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捻くれ子爵の不本意な結婚
◇33
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レディ・ラーズクリフの誕生日パーティーでは、晩餐のあと舞踏会が開かれるのが恒例になっていた。食事を終えた客人は控えの間で休憩を取ったあと、名前を読み上げられた者から舞踏室へと通される。セオドア・マナーの舞踏室は街のダンスホールさながらの広さがあり、壁という壁が、窓枠が幾何学模様を描いた背の高いガラス窓になっていた。吹き抜けの天井にはクリスタルのシャンデリアが煌めいて、二階ではホールを見下ろせる通路が壁沿いをぐるりと取り囲んでいる。蔓模様の装飾が施された柱には、ラーズクリフ伯の象徴である薔薇と獅子を描いた鮮やかなタペストリーが飾られていた。
アーデン卿の名が読み上げられると、トリスタンはシャノンを連れて舞踏室に向かった。フロアへと続く階段を降りるあいだ、シャノンはしっかりとトリスタンの腕に掴まって、背筋をしゃんと伸ばし、視線はまっすぐにホールを見据えていた。先ほどトリスタンが口にした言葉どおり、自信を持って堂々としていれば、シャノンは誰にも負けないほど綺麗だった。オグバーン氏主催の夜会では結局挨拶回りをすることができず、プラムウェルでの婚礼にも限られた知人しか招待しなかったため、トリスタンはレディ・アーデンとなったシャノンの紹介を兼ねて、知人に挨拶して回ることにした。
トリスタンが紹介を終えて次の相手の元に向かうたびに、シャノンはひとりひとりの顔と名前を記憶に刻むようにつぶやいていた。
「誰が誰だかわからない?」
トリスタンが茶化すように訊ねると、シャノンは切迫した表情でトリスタンを見上げ、微かに震えが混じる声で応えた。
「ごめんなさい。私、こういうのは得意じゃなくて」
「誰だってそうさ」
「そんなことないわ。レティは一度話した相手のことは覚えていたもの。見聞きしただけの相手のことだって、すべて」
「いいかいダーリン、人には得手不得手があるんだ。きみは一度に全員の顔を覚える必要なんてない。これからも招待を受けるたびに顔を合わせることになるのだから、その都度覚えていけば良い。今夜のうちに覚えておくべき相手だけは事前にぼくが教えるから、まずはそのがちがちに凝り固まった肩のちからを抜いて、にっこり笑ってごらん」
トリスタンが言い聞かせると、シャノンはぎこちない笑みでうなずいて、彼の上腕に縋るように腕を絡めた。そこでトリスタンは、社交界における重鎮と、付き合いの多い友人知人など、覚えておくべき相手に声を掛ける前にだけ、シャノンに合図を送ることにした。
すべての招待客が舞踏室に集まると、楽団によるワルツの演奏が始まった。トリスタンは頃合いを見計らって挨拶回りを切り上げると、シャノンをフロアへと連れ出した。
トリスタンはシャノンを褒めてやりたかった。安心させてやりたかった。人の目がなければ抱き締めていただろうけれど、舞踏室に集まった大勢の招待客の目の前では、それを行動に移すのは躊躇われた。
シャノンの手を取り、腰に腕を回して、力強いリードでステップを踏む。はじめは強張っていたシャノンの表情も、曲が進むに連れて次第に和らいでいった。
トリスタンはシャノンと踊るのが好きだった。彼女は以前、ダンスは苦手ではないけれど得意でもないと言っていた。だが、彼女が自分のダンスを下手だと思っているのなら、それは大きな間違いだ。男性側がしっかりリードしてやれば、彼女はどんな難しいステップにもきちんとついてくることができる。軽やかな足取りで、一度も躓くことなく踊ることができるのだ。
もし、彼女のダンスが下手だと言う男がいたのだとしたら、そいつは自分の無能さをひけらかしているだけだ。こうしてダンスを踊っていても、彼女は充分にトリスタンを満たしてくれる。きっとベッドの中でだって、このうえない至福の時間を味わえるはずだ。
ごく自然にそう考えて、次の瞬間、トリスタンは蒼白になった。ステップを踏んでいた足が不意に止まる。見下ろせば、シャノンが大きく目を見開いて、トリスタンを見上げていた。
「どうしたの?」
「いや……」
低く唸りそうになるのを、彼はすんでのところで堪えた。
「疲れただろう? 少し休もう」
平静を装ってそう言うと、トリスタンは壁際に置かれたベルベットの椅子までシャノンを連れて行った。シャノンはまだ怪訝な表情をしていたが、彼に促されるままにおとなしく椅子に掛けた。
「飲み物を取ってくるよ。何がいい?」
「泡のない飲み物がいいわ。お願いできる?」
「もちろん」
トリスタンはにっこり笑って応えると、颯爽とその場を後にした。
心臓が激しく胸を打っていた。両腕がまだ、彼女の温もりと感触をはっきりと覚えている。
ベッドの中で、だなんて、一体何を血迷っていたのだろう。彼女はまだトリスタンに身体を許していない。キス以上の関係を望むことは、彼女を裏切ることに他ならないというのに。
シャノンは肉付きが良い方ではなく、身体つきも華奢だった。けれど、頬も肩も腰回りも女性らしく丸みを帯びており、抱き寄せた腕から伝わる感触は驚くほど柔らかかった。彼女は蘭とバニラが合わさった甘い香りがした。トリスタンの心を酷く掻き乱す誘惑の香りだ。
この数日、彼は必死に己の欲望と戦ってきた。毎晩腕の中に彼女がいて、艶やかな髪から、繊細な首筋から香る甘い匂いが鼻腔をくすぐるのだ。誘惑に堪えきれずトリスタンが首筋に顔を埋めても、彼女は嫌とは言わなかった。彼女のその反応は、余計にトリスタンを惑わせた。
今夜にでも話をしてみよう、とトリスタンは思った。約束を反故にするのをこちらから言い出すのは気が引けるけれど、もしかしたら彼女も口に出して言えないだけで、トリスタンとより親密な関係になることを望んでいるかもしれない。無理強いさえしなければ——改めてお互いの意思を確認するだけならば、今の関係が壊れることもないはずだ。
まだ待つことはできる。けれど、トリスタンはこの件について、これ以上先延ばしにしたくなかった。彼はシャノンと名実ともに夫婦になりたかった。信頼されるだけではない。一方的に愛を注ぐだけの関係でもない。互いに深く理解し合い、愛し合う関係になりたかった。
蔓模様の支柱の側で、給仕がシャンパンを振る舞っていた。手には銀色のトレーを持っており、その上に細長いシャンパングラスやカクテルグラスが並んでいる。
「泡のない飲み物はないかな」
トリスタンが訊ねると、給仕はにこやかに微笑んで、応えた。
「フルーツワインの用意がございます。すぐにお持ち致しましょう」
軽く一礼してホールを出て行く給仕の背中を、トリスタンは壁際に立ってのんびりと見送った。カドリールの演奏がはじまって、賑やかな声がフロアのあちこちで響いた。男女が向かい合って並び、砂浜に押し寄せる波のように、引いては寄せてを繰り返す。トリスタンは首を伸ばし、揺れ動く人波の向こうにシャノンの姿を探したが、椅子に座っている彼女の姿が見えるはずもない。
トリスタンは壁に背を凭れたまま、テールコートの内ポケットから懐中時計を取り出した。時計の秒針が時を刻む間隔が、やたらと遅く感じられる。シャノンの元を離れてから、たった数分しか経っていないというのに、彼女に会いたくて堪らなかった。
ややあって、先ほどの給仕がホールに戻ってきた。甘い香りが漂うフルーツワインのグラスをトリスタンが受け取ると、ちょうどカドリールの演奏が終わり、人の影がフロアの外に捌けていった。
トリスタンは逸る思いでフロアの向こうを振り返り、麗しのシャノンを求めて視線を彷徨わせた。壁際に置かれたベルベットの椅子は瞬時に目に留まった。けれど、そのときすでに、シャノンの姿はその場から消えていた。
アーデン卿の名が読み上げられると、トリスタンはシャノンを連れて舞踏室に向かった。フロアへと続く階段を降りるあいだ、シャノンはしっかりとトリスタンの腕に掴まって、背筋をしゃんと伸ばし、視線はまっすぐにホールを見据えていた。先ほどトリスタンが口にした言葉どおり、自信を持って堂々としていれば、シャノンは誰にも負けないほど綺麗だった。オグバーン氏主催の夜会では結局挨拶回りをすることができず、プラムウェルでの婚礼にも限られた知人しか招待しなかったため、トリスタンはレディ・アーデンとなったシャノンの紹介を兼ねて、知人に挨拶して回ることにした。
トリスタンが紹介を終えて次の相手の元に向かうたびに、シャノンはひとりひとりの顔と名前を記憶に刻むようにつぶやいていた。
「誰が誰だかわからない?」
トリスタンが茶化すように訊ねると、シャノンは切迫した表情でトリスタンを見上げ、微かに震えが混じる声で応えた。
「ごめんなさい。私、こういうのは得意じゃなくて」
「誰だってそうさ」
「そんなことないわ。レティは一度話した相手のことは覚えていたもの。見聞きしただけの相手のことだって、すべて」
「いいかいダーリン、人には得手不得手があるんだ。きみは一度に全員の顔を覚える必要なんてない。これからも招待を受けるたびに顔を合わせることになるのだから、その都度覚えていけば良い。今夜のうちに覚えておくべき相手だけは事前にぼくが教えるから、まずはそのがちがちに凝り固まった肩のちからを抜いて、にっこり笑ってごらん」
トリスタンが言い聞かせると、シャノンはぎこちない笑みでうなずいて、彼の上腕に縋るように腕を絡めた。そこでトリスタンは、社交界における重鎮と、付き合いの多い友人知人など、覚えておくべき相手に声を掛ける前にだけ、シャノンに合図を送ることにした。
すべての招待客が舞踏室に集まると、楽団によるワルツの演奏が始まった。トリスタンは頃合いを見計らって挨拶回りを切り上げると、シャノンをフロアへと連れ出した。
