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捻くれ子爵の不本意な結婚
◇24
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「と言うわけだ。ブライソン、すまないが事務所に行って、例の書類と、それに関わる資料を洗いざらい持ってきてくれ。それから、きみは今夜は向こうに詰めて、現場から連絡が入ったらその都度ぼくに報告して欲しい」
心なしか声を弾ませてそう言うと、トリスタンは上着を脱いでブライソンに手渡し、革張りの椅子に腰を下ろして背凭れに背を預けた。それからマホガニーの執務机の上を見渡して、一番手前の書類の山から報告書の束を手に取った。受け取った上着を手際良くハンガーに吊るし終えたブライソンが、恭しく主人に頭を下げる。
「どういうわけかは存じませんが、承知しました」
素知らぬ顔でそう言うと、彼はフロックコートに腕を通し、スーツケースを手に持った。
プラムウェルで式を挙げ、街に戻ってきて以来、トリスタンは毎晩夜更けまで会社の事務所で書類の山と格闘する日々を送っていた。海外に建てた工場のひとつで挙式と前後して事故が起こり、その事後処理に追われていたのだ。
現場とは五時間の時差があった。迅速な対応が必要だったこともあり、トリスタンは現場の復旧作業が落ち着く深夜まで、弁護士や代理人との連絡を絶えず行う必要があった。
この状況をシャノンに伝えていなかったのは、結婚して間もないこの時期に彼女を不安にさせたくなかったからだ。彼女は当然、有意義で自由な時間を悠々自適に過ごしているものだと考えていたということもある。まさか彼女がひとり寂しく部屋に篭りきりの毎日を送っているなんて、思ってもみなかったのだ。
必死に虚勢を張ろうとするシャノンの姿を思い出し、トリスタンは表情を曇らせた。今までそばに居られなかったぶん、今日だけは——彼女の誕生日だけは、一緒に過ごすつもりでいたのに。肝心なところで事態が急変するなんて、まったくもってついてない。
「旦那様」
聞き慣れた冷静な声に促され、トリスタンは顔を上げた。ドアノブに手を掛けたまま、ブライソンが酷く真面目な顔でトリスタンを見ていた。
「なぜ、奥様にお伝えにならないのですか」
率直に訊ねられて、トリスタンは唸った。
——毎晩のように他の女性のところへ出掛けるのは、やめていただけないかしら。
平静を装いながらも震えを隠しきれていない、彼女の声が耳に残っていた。
屋敷に不在がちな理由を愛人のせいだと決めつけられて、あのときトリスタンは腹を立てた。彼はシャノンと結婚を決意して以来、他の女性とふたりきりで会ったことなど一度たりともなかった。今の彼にはシャノン以上に彼を喜ばせてくれる存在などいなかった。王立公園で偶然顔を合わせたとき、自分がどれほど舞い上がっていたか、彼女に教えてやりたいくらいだ。
ただひとり例外といえば、レディ・バークレイだけだ。オグバーン氏主催の夜会の翌日、トリスタンは彼女とふたりで会っていた。シャノンを大切に思っていること、それから、愛人関係が潰えたあとも彼女の幸せを祈っていることを告げて、これまでの関係を清算したのだ。彼女はいつもどおり艶やかに笑い、トリスタンの話を受け入れた。それ以来、彼は彼女とも会っていない。
それなのに、「全ての女性関係を断てとは言わない」なんて馬鹿にするにもほどがある。
「伝えてどうなるものでもないだろう。妻は婚姻による誓約に縛られない自由な生き方を求めている。体面さえ保たれていれば、ぼくが彼女に誠実であろうがなかろうが、そんなことは関係ないんだ」
トリスタンが素っ気なく言うと、ブライソンはどこか責めるように口を開いた。
「私にはそうは思えませんが」
「……根拠は?」
「本当に体面さえ保たれていれば良いのなら、あのような親密な行為を許してまで旦那様を引き留めたりしないでしょう」
真っ直ぐに向けられた従者の視線を受け止めて、トリスタンはにやりとした。
「やっぱり見ていたんじゃないか、この下衆野郎」
「お褒めに預かり光栄です」
