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1巻
1-3
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「エイドリアンさまの離縁と再婚が無事に済むまでは、デズモンドさまも迂闊な動きはしないでしょう。今、あなたの身に不幸が起これば、一族がみな喪に服さなければならなくなる。エイドリアンさまの愛人の子が、正式にスウィングラーの後継と認められるまでは、あなたが唯一の嫡子であることには変わりないのですから。ですが、すべてがつつがなく済んだあとなら、あなたが事故死したところで、さほど問題になりません」
アレクシアがウィルフレッドとともに向かうよう命じられた西の別邸は、深い山間にある小さな屋敷だ。かつては一族の者の静養に使われたというそこは、人里から遠く離れた場所にある。
彼の言うとおり、あそこならば何が起きたところで――アレクシアが不慮の事故に遭って死んだとしても、外部の人間に詳細を知られることはない。
ウィルフレッドが、押し殺した声で続ける。
「あなたが死ねば、オレは『主を守れなかった大罪人』として、死ぬまでスウィングラー辺境伯家に縛られる。自分で言うのもなんですが、オレはこの家の者たちからそれなりに評価されているんです。新たなスウィングラーの後継者の補佐となり得るオレを、僻地で腐らせるなどしないでしょう」
「……たしかに、そのとおりだな」
アレクシアは顔を伏せた。
魔術による〈主従契約〉により『従者』となった者は、『主』となった者に絶対的に従う。
追放されるアレクシアが、最後の盾であるウィルフレッドを自ら手放すなど、誰も想像すらしないに違いない。
それなり、どころか、ウィルフレッドの優秀さは領外にも知られるほどである。〈主従契約〉を解除させるか、もしくはアレクシアの死をもって契約を強制破棄し、彼を得ようとしてもおかしくない。
ウィルフレッドが実戦で通用するだけの力を身につけて以来、アレクシアは何度も彼を伴って前線に出ている。そのたびに、彼の働きについてはデズモンドにきっちり報告していた。
この一年、スウィングラー辺境伯領を守るための最重要戦力は、間違いなくウィルフレッドだった。
おまけに、アレクシアの従者でもある彼は、屋敷の事務作業にも精通している。新たな後継者の補佐役にするのに、彼ほど相応しい人材はない。
――アレクシアを殺して〈主従契約〉を強制破棄し、ウィルフレッドに責任を押しつける。そのうえで、彼女の兄弟と新たな〈主従契約〉を結ばせれば、彼は生涯スウィングラー辺境伯家から逃げられない。
デズモンドが描いている筋書きは、そんなところだろうか。
アレクシアは、顔をしかめた。
「おまえの優秀さを認められるのは、育てた身としては誇らしいところだが……。この状況では、さすがにそうも言っていられないか。これ以上、わたしのせいでおまえがこの家に縛られるなど、冗談ではないぞ」
ふむ、と頷き、アレクシアは改めてウィルフレッドを見上げた。
「ならばなおのこと、さっさと契約を解除せねばならんな。手を離せ、ウィル。これでは、おまえの紋章に触れない」
アレクシアが生きているうちに〈主従契約〉を解除してしまえば、ウィルフレッドだけはどこへでも自由に行けるはずだ。
なのに彼は、苛立たしげに口を開いた。
「あなたは、どうするのですか? これからオレを、自由にして。……たったひとりで」
「さてな。わたしはずっと、スウィングラー辺境伯家を継ぐべくして育てられた。そのために必要なことは可能な限り身につけたつもりだが、それ以外のことは何も知らない世間知らずだ。今後の身の振り方さえ、想像もできん。まあ、西の別邸に行ってから、ゆっくり考えるさ」
エイドリアンとブリュンヒルデの今後がきちんと定まるまでは、アレクシアの身に危険が及ぶ可能性は低い。
これほどの大事となれば、今日明日に決まるということはまずないだろう。
「〈主従契約〉を解除すれば、おまえがわたしを守る必要もない。できるだけ早く、スウィングラーの手が届かないところに行け。……ああ、そうだ」
そこでふと、大切なことを思い出す。アレクシアは頷き、言った。
「おまえがわたしを殺したいほどに憎んでいるのなら、そうしてくれ。どうせ、もう誰にも必要とされない身だ。それでおまえの気が晴れるのであれば、好きにしてくれて構わない」
そう告げた途端、アレクシアの手を掴むウィルフレッドの手の力が強くなった。
少しの沈黙のあと、彼は掠れた声で言う。
「……オレは、欲しい」
そのまま、引き寄せられた。
互いの体温が伝わるような至近距離で、ウィルフレッドが低く囁く。
「誰も……いらないと、言うのなら。あなたのすべてを、オレにください」
「……ウィル?」
アレクシアが目を瞬いて見上げた先、フォレストグリーンの瞳が、いつもよりも鮮やかに映った。
「オレには、あなたが必要です。……お願いします、アレクシアさま。あなたさえそばにいてくれれば、オレは誰よりも自由になれる」
低く響く彼の声が、凍てついていたアレクシアの心を震わせる。
「〈主従契約〉は、このままで結構です。オレは生涯、あなた以外の人間に従うつもりはありません」
震わせ、溶かす。
「はじめて会ったときから、あなただけがオレの希望だったんです。あなたさえいてくれれば、オレはなんでもできる。また、夢を見られる。……アレクシアさま。オレと一緒に、生きてください」
――自分とともに生きてほしい、と。
そう願っていたのは、アレクシアのほうだった。
掠れた声で、彼女は問う。
「おまえは……わたしを、憎んでいないのか?」
「はい。憎む理由が、ありませんから」
そんなバカな、とアレクシアは首を横に振った。
「わたしは無理矢理、おまえと〈主従契約〉を結んだんだぞ。そして、過酷な戦闘訓練と教育を押しつけた。なのになぜ、わたしを憎んでいないんだ?」
「……そうですね。相手がほかの人間なら、憎んでいたかもしれません」
