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光の記憶
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何やら物騒な初対面の挨拶になってしまったが、少なくともベネディクトという『兄』が、傷つきやすく優しい心と、不安定すぎる膨大な魔力を持ち合わせた少年だということは確認できた。
ひとつため息をつき、アレクシアはウィルフレッドを振り返る。
「……なあ、ウィル。ベネディクト殿の信頼を得るには、どうすればいいと思う?」
「おや。何か、あの方と取引したいことができたのですか?」
こちらの思惑などとうに理解しているのだろうに、わざわざそんなことを言ってくる従者を、アレクシアはじっとりと睨み上げた。
「おまえだって、わかっているだろう。――狭い檻に閉じこめられていた彼を、最初にみつけたのは、デズモンドさまだ」
たとえそれが、都合のいい後継者を確保したいという、デズモンドの身勝手な思惑によるものだったとしても。
暗闇の中、ひとりうずくまっていた少年を光の中に連れ出したのは、彼と血の繋がった『祖父』だった。老いてなお逞しく、東の国防を担う有力貴族に相応しい威厳を持つ辺境伯は、ケンブル男爵家の面々と相対したとき、存分にその格の違いを見せつけたに違いない。
おそらくデズモンドは、ケンブル男爵家側の都合などには一切斟酌することなく、ベネディクトを彼らの手が届かないゴルトベルガー学園に入学させた。『エイドリアンの息子』の存在を貴族社会にさりげなく周知させ、かつ自然な形で王太子との接点を持たせるには、それが最も効率的な方法だからだ。
本の世界にしか救いを求めることしかできなかったベネディクトにとって、それはいったいどれほどの福音だっただろう。
もっとも、その後『スウィングラー辺境伯家の後継者』などという肩書きを押しつけられたときには、またしても彼の人生はひっくり返される羽目になったわけだが。
まさか、文官志望の貴族子弟ばかりが集う学園に入学させられながら、卒業後には東の国境守護の総責任者になることを求められるとは、夢にも思っていなかったに違いない。入学時には、エイドリアンとダフニーの婚姻予定が知らされていなかったのなら、なおさらだ。
ベネディクト自身や王太子の弁からして、目立たず地味に生きていくことが彼の望みだったのであろうに――人生の波の乱高下が激しすぎて、つくづく不憫な少年である。
ウィルフレッドが、わずかに眉根を寄せてうなずく。
「そうですね。おそらく、彼がデズモンドさまの要請を拒絶することは難しいでしょう。そもそも、ベネディクトさまがスウィングラー辺境伯家の後継となることは、すでに国王陛下のご裁可によって定められています。これからよほどイレギュラーな事態が起きない限り、彼はいずれあの家を背負って立つことになる」
それとも、とウィルフレッドが何気ない口調で問うてくる。
「今度はあなたが、ベネディクト殿をスウィングラー辺境伯家から解放なさいますか?」
「彼自身が、そう望めばな。……だが、おそらく彼は望まんだろう」
絶望の中、生まれてはじめて目にした光が、どれほど深く濃く胸の奥に焼き付くものか。それを、アレクシアは誰よりもよく知っている。
デズモンドに捨てられ、すべてを放棄しかけていた彼女に生きろと言ったのは、ウィルフレッドだ。あのとき、彼が望んでくれたから、アレクシアは今もこうして生きている。
――嬉しいと、思ったんです。ぼくは生まれてからずっと、ぼく自身を必要だと望まれたことが、なかったから。
――スウィングラーのご当主さまから、直々にお声がけいただいたときには、こんな名誉なことはないと、本気で思いました。
――スウィングラーの、ご当主さまが、会いたいって……ぼくに、会いたいって、おっしゃったから。だから、あの部屋から、出してもらえたんです。
幼子のように震えて泣きながら、ベネディクトが吐き出した言葉を思い出す。
