一目で、恋に落ちました

灯乃

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1巻

1-3

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 ――とそのとき、リュシーナの部屋の扉が勢いよく開いた。
 さすがに驚いたけれど、この屋敷でこんなことをできるのはひとりだけだ。

「姉上……」

 よほど急いでやってきたのか、弟のアルバートは、血の気の引いた顔で息を乱している。
 全寮制の学舎に通っている彼が屋敷に戻ってこられるのは、週末の休息日だけ。
 しかし、姉のリュシーナがひどい醜聞しゅうぶんに巻きこまれたことを知り、飛んできてくれたようだ。
 足早にリュシーナのそばにやってきたアルバートは、呼吸を乱したまま、ぐっと右のこぶしを握りしめた。
 ――アルバートは、今にも泣き出しそうな顔をしている。彼のこんな姿を見るのは、ずいぶん久しぶりだ。
 リュシーナはそっと彼の手に触れて、できるだけ柔らかくほほえんだ。

「大丈夫よ、アルバート。わたしは、大丈夫」
「……っ」

 開け放たれたままだった扉を、ヘレンが音を立てないようにゆっくりと閉める。
 物心ついてから、アルバートはリュシーナ以外の人間と、ほとんど口もきかなかった。
 仕事ばかりでめったに顔を合わせることのない父も、数年前から別邸で暮らし帰ってこない母も、自分たち姉弟にとって、ひどく遠い存在である。
 だからこそ、リュシーナはこれまでアルバートを守り、育ててきたのだ。

「……驚かせてしまって、ごめんなさいね」

 そう謝ると、アルバートはうつむいて、何度も頭を振る。
 ベッドの中からアルバートの手を引くと、彼は素直に体をかがめ、リュシーナに顔を寄せてくれる。リュシーナは、汗ばんでひんやりとした彼の頬を両手で包みこんだ。

「大丈夫よ。あなたが心配するようなことは何もないの。わたしがあなたに、嘘を言ったことがあったかしら?」
「……」

 リュシーナと同じ、コバルトブルーの瞳が戸惑ったように揺れる。
 リュシーナの声も表情も穏やかで、苦悩の陰が見えないことに気がついたのだろう。
 汗でひたいに張りついたアルバートの髪をそっと払い、リュシーナはもう一度ほほえんだ。

のどが渇いたでしょう? まずはお茶をいただいて、それからゆっくり話をしましょう」

 今までもこれからも、彼にだけは絶対に嘘をつかないと約束した。
 こくんとうなずいたアルバートが、ベッドのそばに置かれた椅子に腰を下ろす。
 そつのないヘレンが見事な手際でお茶を用意する姿を見ながら、リュシーナは思った。
 弟に嘘をつくことなど絶対にできない。
 けれど――弟の心の平穏のためにも、ヘレンがこの落ち着き払った表情の下でどれほど怒り狂っているのかは、やっぱり黙っておくことにしようと。



   第二章 計画始動


 リュシーナとヘレンを見送ったハーシェスは、その後、辻馬車つじばしゃを拾って騎士団本部に戻った。待ち構えていた同僚に、すぐさま団長室まで連行される。どうやら、先ほどの騒ぎを目撃した団員が、団長に報告したらしい。
 広々とした団長室では、壮年の騎士団長と副団長、数名の上官たち、きちんと服を着たダニエルが待っていた。
 ハーシェスは、ダニエルに目を留めてふと思う。
 彼が先ほどまで情事にふけっていたお嬢さんの年齢はわからないが、相当幼く見えた。もしかしてダニエルには、幼女趣味があるのだろうか。
 なんにせよ、婚約者がいながら浮気をするダニエルは変態だ、とハーシェスは結論づけた。
 そんなダニエルと同じ部屋の空気を吸ったとしても、変態というものは空気感染するたぐいのものではない。だから大丈夫だ、と自分に言い聞かせながら敬礼し、入室する。
 ダニエルが殺意のこもった視線を向けてきたが、ハーシェスはあくまでも上官たちに視線を固定した。
 ……やはり変態は感染するのではないか、などと思ったからではない。上官を前にした部下として、当然の礼儀である。
 騎士団長は、なんとも言いがたい顔をしてため息をついた。