ウィルフレッドが、少し声を和らげる。
「アレクシアさま。どうか、ご理解ください。あなたは、オレよりも可哀相な子どもなんです。生まれたときから、何ひとつ自由を知らない籠の鳥。……まあ、それにしてはずいぶんと物騒な爪を持っていらっしゃいますが。あなたとの戦闘訓練は、一瞬たりとも気が抜けなくて、いつも必死でしたよ」
そのとき、ほんのわずかながら彼が笑ったように見えて、アレクシアは目を見開いた。
「ままならない毎日を必死に足掻いて生きる、自分よりも哀れな子ども――それも、年下の女の子を憎むほど、オレは狭量ではありません。それにあなたは、理不尽なことは決して強いなかった。オレに、生きるための知恵と力を与えてくれたんです。感謝こそすれ、恨む理由などありませんよ」
そう言ったウィルフレッドは、強い意思を感じさせる瞳で彼女を見た。
「スウィングラー辺境伯家は、エイドリアンさまの愛人の子を選んで、あなたを捨てた。だったら、あなただってこの家を捨てていいはずだ。……お願いです、アレクシアさま。オレと一緒に、あなた自身もこの家から解放してください。あなたはもう、自由に生きていいんです」
「……自由」
アレクシアはずっと、ウィルフレッドをスウィングラー辺境伯家から解放し、自由にすることだけを夢見て生きてきた。自分が彼と同じように自由になることなど、想像さえしたことがなかったのだ。
彼女は紛れもなくこの家の娘で、スウィングラーに関わるすべてを守る義務があったから。
けれど――。
(わたしには、もう何もない)
デズモンドに「継承権を剥奪する」と伝えられたときから、本当は怖くてたまらなかった。
決して親しみを持てる相手ではなかったけれど、祖父はアレクシアにとって絶対的な庇護者だった。デズモンドの意思に従って動く人形のような自分が、彼の手を離れて生きていくなど、できるわけがない。
今もそう思うのに、ウィルフレッドの瞳が「それは違う」と、言葉よりも雄弁に伝えてくる。彼の体温と混ざり合う自分の熱が、アレクシアは人形ではないのだと教えてくる。
その熱が、彼女を突き動かす。
「ウィル。わたしは……スウィングラーの地を守ることしか、知らないんだ」
「そうですね。でも、知らないことなら、これから学んでいけばいいんです」
当たり前のようにそう言って、ウィルフレッドはほほえんだ。
――笑顔。
ずっと見てみたかったそれに、鼓動が乱れる。
「誰がなんと言おうと、オレにはあなたが必要です。大丈夫ですよ、アレクシアさま。オレが生きている限り、あなたを必要とする人間が、この世に必ずひとりはいます」
必要だ、なんて。
「……なぜだ?」
わからない。
すべてを失った自分には、もうなんの価値もないのに。
アレクシアはひどく混乱していた。なのに、自分を見つめるウィルフレッドの瞳から目をそらせない。
彼は、ふっと笑みを深めた。
「あなたが、オレを大切に思ってくれているからですよ。……アレクシアさま。たぶん、あなたが思ってくれているほど、オレは強くなんかない。オレはもう、ひとりになるのはいやなんです。あなたと一緒に、生きていたい」
――ひとりは、さびしいからいやだ。一緒に生きたい。
そんなふうに甘えたことを願ってしまうのは、自分だけだと思っていた。
「わたしで……いいのか?」
「はい。オレは、あなたがいいんです」
震える声での問いかけに、ウィルフレッドは迷うことなく頷いた。
「……ウィル」
十五年間生きてきて、こんなにも泣きたくなるほどの喜びを感じたことはない。
「わたしも、おまえがいい。おまえと生きたい。おまえと一緒に、生きてみたい」
人はきっと、誰かに必要とされなければ生きられない生き物なのだと思う。
アレクシアは今まで、『スウィングラー辺境伯家の後継者』だったからこそ、多くの人々に必要とされてきた。けれど、その肩書きを失った今、彼女を必要としてくれているのはウィルフレッドだけだ。
「はい。……嬉しいです。アレクシアさま」
少し震える声でそう言ったウィルフレッドに、アレクシアは抱きしめられた。思っていたよりもずっと大きな体が、熱い。
アレクシアの味方はウィルフレッドだけで、ウィルフレッドを守れるのはアレクシアだけ。自分たちはまだまだ何も知らない子どもで、頼れる大人は誰もいない。
この広い世界を、これからはたったふたりで生きていく。
「ふ……ぅ……っ」
「……泣いていいんですよ。言ったでしょう、アレクシアさま。あなたは、泣いていいんです」
怖い。悲しい。悔しい。
マイナスの感情で蓋をされていた心が、歓喜に満たされて、涙となって溢れ出す。
「ウィル……ウィル、ウィル……ッ」
「はい、アレクシアさま」
律儀に答える彼の背中に、力の限りしがみつく。あの痩せっぽちだった小さな子どもは、いつの間にかこんなに大きくなった。
物心ついて以来、こうして声を上げて泣くのは、はじめてだ。しゃくり上げるアレクシアの背中を、ウィルフレッドの手が優しく撫でる。
「今まで、がんばりましたね。……でも、もういい。もう、いいんですよ」
「うん……っ」
本当はずっと、誰かにそう言ってほしかった。
努力をしたら、褒めてほしい。
成果を出したら、認めてほしい。
けれど、アレクシアに与えられたのはいつだって『それくらい、スウィングラーの後継者ならばできて当たり前だ』という、冷たい言葉だけだったのだ。
それから泣きたいだけ泣いて、アレクシアはようやく落ち着いた。袖口で目元を拭う。
「……ふむ。声を上げて泣くというのは、なかなか気分がスッキリするものなのだな」
はじめての発見に感動していると、ウィルフレッドが小さく笑った。
「それはよかったです。濡らしたタオルを持ってきますので、少々お待ちください」
そう言って洗面所へ向かった彼は、やはり従者としても優秀な少年なのだった。
ソファに腰かけたアレクシアは、彼が持ってきてくれたひんやりとしたタオルで顔を拭いた。しばしの間、その心地よさを味わった彼女は、さっぱりした顔でウィルフレッドを見る。
