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恋人未満な夫婦の話(2)

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 エレベーターを降りると目の前は開けたホールになっており、その中心に品の悪くない程度に高級な玄関扉がある。
 彼女の自宅の玄関だ。

 ドアノブに手をかけ鍵が掛かっているのを確認すると、彼女はカードキーをセンサーに通した。ロックが解除される音を確認してドアノブを回すと、音もなく玄関の扉が開く。
 内側から鍵を掛けなおしてヒールを脱ぎ、足元に並べられたスリッパを履いた。足音を立てないように廊下を進むと、リビングに仄かな灯りが確認できた。
 もう深夜二時を回ろうという時間なのに、夫はまだ起きているのだろうか。
 リビングのドアを開き、室内を覗き見る。夫の姿はなかった。リビングから繋がるダイニングに置かれた白を基調とした品のいい高級テーブルに、一人前の夕食の用意がされていた。
 伏せて置かれた彼女愛用のカップと茶碗と汁椀、中央に置かれたブリ大根と付け合せの惣菜にはラップがかけられていた。晩酌用の刺身とお酒は冷蔵庫の中だろう。

 せっかく用意してくれたのにと申し訳ない気持ちになったけれど、さすがにこの時間に食事をとる気にはなれなかった。

 ため息をついてキッチンに向かい、コップ一杯の水を飲み干した。
 ふとリビングに目を向けた彼女は、ソファの上に人影があることに気が付いた。リビングのドアを開けたときは死角になっていて気が付かなかったが、夫はソファの上で横になって眠っていた。大方、彼女の帰りを待っているうちに睡魔に負けてしまったのだろう。
 ソファで眠る夫の前に立ち、彼の髪にそっと触れた。

「寝るときは自室でって、言ったじゃない」

 そう呟くと、彼女は床に膝をつき夫の肩を揺さぶった。

「こんなところで寝ていたら風邪ひくわよ」

 彼女の二言目の呟きに反応して、彼がゆっくりと目を開けた。少しのあいだ彼女の顔をぼーっと見つめていたが、ハッとしたように飛び起きた。

「すみません、貴女が帰ってくるまで待っているつもりだったのに、つい眠ってしまいました」

 慌てたように謝罪の言葉を口にする彼を見て、彼女は静かに首を振った。連絡をしなかったのはこちらなのだから、謝る必要なんてないのに、と思いながら。

 夕食は外で済ませたこと、今夜はシャワーを浴びてそのまま寝ることを夫に伝えると、彼女は自室に向かった。

 寝間着と下着を抱え、バスルームに向かおうと再び廊下に出た。
 キッチンから食器を片付ける音が聞こえて、彼が彼女の分の食事の後片付けをしているのがわかった。
 申し訳ない想いに彼女は少し俯いて、バスルームのドアを開けた。

 シャワーを浴びてさっぱりしたところで、いつも寝る前に羽織っているカーディガンを部屋に忘れてきたことに気がついた。
 彼女愛用の寝間着は肩周りの露出が多いネグリジェだが、彼女は夫に寝間着姿を曝したことがなかった。彼の前では必ずカーディガンを羽織るようにしていた。
 脱衣所から部屋までは少し距離があるが、彼も後片付けを終えて部屋に戻っている頃だろう。それにもうシャワーは浴びてしまったのだから、今更脱ぎ捨てた服を着直して部屋に戻るような二度手間をかける気にもならなかった。
 濡れた髪をタオルで拭きながら、彼女は廊下に出た。そして硬直した。

「あ……」

 丁度後片付けを終えたのか、たった今リビングから出てきた彼と鉢合わせした。
 呆然と立ち尽くしている彼の前で、慌ててタオルを肩にかけ両手を胸の前で握り合わせて、彼女は廊下の壁際まで後退あとずさった。
 恥ずかしいところを見られてしまった。そう思って頬を紅く染め、彼女は俯いた。
 ぎしっと床を軋ませて、彼が一歩、また一歩と歩を進める。壁際で俯いたままの彼女と向かい合い、彼が立ち止まる。

 ただ廊下で、夫と鉢合わせしただけなのに、なぜこんなに彼女が緊張しなければいけないのか。その理由は、このふたりの特殊な夫婦関係に起因していた。

 結婚してから一年近くになるものの、ふたりのあいだには肉体関係が全くなかった。肌を重ねることは愚か、キスも抱擁も、手を繋いだことさえもなかった。
 彼女からそんな行為に及ぶことは恥ずかしくてできなかったし、そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、彼も無理矢理彼女に触れようとはしなかった。



 あの日、彼女がうっかり口を滑らせた求婚プロポーズの言葉を受け、少し黙り込んで俯いたあと、彼は不思議そうに彼女の顔をみつめた。
 元々口にするつもりはなかったとはいえ、結果的に想う相手に告白してしまった彼女は、固唾を飲んで彼の返事を待った。
 実際には数秒だったのかもしれない。けれども、そのときの彼女にとっては、彼の返事を待つあいだが、永遠にも感じられるほど長い時間に思えた。そのあいだ、彼が何を考えていたのかはわからない。長い長い数秒のあと、身を強張らせて棒立ちになっていた彼女に微笑みかけ、彼は頷いて「よろしくお願いします」と応えた。