彼自身が望むのであれば、多少乱暴な手段になるのは避けられまいが、あの家から解放するのは不可能ではない。国王やスウィングラー辺境伯家に喧嘩を売ることにはなるけれど、そんな問題は些細なことだ。
だがもし、ベネディクトにとってのデズモンドが、アレクシアにとってのウィルフレッドと同じような存在であるのなら――
「ベネディクト殿には、逃げられない。彼が、次代のスウィングラー辺境伯だ」
その胸に刻みこまれた鮮烈な光が、ほかの道を照らすことはきっとないから。
アレクシアは、ぎゅっと両手の指を握りこむ。
「……哀れだ、なんて言わないよ。彼自身が望むなら、それは決して不幸なことではない」
「それでも、気になるのでしょう?」
柔らかな眼差しで、ウィルフレッドが見つめてくる。
「だからあなたは、彼を『兄』と呼ぶことを選択した。……アレクシアさま。あなたはすでに、ベネディクトさまをご自分の身内だと認識されている。ならば、あなたが彼を助けたいと願うのは、ごく当たり前のことです」
「ウィル……」
見上げた先で、ウィルフレッドが優しく笑う。アレクシアの、一番好きな顔だ。
「だから、彼の信頼が欲しいのでしょう? 助けたいと思う相手が手を伸ばしてくれなければ、その手を掴むことさえできないから」
「……ああ。まったく、その通りだよ」
ここまできれいに自分の思考を見透かされると、いっそすがすがしい気分にもなってくる。
軽く肩を竦め、アレクシアは苦笑した。
「何しろ、わたしたちは今日が初対面だからな。こちらを信じろと言ったところで、そう簡単にうなずいてくれるはずもない」
「問題ありませんよ、アレクシアさま。信頼など、あとからで構いません。たとえ善意の押しつけだと言われようと、状況を先延ばしにするのは時間の無駄です」
にこにこと、柔らかな微笑を浮かべたままウィルフレッドが言う。
「エイドリアンさまとダフニーさまは、近いうちに国王陛下のほうで排除してくださるでしょうから、こちらで対処する必要はありませんね。ケンブル男爵家の者たちに関しては、こちらがベネディクトさまに対する虐待について知っていることをほのめかしてやれば、抑止力としては充分かと。つまり、最優先で対応を検討しなければならないのは、彼の虐待に加担していたダイアナ嬢だということになります」
「ふむ」
顎先に触れながら、アレクシアは彼の言葉を吟味する。
家の問題が絡んでくる大人相手の対処となると、下手を打つと問題が大きくなりすぎて、のちのち面倒なことになってしまう。しかし、子ども同士の喧嘩であれば、話しは別だ。
軽く目を細め、彼女は笑う。
「なあ、ウィル。わたしは弱い者いじめは好かないが、弱い者いじめをする輩を叩きのめすのは、なんだか楽しそうな気がするぞ」
ウィルフレッドが、そんな彼女に忠告してくる。
「そうですね。ただ、伝聞の限りではありますが、女の武器の扱いに関しては、おそらくあちらのほうがアレクシアさまよりも上でしょう。どうぞ、思う存分全力で戦ってくださいませ」
「ああ。手加減無用というやつだな」
ふたりの会話を聞いていたセフィードが、すぅっと青ざめた。
「この国には……アレクシアよりも、強い女がいるのか?」
その問いかけに、アレクシアは重々しくうなずく。
「当然だろう。わたしなど、まだまだ世間知らずの青二才だ。おまえも、気をつけろよ。わたしかウィルの許可が出るまでは、年齢を問わず女性とふたりきりになるのは、非常に危険だからやめておけ。いいな」
「わ、わかった」
こくこくとうなずくセフィードが、素直な少年でよかった。これほど愛らしい見目の彼が、無防備にその辺を歩いていたら、あっという間に飢えた肉食獣――ではなく、妙齢のご婦人にペロリと平らげられてしまいかねない。自分の庇護下にある以上、ピュアな少年の心にそんなトラウマを植え付けるわけには、断じていかないのだ。
そこまで思考したアレクシアは、はっとした。
エッカルトの英雄夫妻にかいがいしく介護され、ソファでぐっすりと眠っているベネディクトを凝視したあと、彼女はおそるおそるウィルフレッドに問う。