「なあ、ウィル。このまま西の別邸へ向かったところで、いずれわたしは人知れず殺される可能性が高いわけだ」
「そうですね。今となっては、この件の関係者にとって、あなたは非常に目障りな存在ですから」
有能なウィルフレッドは、主に対しても遠慮なくものを言う。
アレクシアはその言いように驚くでもなく、至極冷静に頷いた。
「まあ、そうだろうな」
エイドリアンにとってのアレクシアは、望まない政略結婚をした妻との間に生まれた娘。
ブリュンヒルデにとっては、まったく自分を顧みない、放蕩三昧な夫の娘。
エイドリアンの新たな妻子にとっては、エッカルト王家の血を持つ継子。
ブリュンヒルデの再婚相手――エッカルトの英雄にとっては、運命の女性を奪った男の血を引く娘。
……一番あたりがきつくなりそうなのは、これからエイドリアンが迎える女性と子どもたちだろうか。
スウィングラーに連なる誰かが、継承権を剥奪されたアレクシアを担ぎ上げれば、息子の立場を脅かす。その不安は、おそらく消えることはない。
エイドリアンの新たな家族が平穏に過ごすため――ひいては、スウィングラー辺境伯家の安泰のためには、アレクシアの存在は排除しなければならない。そう判断すれば、デズモンドは容赦しないだろう。
それが、彼女とウィルフレッドの知る、デズモンドという人物だ。
うんざりしながら、アレクシアはため息をつく。
「わたしは、おまえ以外の人間に殺されたくはない。今のわたしには、おまえが無事に成人するまで見守って、いつか可愛いお嫁さんを迎えたときに、結婚式で号泣しながらお祝いを述べるという夢がある」
「……アレクシアさま。いったいどうしてそんな素っ頓狂な夢を持ちはじめたのかは知りませんが、オレはあなたより弱い女性を嫁に迎えるつもりはありませんよ」
なんと、とアレクシアは目を丸くした。
「その条件は、さすがに難しいんじゃないか?」
「お疲れなのはわかりますが、今はあなたのしょうもない夢の話はどうでもいいです。まず、あなたの身の安全を確保するために、これからどうするべきか話し合いましょう」
ウィルフレッドが、半目になって言う。アレクシアは、首を傾げた。
「そう言われてもなあ。今のわたしにとって、生きる理由はおまえだけなんだ。人生の目的がなければ、いまいちやる気が出ないだろう? 将来の夢の話は大切だ」
「……ソウ、デスカ」
何やらぎこちなく応じたウィルフレッドが、視線をそらした。
そんな彼に、彼女は問う。
「おまえは? ウィル。何か、やりたいことはないのか? もしあるのなら、言ってくれ。わたしのすべては、おまえのものだ。おまえの望みを叶えるためなら、なんでもするぞ」
ソファから立ち上がり、アレクシアはウィルフレッドを見上げて笑う。
「わたしの強さは知っているだろう? わたしがそばにいる限り、おまえが傷つくことはない。安心しろ。おまえが誰を敵に回しても、必ず守ってみせる」
「……ハイ。あなたがそれだけの力をお持ちであることは重々承知しておりますが、今はちょっと……いろいろな意味で頭がパーンと破裂しそうなので、しばしお待ちいただけますか」
視線をそらしたまま、ウィルフレッドが早口で答える。
なんだかよくわからないアレクシアだったが、待てと言われたのでおとなしく待つ。
ややあって、ウィルフレッドは深呼吸をしてからこちらを見た。
「アレクシアさま。オレの望みは……いずれお話しさせていただきます。まずは、屋敷の者たちに気取られないよう、西の別邸へ向かいましょう。そちらの状況を見てから、今後の動き方を決めるのがよろしいかと」
「ああ、そうだな」
ふたりは必要最低限の荷物を行軍用のバックパックにまとめ、屋敷の前で落ち合うことにした。
バックパックを背に、アレクシアとウィルフレッドはスウィングラー辺境伯家の屋敷を出る。
アレクシアにとっては、物心つく前から育った場所だ。二度と戻れないとなればそれなりの感慨が湧くものかと思ったが、門を出る瞬間でさえ、彼女の心は凪いでいた。
一応、デズモンドに最後の挨拶をしようとしたけれど、取り次ぎの執事から「御前さまはお忙しいそうです」と断られ、別邸の鍵だけ渡された。もしかしたら祖父にとって、もはやアレクシアは無価値な孫娘どころか、すでに死んだも同然の者になっているのかもしれない。
見送りに立つ者はひとりもいなかった。
アレクシアはウィルフレッドとともに飛行魔術を展開し、大空へ飛び立つ。
(あ……)
――美しかった。
アレクシアが今まで、命じられるままに守り続けてきたスウィングラーの大地は、眩いばかりの白雪に覆われ、息を呑むほどに美しく光り輝いていた。
ようやく、気づく。
ここは、紛れもなく彼女の故郷。アレクシアは、息苦しいばかりだったあの屋敷も含め、この豊かな土地のすべてを愛していた。
だから、こんなにも胸が痛む。
アレクシアはもう二度と、故郷を守るために戦うことはない。これからはウィルフレッドとともに、ふたりだけで生きていく。
「……ウィル。少し、いいか?」
「はい」
アレクシアはウィルフレッドに断りを入れ、空を飛べない者には決して到達できない、雪深い山頂に降り立った。
森林限界を越えたそこは、見渡す限り純白の世界。
眼下に広がる景色を眺めたアレクシアは、震える指先をぐっと握りしめた。
目の奥が、熱くなる。
胸が、痛い。なんだか、また泣いてしまいそうだ。
けれど今、彼女の心を満たしているのは――。
「……っ。自由だああああああーっっ!!」
生まれてはじめて、腹の底から叫んでしまうほどの、途方もない解放感だった。
◇ ❖ ◇
スウィングラー辺境伯家が所有する別邸は、有事の際に領民の収容・保護ができるよう造られたものがほとんどだ。
しかし、ウィルフレッドとアレクシアが目指す屋敷は、領地の西の果て――深い森と急峻な山々に囲まれた場所にあった。人目を避けるようにぽつんと建つそこはかつて、辺境伯家に生まれた病弱な者や、精神を病んだ者が療養するための場であったという。