「……ハーシェス。ティレル侯爵のご令嬢は、どんなご様子だった?」

 ハーシェスは眉を寄せた。

「団長。彼女は婚約者と友人の裏切りを、最悪の形での当たりにしたのですよ? それは大変傷つかれたご様子でした」

 そうか、とうなずいた騎士団長は、生温かい視線をダニエルに向ける。

「だ、そうだ。おまえもなぁ、連れ込むなら、せめて婚約者の交遊関係は避けて連れ込め。いくら自分で選んだ相手じゃないとはいえ、最低限の礼儀ってモンがあるだろう」

 騎士団長の言葉に、ダニエルは顔をゆがめて反論した。

「自分が連れ込んだわけではありません! 彼女が突然、訪ねてきたのです!」
(わーお)

 ハーシェスは目を丸くした。往生際おうじょうぎわが悪いにもほどがある。
 騎士団長は、疲れきった様子でがりがりと頭をいた。

「……あのな、ダニエル。この状況で、俺がおまえに言えることは二つだ。一つ、ティレル侯爵家に誠心誠意頭を下げて謝罪してこい。二つ、エプスタイン男爵家にジャネット嬢への求婚の許可をもらってこい。未婚の令嬢に手ぇ出しといて知らぬ存ぜぬなんてこと、俺は絶対に認めねぇからな」

 じろりと上官ににらみつけられて、ダニエルはひるんだようだった。
 やがてダニエルはぐっとこぶしを握りしめると、押し殺した声で口を開く。

「自分の婚約者は、リュシーナです。――ジャネット嬢と、その……少々遊んだのは確かですが、自分は彼女の純潔を奪ったわけではありません」
(は?)

 あの状況を見られていながら、よくそんなことを言えたものだ。
 ハーシェスはますます目を丸くしたが、騎士団長は軽く片眉を上げただけだった。

「あー……ツッコんではねぇってことか?」
「はい」
(……いや、いくら最後までヤってなくたって、あそこまでにゃんにゃんしてたら、フツーに浮気認定間違いなしだからな?)

 ハーシェスは、心の底からそう言ってやりたかった。
 一方のダニエルだが、『最後までヤっていない』というのは、己を正当化する充分な理由になっているようだ。
 そういえば貴族社会では、既婚者同士なら多少の火遊びは見て見ぬフリが基本マナーだったはず。それなのに、未婚の女性は男とふたりでいるところを目撃されただけで『純潔を汚された恐れアリッ』と周囲に見られ、問答無用もんどうむようでその相手と結婚しなければならないという。平民出身のハーシェスにとっては、不思議なルールだ。
 ハーシェスがそんなことを考えて顔をしかめている間、ダニエルは誠実な青年そのものといった様子で、上官に何ごとかを訴えている。もしかしたら、彼には役者の素質があるのかもしれない。変態のくせに。
 ハーシェスは、ダニエルの言葉に耳をかたむけた。

「このような醜聞しゅうぶんを騒ぎ立てたところで、リュシーナとジャネット嬢が傷つくだけです。もちろん、ティレル侯爵家にはのちほど誠心誠意びてまいります。ジャネット嬢は他言無用を約束してくれましたし、リュシーナも少し落ち着けば、きっと理解してくれるはず。どうかこのたびの一件は、内々におさめていただくわけにはまいりませんでしょうか」

 残念ながら、それは希望的観測がすぎるというものだ。
 ダニエルの浮気相手がまっとうな神経を持っていれば、こんな醜聞しゅうぶんを自ら口にしたりはしないだろう。
 だがダニエルとの未来を切り捨て、ハーシェスを選んでくれたリュシーナは――というより、ダニエルを叩き潰したくてうずうずしているヘレンは、今頃侯爵家で使用人仲間たちにこの事態をしゃべりまくっているはずだ。
 貴族の屋敷に仕える使用人は、そういった醜聞しゅうぶんや噂話が大好物である。明日の今頃、貴族女性の間ではこの話題でもちきりになっているだろう。
 しかし、そんなことなど知らない騎士団長たちは、ダニエルに『女性の名誉』という最終兵器を持ち出され、どうしようもないと判断したらしい。
 ダニエルに厳重注意をしていくつかのペナルティを科すと、ハーシェスにも他言無用を命じてきた。
 ハーシェスは、素知らぬ顔で首をかしげる。