ブライソンは一瞬不敵な笑みを浮かべると、澄ました表情で恭しく首を垂れた。ブライソンとは長い付き合いだが、彼がトリスタンの行動に口を挟んだのは、これが初めてのことだった。彼は寡黙で賢い男で、トリスタンは彼を誰よりも信頼していた。
「頼むから余計なことをしないでくれよ、ブライソン。ぼくは妻の許可がなければ彼女に触れることすらできない憐れな男なんだ。ようやく手に入れた特権を取り上げられたりしようものなら、たまったもんじゃない」
トリスタンが皮肉に笑って見せると、ブライソンは微かに眉間に皺を寄せて、無言で首を縦に振った。読みかけの書類を手にしたまま、トリスタンは身を乗り出して続けた。
「そんなことより、二週間後のラーズクリフ伯爵夫人——いや、前伯爵夫人か——の誕生日を祝うハウスパーティーの件だが、ミス・ヴァイオレットとミセス・ドノヴァンにもご同行を願いたいんだ。あそこの庭園は壮観だ。仲良しの姉が一緒のほうが、彼女も散策を楽しめるだろう。話はぼくのほうでつけておくから、迎えの馬車の手配を頼むよ。さすがに、移動中の妻との時間を邪魔されたくはないからね」
トリスタンが言い終えると、ブライソンは畏まり、「仰せのままに」とお辞儀をした。それから彼は廊下に出て、書斎の扉を静かに閉めた。
トリスタンは大きく息を吐いた。椅子に凭れて伸びをして、それから足元に目を向けた。床に寝そべり、彼の靴に顎を載せていた愛犬のジェームズが、顔をあげ、くうんと切ない声で鳴いた。
シャノンにキスを迫ったのは、あらぬ疑いをかけられた腹癒せにちょっと意地悪をしようと思っただけのことで、約束を反故にするつもりなんて、トリスタンにはなかった。彼女が彼の要求を受け入れるだなんて、そもそも思ってもみなかったのだ。
彼女の唇の柔らかな感触と甘い吐息のぬくもりが、まだ唇に残っていた。永遠の愛を誓ったあの日から——いや、それよりもずっと以前から、彼はシャノンに焦がれてきた。あのとき我に返るのが一瞬でも遅れていたら、きっと取り返しのつかないことをしていたはずだ。
「心配かい?」
ジェームズの頭を撫でて、トリスタンはつぶやいた。真っ直ぐに自分を見上げるつぶらな瞳の持ち主に、彼は思いを打ち明けた。
「ぼくは心配だ。このまま約束を守り続けられるかどうか、正直言って自信がないよ」
心なしか声を弾ませてそう言うと、トリスタンは上着を脱いでブライソンに手渡し、革張りの椅子に腰を下ろして背凭れに背を預けた。それからマホガニーの執務机の上を見渡して、一番手前の書類の山から報告書の束を手に取った。受け取った上着を手際良くハンガーに吊るし終えたブライソンが、恭しく主人に頭を下げる。
「どういうわけかは存じませんが、承知しました」
素知らぬ顔でそう言うと、彼はフロックコートに腕を通し、スーツケースを手に持った。
プラムウェルで式を挙げ、街に戻ってきて以来、トリスタンは毎晩夜更けまで会社の事務所で書類の山と格闘する日々を送っていた。海外に建てた工場のひとつで挙式と前後して事故が起こり、その事後処理に追われていたのだ。
現場とは五時間の時差があった。迅速な対応が必要だったこともあり、トリスタンは現場の復旧作業が落ち着く深夜まで、弁護士や代理人との連絡を絶えず行う必要があった。
この状況をシャノンに伝えていなかったのは、結婚して間もないこの時期に彼女を不安にさせたくなかったからだ。彼女は当然、有意義で自由な時間を悠々自適に過ごしているものだと考えていたということもある。まさか彼女がひとり寂しく部屋に篭りきりの毎日を送っているなんて、思ってもみなかったのだ。
必死に虚勢を張ろうとするシャノンの姿を思い出し、トリスタンは表情を曇らせた。今までそばに居られなかったぶん、今日だけは——彼女の誕生日だけは、一緒に過ごすつもりでいたのに。肝心なところで事態が急変するなんて、まったくもってついてない。
「旦那様」
聞き慣れた冷静な声に促され、トリスタンは顔を上げた。ドアノブに手を掛けたまま、ブライソンが酷く真面目な顔でトリスタンを見ていた。
「なぜ、奥様にお伝えにならないのですか」
率直に訊ねられて、トリスタンは唸った。