その屋敷は、小規模ながらも贅を尽くされていた。頑丈な鉄柵付きの塀でぐるりと取り囲まれ、外部からの侵入、そして内部からの逃亡をも困難なものとしている。
だが、そんな頑強な塀も、空を飛べる者たちにとってはただの飾りだ。
アレクシアが塀の内側にふわりと降り立つ。
ついで雪に覆われた地面を踏んだウィルフレッドは、荘厳ささえ感じる別邸を見上げ、口を開いた。
「アレクシアさまは、こちらの屋敷へいらしたことはあるのですか?」
「いや。ここへ来るのは、わたしもはじめてだ。話には聞いていたが、よくもまあこんな山奥に、これほど贅沢な屋敷を建てたものだな。麓からの道もかなり険しそうだし、建築資材を運ぶだけでも大変だったろうに」
そう呟いた彼女は、幼い頃からの教育で質実剛健をよしとする価値観の持ち主だ。
淑女として振る舞う際には、もちろんスウィングラー辺境伯家の名に恥じないよう華やかに着飾っている。
だが、それらは彼女にとって『令嬢モードにおける必要物資』にすぎない。
普段の生活で、アレクシアが少女らしいドレスや装飾品に執着しているところを、ウィルフレッドは見たことがなかった。
(どちらかといえば、新型の魔導武器を手に入れたときのほうが、嬉しそうな顔をしていたし……。アレクシアさまに、婚約者の座狙いの貢ぎ物――じゃない、可愛らしい贈り物をしていたガキどもは、さすがにちょっと気の毒だったな)
そんなことを考えながら、ウィルフレッドは周囲の様子を窺った。が、やはり人の気配はない。
鍵を使って、扉を開く。光が差し込んだそこに、ずっと閉め切られていた空間特有の埃っぽさはなかった。
ウィルフレッドがざっと確認してみた限り、どうやらこの別邸は、数年単位で居住者がいなかったらしい。空気の入れ換えは定期的にしていたようだし、照明や水回りも問題なさそうだが、ところどころ日焼けした壁や床は修繕された様子がない。
そんな寂れた別邸の玄関ホールの片隅には、テーブルと長椅子があった。そこに、飾り気のない封筒が置いてある。
それを手に取ったウィルフレッドは、興味深そうにあちこちを眺めているアレクシアを振り返った。
「アレクシアさま。ここの管理人が残した置き手紙のようです。封はされておりません」
「そうか。手紙には、なんと書いてある?」
主に促されて封筒を開くと、質のいい紙に簡潔に事情が書かれていた。
曰く、老齢の自分が人里離れた山中に建つ屋敷に常駐するのは難しい。月に一度は様子を見に来るので、何かご用件があれば、山の麓の村にある自宅まで来られたし――。
文末に記された日付からして、次に管理人がこの屋敷を訪れるのは、半月後になりそうだ。
デズモンドに呼び出されてからのあれこれで、アレクシアはよほど疲れていたのだろう。小さく苦笑すると、玄関ホールの長椅子に腰かけた。
「まあ、誰もいないほうが自由に動けていいかもしれんな。……すまない、ウィル。少し、眠りたい。四時間ほど仮眠を取っても構わないか?」
「はい、もちろんです。寝室を探してまいりますので、少々お待ちください」
屋敷はある程度清掃されている。この様子であれば、おそらく寝室も問題なく使えるだろう。
しかし、アレクシアはゆるりと首を横に振った。バックパックから野営用の断熱シートを取り出し、いつもより少しぼんやりとした眼差しでウィルフレッドを見る。
「ここで眠る。おまえも好きなところで、少し休め」
そう言って長椅子で横になるなり、アレクシアは眠りに落ちてしまった。
寝室を準備する時間すら待てないとは、彼女の疲労は、ウィルフレッドが想像していた以上に深いものだったのだろう。
(アレクシアさま……)
ほんの数時間前まで、触れることなど叶わないと思っていた少女の髪。細く柔らかく、艶やかな輝きを放つ金の一房に、ウィルフレッドは軽く指を絡めてみる。
それでも、『主』はまるで目を覚ます気配がなかった。
アレクシアは、ウィルフレッドを警戒しない。ふたりの間に〈主従契約〉が存在している以上、その必要がないからだ。
もし今、ウィルフレッドが害意を持って彼女に触れていたら、即座に契約によるペナルティーが発動し、彼は耐えがたい痛みに襲われていたはずだ。呼吸すらままならなくなっていただろう。
最初の警告を無視してなお触れ続ければ、すぐさま魔力の楔が心臓を貫くことになる。
だが、害意のない接触であれば、そんなペナルティーは発動しない。
もっとも、ウィルフレッドがアレクシアに対して害意を抱くことなど、天地がひっくり返ったとてありえない話なのだが。
(守りますよ。アレクシアさま)
〈主従契約〉の有無に関係なく、ウィルフレッドは己の命に代えてもアレクシアを守ると決めている。ほかの誰に命じられたわけでもない。自分自身で、そう決めた。
五年前、スウィングラーの本邸でアレクシアに出会うまで、ウィルフレッドは薄暗い闇の中でうずくまっているだけの、愚かで無価値な子どもだった。
与えられる粗末な食事を感謝さえなく口にして、すべきことも望むこともなく、ただぼんやりと過ぎていく時間を見送るばかり。
自分自身が、両親から受け継いだ強い魔力を備えていることは知っていた。
だが、そんなことはどうでもよかった。たとえどれほど膨大な力を持っていても、本当に欲しいものはとうの昔に、ウィルフレッドの指から零れ落ちてしまっていたのだから。
けれど――。
「おまえの、名前は?」
「……ウィルフレッド・オブライエン」
あの日、はじめてアレクシアと出会ったとき。
まるでよくできた人形のように美しく愛らしい姿と、底知れない苦悩に染まった声のアンバランスさに、ひどく戸惑ったことを覚えている。
すべてを失って孤児となり、己を取り巻くあらゆるものを拒絶して生きていた。そんなウィルフレッドの心を、ふいに感じた戸惑いが小さく揺らした。
「ウィルフレッド・オブライエン。これからおまえは、わたしの従者になるんだ」
凜と響く言葉から、どうして深い悲しみを感じるのだろう。
「おまえはきっと、わたしよりも強くなる。わたしが、必ず強くしてやる。それまでは、わたしがおまえを守ろう」
