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旅立ち
約束
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それからいろいろとふたりから話しを聞いた結果、現在この砦の者たちは『家族を守るために国境線は維持してやるが、召喚獣を契約者から奪うなんていう超ド級にアホなことをしでかした皇太子なんぞに、これ以上ついていけるかボゲェーっっ!!』という姿勢であるらしい。
イングリットが、ふわりとほほえみながら言う。
「わたくしの生家は、この東の土地一帯を統べる辺境伯家なのです。父や兄たちは元々、こちらを田舎者扱いする帝都の者たちの態度に、随分腹を立てておりまして……。今回の件はまだ話しておりませんが、もしわたくしの夫が帝都に反旗を翻すことになったなら、家族はみな喜んで帝国からの独立を宣言してくれると思います」
「辺境伯……」
思わず繰り返し、リヒトは首を傾げて問い返す。
「それなら、ここの砦と連携して危険な国境警備に当たってるんだろうし、その功績で中央でもかなり重用されているんじゃないのか?」
きっと、イングリットが将軍に嫁いだのも、その辺りの縁なのだろう。メイド姿の彼女は、困った様子で苦笑を浮かべた。
「先々代の時代までは、そのような気風だったようですが……。残念ながら、わたくしは帝都の社交界で、一度も楽しい思いをした記憶がないのです。父や兄たちの働きは、祖先のそれと比べて、決して劣るものではございません。けれど、いつしか帝都ではそれが当たり前のことだと、取り立てて賞賛に値するようなものではないと――そう、軽んじられるようになってしまったようなのです」
目を伏せて言う彼女の態度に、悔しさや憤りといったものは感じられない。淡々と、ただ事実を事実として述べているだけだ。そんな諦観なんて、この女性には似合わないと思うけれど、赤の他人が口出しをするような問題でもない。
少し考え、リヒトは言った。
「アンタたちには、おれたちと違って守るべきものがあるだろう。おれたちの存在を理由に、短慮を起こすのはやめておけ」
「……リヒトさま」
イングリットが、目を見開く。
「アリーシャがこの砦を拠点にしようとしたのは、たぶんおれがスバルトゥルの主としてはあまりに未熟だからだ。これからも実戦のたびに人事不省になるようなら、安心できるねぐらを確保するのも困難になる。……アンタたちは、つくづく貧乏くじだと思うがな。おれたちは、ただこの砦を利用しているだけだ。これからどう状況が変わろうと、おれたちが――スバルトゥルや水の王が、アンタたちのために何かをすることはありえない」
スバルトゥルやイシュケルなら、その気になれば帝国のどこにいようと、この東の最果てにある砦まで半日もかからず移動できる。少々規模が大きすぎる点に目をつぶれば、ここを非常時における避難場所として確保しておこうとしたアリーシャの判断は、リヒトにも理解できた。
しかし、それだけだ。
愛する者を奪った相手への復讐のみを抱いて生きる自分たちに、それ以上のものを抱える余裕などありはしない。
そう告げたリヒトに応じたのは、温室の入り口から響いた低く落ち着いた声だった。
「もちろんです。リヒト・クルーガー殿。我々は、あなたに命を救っていただいた。そしてあなたは、ご自分の復讐のためとはいえ、今の間違った帝国のありようを正そうとしてくださっている。我々があなたに感謝し、心からの敬意を払うのに、これ以上の理由など必要ありません」
帝国から授与された勲章をすべて取り除き、すっかりシンプルになった軍服を着てそこにいたのは、この砦を預かる将軍だ。しっかりとした足取りで近づいてきた彼は、妻の隣に立ってイシュケルに深く一礼したあと、リヒトに向けて敬礼をした。
「ご挨拶が遅れて、申し訳ない。私は、ハーゲン・カレンベルク。改めて、貴殿に深くお礼申し上げる。先日は、この砦の者たちをお救いいただき、ありがとうございました」
リヒトは冷ややかな沈黙を保っているイシュケルを見て、ため息交じりに応じる。
「結果的にそうなったことは、理解している。だが、おれたちは水の王を解放しに来ただけなんだ。あまり畏まられると、困る」
何しろ、リヒトはスバルトゥルに「どうにかしろ」と言われたから、将軍のところまで走っただけなのだ。この砦の者たちを救いたいという意思がなかったわけではないけれど、成り行きというか、非常に行き当たりばったりだった自覚はある。
なのに、あとになってから相手に命の恩人だのなんだの言われても、ひたすらいたたまれないばかりだった。
