で愛らしい……」
 耳元であまく囁かれて、シャノンはぞっとした。シャーウッドが顔を近付けてくる。暴れるシャノンの両腕を彼の手が押さえつけた。彼の唇が真近に迫り、シャノンは懸命に顔を背けた。
「や、めて……助けてトリスタン!」
 必死の思いで叫んだものの、喉がかすれて声が出ない。シャーウッドは満足げに舌舐めずりすると、シャノンの首筋に鼻を埋め、熱い唇を押し付けた。喉に、鎖骨に、開かれた胸元に、点々と紅い痕を散らしていく。シャノンはいやいやと首を振り、掠れた声で夫の名を呼び続けた。シャーウッドはチッと舌を打つと、身を起こし、苛立たしげにシャノンを見下ろして言った。
「貴女はまだわからないのですか? 今シーズンの社交場では、貴女のご主人を含め、誰もがミス・ヴァイオレットに熱を上げていた。誰もが彼女の気を引こうと躍起になっていた。けれど私は違う。ずっと密かに貴女を想い続けていたのです。オグバーン氏が主催したあの舞踏会で、貴女を一目見たそのときから……」
 シャノンの剥き出しの肩を、舐めるような視線が這った。彼はふたたびシャノンの肌にむしゃぶりつくと、鎖骨のあいだに鼻を押し付けて、忌々しげにつぶやいた。
「それなのにあのアーデンが……ミス・ヴァイオレットに求愛していたくせに、あいつは横から貴女を掻っ攫っていったんだ」
「違うわ!」シャノンは声を張りあげた。「初めは手違いだったかもしれない。でも彼は——トリスタンは誰にも見向きもされなかった私のことを、淑女として丁重に扱ってくれた。私をみつけてくれたのはトリスタンよ! オグバーン氏が主催したあのパーティーで私が魅力的に見えたのは、彼が私に自信をくれたからだわ!」
「馬鹿馬鹿しい!」
 シャーウッドは吐き捨てるように言って、シャノンの首筋に歯を立てた。シャノンは呻いた。鈍い痛みが感覚を痺れさせて、腕に力が入らない。シャノンの肌に何度も鼻を擦り付けながら、彼は恍惚として溜め息を吐いた。
「貴女は素晴らしい……柔らかくて芳しくて、魅惑的で」
「ああ、そうだろう!」
 突然シャノンの拘束が解かれ、シャーウッドの身体がシャノンから引き剥がされた。続いて耳を覆いたくなるような不快な音とともに、少量の血が絨毯に飛び散った。呆然と見上げたその顔が、激情を滾らせた珈琲色の瞳に映る。トリスタンは素早く上着を脱ぎ、シャノンの肩を包み込むと、すぐさま身を翻した。四つん這いになって逃げ出そうとしていたシャーウッドの襟首を捉え、絨毯の上に引き倒す。
「殺してやる!」
 唸るような怒声を響かせて、トリスタンが男に殴りかかった。二度、三度、拳が打ち付けられるたびに、男は喘ぐように声をあげる。騒ぎを聞きつけた人々が部屋の前に人垣を作っていた。
「お願い、通してちょうだい」
 聞き馴染んだ声が聞こえて、人垣の隙間からレティが顔をのぞかせた。彼女はシャノンに駆け寄ると、隣に膝をつき、シャノンの顔を覗き込んだ。
「大丈夫? シャノン、怪我はない?」
「アーデン!」良くとおる声がして、ラーズクリフが人垣を割いて現れた。彼は大股で部屋に踏み込むと、トリスタンを羽交い締めにして言った。「やめるんだアーデン! 落ち着きなさい!」
 けれどもトリスタンは止まらなかった。彼は獣のように唸りをあげると、ラーズクリフの腕を振りほどき、床の上でのたうち回るシャーウッドにふたたび殴りかかった。
「……トリスタン」
 絞り出した声は、無様なまでに震えていた。シャノンは祈るように胸の前で手を握り、トリスタンに呼び掛けた。
「だめ……だめよ、トリスタン……」
 ぐしゃりと嫌な音がして、人々が息を飲んだのがわかった。はあはあと息を荒げ、肩を怒らせて、トリスタンがもう一度拳を引く。その瞬間、シャノンは彼の腕にしがみついていた。
「やめて! お願いやめて、トリスタン! 殺してしまうわ……!」
 トリスタンは動きを止めた。泣きながら鼻を抑える血塗れのシャーウッドを見下ろして、それからゆっくりと振り返り、シャノンの顔をじっとみつめた。ややあって、珈琲色の瞳に光が射すと、彼はくしゃりと顔を歪め、シャノンをちからいっぱい抱き締めた。
「シャノン……ああ、シャノン、すまない、目を離すべきじゃなかった……ぼくは馬鹿だ、きみをひとりにするなんて……」
 何度もすまないと繰り返しながら、トリスタンはシャノンの髪に、こめかみに口付けた。そうして鼻先が触れるほどの距離で、シャノンの瞳を覗き込んだ。
「大丈夫よ、トリスタン。私、平気だわ。あなたが来てくれたもの」
 泣き笑うシャノンの頬を、大きな手のひらが包み込む。シャノンが彼をみつめ返した、その瞬間、熱烈なキスがシャノンを襲った。気持ちが昂ぶって治まらないのだろう。トリスタンは我を忘れたようにシャノンの唇を、吐息を貪った。すべてを奪い尽くすような口付けに、身体が熱をあげていく。シャノンが喉を喘がせると、彼はようやく唇を解放し——今度はシャノンを押し倒した。
「……スタン、ねえ待って。人前なのよ」
 抗議の声は、すぐさまキスで封じられた。とにかく彼を落ち着かせて、このキスをやめさせないと!
 シャノンは手を伸ばし、彼の髪に手で触れた。豊かな髪を指で梳いて——それから彼の頭をしっかりと抱き寄せた。とめどない想いがあふれてくる。シャノンは求められるままに、彼の想いにキスで応じた。
 薄っすらと開いた視界の端に、レティとラーズクリフがちらりと映る。ふたりは心底呆れた顔でシャノンとトリスタンを見下ろしていた。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

月城副社長うっかり結婚する 〜仮面夫婦は背中で泣く〜

白亜凛
恋愛
佐藤弥衣 25歳 yayoi × 月城尊 29歳 takeru 母が亡くなり、失意の中現れた謎の御曹司 彼は、母が持っていた指輪を探しているという。 指輪を巡る秘密を探し、 私、弥衣は、愛のない結婚をしようと思います。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

白い結婚は無理でした(涙)

詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたくし、フィリシアは没落しかけの伯爵家の娘でございます。 明らかに邪な結婚話しかない中で、公爵令息の愛人から契約結婚の話を持ち掛けられました。 白い結婚が認められるまでの3年間、お世話になるのでよい妻であろうと頑張ります。 小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。 現在、筆者は時間的かつ体力的にコメントなどの返信ができないため受け付けない設定にしています。 どうぞよろしくお願いいたします。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~

吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。 結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。 何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

処理中です...