メイウッド家の双子の姉妹

柴咲もも

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捻くれ子爵の不本意な結婚

◎19

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 ふんわりと柔らかいベッドの端に腰掛けて、シャノンは暖かな明かりが灯る照明器具を見上げていた。カットグラスに反射した光がきらきらときらめいて、黄金色の輝きを湛えている。今シーズンに入ってからシャノンが暮らしていたテラスハウスでも照明には電球が使われていたけれど、それらの電球は丸裸で、小型のシャンデリアを模したこの部屋の照明とは似ても似つかない、飾り気のないものだった。うっすらと光が透ける繊細なヴェールに覆われたこのベッドも、生まれて初めて目にしたものだ。壁際のサイドテーブルには傘付きの照明器具が置かれていて、今は明かりを消してある。初夏ということもあり、役目のない暖炉には柵が設けられ、マントルピースの上には燭台と花瓶が飾ってあった。
 シャノンは緊張していた。披露宴を終えてから屋敷に戻り、侍女代わりのメイドに付き添われて入浴を終えたあと、身体を隅々まで入念に手入れされた。寝間着として用意されたのは真っ白なモスリンのネグリジェで、肩が露出するほど広い襟ぐりには細やかなレースがあしらわれ、踝まで届くワンピースの裾にもレースとフリルの装飾が施されていた。肌触りなめらかな柔らかい布地はごく薄く、肌が透けてしまいそうでちょっぴり心許ない気もするけれど、新婚初夜という状況を考えれば、花婿をその気にさせるにはうってつけのものなのだろう。
 ——花婿。
 馴染みのないその言葉を胸の奥で繰り返して、シャノンは静かに目を閉じた。披露宴でのファーストダンスでシャノンの身体を抱き寄せた、逞しい腕の感触をまだ覚えていた。まるで本当に愛しい女性をみつめるような、優しい眼差しのアーデンの笑顔が忘れられない。
 披露宴では夢のようなひとときを味わうことができた。皆が冷やかす声に応えて彼が楽しそうに笑うから、シャノンはパーティーのあいだじゅう、幸せで胸がいっぱいだった。今だって、緊張はしているけれど後悔はしていない。たとえこの結婚が、嘘で塗り固められたものであったとしても。
 本来ならば、披露宴を終えた新郎新婦はすぐに新婚旅行に発つことが多いけれど、シャノンたちは違っていた。シーズンも終わりとはいえ、手掛けている事業の関係でする事がたくさんあるとかで、アーデンは明日には街のテラスハウスに帰るのだという。そういった事情もあって、ふたりは今夜、プラムウェル・マナーで初めての夜を迎えることになったのだ。
 披露宴のあとも、屋敷の広間では紳士たちが集まって、酒や煙草、カードゲームにビリヤードを愉しんでいた。女性は応接間に移動して、果実酒と噂話に花を咲かせていた。今もまだ残っている客がいるようだけれど、プラムウェル・マナーの広大な屋敷の一角にあるこの部屋までは、何の物音も聞こえてこない。この部屋は世間から隔絶された、まさに愛し合うふたりだけのために用意された場所なのだ。
 シャノンは大きく深呼吸をして、膝の上でネグリジェをきゅっと握り締めた。緊張のせいか、唇が異様に乾いていた。舌で舐めて湿らせたところで、シャノンはふと彼の言葉を思い出した。
 ——そんな誘うような真似をしていては、ぼくが今、突然きみにキスしても文句は言えないよ。
 あんなことを言っておきながら、結局、彼は初めて出会ったあの夜以来、一度もシャノンにキスしていなかった。久しぶりの誓いのキスも、羽毛のように軽い、優しく触れるだけのものだった。あの夜のような——シャノンの全てを奪うような情熱的なキスを、今夜、彼はくれるだろうか。
 シャノンがうつむいて、毛の長い絨毯を爪先でなぞっていると、くぐもったノック音が部屋に響いた。
「どうぞ」
 シャノンが慌てて応えると、ドアノブがかちゃりと音を立て、扉が静かに開かれた。
 アーデンだ。他の誰かが訪ねてくる可能性だってゼロではないのに、シャノンはそう直感した。

 はたして彼は現れた。顔をあげたシャノンと目が合うと、アーデンは一瞬表情を強張らせて、扉の前で立ち止まった。今夜の彼は、ゆったりとした紺色のシルクのドレッシングガウンを着ていた。いつもは綺麗に整えられている髪が無造作に撫で付けてあるせいか、どこか少年のような面影がちらついて、シャノンと十近く歳が離れているとは思えない。
 シャノンがぼんやり彼の顔をみつめていると、彼はいつものように高慢な笑みを浮かべて、部屋に入ってシャノンの隣に腰を下ろした。
「浮かない顔だね、ダーリン」
 囁いて、ゆるく編んだ涅色の髪を弄ぶ。シャノンは思わずうつむいた。全身がみるみる熱をあげて、頬がかっと熱くなる。慌てて目を瞑り、身体の震えを抑えるように膝の上で握った拳にちからを込めた。
 シャノンの髪を弄んでいた彼の手が動きを止める。
「そんなに怖がらないでくれ。きみが嫌がるようなことはしない」
 どこか苦渋が滲むざらついた低い声に、シャノンははっと顔をあげた。
「違うわアーデン、私は——」
「トリスタンだ」
「え……?」
 聞き慣れないその言葉にぱちくりと目を瞬かせていると、彼は穏やかに笑い、シャノンの頬に優しく触れた。
「きみの夫の名前だよ。式のときに牧師の話を聞いていなかったのかい?」
「ごめんなさい、緊張していて……」
「今日からきみもアーデンなんだ。ふたりきりのときは名前で呼んでくれ」
 あまく囁くように促されて、シャノンはたった今知った夫の名前を口にした。
「トリスタン」
 心地良く響くその音を胸の奥に刻みつける。彼は珈琲色の眼をすっと細め、ゆっくりとうなずいた。
「そう……そうね、トリスタン。私の名前はシャノンよ」
 シャノンが言うと、アーデンはくっと噴き出しかけた笑いを堪え、シャノンの頬を掠めるように撫でた。
「知ってるよ、ダーリン」
 あまったるい猫なで声に、身体の隅々まで痺れがはしる。身体の震えが彼に伝わらないようにと祈りながら、シャノンはネグリジェの胸元を握り締めた。
 アーデンは微かに眉を顰めると、シャノンから身を離し、ガウンのポケットに手を突っ込んだ。そうしてシャノンの目の前にガラスの小瓶を差し出した。
「何だと思う?」
 見ると、小瓶の中で赤い液体が波打っている。シャノンが首を傾げると、彼はにやりと口の端を吊り上げた。
「豚の血だよ」
「豚の……?」
「そう、豚だ」
 彼がうなずく。シャノンはあっと声をあげた。
「もしかして私の……その、の代わりに?」
「そのとおり」彼は笑い、得意げに言った。「結婚を法的に有効なものにするためには初夜の契りが必要だろう? アリバイ工作のために、昨夜、養豚場までひとっ走りしてきたんだ」
「嘘でしょう?!」シャノンは噴き出した。「養豚場って……私はてっきり、お友達と独身最後の夜スタッグ・ナイトを楽しんできたものだと思っていたわ」
「もちろん、男だらけの乱痴気騒ぎにも付き合ってきたさ。でも、こういうことにはリアリティが必要だろう? 新鮮な血を手に入れるためには夜のうちにやるしかなかったんだ。わかるかい、ダーリン?」
「だからって、そんな……」
 馬鹿げた工作を大真面目に実行しようとしている彼の行動がおかしくて、シャノンがくすくす笑っていると、アーデンは低く唸り、シャノンの顎を指で掬って上向かせた。
「残念ながら、きみの夫は式の前夜に養豚場に走るような、おかしな男というわけさ。痩せっぽっちの子豚さん」
 珈琲色の瞳が妖しく光る。シャノンはごくりと息を呑み、無意識に唇を湿らせた。
「とにかく、床入りの件に関してはこいつでアリバイを作る。これは決定事項だ」
 素早くシャノンから身を離し、アーデンはまるで自分に言い聞かせるかのように言った。寝台に上がり、中央で小瓶の蓋に手を掛けて、それから彼は動きを止め、掠れた声でつぶやいた。
「シャノン、まだ——」
 彼が言葉を詰まらせる。シャノンがきょとんとしていると、彼は軽く首を振り、小瓶の蓋を開けた。きゅぽん、と小気味良い音が静かな部屋に響く。
「どうかしたの?」
「いや、いい。愚問だった。ほら、そこをどいて。汚れるよ」
 続きを促そうとするシャノンの身体を片手で軽く押し退けると、アーデンは小瓶の中身を少しずつ白いシーツに馴染ませた。鮮やかな紅が、純白のシーツを染めていく。
「こんなに血が出るものなの?」
「どうかな。さすがのぼくも、処女を相手にしたことはないからね」
 広がっていく紅い染みを見下ろしたまま、アーデンが言った。シャノンも彼の隣に膝をつき、紅く染まりゆくシーツをみつめ続けた。
「きっと私は痛がったでしょうね」
「だろうね。でもぼくはやめなかった。泣きながらしがみついてくるきみを乱暴に奪い尽くしたんだ」
 彼は笑い、「そういうことにしておこう」とシャノンに言った。
 不思議と楽しい気分だった。まるで子供の頃に戻ったみたいだった。アーデンは近所のいたずらっ子で、悪巧みを考えてはシャノンを誘いにやってくる。シャノンは罪悪感を抱くものの、それに勝る好奇心を抑えきれず、差し伸べられた彼の手を取って、大人が口を揃えて言う「いけないこと」をたくさんするのだ。
 シャノンがくすくす笑っていると、アーデンは指先でくすぐるようにシャノンの顎を掬い、啄ばむように唇をあまく食んだ。あたたかな吐息が重なり、息が詰まる。シャノンは胸がいっぱいになった。
 やがてゆっくりと吐息が遠ざかり、彼の愁い顔がシャノンの目に映った。
「約束を破ってすまないが、今のはできればノーカウントでお願いしたい。新婚初夜に何もなしでは、さすがに立つ瀬がないからね」
 皮肉な口振りでそう言うと、彼はふいと顔を背け、シャノンに背を向けてベッドを立った。
「ちょっと狭いかもしれないが、きみはシーツが汚れていない場所で寝るといい。ぼくは明日の朝までそこのソファで寝る」
 淡々とそう告げてソファに向かい、二人掛けのソファに横になる。座面に収まりきらない脚が、肘掛けの上に投げ出された。
「おやすみ、ダーリン」
「ええ、おやすみなさい……トリスタン」
 瞼を閉じたアーデンの横顔をみつめたまま、シャノンは毛布の中に潜り込んだ。
 唇があまく痺れていた。アーデンが——トリスタンがキスしてくれた、その感触を思い出すだけで、胸がきゅんと締め付けられた。眠りに落ちるそのときに、彼が同じ部屋にいる、ただそれだけで、こんなにも安心できるなんて。

 シャノンはゆっくりと目を閉じた。穏やかな眠りへと誘う闇の中で、彼女は思った。
 彼が優しくしてくれるなら、一番になれなくてもいいだなんて、そんな考え、馬鹿げてるわ。

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