44 / 90
第二章 死する狼のための鎮魂歌
狩り①
しおりを挟む
夜明けを告げる鳥の声が、静まり返った森に響き渡る。
木の葉から滴る朝露を頬に受けて、ゼノは目を覚ました。数回まばたきを繰り返し、朝靄のかかるおぼろげな視界に目を凝らせば、砂利の敷き詰められた川縁に残された昨夜の焚き火の跡が目に入った。
腕を伸ばして焼け焦げた木片に手をかざす。まだほんのりと熱を帯びていることから、少し前まで誰かが火を灯し続けていたことが窺えた。
思い当たる人物など、一人しかいない。
「マリア……?」
辺りを見回そうと身を起こすと、肩に掛けられていた布が地面にはらりと落ちた。慌てて拾い上げた少し厚手の亜麻色のマントは、マリアンルージュが普段から身に付けているものだった。
交代で火の番をしていたはずなのに、マリアンルージュと番を代わった記憶がない。ゼノが眠りこけていることに気が付き、彼女が気を利かせてくれたのだろう。
マリアンルージュを守るなどと、あの男に大口を叩いておきながら、実に情けない。
眉を顰めて額に手を充てると、ゼノは大きく溜め息を吐いた。
マリアンルージュは何処に行ったのか。夜が明けるまで火の番をしていたのだから、そう遠くへ行っているとは考え難い。
思考をめぐらせて項垂れたまま座り込んでいると、砂利を踏みしめる足音が微かに耳に届いた。
ゼノが咄嗟に目を向けると、川縁に沿った茂みの向こうから、マリアンルージュがひょっこりと顔を覗かせた。
「おはよう、ゼノ。良く眠れた?」
屈託のない笑顔でそう言って、彼女は小走りにゼノの元へ駆けてきた。
川で水浴びでもしたのだろうか。
薄手の白い襯衣を一枚身に付けただけの彼女の髪はしっとりと濡れており、白い肌を幾筋もの水滴がつたっていた。張り付いた布が薄っすらと肌を透かしているのがなんとも艶かしい。
「なっ……なんて格好してるんですか!」
思いがけず大声をあげ、ゼノは慌てて目を背けた。
まずは謝罪と感謝の意を伝えるつもりだったが、それどころではない。
ゼノ自身、性的感情に関しては疎いほうだと思っているが、あられもない姿のマリアンルージュを前に平然としていられるほど達観しているわけでもない。
近付くなと言わんばかりに両手を突き出すゼノを見て、マリアンルージュがぴたりと足を止める。小首を傾げ、そのまま自身の姿を確認した彼女は、たちまち頬を紅く染め上げると、慌てふためいてゼノに背を向け、脇に抱えていたローブを頭からすっぽりと被った。
「すまない、野宿が続くと臭うと思って、水浴びを……」
しどろもどろになりながら装いを正して向き直り、マリアンルージュがおずおずとゼノの顔を見上げる。
「見苦しい姿を見せてしまって、その……ごめん」
まるで叱られた子供のように呟いて、しゅんとして肩を落とした。
謝るべきなのは、火の番もろくに果たさずに眠りこけてしまったゼノのほうであり、臭うのもおそらく、血塗れの上着を何日も着たままのゼノのほうだ。
マリアンルージュの先程の行動は迂闊すぎるとは思うが、謝られるようなことではない。ゼノも歴とした男であり、マリアンルージュのように容姿に恵まれた女性の際どい姿であれば、目にして嬉しいと思うことこそあれ、不快な気分になることなどないというものだ。
「いえ、貴女は女性なのですから、こちらが配慮するべきでした。昨夜のことも本当に申し訳ありません。それに、野宿が続くと臭うと貴女は言いますが、どちらかといえば良い匂――」
早口で捲し立てたところで、ゼノは慌てて口を閉じた。
思わず本音を口にするところだった。
きょとんとしてゼノを見上げるマリアンルージュの視線が痛い。
「……要するに、謝るべきなのは貴女ではなく、俺のほうだと言いたかったんです」
軽く咳払いしてゼノが前言を誤魔化すと、マリアンルージュははにかむように表情を綻ばせた。
「ありがとう。相変わらずきみは優しいね」
そう言って、くすりと笑みを溢す。
初めて言葉を交わしたあのときも、彼女は「きみは優しいね」と言ってくれた。
それならば、イシュナードがいなくなった今でも、皆に忌み嫌われる闇色の髪の自分を「好きだ」と言ってくれるだろうか。
感傷的になりつつあったゼノだったが、その思考は唐突に遮られた。
「あっ……!」
「どうかしましたか?」
何事かと身構えるゼノに、マリアンルージュは無邪気に笑って言った。
「大事なことを忘れていたよ。朝ごはんはどうする?」
木の葉から滴る朝露を頬に受けて、ゼノは目を覚ました。数回まばたきを繰り返し、朝靄のかかるおぼろげな視界に目を凝らせば、砂利の敷き詰められた川縁に残された昨夜の焚き火の跡が目に入った。
腕を伸ばして焼け焦げた木片に手をかざす。まだほんのりと熱を帯びていることから、少し前まで誰かが火を灯し続けていたことが窺えた。
思い当たる人物など、一人しかいない。
「マリア……?」
辺りを見回そうと身を起こすと、肩に掛けられていた布が地面にはらりと落ちた。慌てて拾い上げた少し厚手の亜麻色のマントは、マリアンルージュが普段から身に付けているものだった。
交代で火の番をしていたはずなのに、マリアンルージュと番を代わった記憶がない。ゼノが眠りこけていることに気が付き、彼女が気を利かせてくれたのだろう。
マリアンルージュを守るなどと、あの男に大口を叩いておきながら、実に情けない。
眉を顰めて額に手を充てると、ゼノは大きく溜め息を吐いた。
マリアンルージュは何処に行ったのか。夜が明けるまで火の番をしていたのだから、そう遠くへ行っているとは考え難い。
思考をめぐらせて項垂れたまま座り込んでいると、砂利を踏みしめる足音が微かに耳に届いた。