トリスタンはシャノンを褒めてやりたかった。安心させてやりたかった。人の目がなければ抱き締めていただろうけれど、舞踏室に集まった大勢の招待客の目の前では、それを行動に移すのは躊躇われた。
シャノンの手を取り、腰に腕を回して、力強いリードでステップを踏む。はじめは強張っていたシャノンの表情も、曲が進むに連れて次第に和らいでいった。
トリスタンはシャノンと踊るのが好きだった。彼女は以前、ダンスは苦手ではないけれど得意でもないと言っていた。だが、彼女が自分のダンスを下手だと思っているのなら、それは大きな間違いだ。男性側がしっかりリードしてやれば、彼女はどんな難しいステップにもきちんとついてくることができる。軽やかな足取りで、一度も躓くことなく踊ることができるのだ。
もし、彼女のダンスが下手だと言う男がいたのだとしたら、そいつは自分の無能さをひけらかしているだけだ。こうしてダンスを踊っていても、彼女は充分にトリスタンを満たしてくれる。きっとベッドの中でだって、このうえない至福の時間を味わえるはずだ。
ごく自然にそう考えて、次の瞬間、トリスタンは蒼白になった。ステップを踏んでいた足が不意に止まる。見下ろせば、シャノンが大きく目を見開いて、トリスタンを見上げていた。
「どうしたの?」
「いや……」
低く唸りそうになるのを、彼はすんでのところで堪えた。
「疲れただろう? 少し休もう」
平静を装ってそう言うと、トリスタンは壁際に置かれたベルベットの椅子までシャノンを連れて行った。シャノンはまだ怪訝な表情をしていたが、彼に促されるままにおとなしく椅子に掛けた。
「飲み物を取ってくるよ。何がいい?」
「泡のない飲み物がいいわ。お願いできる?」
「もちろん」
トリスタンはにっこり笑って応えると、颯爽とその場を後にした。
心臓が激しく胸を打っていた。両腕がまだ、彼女の温もりと感触をはっきりと覚えている。
ベッドの中で、だなんて、一体何を血迷っていたのだろう。彼女はまだトリスタンに身体を許していない。キス以上の関係を望むことは、彼女を裏切ることに他ならないというのに。
シャノンは肉付きが良い方ではなく、身体つきも華奢だった。けれど、頬も肩も腰回りも女性らしく丸みを帯びており、抱き寄せた腕から伝わる感触は驚くほど柔らかかった。彼女は蘭とバニラが合わさった甘い香りがした。トリスタンの心を酷く掻き乱す誘惑の香りだ。
この数日、彼は必死に己の欲望と戦ってきた。毎晩腕の中に彼女がいて、艶やかな髪から、繊細な首筋から香る甘い匂いが鼻腔をくすぐるのだ。誘惑に堪えきれずトリスタンが首筋に顔を埋めても、彼女は嫌とは言わなかった。彼女のその反応は、余計にトリスタンを惑わせた。
今夜にでも話をしてみよう、とトリスタンは思った。約束を反故にするのをこちらから言い出すのは気が引けるけれど、もしかしたら彼女も口に出して言えないだけで、トリスタンとより親密な関係になることを望んでいるかもしれない。無理強いさえしなければ——改めてお互いの意思を確認するだけならば、今の関係が壊れることもないはずだ。
まだ待つことはできる。けれど、トリスタンはこの件について、これ以上先延ばしにしたくなかった。彼はシャノンと名実ともに夫婦になりたかった。信頼されるだけではない。一方的に愛を注ぐだけの関係でもない。互いに深く理解し合い、愛し合う関係になりたかった。
蔓模様の支柱の側で、給仕がシャンパンを振る舞っていた。手には銀色のトレーを持っており、その上に細長いシャンパングラスやカクテルグラスが並んでいる。
「泡のない飲み物はないかな」
トリスタンが訊ねると、給仕はにこやかに微笑んで、応えた。
「フルーツワインの用意がございます。すぐにお持ち致しましょう」
軽く一礼してホールを出て行く給仕の背中を、トリスタンは壁際に立ってのんびりと見送った。カドリールの演奏がはじまって、賑やかな声がフロアのあちこちで響いた。男女が向かい合って並び、砂浜に押し寄せる波のように、引いては寄せてを繰り返す。トリスタンは首を伸ばし、揺れ動く人波の向こうにシャノンの姿を探したが、椅子に座っている彼女の姿が見えるはずもない。
トリスタンは壁に背を凭れたまま、テールコートの内ポケットから懐中時計を取り出した。時計の秒針が時を刻む間隔が、やたらと遅く感じられる。シャノンの元を離れてから、たった数分しか経っていないというのに、彼女に会いたくて堪らなかった。
ややあって、先ほどの給仕がホールに戻ってきた。甘い香りが漂うフルーツワインのグラスをトリスタンが受け取ると、ちょうどカドリールの演奏が終わり、人の影がフロアの外に捌けていった。
トリスタンは逸る思いでフロアの向こうを振り返り、麗しのシャノンを求めて視線を彷徨わせた。壁際に置かれたベルベットの椅子は瞬時に目に留まった。けれど、そのときすでに、シャノンの姿はその場から消えていた。
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