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旅立ち
革靴の手入れは大変です
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帝都の北へ向かう街道は、進むにつれて何度か枝分かれしていたが、一行が歩いている道はその中でもメインの一本のようで、いまだ幅広く整備もきちんとされている。馬車が余裕ですれ違える太い道は、四角い石畳が敷き詰められて歩きやすい。
しばらくの間、笑いさざめく人々に紛れて歩いていくと、再び道が分かれていた。そこに立てられていた観光案内板をたしかめてみると、どうやらこの先に景色の美しさで有名な湖があるようだ。リヒトたちの目的地である神殿とそれに連なる霊廟は、そこへ向かう本道から西側に分かれた山道の先にあるらしい。
指輪を再度確認し、方角をたしかめた一行は、先ほどまでの人混みから一転してほかに誰もいなくなった山道を進んでいく。
リヒトは、何やら難しい顔をしているイシュケルに気づき、問いかけた。
「水の王。何か、気にかかることでもあったか?」
「ああ……いや。近くにかなり大きな湖があるというのに、水の精霊の気配がまったく感じられなくてな」
皮肉げに口元だけで笑って、イシュケルは言う。
「オレが――いや、オレたちが帝室の連中に無理矢理支配されたことに気づいて、精霊たちが逃げ出したのかもしれないな。自然の魔力が多く巡っているのに精霊の棲まない場所は、次第に魔力の流れが澱んで蟲たちが寄りつきやすくなる。連中もつくづく、愚かなことをしたものだ」
「……そうか」
肉体を持たない精霊にとって、蟲たちの歪んだ魔力は猛毒のようなものだと聞いた。精霊たちが、スバルトゥルたちを支配していた呪具の存在により、蟲の増殖が発生することを察知して帝国から逃げ出したというのなら、仕方のないことだ。そして、それにより帝国がますます蟲たちにとって居心地のいい土地になっていくというなら、なんという負のスパイラルだろうか。
ため息をついたリヒトの肩を、アリーシャがぽんと叩く。
「きみが気にすることじゃあないよ。それに、これから残り三体の召喚獣たちを解放すれば、逃げていった精霊たちが戻ってくるかもしれないだろ?」
彼女のフォローに、スバルトゥルが首を傾げる。
「ほかの三体が解放されても、蟲がいなくなるわけじゃないからな。そう上手くはいかないと思うぞ」
「ふうん? いずれにしても、お先真っ暗ってわけか。それじゃあ今のうちに、どこかよその国に逃亡する算段でもしておこうか」
あっさりとそんなことを言うアリーシャは、この帝国から出ることにまったく躊躇がないようだ。おそらく彼女にとって、ここはまるでいい思い出がない土地なのだろう。
リヒトも、それは似たようなものだ。ここにいる面々と、あとは強いて言うなら、世話になった東の砦の者たち以外がどうなったところで、知ったことではない。そして、東の辺境伯が帝国の中央に対して隔意を抱いているというなら、いざとなれば彼らは近隣の民ごと独立することも可能である。
けれど、とリヒトは思う。
「帝室の連中は、どうでもいい。だが、この帝国は父さんと師匠たちが守ってきた国だ」
皇太子や第一皇女をはじめとする帝室の者たちが、自らの行いによって滅びていくというなら、リヒトは喜んでその様子を眺めていられる。だが、彼らが犯した罪科を、何も知らない民たちにまで背負わせるのは、間違っている気がした。
「これからたくさんの人たちが困ることを知っていて、見ないふりをするのは……父さんや師匠なら、しないと思う」
迷いながら口にした言葉に、アリーシャが軽く肩を竦める。
「あのさ、リヒト。そうやって、お父さんやお師匠さんの教えを大切にするのは、いいことだと思うけどね。わたしは、きみがそうしたいというなら、それだけでいいんだよ」
軽い足取りでリヒトの前に移動した彼女が、人差し指を立てて言う。
「わたしが友達になりたいと思ったのは、きみなんだ。きみがあまりにもおバカなことを言い出したら、ぶん殴ってでも止めてあげる。けど、そうじゃないなら、わたしはいつだってきみに協力するよ」