「それにおれは、帝国を正そうなんて思っていない。ただ、帝室に支配されている召喚獣たちを解放して、連中に殺された父親と師匠の仇を討ちたいだけだ」
「……はい。あなたの事情は、些少ながらうかがっております。ですが、リヒト殿。失礼ながら、今のあなたは少々視野が狭くなっているようだ」
軍人特有の、はっきりと腹に響く声で将軍が言う。
「あなたが……あなた方が、決して譲れない願いを抱いていることは存じています。しかし、その願いのみを見つめていては、すぐ近くにある大切なものを見失ってしまう。そのことを、私はあなたのご友人の少女から教わりました」
友人の少女、というのはアリーシャのことだろう。友人ではなく友人候補だが、それを修正する前に将軍が先を続ける。
「あなた方の復讐は、当然の権利です。私は断じてそれを止めるつもりも、ましてや非難するつもりなど毛頭ありません。ですが、その復讐のために、そばにいる者たちの思いから目を逸らすのはおやめなさい。――リヒト殿。あなたを命がけで守り続けた少女が、今どこにいるのかご存じですか?」
「どこって……」
この砦のどこかにアリーシャはいるのだろう。今ここに、彼女を傷つけられる者はいないのだから、心配する必要は何もない。
そう思い、けれど彼女の明確な居場所を知らなかったこと、今まで知ろうともしなかったことに、愕然とする。……アリーシャは、ずっとリヒトを守ってくれていたのに。
ぐっと指を握りしめたリヒトに、イシュケルがぼそりと言う。
「あの娘なら、砦の最上部にある豪勢な客間で寝ている。オレの防御シールドで閉じてあるから、目を覚ませばすぐにわかるぞ」
「……そうか」
彼がアリーシャに一服盛っただけに、その後のフォローもばっちりだったようだ。ほっとしたリヒトだったが、だからといって彼の不義理が軽くなるわけではない。リヒトはおそるおそる、イシュケルに問うた。
「水の王。スバルトゥルは、どこにいるんだ?」
それこそ、契約者としての感覚で、自分の召喚獣がどこか安全なところで休眠しているらしいのはわかるけれど、その詳細な居場所まではわからない。イシュケルが、あっさりと応じる。
「あいつなら、この温室を出てすぐの木陰で寝ているぞ。叩き起こして連れてくるか?」
スバルトゥルは、思いのほか近くにいた。しかし、眠るときにも殴られて、目覚めるときにも殴られるというのはさすがに気の毒だ。苦笑し、首を横に振る。
「いや、そのまま寝させてやってくれ。あとで、おれが起こしに行く」
「わかった」
そんなやりとりを見ていた将軍が、改めて口を開く。
「リヒト殿。あの呪具が、蟲の活性化をもたらすものであるとわかった以上、あなた方の目的が一刻も早く達成されたほうがいいのは理解しています。しかし、今のあなた方には休息が必要だと私は判断しました。帝都での情報収集でしたら、我々にもお手伝いできましょう。どうかしばしの間、このサスキア砦で心身を休めていただきたい」
「いや、それは――」
咄嗟に相手の申し出を否定しかけたリヒトの頭に、イシュケルの手が軽くのる。見上げると、本来のままの金髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、彼は言った。
「おまえは、自分の限界も計れないような未熟な子どもだ。逸る気持ちはわかるが、あと少しくらい遅れたところで、雪の王も文句は言わんだろう。むしろ、おまえが無茶をして心や体を壊したほうが、雪の王は怒る気がするがな」
「う……」
父親の召喚獣が、自分を可愛がってくれていた自覚があるだけに、イシュケルの言葉に反論するのは難しい。いつか雪の王と再会したとき、自分がズタボロの状態だったなら――
(……うん。絶対零度の顔と声で、エンドレス説教がはじまる気がする)
思わず遠いところを見たリヒトに、声を柔らかくした将軍が言う。
「今の我々は、あなた方に嘘を申し上げることはできません。お約束いたしましょう、リヒト殿。我が一族の名にかけて、私は生涯あなたに心からの忠誠をもってお仕えいたします。何かご要望がございましたら、なんなりとお申し付けください」
リヒトは、固まった。
自分たちに嘘は吐かないという誓約はともかく、この場にはイシュケルがいるのだ。彼の前で、迂闊にそんな約束を口にしては――
「一族ごとこいつに仕えようとは、なかなかの心がけだな。いいだろう、ハーゲン・カレンベルク。その約束、たしかに聞き届けたぞ」
「ありがたき幸せにございます。慈悲深き水の王よ」
――ものすごく、手遅れだった。
(うん……。いつか、みんなの目標を全部達成できたら、ほかの誓約も含めて丸ごと解除してもらおう)
