追放された最強令嬢は、新たな人生を自由に生きる

灯乃

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今はまだ、そのときじゃない

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 ベネディクトの魔力が、これほど膨大で不安定であるとは、アレクシアとしても少々想定外だった。同時に、不思議に思う。もし、幼い頃の彼が魔力暴走を起こしていたなら、その被害規模は相当のものだったはずである。

 しかし、今に至るまでそういった大惨事の情報は、噂にすら上がっていない。それはつまり、ベネディクトが今まで一度も魔力暴走を起こしたことがないということだ。
 アレクシアは、そっと息をついた。

「きみは、もしかしたらわたし以上に壊れた子どもなのかもしれんな。ベネディクト殿。一応確認させてもらうが、きみは今までこんなふうに魔力の制御を失ったことはないのだろう?」
「は……い。こんなのは、はじめてで……あ、す、すみません、すみません……っ」

 幼子のような仕草でうなずいたベネディクトが、再び青ざめてもがき出す。また、彼の魔力がわずかに乱れた。
 その細い手首を掴み直し、アレクシアはできるだけ穏やかな声で言う。

「構わない。大丈夫だから、落ち着きたまえ。……きみは、本当に辛抱強い子どもだな。わたしがきみの立場なら、とうの昔に魔力暴走を起こして、きみを閉じこめていたという部屋を吹き飛ばしていたところだぞ」
「……違い、ます……ぼくは、弱くて、何も……だから、母のお人形でいるしか、できなくて」

 たどたどしい少年の独白に、アレクシアは眉をひそめる。

「い、妹だって、ぼくは、きれいなだけのお人形だ、って……。だから、ぼくは……あの部屋でおとなしくしているのが、正しいんだって」
(なんだと……?)

 ベネディクトが『妹』というのは、もちろんアレクシアのことではないだろう。
 たしかダイアナ、といったか。
 シンフィールド学園の応接室で、はじめて王太子と対峙したとき、ひどくうんざりした様子の彼からその少女の名を聞いた。

 ――ダイアナ嬢のほうはとても楽観的な性格のようだね。あれは、非常にわかりやすい。『ある日突然、高貴で裕福な辺境伯家の令嬢になった、この国で一番幸運な自分』に酔っている、夢見る少女そのものだ。

 ――きみに、最もわかりやすい言い方をするなら、ダイアナ嬢は、異性との接し方が父親にそっくりなんだ。

 ――彼女は、外見は慎ましやかな母親に似たようだ。目を奪われるような美女ではないが、小柄で無邪気で可愛らしい少女だ、と多くの者が思うのではないかな。

 アレクシアは、ちっと舌打ちする。

(見た目は地味でおとなしげな母親に、中身はあの色ぼけ種馬野郎に似た『妹』、か。……厄介な相手だな)

「あ、あの子は、ケンブル男爵家の方々に、よく、似ていて……だから、あの家で可愛がられるのも、当たり前で。でも、ぼくは、違うから……母が、誰かに、ぼくを見せびらかすとき以外は、外に出たら、いけなくて。妹が、いやだって、迷惑だって。ぼくなんかいらないって、言うから」

 震えるベネディクトの言葉に、ぐるぐると気持ちの悪い苛立ちばかりが募っていく。
 王太子の語る『妹』のひととなりを聞いたときから、気に入らないとは思っていた。もちろん、他人からの伝聞からで、実際に相対したこともない人物に好悪の情を抱くなど、愚の骨頂だ。
 それでも、ベネディクトの口から語られる『妹』の姿は、不愉快に過ぎる。

「でも……っ、スウィングラーの、ご当主さまが、会いたいって……ぼくに、会いたいって、おっしゃったから。だから、あの部屋から、出してもらえたんです。学校にも、行かせてくださるって。べ……勉強だけは、していた、から。い、妹には、殴られたけど」
「殴られた、だと?」

 自分でも、驚くほど低い声が出た。
 ベネディクトが語るのは、とても信じがたいことばかりだが、こうして彼の体に直接触れているアレクシアには――おそらくは、フェルディナントにもわかっている。
 今のベネディクトに、嘘を吐く余裕などない。彼はただ泣きながら、思い出すままを口にしているだけだ。