「ウィル。これは、断じてわたしの考えすぎではないと思うんだが……。ベネディクト殿が、女性――特に、母親や妹を想起させるタイプの女性に対し、本能的に恐怖心を抱いている可能性というのは、ものすごく高いのではないだろうか?」
答えが返るまで、しばしの間があった。
ゆっくりと息を吐き、ウィルフレッドが口を開く。
「アレクシアさま。もしオレがベネディクトさまと同じ条件で養育されたなら、ありとあらゆる女性が恐怖と嫌悪の対象になるかと思います。特に、エイドリアンさまと同じ髪と目をした、自分を虐待したのと同じ『妹』という存在に対し、初対面で攻撃態勢に入らない可能性は、キッパリとゼロです。あなたに対し、若干怯えた様子でこそいらしたものの、まったく敵意を見せなかったベネディクトさまの胆力は、驚嘆に値します」
真顔で断言されてしまった。アレクシアは、しょんぼりと肩を落とす。
やはり、ベネディクトが女性という存在に対し、なんらかのトラウマを抱えている可能性は、かなり高そうだ。
「やはり、そうなるか。……ベネディクト殿は、本当に芯の強い少年なのだな。わたしとまっとうに会話をしてくれただけでも、感謝しなければなるまい」
そこで、ベネディクトにシルクのブランケットを掛けていたブリュンヒルデが振り返る。
「アレクシア。実は私も、あなたと相対したときのベネディクトさんの様子には、少々驚いていました。報告書によれば、この子は日常生活の中では滅多に口を開くことがなく、王太子殿下のサロンに招かれたとき以外は、ひとりきりで本を読みながら過ごしていることがほとんどなのだそうです。私がこちらにお招きした当初も、まったく無表情のまま、最低限の言葉を返してくるだけでした」
「そう……だったのですか?」
戸惑うアレクシアに、ブリュンヒルデがうなずく。
「ええ。おそらく、あなたの様子がこの子の知る女性像とはかけ離れていたものだから、よほど驚いたのでしょう。――アレクシア。私があなたとこの子を引き合わせたのは、この子が養家のケンブル男爵家だけではなく、母親や妹とまで距離を置きたがっていたからです。あの母娘のありようを是としないのであれば、もしかしたらあなたとは上手くやっていけるのではないかと思いました」
「……そうだったのですか。お気遣いありがとうございます」
おそらくブリュンヒルデたちは、この国に残していくアレクシアたちの周囲によけいな火種がないかどうかを、わざわざ調べてくれていたのだろう。その中で、ベネディクトが自堕落な父親とはかけ離れた聡明な少年であることを知り、こうして顔合わせのために邪魔の入らない場を設けてくれた。
本当に、ありがたいと思う。
東の国境守護という義務も、国王やスウィングラー辺境伯家のためだとなるとなんだか腹立たしいけれど、それがこの不憫な『兄』の助けになるなら悪くない。
それに、アレクシアの人生における第一目標である『ブラジェナ国王をぶん殴り、ウィルフレッドに誠心誠意詫びさせましょう』は、どう足掻いても長期戦になる。このまま七カ国連合との戦争が続けば、南東方面の国境を越えることさえ難しくなるはずだ。
(こればかりは、焦っても仕方がないからな。……ふむ。この夏の休暇は、なかなか忙しくなりそうだ)
ざっと思いつくだけでも、ブリュンヒルデから受け継いだ別邸の整備、セフィードの基礎教育、そしてベネディクトの魔力操作の指導。学園から出された課題については――落第点にならない程度に、どうにかしておけばいいだろう。
何はともあれ、まずは安全な拠点の確保が最優先である。
アレクシアは、改めてブリュンヒルデに向き直った。
「ブリュンヒルデさま。わたしに譲ってくださった別邸ですが、これから大切に使わせていただきます。ベネディクト殿との面会の機会を与えてくださったことといい、本当にありがとうございました」
「よろしいのですよ、アレクシア。いくら気に入りの住まいでも、まさか屋敷ひとつを持って帰るわけにはいきませんもの。どうぞ、あなたの好きに使ってくださいな。ああ、そうそう。少々忘れ物があるかもしれませんけれど、それらに関してはあなたの判断で処分していただけると助かります」