「……アンタに殴られるのは、痛そうだな」
彼女の華奢な手は、魔力で強化すれば人間の頭蓋骨程度なら簡単に砕ける凶器である。そんなものにぶん殴られては、まずタダではすまないだろう。
スバルトゥルが、苦笑を浮かべて口を開く。
「アリーシャ。迷いがちなガキが、年長者の教えを判断の基準にするのはよくあることだ。もうしばらくは、気長に見守ってやれ」
「えー? そりゃあそうかもだけどさ。リヒトってば、放っておいたらいつまでも自分の気持ちを上手く言えなさそうなんだもの」
自分の気持ち。
――父親やジルバの仇を討つというのは、間違いなくリヒト自身の気持ちで、決意だ。けれど、そこに至るまでのさまざまな場面で何かを決断しなければならなくなったとき、どうしても咄嗟に『父や師ならどうしただろう』と考えてしまう。そうすれば、きっと間違いはないだろうと思えるから。
自分がどうしたいか、ではなく、どうするべきかをばかり考えてきた。
「おれは……」
胸の内を、探ってみる。答えは、わりとすぐに見つかった。
仲間たちを順に見て、口を開く。
「この国が、蟲だらけになって滅びるのは、見たくない」
ずっとジルバとふたりで、逃げ隠れるようにして生きてきた。
それでも、この国に生きる人々の素朴な優しさや思いやりを目にしたことは、数え切れないほどにあったのだ。アリーシャと出会った農園の管理人や、その後現れた第一皇女の腰巾着以外の魔導兵士たちだって、決して悪い人間などではなかった。
もちろん、世の中に何ひとつ悪いところのない善人などいないことも、何ひとついいところのない悪人なんてものが存在しないことも、わかっている。その上で、リヒトは父と師を殺した者たちを自らにとっての『悪』と定め、敵とみなした。
けれど、たとえ自分にとっての敵を主君と仰ぐ者たちであっても、真実を知り得ない立場にある者たちを彼らと同列に並べるのは、やっぱり何かが違うと感じる。
積極的に、この帝国を守りたいのかと問われれば、答えは否だ。だからといって、自分にできることがあるのに、ただその滅びを見過ごしにするのはいやだった。
そんな曖昧でいい加減な気持ちでも、いいのだろうか。
一度大きく目を見開いたアリーシャが、ふわりと笑う。
「了解だよ。将来的にこの国を出るとしても、帝室の呪具のせいで増えた蟲たちを、どうにかする手立てが見つかってからにしようか」
あまりにもあっさりとした言いように、スバルトゥルが胡乱な目で彼女を見た。
「おい、アリーシャ。簡単に言うが、おまえだって東の砦に殺到したキメラタイプの群れを見ただろう。最悪の場合、あのレベルの災厄が全国規模で発生することになるんだぞ」
少し考えるだけでも、解決するにはものすごく大変そうな問題である。それを一番よく理解しているのは、実際にキメラタイプの群れと対峙した召喚獣たちだろう。
その片割れであるイシュケルが、真顔でスバルトゥルを見て言った。
「契約者の望みを叶えるのが、オレたちの人間界における存在意義だ。せいぜい、身を粉にして尽くすんだな」
「他人事かよ、水の王」
じっとりと睨みつけるスバルトゥルに、イシュケルが面倒そうに口を開く。
「実際、他人事だからな。ロゼのいないこの国がどんな滅び方をしようと、知ったことか。……と、言いたいところだが」
ひとつため息をついて、イシュケルはスバルトゥルからリヒトに視線を移した。
「おまえたちには、借りがある。それを返さないまま還るのは、気分が悪い」
だから、とイシュケルがリヒトの目をまっすぐに見て言う。
「オレは、おまえの魔力を食って、ロゼを殺した連中への復讐を果たす。その対価だ。残り三体の召喚獣を解放し、その後の後始末がつくまでは、オレは森の王の眷属として力を尽くそう」
「……は? いや、アンタを呪具から解放したのは、こっちが勝手にしたことだ。アンタが借りを感じたり、対価を支払ったりするようなことじゃない」
思わず言うと、イシュケルが何やら真面目な顔で見返してくる。