「人形の、ぼくが……学校に行くなんて、おかしいって。生意気、だって。けど、あの頃は……エイドリアンさまと母上が、結婚するなんて、思わなかった、から。ただ、あの家から……あの部屋から出て、もう、戻りたくなくて……っ」

 だから彼は、全寮制のゴルトベルガー学園に入学したのか。
 養子縁組をしたケンブル男爵家や、血の繋がった母や妹であろうと、絶対に干渉されることのない学び舎へ。
 アレクシアは、深呼吸をひとつした。それから、できるだけ柔らかな口調でベネディクトに告げる。

「……ベネディクト殿。これだけは、約束しよう。わたしはダイアナ嬢と同じくきみの妹にあたる者だが、何があろうと、絶対にきみに手を上げることはない」

 ダイアナの名を出した途端、ベネディクトの体が大きく震えた。それには気がつかないふりをして、アレクシアは続ける。

「なぜならわたしは、自分にとって無害な人間を殴るような、幼稚でイカレた趣味など持ち合わせていないからだ。それともきみは、わたしに危害を加えるつもりがあるのかね?」
「……っない、です! そんなの、あるわけ……!」

 だったら問題はない、とアレクシアは断じた。
 ベネディクトの手首を掴んでいた手を緩め、そのまま相手と指を絡める形で両手をつなぐ。このほうが、魔力を同調させやすい。
 細く冷えきった指先に、じんわりとアレクシアの体温が――魔力が伝わっていく。

「わかるか? ベネディクト殿。これが、わたしの魔力だ。……ふむ。思った以上に、きみとわたしの魔力はよく似ているな。とても、波長を合わせやすい」

 まだ少しの乱れはあるものの、落ち着きを取り戻したベネディクトの魔力は、アレクシア自身のそれと非常に同調させやすいものだった。もしかしたら、ウィルフレッド以上かもしれない。
 何度か不規則な呼吸を繰り返したあと、ゆっくりとベネディクトが息を吐く。

「あ……温かい、です」
「そうか。きみが魔力の扱いに慣れるまでは、こうしてわたしの魔力の流れを直接感じる経験を重ねていくのがいいと思う。だが、もし気分が悪くなったなら、すぐに言ってくれたまえ」

 本当に何も知らない初心者に魔力の扱いを手ほどきするのは、アレクシアにとってもはじめての経験だ。何か不手際があってもおかしくない。

 しかし、ベネディクトは特にいやがる様子もなく、素直にアレクシアの魔力を受け入れているようだった。断続的に引きつっていた呼吸が穏やかさを取り戻し、触れ合う指先にもぬくもりが戻ってくる。

「ベネディクト殿。今は、何も考えなくていい。スウィングラー辺境伯家の継承問題も、きみを虐待した者たちへの対処も、今のきみが考えるべきことではない」

 何か言おうとした相手を、アレクシアは軽く指先に力をこめることで押し止めた。

「大丈夫だ。選択しなければならないときなど、いずれいやでもやってくる。だが、今はまだそのときではない。それだけのことだよ」
「……はい」

 素直にうなずくベネディクトの体内に、穏やかな魔力の流れができあがったのを確認し、そっとつないでいた両手を離す。

「疲れただろう。少し、休みたまえ。そうして、次にわたしと会うときには――」

 ベネディクトの視界を覆っているフェルディナントの手が、淡い魔力の光をまとう。睡眠導入魔術の波動。

「きっと、きみの世界は変わっているよ。……だからおやすみ、『お兄さま』」

 少年の華奢な体から、ふっと力が抜ける。その様子を確認したウィルフレッドの手が、離れた。
 深い眠りに落ちたベネディクトを揺るぎなく受け止め、軽々と抱き上げたフェルディナントを見上げ、アレクシアは礼を述べる。

「ありがとうございました。フェルディナントさま」
「いや。こちらこそ悪かったね、アレクシア。その……言い訳にもならないが、我々のほうでベネディクトくんの身辺を調査したときには、こんな問題は確認できていなかったんだよ」