そう言って、ブリュンヒルデはキャビネットの上に置いてあった、いかにも頑丈そうな革の書類ファイルを手に取った。それをアレクシアに渡しながら、彼女はほほえむ。
「こちらは、あの屋敷の防衛及び機密保持システムとして構築していた、各種魔導式の資料です。少々遊び心のあるものも混ざっておりますけれど、あなた方の参考になるかもしれません」
ファイルを受け取った格好のまま、アレクシアは固まった。
当代エッカルト国王の妹であるブリュンヒルデが、自身の拠点である屋敷の防衛システムとして採用した魔導式となれば、彼の国における最高レベルの技術を駆使したものであって然るべきである。そんなものを、ホイホイと他国に流出させていいわけがない。
しかし、ブリュンヒルデは楽しそうに笑って言った。
「これらの魔導式は、すべて私の部下がこの国に来てから独自に開発したものです。我が国の機密保持には一切関わりのないものですから、そのまま採用するなり破棄するなり、あなたの自由にしてよいのですよ」
「……ありがとう、ございます。ブリュンヒルデさま。ウィルフレッドとともに、精査したのち検討させていただきます」
ぎこちなく礼を述べたアレクシアに、ブリュンヒルデはふと気遣わしげな表情になって重ねて告げる。
「ただ、もしこれらの魔導式を再現してみようと思われるのでしたら、くれぐれもその効果や範囲を確認の上でお願いしますね。中には、少々危険なトラップが発動するものもありますから。たとえば、そう……。身につけているものをすべて分解されたのち、シースルー素材の女性用下着に再構成された、むさ苦しいひげ面の侵入者たちを尋問したときには――ええ。その魔導式の発動許可を出したことを、私は心から後悔いたしました」
「ブリュンヒルデさま……」
く……っ、と目を伏せたブリュンヒルデの脳内には、過去のおぞましい記憶が甦っているのだろうか。その憂いに満ちた表情が、実に痛ましかった。
ひとつため息をつき、アレクシアはウィルフレッドを振り返る。
「……なあ、ウィル。ベネディクト殿の信頼を得るには、どうすればいいと思う?」
「おや。何か、あの方と取引したいことができたのですか?」
こちらの思惑などとうに理解しているのだろうに、わざわざそんなことを言ってくる従者を、アレクシアはじっとりと睨み上げた。
「おまえだって、わかっているだろう。――狭い檻に閉じこめられていた彼を、最初にみつけたのは、デズモンドさまだ」
たとえそれが、都合のいい後継者を確保したいという、デズモンドの身勝手な思惑によるものだったとしても。
暗闇の中、ひとりうずくまっていた少年を光の中に連れ出したのは、彼と血の繋がった『祖父』だった。老いてなお逞しく、東の国防を担う有力貴族に相応しい威厳を持つ辺境伯は、ケンブル男爵家の面々と相対したとき、存分にその格の違いを見せつけたに違いない。
おそらくデズモンドは、ケンブル男爵家側の都合などには一切斟酌することなく、ベネディクトを彼らの手が届かないゴルトベルガー学園に入学させた。『エイドリアンの息子』の存在を貴族社会にさりげなく周知させ、かつ自然な形で王太子との接点を持たせるには、それが最も効率的な方法だからだ。
本の世界にしか救いを求めることしかできなかったベネディクトにとって、それはいったいどれほどの福音だっただろう。
もっとも、その後『スウィングラー辺境伯家の後継者』などという肩書きを押しつけられたときには、またしても彼の人生はひっくり返される羽目になったわけだが。
まさか、文官志望の貴族子弟ばかりが集う学園に入学させられながら、卒業後には東の国境守護の総責任者になることを求められるとは、夢にも思っていなかったに違いない。入学時には、エイドリアンとダフニーの婚姻予定が知らされていなかったのなら、なおさらだ。