「はぁ。ご命令とあればそのようにいたしますが……。侯爵令嬢は大変お気の毒なことに、泣きながら修道院に入るとおっしゃっていました。それほど、ダニエルとの婚儀が嫌になってしまわれたのでしょう。団長? もし団長のお嬢さんの婚約者が、お嬢さんのご友人と浮気したなら、そのまま結婚をお許しになられ――」
「ぜぇええぇえっったいに、許さああぁあああーんっっ!!」

 期待通りの反応が、期待以上の勢いで返ってきた。その剣幕けんまくにダニエルはもちろん、周囲の面々も盛大に顔を引きつらせている。
 騎士団長に、可愛らしい盛りの娘がいてよかった。
 ハーシェスは小さく息を吐き、言葉を続けた。

「あれほどお若く美しい侯爵令嬢が、おいたわしいことです。……団長。ティレル侯爵令嬢は、本当に素晴らしいレディです。あの方には、なんのとがもございません。なのになぜ、彼女が修道院になど入らねばならないのでしょう?」

 できるだけ低く抑えた声で言うと、上官たちの目が揺らいだ。ハーシェスは、静かに首を振る。

「……いえ、出過ぎたことを言いました。申し訳ありません。ただ――」

 そこで言葉を切り、皮肉げに唇の端を上げた。

「婚約者に捨てられた女性の名誉を傷つけるような貴族がいたら――自分は今後、そういった方々とのおつきあいを一切控えさせていただこうと思います」

 ハーシェスの言う「自分」とは、すなわち「ラン商会の跡取り」という意味である。
 貴族の中には商人から借金をしている者も多い。この場にいる者たちも、身内をたどっていけば、誰かしらが金を借り入れているだろう。
 ハーシェスの宣言は、彼らにとって他人事ひとごとではない。
 彼らの顔が微妙に引きつったのを見届け、ハーシェスは上官たちに一礼して退室した。

(騎士団上層部のほうは、これでよし、と。次は――)

 侯爵令嬢のリュシーナが平民の自分にとつげば、ヘレンの言葉通り、心ない人たちから悪意を向けられることだってあるだろう。
 だが『平民風情ハーシェス』が、それを甘んじて受け入れるばかりだと思わないでほしい。
 ハーシェスは、翌日から一週間の有給休暇を申請してラン家に戻った。
 リュシーナとのことや今後の計画について父に話を通しておかなければならなかったし、いろいろと調べたいこともあったからだ。


   ◆ ◇ ◆


 ――なぁ、シェス。おまえちょっと、騎士の資格を取って貴族のお嬢さんを嫁にしてみないか?
 父のルーカスがのほほんとした口調でそう言ったのは、九年前。ハーシェスが十四歳のときであった。
 祖父がはじめた貿易業をその手腕で何倍にも拡大させた、立志伝中りっしでんちゅうの人ルーカス。彼は、一見そんな切れ者にはまるで見えない、おっとりした雰囲気の持ち主である。
 しかしハーシェスは、幼い頃からルーカスの仕事ぶりを間近で眺めてきた。裏表などまるでなさそうに見えるその笑顔こそ、父の最も厄介な武器だと知っている。
 ルーカスは、息子を連れてさまざまな異国を回った。そのたびに、ハーシェスは各国の言語を叩きこまれ、異国の地でトラブルにも見舞われた。
 また、成功者の常としてたびたび命を狙われる父の巻き添えを食らい、死にかけたことも一度や二度ではない。
 このままでは、冗談抜きにいずれ命を落とすかもしれない――ハーシェスは危機感を覚え、異国を回る際、護衛役の傭兵ようへいたちから基礎的な武術を学んできた。
 こうしてルーカスにたくましく育てられたハーシェスは、十四歳となったある日、騎士の資格を取れと言われたのだ。