 申し訳なさそうに言う一国の英雄に、アレクシアは苦笑する。

「謝罪には及びません。どれほど腕利きの諜報員でも、彼の過去を調べ上げるのはさすがに困難だったでしょう」

 何しろ、ベネディクトの存在が世間から注目されるようになったのは、このばかげた離縁・再婚騒動がはじまってからのことである。それまでの彼は男爵家の養子に過ぎなかった上、実の母親によって幽閉されていたも同然なのだ。いくら美麗な容姿をしていても、幼く爵位の継承権もなかった彼が、社交界で話題に上ることはなかっただろう。

「フェルディナント。もう、よろしいでしょう。そろそろ、ここから出してくださいな」

 その声に振り返れば、フェルディナントが作ったと思しき半球状の小型防御シールドの中に、ブリュンヒルデとセフィードがそれぞれ閉じこめられている。どうやら、ベネディクトの魔力暴走がはじまった直後から、この状態であったようだ。

「これは、失礼いたしました。セフィードくんも、悪かったね」

 苦笑したフェルディナントが詫びるのと同時に、ふたつの防御シールドが消失する。アレクシアは、微動だにせず黙っているセフィードに声を掛ける。

「セフィード。何か、問題があったか?」
「問題はない。ただ、理解ができない。そいつは、おまえとの会話のどこに、魔力暴走に陥るほどの衝撃を受けた?」

 本当に、わけがわからないというふうに首を傾げるセフィードに、アレクシアは微笑した。
 どうやらこの少年は、赤の他人の心の動きに、興味を持つことができるらしい。その事実に、少しほっとする。

「さてな。人生の何に重きを置いているかによって、人が我を失う要因というのは変わってくる。ベネディクト殿にとっては、わたしが彼の代わりに戦場に立つことで、彼自身がずっと願っていた自由を労せずにして手に入れられるという現実が、耐えがたく苦しいことだったのだろう」
「その結果は、そいつ自身が望んだことではないのに?」

 素朴な疑問を口にするセフィードは、本当に正しい。
 ベネディクトは、ただ自分ではどうしようもない現実に翻弄されてしまっただけだ。彼が傷つかなければならない理由など、どこにもない。

「優しい人間は、傷つきやすい。そういうことだ」
「……わからない。『優しい』というのは、いいことではないのか?」

 アレクシアは、笑ってうなずく。

「いいことだよ、セフィード。優しいことは、いいことなんだ」

 だから、と彼女は柔らかな口調で続ける。

「おまえは、強くて優しい大人になるといい。そうだな、わたしの知る限り、強く優しい立派な成人男性といえば、シンフィールド学園のエリック・タウンゼントか、こちらのフェルディナント・バルツァーさまだ。今後のために、ぜひ学ばせていただくといい」

 彼女の助言に、セフィードがきょとんとする。

「そっちの男は、おれより強い。だが、エリック・タウンゼントはおれより弱いぞ」
「まあ、そう言うな。強さの基準というのは、魔導武器を操る腕前だけではないのだよ」

 そんなことを話している間に、フェルディナントは昏々と眠るベネディクトの体を、柔らかそうなソファに横たえていた。
 血の気の引いたその頬を、ブリュンヒルデが濡らしたハンカチで拭っている。そして彼女は、ひどくしみじみとした様子で首を傾げた。

「ねえ、フェルディナント。この子はたしかにエイドリアンさまと同じ顔ですのに、こうして至近距離で眺めるどころか、素手で触れても吐き気を催さないだなんて、なんだか不思議な気がしますわ」
「……無事に記憶の上書きができたようで、よろしゅうございました」

 フェルディナントが、どこか遠くを見ながら言う。

(なんだか、申し訳ありません。ブリュンヒルデさま)

 見ているだけで吐き気を催す相手の子どもを産むなど、たとえそれが貴族女性に課せられる最も重要な責務だったとしても、いったいどれほどの苦行だったのだろう。その子ども本人である身としては、なんともいたたまれない気分になってしまうアレクシアだった。
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