ベネディクト自身や王太子の弁からして、目立たず地味に生きていくことが彼の望みだったのであろうに――人生の波の乱高下が激しすぎて、つくづく不憫な少年である。
ウィルフレッドが、わずかに眉根を寄せてうなずく。
「そうですね。おそらく、彼がデズモンドさまの要請を拒絶することは難しいでしょう。そもそも、ベネディクトさまがスウィングラー辺境伯家の後継となることは、すでに国王陛下のご裁可によって定められています。これからよほどイレギュラーな事態が起きない限り、彼はいずれあの家を背負って立つことになる」
それとも、とウィルフレッドが何気ない口調で問うてくる。
「今度はあなたが、ベネディクト殿をスウィングラー辺境伯家から解放なさいますか?」
「彼自身が、そう望めばな。……だが、おそらく彼は望まんだろう」
絶望の中、生まれてはじめて目にした光が、どれほど深く濃く胸の奥に焼き付くものか。それを、アレクシアは誰よりもよく知っている。
デズモンドに捨てられ、すべてを放棄しかけていた彼女に生きろと言ったのは、ウィルフレッドだ。あのとき、彼が望んでくれたから、アレクシアは今もこうして生きている。
――嬉しいと、思ったんです。ぼくは生まれてからずっと、ぼく自身を必要だと望まれたことが、なかったから。
――スウィングラーのご当主さまから、直々にお声がけいただいたときには、こんな名誉なことはないと、本気で思いました。
――スウィングラーの、ご当主さまが、会いたいって……ぼくに、会いたいって、おっしゃったから。だから、あの部屋から、出してもらえたんです。
幼子のように震えて泣きながら、ベネディクトが吐き出した言葉を思い出す。
彼自身が望むのであれば、多少乱暴な手段になるのは避けられまいが、あの家から解放するのは不可能ではない。国王やスウィングラー辺境伯家に喧嘩を売ることにはなるけれど、そんな問題は些細なことだ。
だがもし、ベネディクトにとってのデズモンドが、アレクシアにとってのウィルフレッドと同じような存在であるのなら――
「ベネディクト殿には、逃げられない。彼が、次代のスウィングラー辺境伯だ」
その胸に刻みこまれた鮮烈な光が、ほかの道を照らすことはきっとないから。
アレクシアは、ぎゅっと両手の指を握りこむ。
「……哀れだ、なんて言わないよ。彼自身が望むなら、それは決して不幸なことではない」
「それでも、気になるのでしょう?」
柔らかな眼差しで、ウィルフレッドが見つめてくる。
「だからあなたは、彼を『兄』と呼ぶことを選択した。……アレクシアさま。あなたはすでに、ベネディクトさまをご自分の身内だと認識されている。ならば、あなたが彼を助けたいと願うのは、ごく当たり前のことです」
「ウィル……」
見上げた先で、ウィルフレッドが優しく笑う。アレクシアの、一番好きな顔だ。
「だから、彼の信頼が欲しいのでしょう? 助けたいと思う相手が手を伸ばしてくれなければ、その手を掴むことさえできないから」
「……ああ。まったく、その通りだよ」
ここまできれいに自分の思考を見透かされると、いっそすがすがしい気分にもなってくる。
軽く肩を竦め、アレクシアは苦笑した。
「何しろ、わたしたちは今日が初対面だからな。こちらを信じろと言ったところで、そう簡単にうなずいてくれるはずもない」
「問題ありませんよ、アレクシアさま。信頼など、あとからで構いません。たとえ善意の押しつけだと言われようと、状況を先延ばしにするのは時間の無駄です」
にこにこと、柔らかな微笑を浮かべたままウィルフレッドが言う。
「エイドリアンさまとダフニーさまは、近いうちに国王陛下のほうで排除してくださるでしょうから、こちらで対処する必要はありませんね。ケンブル男爵家の者たちに関しては、こちらがベネディクトさまに対する虐待について知っていることをほのめかしてやれば、抑止力としては充分かと。つまり、最優先で対応を検討しなければならないのは、彼の虐待に加担していたダイアナ嬢だということになります」
「ふむ」
顎先に触れながら、アレクシアは彼の言葉を吟味する。