密かにそんな決意を固めていたリヒトは、表情筋が仕事を放棄している自分が、召喚獣たちと同レベルの人間不信中だと思われていることに、まるで気がついていなかった。そんな彼の信用を得るためには、召喚獣との誓約に頼るしかないと将軍たちが判断していたことなども――当然ながら、まったく知る由もなかったのである。
イングリットが、ふわりとほほえみながら言う。
「わたくしの生家は、この東の土地一帯を統べる辺境伯家なのです。父や兄たちは元々、こちらを田舎者扱いする帝都の者たちの態度に、随分腹を立てておりまして……。今回の件はまだ話しておりませんが、もしわたくしの夫が帝都に反旗を翻すことになったなら、家族はみな喜んで帝国からの独立を宣言してくれると思います」
「辺境伯……」
思わず繰り返し、リヒトは首を傾げて問い返す。
「それなら、ここの砦と連携して危険な国境警備に当たってるんだろうし、その功績で中央でもかなり重用されているんじゃないのか?」
きっと、イングリットが将軍に嫁いだのも、その辺りの縁なのだろう。メイド姿の彼女は、困った様子で苦笑を浮かべた。
「先々代の時代までは、そのような気風だったようですが……。残念ながら、わたくしは帝都の社交界で、一度も楽しい思いをした記憶がないのです。父や兄たちの働きは、祖先のそれと比べて、決して劣るものではございません。けれど、いつしか帝都ではそれが当たり前のことだと、取り立てて賞賛に値するようなものではないと――そう、軽んじられるようになってしまったようなのです」
目を伏せて言う彼女の態度に、悔しさや憤りといったものは感じられない。淡々と、ただ事実を事実として述べているだけだ。そんな諦観なんて、この女性には似合わないと思うけれど、赤の他人が口出しをするような問題でもない。
少し考え、リヒトは言った。
「アンタたちには、おれたちと違って守るべきものがあるだろう。おれたちの存在を理由に、短慮を起こすのはやめておけ」
「……リヒトさま」
イングリットが、目を見開く。
「アリーシャがこの砦を拠点にしようとしたのは、たぶんおれがスバルトゥルの主としてはあまりに未熟だからだ。これからも実戦のたびに人事不省になるようなら、安心できるねぐらを確保するのも困難になる。……アンタたちは、つくづく貧乏くじだと思うがな。おれたちは、ただこの砦を利用しているだけだ。これからどう状況が変わろうと、おれたちが――スバルトゥルや水の王が、アンタたちのために何かをすることはありえない」
スバルトゥルやイシュケルなら、その気になれば帝国のどこにいようと、この東の最果てにある砦まで半日もかからず移動できる。少々規模が大きすぎる点に目をつぶれば、ここを非常時における避難場所として確保しておこうとしたアリーシャの判断は、リヒトにも理解できた。
しかし、それだけだ。
愛する者を奪った相手への復讐のみを抱いて生きる自分たちに、それ以上のものを抱える余裕などありはしない。
そう告げたリヒトに応じたのは、温室の入り口から響いた低く落ち着いた声だった。
「もちろんです。リヒト・クルーガー殿。我々は、あなたに命を救っていただいた。そしてあなたは、ご自分の復讐のためとはいえ、今の間違った帝国のありようを正そうとしてくださっている。我々があなたに感謝し、心からの敬意を払うのに、これ以上の理由など必要ありません」
帝国から授与された勲章をすべて取り除き、すっかりシンプルになった軍服を着てそこにいたのは、この砦を預かる将軍だ。しっかりとした足取りで近づいてきた彼は、妻の隣に立ってイシュケルに深く一礼したあと、リヒトに向けて敬礼をした。
「ご挨拶が遅れて、申し訳ない。私は、ハーゲン・カレンベルク。改めて、貴殿に深くお礼申し上げる。先日は、この砦の者たちをお救いいただき、ありがとうございました」
リヒトは冷ややかな沈黙を保っているイシュケルを見て、ため息交じりに応じる。
「結果的にそうなったことは、理解している。だが、おれたちは水の王を解放しに来ただけなんだ。あまり畏まられると、困る」
何しろ、リヒトはスバルトゥルに「どうにかしろ」と言われたから、将軍のところまで走っただけなのだ。この砦の者たちを救いたいという意思がなかったわけではないけれど、成り行きというか、非常に行き当たりばったりだった自覚はある。
なのに、あとになってから相手に命の恩人だのなんだの言われても、ひたすらいたたまれないばかりだった。
「それにおれは、帝国を正そうなんて思っていない。ただ、帝室に支配されている召喚獣たちを解放して、連中に殺された父親と師匠の仇を討ちたいだけだ」
「……はい。あなたの事情は、些少ながらうかがっております。ですが、リヒト殿。失礼ながら、今のあなたは少々視野が狭くなっているようだ」
軍人特有の、はっきりと腹に響く声で将軍が言う。