差し伸べられた手は、とても小さくて華奢だった。なのになぜ、戦うことを知る者のそれなのか。
「強くなれ、ウィルフレッド。おまえの命は、わたしのものだ。わたしの許可なく、勝手に投げ出すことは許さない」
傲慢に命じるその声に、なぜか「ともに生きろ」と懇願されたような気がした。
アレクシアがウィルフレッドとともに向かうよう命じられた西の別邸は、深い山間にある小さな屋敷だ。かつては一族の者の静養に使われたというそこは、人里から遠く離れた場所にある。
彼の言うとおり、あそこならば何が起きたところで――アレクシアが不慮の事故に遭って死んだとしても、外部の人間に詳細を知られることはない。
ウィルフレッドが、押し殺した声で続ける。
「あなたが死ねば、オレは『主を守れなかった大罪人』として、死ぬまでスウィングラー辺境伯家に縛られる。自分で言うのもなんですが、オレはこの家の者たちからそれなりに評価されているんです。新たなスウィングラーの後継者の補佐となり得るオレを、僻地で腐らせるなどしないでしょう」
「……たしかに、そのとおりだな」
アレクシアは顔を伏せた。
魔術による〈主従契約〉により『従者』となった者は、『主』となった者に絶対的に従う。
追放されるアレクシアが、最後の盾であるウィルフレッドを自ら手放すなど、誰も想像すらしないに違いない。
それなり、どころか、ウィルフレッドの優秀さは領外にも知られるほどである。〈主従契約〉を解除させるか、もしくはアレクシアの死をもって契約を強制破棄し、彼を得ようとしてもおかしくない。
ウィルフレッドが実戦で通用するだけの力を身につけて以来、アレクシアは何度も彼を伴って前線に出ている。そのたびに、彼の働きについてはデズモンドにきっちり報告していた。
この一年、スウィングラー辺境伯領を守るための最重要戦力は、間違いなくウィルフレッドだった。
おまけに、アレクシアの従者でもある彼は、屋敷の事務作業にも精通している。新たな後継者の補佐役にするのに、彼ほど相応しい人材はない。
――アレクシアを殺して〈主従契約〉を強制破棄し、ウィルフレッドに責任を押しつける。そのうえで、彼女の兄弟と新たな〈主従契約〉を結ばせれば、彼は生涯スウィングラー辺境伯家から逃げられない。
デズモンドが描いている筋書きは、そんなところだろうか。
アレクシアは、顔をしかめた。
「おまえの優秀さを認められるのは、育てた身としては誇らしいところだが……。この状況では、さすがにそうも言っていられないか。これ以上、わたしのせいでおまえがこの家に縛られるなど、冗談ではないぞ」
ふむ、と頷き、アレクシアは改めてウィルフレッドを見上げた。
「ならばなおのこと、さっさと契約を解除せねばならんな。手を離せ、ウィル。これでは、おまえの紋章に触れない」
アレクシアが生きているうちに〈主従契約〉を解除してしまえば、ウィルフレッドだけはどこへでも自由に行けるはずだ。
なのに彼は、苛立たしげに口を開いた。
「あなたは、どうするのですか? これからオレを、自由にして。……たったひとりで」
「さてな。わたしはずっと、スウィングラー辺境伯家を継ぐべくして育てられた。そのために必要なことは可能な限り身につけたつもりだが、それ以外のことは何も知らない世間知らずだ。今後の身の振り方さえ、想像もできん。まあ、西の別邸に行ってから、ゆっくり考えるさ」
エイドリアンとブリュンヒルデの今後がきちんと定まるまでは、アレクシアの身に危険が及ぶ可能性は低い。
これほどの大事となれば、今日明日に決まるということはまずないだろう。
「〈主従契約〉を解除すれば、おまえがわたしを守る必要もない。できるだけ早く、スウィングラーの手が届かないところに行け。……ああ、そうだ」
そこでふと、大切なことを思い出す。アレクシアは頷き、言った。
「おまえがわたしを殺したいほどに憎んでいるのなら、そうしてくれ。どうせ、もう誰にも必要とされない身だ。それでおまえの気が晴れるのであれば、好きにしてくれて構わない」
そう告げた途端、アレクシアの手を掴むウィルフレッドの手の力が強くなった。
少しの沈黙のあと、彼は掠れた声で言う。
「……オレは、欲しい」
そのまま、引き寄せられた。
互いの体温が伝わるような至近距離で、ウィルフレッドが低く囁く。
「誰も……いらないと、言うのなら。あなたのすべてを、オレにください」
「……ウィル?」
アレクシアが目を瞬いて見上げた先、フォレストグリーンの瞳が、いつもよりも鮮やかに映った。
「オレには、あなたが必要です。……お願いします、アレクシアさま。あなたさえそばにいてくれれば、オレは誰よりも自由になれる」
低く響く彼の声が、凍てついていたアレクシアの心を震わせる。
「〈主従契約〉は、このままで結構です。オレは生涯、あなた以外の人間に従うつもりはありません」
震わせ、溶かす。
「はじめて会ったときから、あなただけがオレの希望だったんです。あなたさえいてくれれば、オレはなんでもできる。また、夢を見られる。……アレクシアさま。オレと一緒に、生きてください」
――自分とともに生きてほしい、と。
そう願っていたのは、アレクシアのほうだった。
掠れた声で、彼女は問う。
「おまえは……わたしを、憎んでいないのか?」
「はい。憎む理由が、ありませんから」
そんなバカな、とアレクシアは首を横に振った。
「わたしは無理矢理、おまえと〈主従契約〉を結んだんだぞ。そして、過酷な戦闘訓練と教育を押しつけた。なのになぜ、わたしを憎んでいないんだ?」
「……そうですね。相手がほかの人間なら、憎んでいたかもしれません」
ウィルフレッドが、少し声を和らげる。
「アレクシアさま。どうか、ご理解ください。あなたは、オレよりも可哀相な子どもなんです。生まれたときから、何ひとつ自由を知らない籠の鳥。……まあ、それにしてはずいぶんと物騒な爪を持っていらっしゃいますが。あなたとの戦闘訓練は、一瞬たりとも気が抜けなくて、いつも必死でしたよ」
そのとき、ほんのわずかながら彼が笑ったように見えて、アレクシアは目を見開いた。