家の問題が絡んでくる大人相手の対処となると、下手を打つと問題が大きくなりすぎて、のちのち面倒なことになってしまう。しかし、子ども同士の喧嘩であれば、話しは別だ。
軽く目を細め、彼女は笑う。
「なあ、ウィル。わたしは弱い者いじめは好かないが、弱い者いじめをする輩を叩きのめすのは、なんだか楽しそうな気がするぞ」
ウィルフレッドが、そんな彼女に忠告してくる。
「そうですね。ただ、伝聞の限りではありますが、女の武器の扱いに関しては、おそらくあちらのほうがアレクシアさまよりも上でしょう。どうぞ、思う存分全力で戦ってくださいませ」
「ああ。手加減無用というやつだな」
ふたりの会話を聞いていたセフィードが、すぅっと青ざめた。
「この国には……アレクシアよりも、強い女がいるのか?」
その問いかけに、アレクシアは重々しくうなずく。
「当然だろう。わたしなど、まだまだ世間知らずの青二才だ。おまえも、気をつけろよ。わたしかウィルの許可が出るまでは、年齢を問わず女性とふたりきりになるのは、非常に危険だからやめておけ。いいな」
「わ、わかった」
こくこくとうなずくセフィードが、素直な少年でよかった。これほど愛らしい見目の彼が、無防備にその辺を歩いていたら、あっという間に飢えた肉食獣――ではなく、妙齢のご婦人にペロリと平らげられてしまいかねない。自分の庇護下にある以上、ピュアな少年の心にそんなトラウマを植え付けるわけには、断じていかないのだ。
そこまで思考したアレクシアは、はっとした。
エッカルトの英雄夫妻にかいがいしく介護され、ソファでぐっすりと眠っているベネディクトを凝視したあと、彼女はおそるおそるウィルフレッドに問う。
「ウィル。これは、断じてわたしの考えすぎではないと思うんだが……。ベネディクト殿が、女性――特に、母親や妹を想起させるタイプの女性に対し、本能的に恐怖心を抱いている可能性というのは、ものすごく高いのではないだろうか?」
答えが返るまで、しばしの間があった。
ゆっくりと息を吐き、ウィルフレッドが口を開く。
「アレクシアさま。もしオレがベネディクトさまと同じ条件で養育されたなら、ありとあらゆる女性が恐怖と嫌悪の対象になるかと思います。特に、エイドリアンさまと同じ髪と目をした、自分を虐待したのと同じ『妹』という存在に対し、初対面で攻撃態勢に入らない可能性は、キッパリとゼロです。あなたに対し、若干怯えた様子でこそいらしたものの、まったく敵意を見せなかったベネディクトさまの胆力は、驚嘆に値します」
真顔で断言されてしまった。アレクシアは、しょんぼりと肩を落とす。
やはり、ベネディクトが女性という存在に対し、なんらかのトラウマを抱えている可能性は、かなり高そうだ。
「やはり、そうなるか。……ベネディクト殿は、本当に芯の強い少年なのだな。わたしとまっとうに会話をしてくれただけでも、感謝しなければなるまい」
そこで、ベネディクトにシルクのブランケットを掛けていたブリュンヒルデが振り返る。
「アレクシア。実は私も、あなたと相対したときのベネディクトさんの様子には、少々驚いていました。報告書によれば、この子は日常生活の中では滅多に口を開くことがなく、王太子殿下のサロンに招かれたとき以外は、ひとりきりで本を読みながら過ごしていることがほとんどなのだそうです。私がこちらにお招きした当初も、まったく無表情のまま、最低限の言葉を返してくるだけでした」
「そう……だったのですか?」
戸惑うアレクシアに、ブリュンヒルデがうなずく。
「ええ。おそらく、あなたの様子がこの子の知る女性像とはかけ離れていたものだから、よほど驚いたのでしょう。――アレクシア。私があなたとこの子を引き合わせたのは、この子が養家のケンブル男爵家だけではなく、母親や妹とまで距離を置きたがっていたからです。あの母娘のありようを是としないのであれば、もしかしたらあなたとは上手くやっていけるのではないかと思いました」
「……そうだったのですか。お気遣いありがとうございます」