「あなたが……あなた方が、決して譲れない願いを抱いていることは存じています。しかし、その願いのみを見つめていては、すぐ近くにある大切なものを見失ってしまう。そのことを、私はあなたのご友人の少女から教わりました」
友人の少女、というのはアリーシャのことだろう。友人ではなく友人候補だが、それを修正する前に将軍が先を続ける。
「あなた方の復讐は、当然の権利です。私は断じてそれを止めるつもりも、ましてや非難するつもりなど毛頭ありません。ですが、その復讐のために、そばにいる者たちの思いから目を逸らすのはおやめなさい。――リヒト殿。あなたを命がけで守り続けた少女が、今どこにいるのかご存じですか?」
「どこって……」
この砦のどこかにアリーシャはいるのだろう。今ここに、彼女を傷つけられる者はいないのだから、心配する必要は何もない。
そう思い、けれど彼女の明確な居場所を知らなかったこと、今まで知ろうともしなかったことに、愕然とする。……アリーシャは、ずっとリヒトを守ってくれていたのに。
ぐっと指を握りしめたリヒトに、イシュケルがぼそりと言う。
「あの娘なら、砦の最上部にある豪勢な客間で寝ている。オレの防御シールドで閉じてあるから、目を覚ませばすぐにわかるぞ」
「……そうか」
彼がアリーシャに一服盛っただけに、その後のフォローもばっちりだったようだ。ほっとしたリヒトだったが、だからといって彼の不義理が軽くなるわけではない。リヒトはおそるおそる、イシュケルに問うた。
「水の王。スバルトゥルは、どこにいるんだ?」
それこそ、契約者としての感覚で、自分の召喚獣がどこか安全なところで休眠しているらしいのはわかるけれど、その詳細な居場所まではわからない。イシュケルが、あっさりと応じる。
「あいつなら、この温室を出てすぐの木陰で寝ているぞ。叩き起こして連れてくるか?」
スバルトゥルは、思いのほか近くにいた。しかし、眠るときにも殴られて、目覚めるときにも殴られるというのはさすがに気の毒だ。苦笑し、首を横に振る。
「いや、そのまま寝させてやってくれ。あとで、おれが起こしに行く」
「わかった」
そんなやりとりを見ていた将軍が、改めて口を開く。
「リヒト殿。あの呪具が、蟲の活性化をもたらすものであるとわかった以上、あなた方の目的が一刻も早く達成されたほうがいいのは理解しています。しかし、今のあなた方には休息が必要だと私は判断しました。帝都での情報収集でしたら、我々にもお手伝いできましょう。どうかしばしの間、このサスキア砦で心身を休めていただきたい」
「いや、それは――」
咄嗟に相手の申し出を否定しかけたリヒトの頭に、イシュケルの手が軽くのる。見上げると、本来のままの金髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、彼は言った。
「おまえは、自分の限界も計れないような未熟な子どもだ。逸る気持ちはわかるが、あと少しくらい遅れたところで、雪の王も文句は言わんだろう。むしろ、おまえが無茶をして心や体を壊したほうが、雪の王は怒る気がするがな」
「う……」
父親の召喚獣が、自分を可愛がってくれていた自覚があるだけに、イシュケルの言葉に反論するのは難しい。いつか雪の王と再会したとき、自分がズタボロの状態だったなら――
(……うん。絶対零度の顔と声で、エンドレス説教がはじまる気がする)
思わず遠いところを見たリヒトに、声を柔らかくした将軍が言う。
「今の我々は、あなた方に嘘を申し上げることはできません。お約束いたしましょう、リヒト殿。我が一族の名にかけて、私は生涯あなたに心からの忠誠をもってお仕えいたします。何かご要望がございましたら、なんなりとお申し付けください」
リヒトは、固まった。
自分たちに嘘は吐かないという誓約はともかく、この場にはイシュケルがいるのだ。彼の前で、迂闊にそんな約束を口にしては――
「一族ごとこいつに仕えようとは、なかなかの心がけだな。いいだろう、ハーゲン・カレンベルク。その約束、たしかに聞き届けたぞ」
「ありがたき幸せにございます。慈悲深き水の王よ」
――ものすごく、手遅れだった。
(うん……。いつか、みんなの目標を全部達成できたら、ほかの誓約も含めて丸ごと解除してもらおう)
密かにそんな決意を固めていたリヒトは、表情筋が仕事を放棄している自分が、召喚獣たちと同レベルの人間不信中だと思われていることに、まるで気がついていなかった。そんな彼の信用を得るためには、召喚獣との誓約に頼るしかないと将軍たちが判断していたことなども――当然ながら、まったく知る由もなかったのである。
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