滅びゆく竜の物語

柴咲もも

文字の大きさ
上 下
66 / 90
第二章 死する狼のための鎮魂歌

秘密①

しおりを挟む
 深い夜の闇に覆われたアルティジエの街の、その片隅に建つ『羊の安らぎ亭』の一室に、ぽつりと明かりが灯る。やがて、屋根に並んだ煙突から濃灰色の煙が一筋立ち昇った。
 静まり返った部屋で、暖炉の火にかけられた薬缶がシュンシュンと音を立てていた。
 注ぎ口から水蒸気が噴き出るのを確認すると、マリアンルージュは薬缶を手に取り、ローテーブルに並べられたふたつのカップに湯を注いだ。

「はい。熱いから気をつけてね」

 差し出されたカップに少女がおずおずと手を伸ばすと、隣に座っていた少年が躊躇いなくマリアンルージュからカップを受け取り、少女に手渡した。
 肩にかかる胡桃色の髪と黒い瞳を持つ幼い少女は、人間で言うなら十歳かそこらだろうか。二人掛けのソファに並んで座る少年と少女は、見た目は普通の人間となんら変わりがなかった。

「……耳と尻尾はどうしたんです?」

 ゼノが尋ねると、少年は怯える少女を気遣いながらその問いに答えた。

「……から逃げるには、人型になる必要があった。それだけだ」

 数日前、僅かではあるが森で行動を共にした小生意気な人狼ヒトオオカミの少年――リュック。イヌ科のそれらしい肉厚な三角耳もふさふさの尻尾も隠してはいるが、どうやら間違いないようだ。となれば、おそらく隣に座る少女も彼の同族だろう。

「それにしても驚きました。こんな時間にどうしたんです?」

 腕を組み、窓辺に寄り掛かかってゼノが問いかける。湯気の立つカップにふうふうと息を吹きかけていたリュックは、ゼノの言葉に動きを止めると、僅かに声を潜め、深刻な面持ちで語り出した。

「お前らと別れたあと、オイラ、村に帰るつもりだったんだ。……けど、帰れなかった。……村が燃えてたんだ。焼き討ちにあったみたいに」

 視線を落とし、カップの中の揺れる水面をみつめたまま、リュックは続けた。
 炎に包まれる村を目にして思わず叫声を上げそうになったものの、森に逃げ込む少女の姿を目にして我に返ったこと。追手に追われながらもふたりは合流し、森を抜け出したこと。
 ここに辿り着くまでの経緯を詳細に語るリュックの声は、普段のお調子者の彼の声とは違っていた。

「村を焼き払ったのがどんなヤツらなのか、オイラは知らない。だけど、丘の上に並んでたあの影は確かに人間のものだった。村でときどき噂されてた盗賊団だったかもしれない。……けど、とにかく人間は信用できないと思ったんだ」

 吐き捨てるようにそう告げて、リュックは顔を上げ、ゼノの方へと視線を向けた。

「でも、俺とマリアのことは信じられる、そう思ったんですね」
「……少なくとも、村を焼き払ったヤツらとは違う」
「そうですか」

 ふたりの会話の途中、ずっと縮こまっていた少女が怯えるようにリュックの腕に縋り付いた。暖炉の明かりだけの薄暗い部屋の中、ゼノもリュックも話に夢中で、少女のことには気が回っていなかった。
 ただひとり、それに気付いたマリアンルージュは、怪訝な表情で小首を傾げた。

 リュックが話を終えると、ゼノは腕を組んだまま黙り込んだ。エストフィーネ村の事件のこともあり、正直な話、これ以上厄介ごとに巻き込まれるのは御免だと思っていた。
 信用され、頼られることに関しては嬉しいような気もするが、村を焼かれ、帰る場所をなくしたリュックと少女に、ゼノがしてやれることなど何もない。追手から匿うにしても、ゼノもマリアンルージュも数日後にはこの街を発つのだ。それまでに事態が解決に向かうとは、とても考えられなかった。

「村が襲われたのは数日前なんだよね?」

 唐突に沈黙を破ったのは、黙って様子を見守っていたマリアンルージュだった。

「今、この宿にレジオルディネの憲兵隊が泊まっているんだけど、その隊長さんが盗賊団の討伐を終えて残党を追ってるって言ってたんだ。村を襲ったのが盗賊なら、もうしばらく待てば安全になると思うよ」

 マリアンルージュの言葉は、怯える少女を安心させたい気持ちからの言葉だったのだろう。だが、それを聞いても尚、少女はリュックの腕に更にきつくしがみつき、首を横に振るばかりだった。
 少女の頑なな態度に眉を顰め、ゼノは先ほどから気にかかっていたことをリュックに尋ねた。