おそらくブリュンヒルデたちは、この国に残していくアレクシアたちの周囲によけいな火種がないかどうかを、わざわざ調べてくれていたのだろう。その中で、ベネディクトが自堕落な父親とはかけ離れた聡明な少年であることを知り、こうして顔合わせのために邪魔の入らない場を設けてくれた。
本当に、ありがたいと思う。
東の国境守護という義務も、国王やスウィングラー辺境伯家のためだとなるとなんだか腹立たしいけれど、それがこの不憫な『兄』の助けになるなら悪くない。
それに、アレクシアの人生における第一目標である『ブラジェナ国王をぶん殴り、ウィルフレッドに誠心誠意詫びさせましょう』は、どう足掻いても長期戦になる。このまま七カ国連合との戦争が続けば、南東方面の国境を越えることさえ難しくなるはずだ。
(こればかりは、焦っても仕方がないからな。……ふむ。この夏の休暇は、なかなか忙しくなりそうだ)
ざっと思いつくだけでも、ブリュンヒルデから受け継いだ別邸の整備、セフィードの基礎教育、そしてベネディクトの魔力操作の指導。学園から出された課題については――落第点にならない程度に、どうにかしておけばいいだろう。
何はともあれ、まずは安全な拠点の確保が最優先である。
アレクシアは、改めてブリュンヒルデに向き直った。
「ブリュンヒルデさま。わたしに譲ってくださった別邸ですが、これから大切に使わせていただきます。ベネディクト殿との面会の機会を与えてくださったことといい、本当にありがとうございました」
「よろしいのですよ、アレクシア。いくら気に入りの住まいでも、まさか屋敷ひとつを持って帰るわけにはいきませんもの。どうぞ、あなたの好きに使ってくださいな。ああ、そうそう。少々忘れ物があるかもしれませんけれど、それらに関してはあなたの判断で処分していただけると助かります」
そう言って、ブリュンヒルデはキャビネットの上に置いてあった、いかにも頑丈そうな革の書類ファイルを手に取った。それをアレクシアに渡しながら、彼女はほほえむ。
「こちらは、あの屋敷の防衛及び機密保持システムとして構築していた、各種魔導式の資料です。少々遊び心のあるものも混ざっておりますけれど、あなた方の参考になるかもしれません」
ファイルを受け取った格好のまま、アレクシアは固まった。
当代エッカルト国王の妹であるブリュンヒルデが、自身の拠点である屋敷の防衛システムとして採用した魔導式となれば、彼の国における最高レベルの技術を駆使したものであって然るべきである。そんなものを、ホイホイと他国に流出させていいわけがない。
しかし、ブリュンヒルデは楽しそうに笑って言った。
「これらの魔導式は、すべて私の部下がこの国に来てから独自に開発したものです。我が国の機密保持には一切関わりのないものですから、そのまま採用するなり破棄するなり、あなたの自由にしてよいのですよ」
「……ありがとう、ございます。ブリュンヒルデさま。ウィルフレッドとともに、精査したのち検討させていただきます」
ぎこちなく礼を述べたアレクシアに、ブリュンヒルデはふと気遣わしげな表情になって重ねて告げる。
「ただ、もしこれらの魔導式を再現してみようと思われるのでしたら、くれぐれもその効果や範囲を確認の上でお願いしますね。中には、少々危険なトラップが発動するものもありますから。たとえば、そう……。身につけているものをすべて分解されたのち、シースルー素材の女性用下着に再構成された、むさ苦しいひげ面の侵入者たちを尋問したときには――ええ。その魔導式の発動許可を出したことを、私は心から後悔いたしました」
「ブリュンヒルデさま……」
く……っ、と目を伏せたブリュンヒルデの脳内には、過去のおぞましい記憶が甦っているのだろうか。その憂いに満ちた表情が、実に痛ましかった。
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後悔するのはどちらかを示すために。

私に姉など居ませんが?
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