「自分で言うのもなんだが、オレは帝室に支配されていた五体の召喚獣たちの中で、最も温和で控えめで寛容な性質を持つ上、人間にとって非常に便利な能力を持つ個体だ」
「………………はあ」
精霊は、嘘を吐かない存在だ。イシュケルの言葉に、嘘はないのだろう。そうなのですか、とうなずくしかないリヒトに、水を支配する精霊たちの王たる召喚獣が言う。
「そうだ。たとえば、こんなことだってできるぞ」
へ、とリヒトが目を丸くするのと同時に、きらめく水の飛沫が宙を走った。あっという間に長大な水の蛇に変じたそれが、遠く離れたところに立っている大木の陰に殺到する。
「うひょわあぁうえぇええああーっ!?」
直後、素っ頓狂な悲鳴が上がった。そして、イシュケルが軽く指先で手招く仕草をすると、巨大な球体となった水の塊が、ふよふよとこちらに近づいてくる。
――その空飛ぶ水球の中には、リヒトよりも少し年上ながら、まだ少年といえる年頃の人物の、首から下がすっぽりと入っていた。そのほか、最新鋭の短銃型魔導具や魔導剣といった、見るからに物騒なものがふよふよと水に浮いている。
一瞬、帝室からの追っ手か、と身構えたものの、それにしては敵意がない。むしろ、イシュケルの魔術で突然捕らえられたことにひどく驚き、またそれ以上に興奮している様子である。もし彼がこちらの正体を知っているなら、こんなふうに『空飛ぶ水の玉の中に入った自分』に気づくなり目をキラめかせ、「すっげえ! 空、飛んでる! すげー!」と大喜びしたりはしないだろう。彼を捕らえたイシュケルも、この反応はやはり想定外だったのか、ものすごく複雑な表情を浮かべている。
服装は、ごくありふれた下町の少年が身につけるような、質素なシャツとパンツ。しかし、彼が履いている黒い革靴を見た途端、アリーシャが軽く口笛を吹いた。
「あの靴、帝国軍の軍靴だよ。こんなに濡らしちゃったら、きっと手入れがさぞ大変だろうねえ」
彼女の言葉が、耳に入ったのだろうか。巨大な水球に囚われながらも、楽しそうに手足を動かしていた少年が、ぶわっと泣き顔になる。
「か……っ、カビだらけになるのはイヤだーっ!! また、隊長に殺されるううううっっ!!」
(うわあ……)
また、ということは、どうやらこの軍属らしい少年は、靴をカビさせたことがある前科持ちらしい。……あまり、近づかないでおこう。
しばらくの間、笑いさざめく人々に紛れて歩いていくと、再び道が分かれていた。そこに立てられていた観光案内板をたしかめてみると、どうやらこの先に景色の美しさで有名な湖があるようだ。リヒトたちの目的地である神殿とそれに連なる霊廟は、そこへ向かう本道から西側に分かれた山道の先にあるらしい。
指輪を再度確認し、方角をたしかめた一行は、先ほどまでの人混みから一転してほかに誰もいなくなった山道を進んでいく。
リヒトは、何やら難しい顔をしているイシュケルに気づき、問いかけた。
「水の王。何か、気にかかることでもあったか?」
「ああ……いや。近くにかなり大きな湖があるというのに、水の精霊の気配がまったく感じられなくてな」
皮肉げに口元だけで笑って、イシュケルは言う。
「オレが――いや、オレたちが帝室の連中に無理矢理支配されたことに気づいて、精霊たちが逃げ出したのかもしれないな。自然の魔力が多く巡っているのに精霊の棲まない場所は、次第に魔力の流れが澱んで蟲たちが寄りつきやすくなる。連中もつくづく、愚かなことをしたものだ」
「……そうか」
肉体を持たない精霊にとって、蟲たちの歪んだ魔力は猛毒のようなものだと聞いた。精霊たちが、スバルトゥルたちを支配していた呪具の存在により、蟲の増殖が発生することを察知して帝国から逃げ出したというのなら、仕方のないことだ。そして、それにより帝国がますます蟲たちにとって居心地のいい土地になっていくというなら、なんという負のスパイラルだろうか。
ため息をついたリヒトの肩を、アリーシャがぽんと叩く。
「きみが気にすることじゃあないよ。それに、これから残り三体の召喚獣たちを解放すれば、逃げていった精霊たちが戻ってくるかもしれないだろ?」
彼女のフォローに、スバルトゥルが首を傾げる。