「ままならない毎日を必死に足掻いて生きる、自分よりも哀れな子ども――それも、年下の女の子を憎むほど、オレは狭量ではありません。それにあなたは、理不尽なことは決して強いなかった。オレに、生きるための知恵と力を与えてくれたんです。感謝こそすれ、恨む理由などありませんよ」
そう言ったウィルフレッドは、強い意思を感じさせる瞳で彼女を見た。
「スウィングラー辺境伯家は、エイドリアンさまの愛人の子を選んで、あなたを捨てた。だったら、あなただってこの家を捨てていいはずだ。……お願いです、アレクシアさま。オレと一緒に、あなた自身もこの家から解放してください。あなたはもう、自由に生きていいんです」
「……自由」
アレクシアはずっと、ウィルフレッドをスウィングラー辺境伯家から解放し、自由にすることだけを夢見て生きてきた。自分が彼と同じように自由になることなど、想像さえしたことがなかったのだ。
彼女は紛れもなくこの家の娘で、スウィングラーに関わるすべてを守る義務があったから。
けれど――。
(わたしには、もう何もない)
デズモンドに「継承権を剥奪する」と伝えられたときから、本当は怖くてたまらなかった。
決して親しみを持てる相手ではなかったけれど、祖父はアレクシアにとって絶対的な庇護者だった。デズモンドの意思に従って動く人形のような自分が、彼の手を離れて生きていくなど、できるわけがない。
今もそう思うのに、ウィルフレッドの瞳が「それは違う」と、言葉よりも雄弁に伝えてくる。彼の体温と混ざり合う自分の熱が、アレクシアは人形ではないのだと教えてくる。
その熱が、彼女を突き動かす。
「ウィル。わたしは……スウィングラーの地を守ることしか、知らないんだ」
「そうですね。でも、知らないことなら、これから学んでいけばいいんです」
当たり前のようにそう言って、ウィルフレッドはほほえんだ。
――笑顔。
ずっと見てみたかったそれに、鼓動が乱れる。
「誰がなんと言おうと、オレにはあなたが必要です。大丈夫ですよ、アレクシアさま。オレが生きている限り、あなたを必要とする人間が、この世に必ずひとりはいます」
必要だ、なんて。
「……なぜだ?」
わからない。
すべてを失った自分には、もうなんの価値もないのに。
アレクシアはひどく混乱していた。なのに、自分を見つめるウィルフレッドの瞳から目をそらせない。
彼は、ふっと笑みを深めた。
「あなたが、オレを大切に思ってくれているからですよ。……アレクシアさま。たぶん、あなたが思ってくれているほど、オレは強くなんかない。オレはもう、ひとりになるのはいやなんです。あなたと一緒に、生きていたい」
――ひとりは、さびしいからいやだ。一緒に生きたい。
そんなふうに甘えたことを願ってしまうのは、自分だけだと思っていた。
「わたしで……いいのか?」
「はい。オレは、あなたがいいんです」
震える声での問いかけに、ウィルフレッドは迷うことなく頷いた。
「……ウィル」
十五年間生きてきて、こんなにも泣きたくなるほどの喜びを感じたことはない。
「わたしも、おまえがいい。おまえと生きたい。おまえと一緒に、生きてみたい」
人はきっと、誰かに必要とされなければ生きられない生き物なのだと思う。
アレクシアは今まで、『スウィングラー辺境伯家の後継者』だったからこそ、多くの人々に必要とされてきた。けれど、その肩書きを失った今、彼女を必要としてくれているのはウィルフレッドだけだ。
「はい。……嬉しいです。アレクシアさま」
少し震える声でそう言ったウィルフレッドに、アレクシアは抱きしめられた。思っていたよりもずっと大きな体が、熱い。
アレクシアの味方はウィルフレッドだけで、ウィルフレッドを守れるのはアレクシアだけ。自分たちはまだまだ何も知らない子どもで、頼れる大人は誰もいない。
この広い世界を、これからはたったふたりで生きていく。
「ふ……ぅ……っ」
「……泣いていいんですよ。言ったでしょう、アレクシアさま。あなたは、泣いていいんです」
怖い。悲しい。悔しい。
マイナスの感情で蓋をされていた心が、歓喜に満たされて、涙となって溢れ出す。
「ウィル……ウィル、ウィル……ッ」
「はい、アレクシアさま」
律儀に答える彼の背中に、力の限りしがみつく。あの痩せっぽちだった小さな子どもは、いつの間にかこんなに大きくなった。
物心ついて以来、こうして声を上げて泣くのは、はじめてだ。しゃくり上げるアレクシアの背中を、ウィルフレッドの手が優しく撫でる。
「今まで、がんばりましたね。……でも、もういい。もう、いいんですよ」
「うん……っ」
本当はずっと、誰かにそう言ってほしかった。
努力をしたら、褒めてほしい。
成果を出したら、認めてほしい。
けれど、アレクシアに与えられたのはいつだって『それくらい、スウィングラーの後継者ならばできて当たり前だ』という、冷たい言葉だけだったのだ。
それから泣きたいだけ泣いて、アレクシアはようやく落ち着いた。袖口で目元を拭う。
「……ふむ。声を上げて泣くというのは、なかなか気分がスッキリするものなのだな」
はじめての発見に感動していると、ウィルフレッドが小さく笑った。
「それはよかったです。濡らしたタオルを持ってきますので、少々お待ちください」
そう言って洗面所へ向かった彼は、やはり従者としても優秀な少年なのだった。
ソファに腰かけたアレクシアは、彼が持ってきてくれたひんやりとしたタオルで顔を拭いた。しばしの間、その心地よさを味わった彼女は、さっぱりした顔でウィルフレッドを見る。
「なあ、ウィル。このまま西の別邸へ向かったところで、いずれわたしは人知れず殺される可能性が高いわけだ」
「そうですね。今となっては、この件の関係者にとって、あなたは非常に目障りな存在ですから」
有能なウィルフレッドは、主に対しても遠慮なくものを言う。
アレクシアはその言いように驚くでもなく、至極冷静に頷いた。
「まあ、そうだろうな」