「なぁ、シェス。おまえちょっと、騎士の資格を取って貴族のお嬢さんを嫁にしてみないか?」

 父は、母の作ったチーズオムレツと同じくらい温かそうな笑みを浮かべている。しかし、その笑顔こそ油断ならない。
 ハーシェスは、ルーカスの言葉の意味を十九秒ほど考える。
 しかし残念ながら、父の意図するところはわからなかった。
 この国が周辺諸国との戦を忘れて、そろそろ二十年が経とうとしている。
 現在、騎士の称号を持つ者たちの主な仕事は、国内の治安維持、国境近辺に出没する山賊さんぞく退治、国賓こくひんたちがつどう場の警護業務だ。
 その任務に名誉もへったくれもなくなって久しいとはいえ、騎士団とは王家への忠誠を誓う戦闘集団。団員の質が下がったとなると、あっという間に周囲からめられて、エラいことになりかねない。
 そのため優秀な人材を広く集めるべく、今では貴族の子息に限らず、平民出でも騎士になれるようになった。国の予算で運営されている『騎士養成学院』を卒業すればいいのだ。
 だが、騎士を目指す平民はさほど多くない。
 まず学院への入学金は、平民にとって決して安いものではない。その上、修業科目には詩歌音曲しいかおんぎょく、ダンスや絵画なども含まれ、芸術的素養も求められる。すなわち、門戸は開いたものの、騎士団にはいまだ貴族然とした体質が根づいている。
 学院を卒業して騎士の資格を取れば、はくもついて職に困らない。とはいえ、平民を見下すことの多い貴族の子弟たちの中に飛びこんでいく物好きなど、そういないだろう。
 ハーシェスだって、そんな苦労はごめんだった。
 そもそも、自分はずっと父の跡を継ぐために育てられてきたはず。今さら『騎士になれ』とはどういうことなのか。
 首をかしげたハーシェスに、ルーカスはのほほんと笑って口を開いた。

「まぁ、貴族の嫁さんってのは、さすがに難しいかもしれんがな。しかし、うちの商売はこれからもっとでかくなる。大物相手に商売するときには、ハッタリってもんが必要だ。貴族連中の洗練された立ち居振る舞いや身のこなしってのは、有効な武器になる。おまえだって、わかっているだろう?」

 ハーシェスはようやく、父の意図するところを理解した。考え考え、口を開く。

「……つまり、あれか? 騎士養成学院に入って、仕事でハッタリが利くだけのモンを身につけてこいと。ついでに貴族のお嬢さまを嫁にできれば、上流階級とのパイプもできて、将来いろいろとお役立ちってことか?」

 ルーカスはあっさりとうなずいた。

「ああ、そうだ。それに、大勢の客を招いて商談も兼ねたパーティーを開くとき、場を仕切ってくれる女主人がいるに越したことはない」
「あー……。まぁ、そうだよな」

 ハーシェスは父に連れられ、外国のパーティーに何度か参加したことがある。そのときの様子を思い出し、ため息をついた。

「そりゃあ、あんなバカでかい規模のパーティーを仕切るなら、それなりの教育を受けた貴族のお嬢さまじゃなきゃ無理だろうけどさ。うちがいくら荒稼ぎしてるったって、しょせんはしがない平民だぞ? きっちり教育を受けた気位きぐらいの高いお嬢さまが、とついできてくれるわけないだろ?」
「やってみなけりゃ、わからんぞ? そのかーさんにそっくりの可愛いツラがあれば、お嬢さまのひとりやふたりは――」

 ハーシェスの顔立ちは、ちまたで美女と名高い母親譲りだ。十四を過ぎて少しずつたくましくなってきたとはいえ、自分の男らしいとは言いがたい容貌ようぼうに、密かにコンプレックスを抱いていた。
 一度、この無神経な父のことをきゅっとシメてやりたい。
 父自身は街で一目惚れした女性を口説くどき倒して――というより拝み倒して嫁にしたくせに、子どもにはロマンのかけらもない結婚をさせようとは、ひどい話だ。
 ぎろりとルーカスをにらめば、父は食えない表情で言葉を続ける。