「ほかの三体が解放されても、蟲がいなくなるわけじゃないからな。そう上手くはいかないと思うぞ」
「ふうん? いずれにしても、お先真っ暗ってわけか。それじゃあ今のうちに、どこかよその国に逃亡する算段でもしておこうか」
あっさりとそんなことを言うアリーシャは、この帝国から出ることにまったく躊躇がないようだ。おそらく彼女にとって、ここはまるでいい思い出がない土地なのだろう。
リヒトも、それは似たようなものだ。ここにいる面々と、あとは強いて言うなら、世話になった東の砦の者たち以外がどうなったところで、知ったことではない。そして、東の辺境伯が帝国の中央に対して隔意を抱いているというなら、いざとなれば彼らは近隣の民ごと独立することも可能である。
けれど、とリヒトは思う。
「帝室の連中は、どうでもいい。だが、この帝国は父さんと師匠たちが守ってきた国だ」
皇太子や第一皇女をはじめとする帝室の者たちが、自らの行いによって滅びていくというなら、リヒトは喜んでその様子を眺めていられる。だが、彼らが犯した罪科を、何も知らない民たちにまで背負わせるのは、間違っている気がした。
「これからたくさんの人たちが困ることを知っていて、見ないふりをするのは……父さんや師匠なら、しないと思う」
迷いながら口にした言葉に、アリーシャが軽く肩を竦める。
「あのさ、リヒト。そうやって、お父さんやお師匠さんの教えを大切にするのは、いいことだと思うけどね。わたしは、きみがそうしたいというなら、それだけでいいんだよ」
軽い足取りでリヒトの前に移動した彼女が、人差し指を立てて言う。
「わたしが友達になりたいと思ったのは、きみなんだ。きみがあまりにもおバカなことを言い出したら、ぶん殴ってでも止めてあげる。けど、そうじゃないなら、わたしはいつだってきみに協力するよ」
「……アンタに殴られるのは、痛そうだな」
彼女の華奢な手は、魔力で強化すれば人間の頭蓋骨程度なら簡単に砕ける凶器である。そんなものにぶん殴られては、まずタダではすまないだろう。
スバルトゥルが、苦笑を浮かべて口を開く。
「アリーシャ。迷いがちなガキが、年長者の教えを判断の基準にするのはよくあることだ。もうしばらくは、気長に見守ってやれ」
「えー? そりゃあそうかもだけどさ。リヒトってば、放っておいたらいつまでも自分の気持ちを上手く言えなさそうなんだもの」
自分の気持ち。
――父親やジルバの仇を討つというのは、間違いなくリヒト自身の気持ちで、決意だ。けれど、そこに至るまでのさまざまな場面で何かを決断しなければならなくなったとき、どうしても咄嗟に『父や師ならどうしただろう』と考えてしまう。そうすれば、きっと間違いはないだろうと思えるから。
自分がどうしたいか、ではなく、どうするべきかをばかり考えてきた。
「おれは……」
胸の内を、探ってみる。答えは、わりとすぐに見つかった。
仲間たちを順に見て、口を開く。
「この国が、蟲だらけになって滅びるのは、見たくない」
ずっとジルバとふたりで、逃げ隠れるようにして生きてきた。
それでも、この国に生きる人々の素朴な優しさや思いやりを目にしたことは、数え切れないほどにあったのだ。アリーシャと出会った農園の管理人や、その後現れた第一皇女の腰巾着以外の魔導兵士たちだって、決して悪い人間などではなかった。
もちろん、世の中に何ひとつ悪いところのない善人などいないことも、何ひとついいところのない悪人なんてものが存在しないことも、わかっている。その上で、リヒトは父と師を殺した者たちを自らにとっての『悪』と定め、敵とみなした。
けれど、たとえ自分にとっての敵を主君と仰ぐ者たちであっても、真実を知り得ない立場にある者たちを彼らと同列に並べるのは、やっぱり何かが違うと感じる。
積極的に、この帝国を守りたいのかと問われれば、答えは否だ。だからといって、自分にできることがあるのに、ただその滅びを見過ごしにするのはいやだった。
そんな曖昧でいい加減な気持ちでも、いいのだろうか。
一度大きく目を見開いたアリーシャが、ふわりと笑う。
「了解だよ。将来的にこの国を出るとしても、帝室の呪具のせいで増えた蟲たちを、どうにかする手立てが見つかってからにしようか」