エイドリアンにとってのアレクシアは、望まない政略結婚をした妻との間に生まれた娘。
ブリュンヒルデにとっては、まったく自分を顧みない、放蕩三昧な夫の娘。
エイドリアンの新たな妻子にとっては、エッカルト王家の血を持つ継子。
ブリュンヒルデの再婚相手――エッカルトの英雄にとっては、運命の女性を奪った男の血を引く娘。
……一番あたりがきつくなりそうなのは、これからエイドリアンが迎える女性と子どもたちだろうか。
スウィングラーに連なる誰かが、継承権を剥奪されたアレクシアを担ぎ上げれば、息子の立場を脅かす。その不安は、おそらく消えることはない。
エイドリアンの新たな家族が平穏に過ごすため――ひいては、スウィングラー辺境伯家の安泰のためには、アレクシアの存在は排除しなければならない。そう判断すれば、デズモンドは容赦しないだろう。
それが、彼女とウィルフレッドの知る、デズモンドという人物だ。
うんざりしながら、アレクシアはため息をつく。
「わたしは、おまえ以外の人間に殺されたくはない。今のわたしには、おまえが無事に成人するまで見守って、いつか可愛いお嫁さんを迎えたときに、結婚式で号泣しながらお祝いを述べるという夢がある」
「……アレクシアさま。いったいどうしてそんな素っ頓狂な夢を持ちはじめたのかは知りませんが、オレはあなたより弱い女性を嫁に迎えるつもりはありませんよ」
なんと、とアレクシアは目を丸くした。
「その条件は、さすがに難しいんじゃないか?」
「お疲れなのはわかりますが、今はあなたのしょうもない夢の話はどうでもいいです。まず、あなたの身の安全を確保するために、これからどうするべきか話し合いましょう」
ウィルフレッドが、半目になって言う。アレクシアは、首を傾げた。
「そう言われてもなあ。今のわたしにとって、生きる理由はおまえだけなんだ。人生の目的がなければ、いまいちやる気が出ないだろう? 将来の夢の話は大切だ」
「……ソウ、デスカ」
何やらぎこちなく応じたウィルフレッドが、視線をそらした。
そんな彼に、彼女は問う。
「おまえは? ウィル。何か、やりたいことはないのか? もしあるのなら、言ってくれ。わたしのすべては、おまえのものだ。おまえの望みを叶えるためなら、なんでもするぞ」
ソファから立ち上がり、アレクシアはウィルフレッドを見上げて笑う。
「わたしの強さは知っているだろう? わたしがそばにいる限り、おまえが傷つくことはない。安心しろ。おまえが誰を敵に回しても、必ず守ってみせる」
「……ハイ。あなたがそれだけの力をお持ちであることは重々承知しておりますが、今はちょっと……いろいろな意味で頭がパーンと破裂しそうなので、しばしお待ちいただけますか」
視線をそらしたまま、ウィルフレッドが早口で答える。
なんだかよくわからないアレクシアだったが、待てと言われたのでおとなしく待つ。
ややあって、ウィルフレッドは深呼吸をしてからこちらを見た。
「アレクシアさま。オレの望みは……いずれお話しさせていただきます。まずは、屋敷の者たちに気取られないよう、西の別邸へ向かいましょう。そちらの状況を見てから、今後の動き方を決めるのがよろしいかと」
「ああ、そうだな」
ふたりは必要最低限の荷物を行軍用のバックパックにまとめ、屋敷の前で落ち合うことにした。
バックパックを背に、アレクシアとウィルフレッドはスウィングラー辺境伯家の屋敷を出る。
アレクシアにとっては、物心つく前から育った場所だ。二度と戻れないとなればそれなりの感慨が湧くものかと思ったが、門を出る瞬間でさえ、彼女の心は凪いでいた。
一応、デズモンドに最後の挨拶をしようとしたけれど、取り次ぎの執事から「御前さまはお忙しいそうです」と断られ、別邸の鍵だけ渡された。もしかしたら祖父にとって、もはやアレクシアは無価値な孫娘どころか、すでに死んだも同然の者になっているのかもしれない。
見送りに立つ者はひとりもいなかった。
アレクシアはウィルフレッドとともに飛行魔術を展開し、大空へ飛び立つ。
(あ……)
――美しかった。
アレクシアが今まで、命じられるままに守り続けてきたスウィングラーの大地は、眩いばかりの白雪に覆われ、息を呑むほどに美しく光り輝いていた。
ようやく、気づく。
ここは、紛れもなく彼女の故郷。アレクシアは、息苦しいばかりだったあの屋敷も含め、この豊かな土地のすべてを愛していた。
だから、こんなにも胸が痛む。
アレクシアはもう二度と、故郷を守るために戦うことはない。これからはウィルフレッドとともに、ふたりだけで生きていく。
「……ウィル。少し、いいか?」
「はい」
アレクシアはウィルフレッドに断りを入れ、空を飛べない者には決して到達できない、雪深い山頂に降り立った。
森林限界を越えたそこは、見渡す限り純白の世界。
眼下に広がる景色を眺めたアレクシアは、震える指先をぐっと握りしめた。
目の奥が、熱くなる。
胸が、痛い。なんだか、また泣いてしまいそうだ。
けれど今、彼女の心を満たしているのは――。
「……っ。自由だああああああーっっ!!」
生まれてはじめて、腹の底から叫んでしまうほどの、途方もない解放感だった。
◇ ❖ ◇
スウィングラー辺境伯家が所有する別邸は、有事の際に領民の収容・保護ができるよう造られたものがほとんどだ。
しかし、ウィルフレッドとアレクシアが目指す屋敷は、領地の西の果て――深い森と急峻な山々に囲まれた場所にあった。人目を避けるようにぽつんと建つそこはかつて、辺境伯家に生まれた病弱な者や、精神を病んだ者が療養するための場であったという。
その屋敷は、小規模ながらも贅を尽くされていた。頑丈な鉄柵付きの塀でぐるりと取り囲まれ、外部からの侵入、そして内部からの逃亡をも困難なものとしている。
だが、そんな頑強な塀も、空を飛べる者たちにとってはただの飾りだ。
アレクシアが塀の内側にふわりと降り立つ。
ついで雪に覆われた地面を踏んだウィルフレッドは、荘厳ささえ感じる別邸を見上げ、口を開いた。
「アレクシアさまは、こちらの屋敷へいらしたことはあるのですか?」
「いや。ここへ来るのは、わたしもはじめてだ。話には聞いていたが、よくもまあこんな山奥に、これほど贅沢な屋敷を建てたものだな。麓からの道もかなり険しそうだし、建築資材を運ぶだけでも大変だったろうに」
そう呟いた彼女は、幼い頃からの教育で質実剛健をよしとする価値観の持ち主だ。
淑女として振る舞う際には、もちろんスウィングラー辺境伯家の名に恥じないよう華やかに着飾っている。
だが、それらは彼女にとって『令嬢モードにおける必要物資』にすぎない。
普段の生活で、アレクシアが少女らしいドレスや装飾品に執着しているところを、ウィルフレッドは見たことがなかった。
(どちらかといえば、新型の魔導武器を手に入れたときのほうが、嬉しそうな顔をしていたし……。アレクシアさまに、婚約者の座狙いの貢ぎ物――じゃない、可愛らしい贈り物をしていたガキどもは、さすがにちょっと気の毒だったな)
そんなことを考えながら、ウィルフレッドは周囲の様子を窺った。が、やはり人の気配はない。
鍵を使って、扉を開く。光が差し込んだそこに、ずっと閉め切られていた空間特有の埃っぽさはなかった。
ウィルフレッドがざっと確認してみた限り、どうやらこの別邸は、数年単位で居住者がいなかったらしい。空気の入れ換えは定期的にしていたようだし、照明や水回りも問題なさそうだが、ところどころ日焼けした壁や床は修繕された様子がない。
そんな寂れた別邸の玄関ホールの片隅には、テーブルと長椅子があった。そこに、飾り気のない封筒が置いてある。
それを手に取ったウィルフレッドは、興味深そうにあちこちを眺めているアレクシアを振り返った。
「アレクシアさま。ここの管理人が残した置き手紙のようです。封はされておりません」
「そうか。手紙には、なんと書いてある?」
主に促されて封筒を開くと、質のいい紙に簡潔に事情が書かれていた。
曰く、老齢の自分が人里離れた山中に建つ屋敷に常駐するのは難しい。月に一度は様子を見に来るので、何かご用件があれば、山の麓の村にある自宅まで来られたし――。
文末に記された日付からして、次に管理人がこの屋敷を訪れるのは、半月後になりそうだ。
デズモンドに呼び出されてからのあれこれで、アレクシアはよほど疲れていたのだろう。小さく苦笑すると、玄関ホールの長椅子に腰かけた。
「まあ、誰もいないほうが自由に動けていいかもしれんな。……すまない、ウィル。少し、眠りたい。四時間ほど仮眠を取っても構わないか?」
「はい、もちろんです。寝室を探してまいりますので、少々お待ちください」
屋敷はある程度清掃されている。この様子であれば、おそらく寝室も問題なく使えるだろう。
しかし、アレクシアはゆるりと首を横に振った。バックパックから野営用の断熱シートを取り出し、いつもより少しぼんやりとした眼差しでウィルフレッドを見る。
「ここで眠る。おまえも好きなところで、少し休め」
そう言って長椅子で横になるなり、アレクシアは眠りに落ちてしまった。
寝室を準備する時間すら待てないとは、彼女の疲労は、ウィルフレッドが想像していた以上に深いものだったのだろう。
(アレクシアさま……)
ほんの数時間前まで、触れることなど叶わないと思っていた少女の髪。細く柔らかく、艶やかな輝きを放つ金の一房に、ウィルフレッドは軽く指を絡めてみる。
それでも、『主』はまるで目を覚ます気配がなかった。
アレクシアは、ウィルフレッドを警戒しない。ふたりの間に〈主従契約〉が存在している以上、その必要がないからだ。
もし今、ウィルフレッドが害意を持って彼女に触れていたら、即座に契約によるペナルティーが発動し、彼は耐えがたい痛みに襲われていたはずだ。呼吸すらままならなくなっていただろう。
最初の警告を無視してなお触れ続ければ、すぐさま魔力の楔が心臓を貫くことになる。
だが、害意のない接触であれば、そんなペナルティーは発動しない。
もっとも、ウィルフレッドがアレクシアに対して害意を抱くことなど、天地がひっくり返ったとてありえない話なのだが。
(守りますよ。アレクシアさま)
〈主従契約〉の有無に関係なく、ウィルフレッドは己の命に代えてもアレクシアを守ると決めている。ほかの誰に命じられたわけでもない。自分自身で、そう決めた。
五年前、スウィングラーの本邸でアレクシアに出会うまで、ウィルフレッドは薄暗い闇の中でうずくまっているだけの、愚かで無価値な子どもだった。
与えられる粗末な食事を感謝さえなく口にして、すべきことも望むこともなく、ただぼんやりと過ぎていく時間を見送るばかり。
自分自身が、両親から受け継いだ強い魔力を備えていることは知っていた。
だが、そんなことはどうでもよかった。たとえどれほど膨大な力を持っていても、本当に欲しいものはとうの昔に、ウィルフレッドの指から零れ落ちてしまっていたのだから。
けれど――。
「おまえの、名前は?」
「……ウィルフレッド・オブライエン」
あの日、はじめてアレクシアと出会ったとき。
まるでよくできた人形のように美しく愛らしい姿と、底知れない苦悩に染まった声のアンバランスさに、ひどく戸惑ったことを覚えている。
すべてを失って孤児となり、己を取り巻くあらゆるものを拒絶して生きていた。そんなウィルフレッドの心を、ふいに感じた戸惑いが小さく揺らした。
「ウィルフレッド・オブライエン。これからおまえは、わたしの従者になるんだ」
凜と響く言葉から、どうして深い悲しみを感じるのだろう。
「おまえはきっと、わたしよりも強くなる。わたしが、必ず強くしてやる。それまでは、わたしがおまえを守ろう」
差し伸べられた手は、とても小さくて華奢だった。なのになぜ、戦うことを知る者のそれなのか。
「強くなれ、ウィルフレッド。おまえの命は、わたしのものだ。わたしの許可なく、勝手に投げ出すことは許さない」
傲慢に命じるその声に、なぜか「ともに生きろ」と懇願されたような気がした。
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