ゼノが咄嗟に目を向けると、川縁に沿った茂みの向こうから、マリアンルージュがひょっこりと顔を覗かせた。
「おはよう、ゼノ。良く眠れた?」
屈託のない笑顔でそう言って、彼女は小走りにゼノの元へ駆けてきた。
川で水浴びでもしたのだろうか。
薄手の白い襯衣を一枚身に付けただけの彼女の髪はしっとりと濡れており、白い肌を幾筋もの水滴がつたっていた。張り付いた布が薄っすらと肌を透かしているのがなんとも艶かしい。
「なっ……なんて格好してるんですか!」
思いがけず大声をあげ、ゼノは慌てて目を背けた。
まずは謝罪と感謝の意を伝えるつもりだったが、それどころではない。
ゼノ自身、性的感情に関しては疎いほうだと思っているが、あられもない姿のマリアンルージュを前に平然としていられるほど達観しているわけでもない。
近付くなと言わんばかりに両手を突き出すゼノを見て、マリアンルージュがぴたりと足を止める。小首を傾げ、そのまま自身の姿を確認した彼女は、たちまち頬を紅く染め上げると、慌てふためいてゼノに背を向け、脇に抱えていたローブを頭からすっぽりと被った。
「すまない、野宿が続くと臭うと思って、水浴びを……」
しどろもどろになりながら装いを正して向き直り、マリアンルージュがおずおずとゼノの顔を見上げる。
「見苦しい姿を見せてしまって、その……ごめん」
まるで叱られた子供のように呟いて、しゅんとして肩を落とした。
謝るべきなのは、火の番もろくに果たさずに眠りこけてしまったゼノのほうであり、臭うのもおそらく、血塗れの上着を何日も着たままのゼノのほうだ。
マリアンルージュの先程の行動は迂闊すぎるとは思うが、謝られるようなことではない。ゼノも歴とした男であり、マリアンルージュのように容姿に恵まれた女性の際どい姿であれば、目にして嬉しいと思うことこそあれ、不快な気分になることなどないというものだ。
「いえ、貴女は女性なのですから、こちらが配慮するべきでした。昨夜のことも本当に申し訳ありません。それに、野宿が続くと臭うと貴女は言いますが、どちらかといえば良い匂――」
早口で捲し立てたところで、ゼノは慌てて口を閉じた。
思わず本音を口にするところだった。
きょとんとしてゼノを見上げるマリアンルージュの視線が痛い。
「……要するに、謝るべきなのは貴女ではなく、俺のほうだと言いたかったんです」
軽く咳払いしてゼノが前言を誤魔化すと、マリアンルージュははにかむように表情を綻ばせた。
「ありがとう。相変わらずきみは優しいね」
そう言って、くすりと笑みを溢す。
初めて言葉を交わしたあのときも、彼女は「きみは優しいね」と言ってくれた。
それならば、イシュナードがいなくなった今でも、皆に忌み嫌われる闇色の髪の自分を「好きだ」と言ってくれるだろうか。
感傷的になりつつあったゼノだったが、その思考は唐突に遮られた。
「あっ……!」
「どうかしましたか?」
何事かと身構えるゼノに、マリアンルージュは無邪気に笑って言った。
「大事なことを忘れていたよ。朝ごはんはどうする?」
0
お気に入りに追加
54
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
旦那の真実の愛の相手がやってきた。今まで邪魔をしてしまっていた妻はお祝いにリボンもおつけします
暖夢 由
恋愛
「キュリール様、私カダール様と心から愛し合っておりますの。
いつ子を身ごもってもおかしくはありません。いえ、お腹には既に育っているかもしれません。
子を身ごもってからでは遅いのです。
あんな素晴らしい男性、キュリール様が手放せないのも頷けますが、カダール様のことを想うならどうか潔く身を引いてカダール様の幸せを願ってあげてください」
伯爵家にいきなりやってきた女(ナリッタ)はそういった。
女は小説を読むかのように旦那とのなれそめから今までの話を話した。
妻であるキュリールは彼女の存在を今日まで知らなかった。
だから恥じた。
「こんなにもあの人のことを愛してくださる方がいるのにそれを阻んでいたなんて私はなんて野暮なのかしら。
本当に恥ずかしい…
私は潔く身を引くことにしますわ………」
そう言って女がサインした書類を神殿にもっていくことにする。
「私もあなたたちの真実の愛の前には敵いそうもないもの。
私は急ぎ神殿にこの書類を持っていくわ。
手続きが終わり次第、あの人にあなたの元へ向かうように伝えるわ。
そうだわ、私からお祝いとしていくつか宝石をプレゼントさせて頂きたいの。リボンもお付けしていいかしら。可愛らしいあなたととてもよく合うと思うの」
こうして一つの夫婦の姿が形を変えていく。
---------------------------------------------
※架空のお話です。
※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。
※現実世界とは異なりますのでご理解ください。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
骸骨と呼ばれ、生贄になった王妃のカタの付け方
ウサギテイマーTK
恋愛
骸骨娘と揶揄され、家で酷い扱いを受けていたマリーヌは、国王の正妃として嫁いだ。だが結婚後、国王に愛されることなく、ここでも幽閉に近い扱いを受ける。側妃はマリーヌの義姉で、公式行事も側妃が請け負っている。マリーヌに与えられた最後の役割は、海の神への生贄だった。
注意:地震や津波の描写があります。ご注意を。やや残酷な描写もあります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる