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しおりを挟む序章 世間知らずの『元』お嬢さま
ランヒルド王国王立シンフィールド学園。
そこはランヒルド王国の王都中心部にある、全寮制の学園である。
身分を問わず、魔力を持つすべての子どもに門戸を開くその学び舎は、王宮警護を担う人材の育成を目的として設立された教育施設だ。己の魔力を操り、敵と戦う術を身につけるため、生徒たちは日々厳しい訓練を重ねている。
そんなシンフィールド学園の訓練場で、ひとりの少女がじっと地面を見つめていた。
「……アレクシアさま」
困惑しきった声で、少女――アレクシア・スウィングラーを呼んだのは、彼女の従者であるウィルフレッド・オブライエンだ。
今年の春、シンフィールド学園に入学したアレクシアは、あと一ヶ月ほどで十六歳になる。もともとは貴族の生まれである彼女だが、諸事情によりウィルフレッドとともに平民としてこの学園に在学していた。
生家で幼い頃から受けていた教育の結果、アレクシアとウィルフレッドはともに人並外れた戦闘能力を備えている。実際のところ、戦闘実技系の科目に関しては、すでに実戦経験もあるふたりが学ぶべきことは、さほどない。
そのため、魔導実技の授業においては、そんな彼女らの事情を知る担任教師の計らいで、ほかのクラスメートとは異なるカリキュラムを組んでもらっている。
その日、いつものように指定されたカリキュラムを一通りこなしたアレクシアが時計を確認すると、まだ少し授業時間が残っていた。
そのため、訓練場の隅で以前から考えていた新たな魔術の検証をしてみよう、と思ったのだが――。
「失敗した」
「ええ。それは、見ればわかります。いったい何をどうすれば、そのように愉快な事態――ではなく、なかなかの惨事が発生するのですか?」
穏やかな口調でそう問うたウィルフレッドは、アレクシアにとって唯一心を許せる存在である。
主として、自分の失敗した姿はあまり見せたくなかったアレクシアだが、やってしまったものは仕方がない。みっともなく言い訳をするよりも、潔く説明する道を選ぶ。
「今度、野外訓練実習があるだろう? そのときに、携帯食料を簡単に温められたら便利だろうと思ったんだ」
「そうですか。それはたしかに便利かもしれませんが、大火力の攻撃魔術で加熱する必要はありませんよね?」
にこやかに問い返され、アレクシアは素直に頷く。
「どうやら、そのようだな。この攻撃魔術は、出力縮小の調整が思いのほか難しかった。効果範囲を限定するところまではうまくいったんだが……」
ふう、と息をついた彼女の目の前には、両腕で作った円よりも少し小さなサイズで、底が見えないほどに深い穴が空いていた。底では超高温の蒸気が渦巻いているらしく、シュウシュウという危険な音が聞こえてくる。
「これでは、携帯食料が蒸発してしまうな」
「アレクシアさま。そもそも、携帯食料を温めるために攻撃魔術を使おうとなさらないでください。術式の使用用途に幅を持たせすぎです」
アレクシアは、首を傾げた。
「しかし、軍事技術を生活魔導具に転用すれば、一般市民の生活の質を大幅に向上させることができる、と王立魔導武器研究開発局の研究者も言っていたじゃないか」
「……なんということでしょう。オレの主が、変人研究者の影響を受けてしまいました」
ウィルフレッドが頭痛を堪えるように額を押さえた。
そこに、少し離れたところで通常のカリキュラムを受けていたクラスメートたちと、彼らを指導していた担任教師――エリック・タウンゼントが駆け寄ってきた。
彼らは、地面にぽっかりと空いた穴を見て目を丸くしたあと、無言のまま揃ってアレクシアに視線を向ける。
やがて、深々とため息をついたエリックが口を開く。
「おい、アレクシア。いくらこの訓練場に破壊された設備を復元する自己修復魔術が施されているからって、こんな大火力の攻撃魔術をぶっ放すやつがあるか」
「ぶっ放したわけではないぞ。ただちょっと、攻撃魔術の応用で携帯食料を温めることができないかと思っただけだ」
エリックが、ウィルフレッドを見る。
「……なんだって?」
「……オレに聞かないでください」
ぼそぼそと言い合うふたりをよそに、アレクシアはクラスメートたちに謝罪した。
「騒がせてしまって、すまなかったな。どうやら、攻撃魔術を調理に活かすのは難しそうだ。次は、防御魔導フィールドを転用できないか検証してみようと思う」
アレクシアは、攻撃系の魔術よりも防御系の魔術のほうが得意なのだ。
これならば失敗する心配はないと思っていると、なぜかウィルフレッドが半目になった。
「一応お尋ねしますが、アレクシアさま。防御魔導フィールドを、どのように調理に使うおつもりなのです?」
「うむ。以前行ったカフェに、半球状の窯を使っているところがあっただろう? 地面におこした火の上を、少し形状設定をいじった防御魔導フィールドで覆ってやれば、現地調達した食材を窯と同じように調理できるのではないかと思ったんだ」
これならどうだ、と胸を張って説明すると、一拍置いて、ウィルフレッドが眉間を指先で軽く揉んだ。
「なるほど、了解しました。でしたら実際に検証実験をしてみる前に、調理用の窯の正しい形状について調べてみることにいたしましょうか」
「そうだな。次の休息日にでも、街の図書館で窯の構造について記した書籍を探してみよう」
ウィルフレッドの同意を得て嬉しくなったアレクシアだったが、そこでエリックがひとつため息をついて言う。
「アレクシア。残念ながら、今回の野外訓練実習は基本的にソロで行うことになっている」
「む?」
つまり、とエリックは重々しい口調で告げた。
「おまえは、ウィルフレッドとは別行動になる。そして俺は、ウィルフレッドというお目付け役がいない状態で、おまえに魔術の使用許可を出すつもりはねえ」
なんということだろう。アレクシアは、心の底からガッカリした。
「……ええー」
「ええー、じゃない。そもそも、一年時の野外訓練実習は基礎体力とサバイバル能力の向上が目的だ。魔術が必要になる状況なんて、はじめから用意されてねえんだよ」
腕組みをしたエリックに、ウィルフレッドがほっとしたような笑顔を向ける。
「それは、よかったです」
心底安堵した様子の彼を、エリックは憐憫の眼差しで見た。
「おい、ウィルフレッド。あまりアレクシアを甘やかすなよ? おまえはアレクシアの従者かもしれんが、同じこの学園の生徒でもあるんだからな」
その言葉に、ウィルフレッドは少し考えるようにしてから答える。
「お気遣いありがとうございます。ですが、アレクシアさまがこうして自由に振る舞っていらっしゃるのは、オレにとって非常に喜ばしいことなので……。あまりご迷惑をおかけすることのないよう努めますので、今後もご寛恕いただければ幸いです」
穏やかな口調で言うウィルフレッドに、アレクシアはおそるおそる問いかけた。
「ウィル。攻撃魔術を調理に転用するというのは、そんなに迷惑なことだったのか?」
周囲に大きな被害が出るようなことではないのだし、さほど問題にならないだろうと思っていたのだ。
とはいえ、アレクシアは自分が世間知らずであることを自覚している。
少々不安になった彼女に向かって、ウィルフレッドはほほえんだ。
「迷惑ではありませんが、オレの中にそういった発想がなかったもので驚きました。野外食の調理を魔術で簡単に行いたいのでしたら、次の休息日には調理用魔導具も見に行ってみましょうか。分解して解析すれば、そこに組みこまれている術式を屋外でも応用できるようになるかもしれません」
「調理用魔導具……?」
そういったものが世の中に存在していることは、知識としては知っている。だが、いったいどういうものなのかはまったくわからない。
首を傾げたアレクシアに、ウィルフレッドは笑って頷く。
「はい。業務用の調理用魔導具の中には、食材を投入しただけで目的に応じたサイズにカットするものや、一度単位で温度調整が可能な加熱調理用魔導具などもあるようです」
(かわっ……)
一瞬、ウィルフレッドの笑顔の可愛らしさに、「わたしの従者が、今日も可愛いー!」と全力で叫びたくなってしまったアレクシアだが、どうにか堪える。
もうすぐ十七歳になるウィルフレッドはすっかり体も大きくなり、大変残念なことに『可愛い』という褒め言葉を向けられても嬉しくないらしいのだ。
いくらアレクシアがウィルフレッドのことを、『世界一可愛くて賢くて強くて立派な従者』だと誇らしく思っていても、本人がいやがることをわざわざ口にする趣味はない。
よって、ぐっと両手を握りしめて内なる衝動を抑えたアレクシアは、重々しく頷いた。
「それは、素晴らしいな」
「ええ。この国の生活魔導具は大変レベルが高いですし、いろいろと興味深いものがあると思いますよ」
楽しそうにそんなことを言うウィルフレッドは、近頃よく笑うようになった。
肩の力が抜けている、というのだろうか。以前に比べると表情が格段に柔らかくなって、主の欲目もあるだろうがものすごく可愛い。
(あの家で暮らしていた頃のウィルは、本当に表情のない子どもだったからな……)
ほんの半年ほど前まで、アレクシアとウィルフレッドはランヒルド王国の東の国境を守護するスウィングラー辺境伯家の後継者と、その従者だった。
さまざまな責務としがらみに縛られた日々を生きるのに精一杯で、いつも気を張っていたのだと、今ならわかる。
あの頃の自分たちを思い出すと、本当に変わったものだとしみじみ思う。
ウィルフレッドも、そしてアレクシア自身も。
そして、心から思うのだ。
半年前のあの日、スウィングラー辺境伯家の当主に捨てられたことは、自分の人生において最高の幸運だった――と。
第一章 旅立ちの日
教育というものは、子どもの人格を決定づけるうえで、大変重要なファクターである。
その点、ランヒルド王国の東の国境を守護するスウィングラー辺境伯の孫娘、アレクシアは幼い頃から非常に高度な教育を施されてきたと言えよう。
彼女は、淡い金髪とマリンブルーの瞳を持つ、非常に愛らしく可憐な少女だ。
十五歳ながら、王宮で大きな発言権を持つスウィングラー辺境伯の掌中の珠として、国内外の社交界ですでに知られた存在になっている。
「ごきげんよう、アレクシアさま。本日はお招きいただき、ありがとうございます。こちらの冬の雪深さには、いつも驚いてしまいますわ」
ここは、スウィングラー辺境伯家本邸の大広間。
世界が氷雪に閉ざされる真冬であっても、有力貴族であるスウィングラー辺境伯家が主催するパーティーには、多くの貴族が足を運ぶ。そしてそれが、未成年の子どもたちでも参加できる昼間に開かれるものとなれば、辺境伯家の後継者であるアレクシアと友誼を結ぼうと、毎回多くの少年少女がやってくる。
大人の男性たちが領内の森で鹿狩りを、女性たちが茶会を楽しんでいる間、子どもたちは美味しいお菓子を食べながら彼らなりに社交するのだ。
そんなゲストたちを迎えたアレクシアは、ふわりと柔らかな花のような笑みを浮かべた。
白絹の手袋をはめた手でドレスを軽く摘まんで一礼し、朗らかに口を開く。
「ようこそいらっしゃいました。今日は、異国から取り寄せた珍しいお茶をご用意していますの。ぜひ、楽しんでいらしてくださいね」
鈴を転がすような声で歓迎の言葉を口にしたのち、アレクシアは少しだけ悪戯っぽい表情になって続ける。
「実はこの茶は、『健康にいいから』という理由で、おじいさまが特別に取り寄せたものだったのですけれど……。香りが甘すぎて、お気に召さなかったのですって」
まあ、と彼女の近くにいた令嬢が楽しげに笑って言う。
「それで、辺境伯さまの代わりに、アレクシアさまがお茶を楽しんでいらっしゃるのね」
「ええ、そうなんですの。でも、これはわたくしにお茶を譲るための建前だったのかもしれません。おじいさまには、今もわたくしが体の弱い幼子のように見えていらっしゃるようですわ」
少し困った表情を浮かべたアレクシアを、ゲストの少年が諫める。
「アレクシアさま。辺境伯さまのお気遣いは、正しいと思いますよ。先月の我が家でのお茶会の際、あなたが体調を崩してしまい参加できないと伺って、我々はとても心配したのですから。どうぞ、お体は大切になさってください」
幼い頃のアレクシアは、貴族階級の子どもたちが集まる場を欠席してばかりだった。まれに茶会に出席することがあっても、顔色悪く、言葉少なに語る彼女に対し、周囲が庇護欲を抱くようになったのは、当然の結果だろう。
成長するにつれ、社交の場にも徐々に出てくるようになったアレクシアだったが、それでも他家の招待に対して欠席の返事をすることも珍しくない。
可憐で儚げな容姿も相まって、同世代の貴族の子どもたちは彼女を『美しくも薄幸の辺境伯家後継者』と評価していた。
『薄幸の』と言われてしまうのは、アレクシアを見た者すべてが彼女に対して抱く、繊細でか弱そうな印象ゆえのことではない。彼女の父であるエイドリアン・スウィングラーが、まさに放蕩息子と評するに相応しい人物であるからだ。
東西南北の国境を守護する辺境伯たちが、強大な権力と広大な領地を有しているのは、それだけ彼らが重い責任を負っているからである。
しかし、エイドリアンは若い頃から王都の華やかな暮らしに染まり、社交や遊興に耽るばかり。政略結婚で迎えた妻との間にひとり娘をもうけたのちは、滅多に領地へ帰らず、王都の別邸で愛人たちと退廃的な日々を過ごしている。
己の責務と、親としての情愛の間で苦悩した当代のスウィングラー辺境伯デズモンドは、エイドリアンを跡継ぎとすることを断念した。そして、家名を汚すばかりの息子に代わり、孫娘のアレクシアを完璧な後継者とするべく育ててきたのだ。
淑女としての洗練されたマナーと教養。
何より、スウィングラーの名を受け継ぐ誇りを、彼は孫娘に徹底的に教えこんだ。
その結果アレクシアは、公の場で挨拶を交わした者たちが、こぞって賞賛するほど魅力的な少女となったのである。
アレクシアは、ふわりと笑った。
「お気遣いありがとうございます。ところで、つい先月まで王都の『オルフェ』というお店で修業していた職人が、新たに我が家のお菓子作りを担当することになりましたの。みなさんに楽しんでいただければ、嬉しく思います」
彼女の言葉に、少女たちが頬を紅潮させて声を弾ませる。
「まあ、オルフェで学んだ職人が? あの店のお菓子はとても人気で、予約をしても半年ほど待つのが普通ですのよ」
「さすがは、スウィングラー辺境伯家ですわね!」
少女たちが盛り上がっていたところに、淡々とした少年の声が割って入った。
「ご歓談中申し訳ありません、アレクシアさま。先ほど、異国からの特別なお客さまがいらしたそうです。お館さまはすぐに狩り場から戻られないため、アレクシアさまが当主名代としてご挨拶するように、とのことでございます」
アレクシアにそう語りかけたのは、彼女より一歳年上の少年、ウィルフレッド・オブライエンだ。
すらりとした長身、短く整えた黒髪に、深いフォレストグリーンの瞳。お仕着せの従僕服に身を包み、両手には白手袋をはめている。
地味な従僕服を着せておくのが惜しいほど端整な顔立ちをした彼に、アレクシア以外の少女たちはうっとりとした視線を向けた。
それを見た周囲の少年たちの顔に、一瞬面白くなさそうな表情が過る。しかし、みなすぐに元どおりの朗らかな笑みを取り繕う。
そんな少年少女たちの様子など知らぬように、小首を傾げたアレクシアは、ウィルフレッドに向かって言った。
「まあ……。それは、仕方がありませんわね。――みなさん、申し訳ありませんが少々離席させていただきます。どうぞ、我が家のパーティーを楽しんでいらしてくださいね」
軽くドレスの裾を摘まんで挨拶すると、少年少女たちから残念そうな声が上がる。
彼らに笑みを残し、アレクシアはウィルフレッドを伴い、その場を辞去した。
広間を出て、ゲストたちがやってこないプライベート空間まで進んだアレクシアは、ひとつ息を吐いてから、隣に並ぶウィルフレッドを見上げる。
「ウィル。お客人は、今どこにいる?」
可憐さ、朗らかさ、たおやかさ。
そういった淑女らしい美徳をすべて脱ぎ捨て、代わりに抜き身の刃のような鋭い空気をまとった彼女の問いかけに、無表情のウィルフレッドが簡潔に答える。
「リベラ平原です。正確な数は不明ですが、報告から中隊規模と推測されます。全員、中長距離対応型の魔導武器を装備していますが、所属は不明。現在、こちらの国境警備担当部隊の第二小隊が対応中です」
リベラ平原は、ランヒルド王国最大の穀倉地帯として知られており、常に隣国をはじめとする列強から虎視眈々と狙われている豊かな土地だ。
古くから、他国の侵略者が大挙して現れ、この土地に住む者たちの生活を乱そうとすることは珍しくなかった。
宣戦布告なしに他国の領土を侵犯し、支配する。それをもって、国境の変更を一方的に宣言するという無法を行う国が、この大陸にはまだ数多く存在するのだ。
なるほどと頷き、それまでの倍の歩幅で歩きながら、アレクシアはウィルフレッドから手渡されたイヤーカフ型の通信魔導具を装備した。
「状況によっては、我々も出るぞ」
「はい、問題ありません」
落ち着いたウィルフレッドの返答からして、自分たちの戦闘服と装備品はすでに準備されているのだろう。
頷いたアレクシアは、通信魔導具に向けて口を開く。
「第二小隊隊長、聞こえるか。わたしは、アレクシア・スウィングラー。状況を説明せよ」
――アレクシアは、スウィングラー辺境伯家の後継者。そして、スウィングラー辺境伯家は、このランヒルド王国の東の国境守護を担う家だ。
そのため彼女は幼い頃から、淑女教育のみならず、将来辺境伯家の兵士たちの指揮官となるべく徹底した兵士教育を施されてきた。
体術や戦闘系魔術の訓練だけではない。
人の上に立つ者としての矜持と責任。虫も殺せぬ淑女としての顔と、眉ひとつ動かさず敵勢力の殲滅を命じる指揮官の顔。それらを同時に身につけ、そして磨き上げるために、気の遠くなるような努力を続けてきたのだ。
アレクシアがなかなか社交の場に出てこないのは、実際に彼女が病弱だからというわけではない。
今回のように祖父に代わって兵士を指揮したり、ウィルフレッドを伴って戦場に出たりせねばならない事態が起こるたび、都合のいい断り文句として、療養を使っていたにすぎないのだ。
『こちら、第二小隊隊長。……アレクシアさま、状況を報告いたします。現在、国境近辺にて敵勢力と交戦中。味方の損害は軽微。斥候の報告によれば、敵勢力は三方に兵力を分散、こちらを包囲したのち一斉攻撃に入る模様』
「了解。デズモンドさま不在のため、本件はわたしが指揮を執る。総員、ポイントアルファまで後退せよ」
ふんわりと下ろしていたロングヘアを後頭部でひとつに括りながら、アレクシアは司令室に辿りついた。
そのまま部屋の中央に置かれた、巨大な魔導具であるテーブルに手を置く。
直後、彼女の魔力に反応したテーブルの表面に、スウィングラー辺境伯領の地図が浮かび上がる。
地図上には友軍の魔力が青い光、それ以外の者の魔力が赤い光として表示されている。これにより、本邸にいながらにして、アレクシアは戦況を把握できるようになっていた。
戦場の様子をリアルタイムで表示するこの魔導具は、スウィングラー辺境伯家に代々伝わるものである。『伝承魔導具』と呼ばれる稀少品で、スウィングラーの血を引く者にしか使用することができない。
伝承魔導具の多くは、かつて大陸の国々が、高度な魔導具を作ることで他国に対する優位性を高めようとしていた時代に生み出されたものである。
現在の価格に換算すると、目玉が飛び出るほど高価な魔力の源――巨大魔導結晶を惜しみなく使用しており、今では有力貴族が威信財として死蔵してしまっているものも多い。