——毎晩のように他の女性のところへ出掛けるのは、やめていただけないかしら。
平静を装いながらも震えを隠しきれていない、彼女の声が耳に残っていた。
屋敷に不在がちな理由を愛人のせいだと決めつけられて、あのときトリスタンは腹を立てた。彼はシャノンと結婚を決意して以来、他の女性とふたりきりで会ったことなど一度たりともなかった。今の彼にはシャノン以上に彼を喜ばせてくれる存在などいなかった。王立公園で偶然顔を合わせたとき、自分がどれほど舞い上がっていたか、彼女に教えてやりたいくらいだ。
ただひとり例外といえば、レディ・バークレイだけだ。オグバーン氏主催の夜会の翌日、トリスタンは彼女とふたりで会っていた。シャノンを大切に思っていること、それから、愛人関係が潰えたあとも彼女の幸せを祈っていることを告げて、これまでの関係を清算したのだ。彼女はいつもどおり艶やかに笑い、トリスタンの話を受け入れた。それ以来、彼は彼女とも会っていない。
それなのに、「全ての女性関係を断てとは言わない」なんて馬鹿にするにもほどがある。
「伝えてどうなるものでもないだろう。妻は婚姻による誓約に縛られない自由な生き方を求めている。体面さえ保たれていれば、ぼくが彼女に誠実であろうがなかろうが、そんなことは関係ないんだ」
トリスタンが素っ気なく言うと、ブライソンはどこか責めるように口を開いた。
「私にはそうは思えませんが」
「……根拠は?」
「本当に体面さえ保たれていれば良いのなら、あのような親密な行為を許してまで旦那様を引き留めたりしないでしょう」
真っ直ぐに向けられた従者の視線を受け止めて、トリスタンはにやりとした。
「やっぱり見ていたんじゃないか、この下衆野郎」
「お褒めに預かり光栄です」
ブライソンは一瞬不敵な笑みを浮かべると、澄ました表情で恭しく首を垂れた。ブライソンとは長い付き合いだが、彼がトリスタンの行動に口を挟んだのは、これが初めてのことだった。彼は寡黙で賢い男で、トリスタンは彼を誰よりも信頼していた。
「頼むから余計なことをしないでくれよ、ブライソン。ぼくは妻の許可がなければ彼女に触れることすらできない憐れな男なんだ。ようやく手に入れた特権を取り上げられたりしようものなら、たまったもんじゃない」
トリスタンが皮肉に笑って見せると、ブライソンは微かに眉間に皺を寄せて、無言で首を縦に振った。読みかけの書類を手にしたまま、トリスタンは身を乗り出して続けた。
「そんなことより、二週間後のラーズクリフ伯爵夫人——いや、前伯爵夫人か——の誕生日を祝うハウスパーティーの件だが、ミス・ヴァイオレットとミセス・ドノヴァンにもご同行を願いたいんだ。あそこの庭園は壮観だ。仲良しの姉が一緒のほうが、彼女も散策を楽しめるだろう。話はぼくのほうでつけておくから、迎えの馬車の手配を頼むよ。さすがに、移動中の妻との時間を邪魔されたくはないからね」
トリスタンが言い終えると、ブライソンは畏まり、「仰せのままに」とお辞儀をした。それから彼は廊下に出て、書斎の扉を静かに閉めた。
トリスタンは大きく息を吐いた。椅子に凭れて伸びをして、それから足元に目を向けた。床に寝そべり、彼の靴に顎を載せていた愛犬のジェームズが、顔をあげ、くうんと切ない声で鳴いた。
シャノンにキスを迫ったのは、あらぬ疑いをかけられた腹癒せにちょっと意地悪をしようと思っただけのことで、約束を反故にするつもりなんて、トリスタンにはなかった。彼女が彼の要求を受け入れるだなんて、そもそも思ってもみなかったのだ。
彼女の唇の柔らかな感触と甘い吐息のぬくもりが、まだ唇に残っていた。永遠の愛を誓ったあの日から——いや、それよりもずっと以前から、彼はシャノンに焦がれてきた。あのとき我に返るのが一瞬でも遅れていたら、きっと取り返しのつかないことをしていたはずだ。
「心配かい?」
ジェームズの頭を撫でて、トリスタンはつぶやいた。真っ直ぐに自分を見上げるつぶらな瞳の持ち主に、彼は思いを打ち明けた。
「ぼくは心配だ。このまま約束を守り続けられるかどうか、正直言って自信がないよ」
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