 ふたりには交際期間がなかった。手を繋ぐことすらないまま夫婦になった。

 彼の返事を聞いたあと、彼女はすぐに婚約者との関係を解消した。父親に結婚することを告げ、反論の間も与えずに役所に向かい、婚姻届を提出した。
 彼女が親から会社を継いだことを受け、彼は会社を辞めて家庭に入った。使用人を雇うお金も充分にあったので、本当なら家事をしてもらう必要もなかった。だが、それでは流石に立場がないと彼が言ったので、家のことを任せることにした。

 彼は毎日、朝夕の食事を用意し、掃除も洗濯もそつなくこなした。彼女の仕事も順調だった。けれども、夫婦という関係になったあとも、ふたりの距離は変わらなかった。
 夫婦になり同じ屋根の下で暮らすようになれば、自然に性的な関係に及ぶものだと思っていた。
 だが、現実は違った。彼はいつも優しく従順で、たくさんの愛の言葉をかけてくれるけれど、決して彼女に手を触れることはなかった。
 必要以上に近付くこともなければ、夜に彼女の部屋を訪れることもなかった。
 彼女が帰宅する時間がいつも遅いのが原因とも考えられたが、それ以上に、彼自身が彼女との間に見えない壁を作っているように感じられた。



「そこ……」

 緊張で身動きが取れずにいた彼女から少し視線をずらし、彼が言った。彼の視線は彼女が背を預けていた壁に向けられていた。
 視線の意味に気がつき、彼女は慌てて壁から離れた。
 そこは壁の一部を扉にした建て付けの収納になっていて、買い置きの洗剤や日用品が片付けられていた。
 収納の扉を開き、詰め替え用の食器用洗剤を手に取ると、彼は彼女に背を向けてリビングへ向かおうとした。
 だが、彼は数歩進んで足を止めると、再び彼女に向き直り、ゆっくりと歩み寄ってきた。
 未だ壁際で立ち尽くしたままの彼女の、濡れた髪に、露出された肩と胸元に、順番に視線を落とすと、彼は彼女のをじっとみつめた。

「な…、なに……?」

 恥ずかしさで頬を紅く染め上げた彼女は、慌てて彼の行動の意図へと思考を巡らせた。彼の様子がどことなくいつもと違うように感じられた。
 真っ直ぐに彼女をみつめ続ける彼に気圧されて、思わず目を逸した。

 彼女の恥じらいを見て取り、おもむろに指先を彼女の肩へと伸ばすと、彼は躊躇いがちに彼女を引き寄せた。
 彼女の肩にかけられていたタオルがはらりと舞うように床に落ち、ほんのりと紅く上気した肌が露わになった。
 彼はゆっくりと目を閉じると、身動きが取れない彼女の唇に自身のそれをそっと重ねた。
 互いの唇がほんの少し触れるだけの、子供のようなキスだった。

 彼の唇の感触を直に感じ、その気恥ずかしさで彼女の顔が耳まで真っ赤に染まった。全身を強張らせ、胸の前で祈るように両手を握りしめて、彼女はただじっと、彼の唇が離れるのを待った。

 それは彼女にとって、初めてのキスだった。心臓が弾けてしまいそうなほど、胸の鼓動が高鳴っていた。
 時間にするとたった数秒のことだったに違いない。彼の唇が離れたことに気がつき、彼女は固く閉じていた目を開けた。
 やるせない表情かおで彼にみつめられ、彼女は息を呑んだ。
 彼が再び目を細め、ゆっくりと顔を近づけてきたので、彼女はもう一度固く目を閉じた。

 きっと次のキスは、先程のような唇を重ねるだけのものではない。映画のラブシーンで出てくるような、互いの舌を絡ませ合う激しいキスをするのだろう。感情が昂ぶって、それ以上の行為に及ぶのかもしれない。
 もしそうなったとしたら……。

 それはもう、これ以上ないほど幸せなことだと彼女は思った。ふたり一緒に暮らしはじめてから、彼女はずっと、彼とひとつになることを望んでいたのだから。

 しかし、彼は再び唇を重ねることをしなかった。固く目を閉じた彼女の顔をじっとみつめ、囁くように微かな声で「すみません」と呟くと、きびすを返してリビングへと戻っていった。

 何がなんだかわからない。リビングの中に姿を消した彼の背中を見送ったまま、彼女は呆然と立ち尽くした。







 落ち着いたデザインの高級なドレッサーに向かい、彼女は先程の夫の言葉について考えを巡らせていた。

 どうして彼は「すみません」などと言ったのだろう。
 突然ではあったけど、彼にキスされたって全然嫌じゃなかったのに。

 鏡に映る自身の顔を眺めながら、彼女は唇にそっと指で触れた。
 彼の唇の感触を、まだ覚えている。想像していた以上に柔らかくて、優しいキスだった。
 映画のラブシーンで目にするたびに、破廉恥な行為だと嫌悪していた舌を絡める大人のキスを、無意識に期待してしまった。婚約者だった男には触れられるのも嫌だったことを考えると、今の気持ちがとても不思議に感じられる。
 やはり、自分は彼を愛しているのだと再認識して、彼女は思わず笑みをこぼした。

 ベッドの上に横になり、柔らかな羽毛布団に身を包んで、彼女は思った。

 もしも明日の朝、彼が今夜のことを思い悩んでいるようなら、キスされても嫌ではなかった、むしろ嬉しかったのだと、きちんと伝えよう。

 時計の針は既に三時を回っていた。彼女はもう一度指先で唇に触れると、今頃隣の部屋で眠りについている彼女の夫に向けて「おやすみなさい」と囁いた。 




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