「その子は、言葉を話せないんですか?」

 確認するようなゼノの言葉に、リュックが一瞬、目を丸くして動きを止める。怯える少女をちらりと見やり、

「オイラは村が焼かれたのを見ただけで、村のみんなが殺されるのを見たわけじゃないから、正直まだ実感が湧かない。……でもレティは違う。きっと酷い光景を見たんだと思う」

そう言って、少女の髪を優しく撫でた。

「……なるほど、心因性の失声症ですか」
「失声症?」

 ゼノの言葉に、リュックとマリアンルージュが声を揃えて言った。
 ふたりの視線に応えるように頷いて、ゼノは淡々と説明した。

「精神的なストレス――彼女の場合、目の前で多くの人が殺されたことが精神に過剰な負担をかけて、その結果、声を発することができなくなってしまったんだと思います」

 リュックと少女の表情が曇る。
 ふたりを気にしたのか、マリアンルージュが不安気にゼノに尋ねた。

「それって治るの……?」
「心理的な要因を解消できれば……おそらく」
「そっか……」

 ゼノの答えに、マリアンルージュがほっと息を吐く。具体的な治療法はわからないとはいえ、不安を抱えた三人には『治る』という言葉そのものが重要だったのだろう。リュックと少女もどことなく安心したようにみえた。

「取り敢えず、今日は休んだほうがいいよ。何日も森を走って疲れてるだろうし。明日、おばさんとおじさんに相談してみよう?」

 そう言うと、マリアンルージュは薬缶の湯を水桶に注ぎ、ぬるま湯にタオルを浸して少女の前に差し出した。リュックも少女も傷だらけで、身に纏った衣類はすっかり泥にまみれていた。

「はい、ふたりはあっち向いて!」

 湿らせた温かいタオルをリュックに手渡し、ゼノの腕を引くと、マリアンルージュは壁を向くようにふたりを促した。
 身体を拭き終えたリュックと少女に、白いシャツとブラウスを手渡して着替えさせたあと、マリアンルージュは思い出したようにリュックに尋ねた。

「そういえば、この子の名前はなんていうの?」
「レティシアだよ。村のみんなはレティって呼んでた」

 リュックの言葉に続くように、少女――レティシアが小さく頷いた。

「そう。それじゃあ、よろしく、レティ」

 優しく微笑んでマリアンルージュが手を差し出すと、レティシアは躊躇いがちにその手を握った。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

旦那の真実の愛の相手がやってきた。今まで邪魔をしてしまっていた妻はお祝いにリボンもおつけします

暖夢 由
恋愛
「キュリール様、私カダール様と心から愛し合っておりますの。 いつ子を身ごもってもおかしくはありません。いえ、お腹には既に育っているかもしれません。 子を身ごもってからでは遅いのです。 あんな素晴らしい男性、キュリール様が手放せないのも頷けますが、カダール様のことを想うならどうか潔く身を引いてカダール様の幸せを願ってあげてください」 伯爵家にいきなりやってきた女(ナリッタ)はそういった。 女は小説を読むかのように旦那とのなれそめから今までの話を話した。 妻であるキュリールは彼女の存在を今日まで知らなかった。 だから恥じた。 「こんなにもあの人のことを愛してくださる方がいるのにそれを阻んでいたなんて私はなんて野暮なのかしら。 本当に恥ずかしい… 私は潔く身を引くことにしますわ………」 そう言って女がサインした書類を神殿にもっていくことにする。 「私もあなたたちの真実の愛の前には敵いそうもないもの。 私は急ぎ神殿にこの書類を持っていくわ。 手続きが終わり次第、あの人にあなたの元へ向かうように伝えるわ。 そうだわ、私からお祝いとしていくつか宝石をプレゼントさせて頂きたいの。リボンもお付けしていいかしら。可愛らしいあなたととてもよく合うと思うの」 こうして一つの夫婦の姿が形を変えていく。 --------------------------------------------- ※架空のお話です。 ※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。 ※現実世界とは異なりますのでご理解ください。

骸骨と呼ばれ、生贄になった王妃のカタの付け方

ウサギテイマーTK
恋愛
骸骨娘と揶揄され、家で酷い扱いを受けていたマリーヌは、国王の正妃として嫁いだ。だが結婚後、国王に愛されることなく、ここでも幽閉に近い扱いを受ける。側妃はマリーヌの義姉で、公式行事も側妃が請け負っている。マリーヌに与えられた最後の役割は、海の神への生贄だった。 注意:地震や津波の描写があります。ご注意を。やや残酷な描写もあります。

【完結】私だけが知らない

綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

処理中です...