「――というのは、冗談としてもだ」

 ハーシェスの気も知らず、どこまでも我が道を行くルーカスは、あっさりと息子の人生を決定した。

「金さえ払えば、貴族連中にバカにされずに済むだけのモンを身につけられる機会が、目の前に転がっているんだ。いずれ俺の跡を継ぐ気があるんだったら、黙って五年くらい貴族のボンボンたちにいじめられてこい」
「ほんっっとに身もふたもないよな!」

 これが商売人を父に持った子の宿命なのか、はたまたルーカスの子として生まれた者の宿命なのか――ハーシェスは、ちょっぴり遠いどこかに旅立ちたくなった。


 こうして騎士に対する憧れなど皆無の状態で学院に入学することになったハーシェスだが、そこは想像していたよりもはるかに気楽というか、気の抜ける場所だった。
 入学前にいろいろと恐ろしげな噂ばかり聞いていたため、平民出身の者は、貴族のお坊ちゃまたちのイジメに耐えることが第一のミッションだとばかり思っていたのだ。
 しかしよく考えてみれば、このご時世に貴族というだけでふんぞり返っていられるはずもない。
 人々は戦を忘れて久しく、平和が世の常となった。徐々じょじょに商工業が発達し、仕事を求めて都市に出てくる者も増えはじめている。
 人々の暮らしの変化にともない、貴族たちも領地の経営方法を変えていかねばならない。しかし、中にはその流れについていけない貴族も多かった。
 領地経営に行き詰まった貴族たちは、商工業の発達により力を持ちはじめた商家に、資金を借り入れるようになった。事実、ラン家にも、水面下で借金の申し込みが数多く寄せられている。
 そんな貴族たちに比べれば、裕福な貿易商の長男であるハーシェスのほうが、よほど恵まれた生活をしているだろう。
 学院に通う貴族のお坊ちゃんたちの中には、生家が困窮こんきゅうしている者も少なくなかった。
 どれほど貧乏でも貴族の誇りを失わず、平民とれ合おうとしない者はもちろんいたが、ハーシェスと親しくしてくれる者も多かった。「騎士になれなかったら、おまえんとこに雇ってもらいにいくかもしんねーわ。そんときはよろしくなー」と、堂々と言ってくる者までいたくらいだ。
 思いのほか気楽な学院生活を送ることになったハーシェスは、その後、無事に騎士のくらいを取って卒業した。卒業後の四年間は、騎士団勤務が義務づけられている。今は騎士として国に仕えるかたわら、実家の仕事もいくつか引き受けていた。
 いずれ父ルーカスの跡を継ぐときのが順調にみがかれていく一方、貴族のお嬢さんとの出会いなど一向にないハーシェスだったのだが――
 このたび騎士団の宿舎で運命的な出会いを果たし、すぐさま結婚を申し込んだのだから、人生というのはわからない。
 騎士団に休暇を申請して実家に戻ったハーシェスは、リュシーナとの話を父ルーカスに聞かせた。
 最初はにやにやと嬉しそうに笑っていたルーカスだが、途中から無言になり、「邪魔をする貴族への資金援助を打ち切ることも考えている」と話したところで、若干じゃっかん顔を引きつらせてこう言った。

「……まぁ……なんだ。ほどほどに、な?」

 ハーシェスは真顔で「親父おやじ。年を取ったか?」と返す。ルーカスが、ものすごくショックを受けた表情を浮かべる。ハーシェスは生まれてはじめて、ルーカスに勝った、と思った。