あまりにもあっさりとした言いように、スバルトゥルが胡乱な目で彼女を見た。
「おい、アリーシャ。簡単に言うが、おまえだって東の砦に殺到したキメラタイプの群れを見ただろう。最悪の場合、あのレベルの災厄が全国規模で発生することになるんだぞ」
少し考えるだけでも、解決するにはものすごく大変そうな問題である。それを一番よく理解しているのは、実際にキメラタイプの群れと対峙した召喚獣たちだろう。
その片割れであるイシュケルが、真顔でスバルトゥルを見て言った。
「契約者の望みを叶えるのが、オレたちの人間界における存在意義だ。せいぜい、身を粉にして尽くすんだな」
「他人事かよ、水の王」
じっとりと睨みつけるスバルトゥルに、イシュケルが面倒そうに口を開く。
「実際、他人事だからな。ロゼのいないこの国がどんな滅び方をしようと、知ったことか。……と、言いたいところだが」
ひとつため息をついて、イシュケルはスバルトゥルからリヒトに視線を移した。
「おまえたちには、借りがある。それを返さないまま還るのは、気分が悪い」
だから、とイシュケルがリヒトの目をまっすぐに見て言う。
「オレは、おまえの魔力を食って、ロゼを殺した連中への復讐を果たす。その対価だ。残り三体の召喚獣を解放し、その後の後始末がつくまでは、オレは森の王の眷属として力を尽くそう」
「……は? いや、アンタを呪具から解放したのは、こっちが勝手にしたことだ。アンタが借りを感じたり、対価を支払ったりするようなことじゃない」
思わず言うと、イシュケルが何やら真面目な顔で見返してくる。
「自分で言うのもなんだが、オレは帝室に支配されていた五体の召喚獣たちの中で、最も温和で控えめで寛容な性質を持つ上、人間にとって非常に便利な能力を持つ個体だ」
「………………はあ」
精霊は、嘘を吐かない存在だ。イシュケルの言葉に、嘘はないのだろう。そうなのですか、とうなずくしかないリヒトに、水を支配する精霊たちの王たる召喚獣が言う。
「そうだ。たとえば、こんなことだってできるぞ」
へ、とリヒトが目を丸くするのと同時に、きらめく水の飛沫が宙を走った。あっという間に長大な水の蛇に変じたそれが、遠く離れたところに立っている大木の陰に殺到する。
「うひょわあぁうえぇええああーっ!?」
直後、素っ頓狂な悲鳴が上がった。そして、イシュケルが軽く指先で手招く仕草をすると、巨大な球体となった水の塊が、ふよふよとこちらに近づいてくる。
――その空飛ぶ水球の中には、リヒトよりも少し年上ながら、まだ少年といえる年頃の人物の、首から下がすっぽりと入っていた。そのほか、最新鋭の短銃型魔導具や魔導剣といった、見るからに物騒なものがふよふよと水に浮いている。
一瞬、帝室からの追っ手か、と身構えたものの、それにしては敵意がない。むしろ、イシュケルの魔術で突然捕らえられたことにひどく驚き、またそれ以上に興奮している様子である。もし彼がこちらの正体を知っているなら、こんなふうに『空飛ぶ水の玉の中に入った自分』に気づくなり目をキラめかせ、「すっげえ! 空、飛んでる! すげー!」と大喜びしたりはしないだろう。彼を捕らえたイシュケルも、この反応はやはり想定外だったのか、ものすごく複雑な表情を浮かべている。
服装は、ごくありふれた下町の少年が身につけるような、質素なシャツとパンツ。しかし、彼が履いている黒い革靴を見た途端、アリーシャが軽く口笛を吹いた。
「あの靴、帝国軍の軍靴だよ。こんなに濡らしちゃったら、きっと手入れがさぞ大変だろうねえ」
彼女の言葉が、耳に入ったのだろうか。巨大な水球に囚われながらも、楽しそうに手足を動かしていた少年が、ぶわっと泣き顔になる。
「か……っ、カビだらけになるのはイヤだーっ!! また、隊長に殺されるううううっっ!!」
(うわあ……)
また、ということは、どうやらこの軍属らしい少年は、靴をカビさせたことがある前科持ちらしい。……あまり、近づかないでおこう。
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