だが、東の国境守護を担うスウィングラー辺境伯家において、先祖が遺したこの伝承魔導具は、有用な武器のひとつとして代々活用され続けてきた。
リベラ平原を拡大表示するように魔導具を操作したあと、ざっとそれを確認したアレクシアは、再び通信魔導具に向けて口を開く。
「個別防御魔導フィールドを展開する。発砲を控えよ。三、二、一。――展開確認。敵の攻撃が来るぞ」
『了解』
直後、テーブル上の地図が敵方からの魔導攻撃に反応して激しく明滅した。
スウィングラー辺境伯家の兵士たちはみな、出撃する際には揃いの徽章を装備している。
なんの意匠もない、小さな魔導結晶をはめ込んだだけのその徽章は、アレクシアが防御魔導フィールドを遠隔展開させるための魔導具だ。
これを身につけている者であれば、アレクシアは己が制御する防御魔導フィールドで、スウィングラー辺境伯領内のどこにいても守ることができる。
鋭い眼差しで地図を見つめ、アレクシアは低く命じる。
「第一分隊は東、第二分隊は北、第三分隊は南に向かって移動せよ。十秒後に、防御魔導フィールドを解除する。雪煙に紛れて敵の包囲を抜け、側面から一斉掃射」
『了解』
スウィングラー辺境伯家の兵士たちは、当主であるデズモンドの貴重な財産だ。当主の名代として指揮を執っているだけのアレクシアに、彼らをそこなうことは許されない。
とはいえ、三つの分隊で構成されている第二小隊は、各分隊十二名の総勢三十六名。
それだけの数の防御魔導フィールドを一度に操るのは、防御系魔術に高い適性があるアレクシアであっても、なかなかの負担だ。
敵へ攻撃するときだけ防御魔導フィールドを解除し、すぐさま再展開という作業を繰り返すのは、すさまじい集中力を必要とする。
アレクシアは、内心で舌打ちをした。
(お客人たちは、おじいさまが森へ入ったのを確認してやってきたんだろうが……。わたしが人前に出る前に来てくれていれば、ウィルとともに直接殲滅しに行ってやったものを)
もちろん、必要とあれば出撃するつもりではあるけれど、そうなると辺境伯家のパーティーに参加している子どもたちをごまかすのが面倒になる。
アレクシアとしては、現在対応中の戦力だけで、お客人にお引き取りいただきたいところだ。
そっと息を吐き、気合いを入れ直す。
――自分の背中を守るウィルフレッドの魔力を感じていると、怖いことなど何もないように思えるのは、いつの頃からだっただろう。
表向きは従者としてスウィングラー辺境伯家に在籍しているウィルフレッドだが、彼の主な役目はアレクシアの護衛である。
魔術による〈主従契約〉を交わしている彼は、主であるアレクシアを守ることを義務づけられている。
彼は今、味方への指揮と防御魔導フィールドの操作に集中し、無防備になっているアレクシアの安全を確保するべく、魔導武器を装備して油断なく立っていた。
魔導武器は、大地の魔力が鉱物化した魔導鉱石を精錬した、魔導結晶を核として作られる。特殊な訓練を受けた魔導兵士――魔力を持つ兵士のみが扱うことができる兵器だ。
今回の敵もそれぞれ多彩な魔導武器を装備しているようだが、どれも大陸中で一般流通しているモデルであるため、そこから彼らの所属を推測するのは難しそうである。
名乗りを上げることなく領土を侵犯してくる相手に対し、今さら不快感を覚えることはない。
しかし、敵の正体がわからないことには根本的な解決は不可能だ。敵が侵入してくるたび、ひたすら追い返すことだけが今のアレクシアにできる対処法だった。
「第一分隊、三秒後に北北西に向けて一斉掃射。――敵魔力反応消失。状況終了だ。みな、よくやってくれた。総員、帰投せよ。怪我人への対処を最優先に」
『了解。……アレクシアさまに感謝を』
戦闘指揮にかかった時間は一時間弱。
ようやく肩の力を抜いたアレクシアは、深々と息を吐く。
そんな彼女に、ウィルフレッドが香り高いお茶を差し出してくる。
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