   ◆ ◇ ◆


 一週間の休暇の間にやるべきことをすべてやって、ハーシェスは騎士団に戻った。
 仲間たちのたまり場になっている食堂の一角に顔を出すと、ラルフがひらひらと手を振る。

「よう、未来の大商人。お望みのモン、用意してやったぜ?」
「そうか。恩に着る」

 ハーシェスは、笑ってラルフの向かいの席に腰を下ろす。
 ラルフ・ヴィンセントは、騎士養成学院でともに学んだ学友だ。
 公爵家の次男であるラルフは、「あのまま屋敷にいたら、兄貴に暗殺されそうだった」からという理由で学院に入学した。
 なんでもヴィンセント公爵家の当主は、代々、黒絹のようにつややかな髪とあざやかな緑の瞳を持っているのだという。それらの特徴を見事に受け継いだラルフだったが、彼の兄はまったく受け継がなかったらしい。兄は次第に様子がおかしくなり、年の離れた弟の命を狙うほど性格がゆがんでしまっていると聞く。
 そんな残念な兄を持ったため――というわけではないだろうが、ラルフはかなりの変わり者だった。
 学院時代、剣術や格闘技をはじめとする戦闘科目に関しては、常に及第点ぎりぎりという成績ばかり。ダンスも苦手、詩歌音曲しいかおんぎょくたぐいにもまるで興味を示さず、試験のたびに綱渡りのような成績を取っていた。

「将来食いっぱぐれる心配のない騎士になって、料理上手な可愛い嫁さんもらって、一生公爵家とは無縁の穏やかーな人生を送るのが夢なのです」

 そう言ってへらへら笑うラルフは、およそ公爵家の子息には見えなかった。
 そんな彼には、ある才能があった。それは、絵の才能である。
 ある日、美術系の授業で彼が描いた絵は、見る者の心臓を一瞬で鷲掴わしづかみにするほどのものだった。父の仕事の関係で数多くの名画に触れてきたハーシェスだが、ラルフの絵を見た瞬間に彼は天才だと確信したのだ。
 これほど絵の資質を持ちながら騎士を目指すなんて、才能の無駄むだづかいとしか思えない。
 美しいものは、問答無用もんどうむようで人の心を動かす。
 そして、人の心が動けば、金が動く。
 商売人の血と勘が騒ぎ出したハーシェスは、「絵は趣味でしかない」というラルフに申し出た。

「趣味でもなんでも、今後おまえが描いた絵は全部うちで引き取らせてください、お願いします」

 頭を下げて頼みこむと、ラルフは少し驚いた顔をした。しかし、最後にはいつものへらへら笑いとは違う、どこか照れたような笑みを浮かべて応じてくれたのだ。
 ラルフとハーシェスの仲は、騎士団に入団した後も続いている。
 友人との出会いを思い出していたハーシェスは、目の前に座る彼をまじまじと見つめる。
 およそ騎士には向いていなさそうな細身の優男やさおとこは、テーブルに白い封筒を置き、優美な仕草で腕を組んだ。
 ハーシェスは、封筒の中身を確認する。そこには、ヴィンセント公爵家主催のパーティーの招待状が入っていた。
 ――ラルフは残念な兄に命を狙われ続け、公爵家との関わりを断ちたがっている。そんな彼に、パーティーの招待状を手配してくれないか、と身勝手な頼みごとをしてしまった。
 ハーシェスは心苦しくなり、小さく息を吐いた。
 しかしラルフは、ひどく楽しげな表情で問いかけてくる。

「何か面白いこと、するんだろ?」
「……なぜ、そう思う?」

 問い返すと、彼はいっそう楽しそうに肩を揺らした。それからさっと周囲に視線を走らせ、声をひそめて続ける。

「おまえが今、あの卒業パーティーのときと同じ顔をしているからだ。おまえを目のかたきにしていた貴族至上主義教官の、恥ずかしいポエム手帳を朗読したときとな」

 ハーシェスが何も言わずにいると、ラルフは諦めたように肩をすくめ、話を変えた。

「そういえば、シェス。ダンの話はもう聞いたか?」

 シェスはハーシェスの、ダンはダニエルの愛称である。
 ハーシェスは、わざと首をかしげて尋ねた。

「いや、聞いてない。何かあったのか?」
「宿舎に、エプスタイン男爵令嬢を連れ込んだらしい。しかもそれを、婚約者のティレル侯爵令嬢に目撃されたんだとか。実際のところは知らないが、そんな噂が面白いくらい広がってる。さすがに外聞がいぶんが悪すぎるってんで、やっこさん、今は実家に帰って自主謹慎中だ。それに昨日、エプスタイン男爵が伯爵家に押しかけて、令嬢とダンとの結婚を迫ったとか」
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