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旅立ち
将軍限定。
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将軍の背中で、先端に鋭利な棘を持つ翼が、へにゃりと下がる。アリーシャの指摘に、よほど動揺したのだろうか。何やら床に沈み込みそうな様子の将軍を横目に、リヒトは彼の妻に改めて向き直った。
「いいか、奥さん。アンタなら、旦那の魔力の波長を覚えているだろう。今の旦那は、壊れかけの魔導武器だと思え。旦那の体に触れて、可能な限り本来の波長に近くなるよう調整するんだ」
かなり乱暴な説明だが、幸い魔導武器職人を目指している彼女には、直感的に理解しやすい表現だったようだ。力強くうなずき、今は鋭い爪を備えている将軍の手を両手で掴む。そして彼女は、カッと目を見開いた。
「うっひょおう! すごい! ぐちゃぐちゃ! ……あっ、待て待て! 今、ちらっと旦那さまっぽい音を見つけたんだってば! ああもう、雑音うるさいー! ハウス! あとでまとめて構ってやるから、ちょっとどいてろ!」
……支離滅裂な言葉の羅列に思えるが、どうやら彼女なりの魔力の調整方法らしい。鬼気迫る形相で彼女が何かわめくたび、どろどろに濁っていた汚水が澄んでいくように、将軍のまとう魔力が変わっていく。
(すごい、な……)
リヒトは、息をひそめながらその様子を見つめる。
現在進行形で、召喚獣たちに魔力を食われている自分よりはマシだろう、と将軍の魔力を整える役目をその妻に委ねた。けれど、この女性の魔力操作は、精度も速さも本当にすさまじい。おかしな波長を即座に識別、解析して瞬時に的確な修正を施していく。
夫の命が掛かっているプレッシャーの中、これほど緻密な作業を一切のミスなく続ける集中力と胆力。何より、これほど歪んだ魔力の波長を、あっという間に整えていくセンス――こればかりは、天賦の才としか言いようがない。
やがて、瞬きすらしないまま作業に没頭していた女性が、鋭く息を詰めた。
「……よっしゃああああぁあ! 見つけたぞオラァっっ!!」
勝利の雄叫びを上げた彼女が、将軍の手を思い切り握りこむ。直後、黒い汚泥のように気持ち悪いばかりだった魔力の渦が、瞬時に通常の人間のそれに変化した。
(え……はぁあっ!?)
驚愕に目を見開くリヒトの前で、将軍の背中から突き出ていた巨大な翼が、幻のように消え失せる。先ほどまで、額に脂汗を浮かべて苦悶していた将軍が、呆気にとられた様子で瞬く。その瞳は、瞳孔が縦に裂けた爬虫類のそれではなく、ごく普通の人間のものに戻っている。口からのぞいていた牙も、どんなものでも引き裂けそうな爪も、今はない。
汗だくになって大きく肩で息をしていた女性が、そんな将軍の姿を認め、くしゃりと顔を歪めた。
「旦那さまぁ……」
へたりと床に座りこんだ彼女が、将軍の様子をうかがう。
「だ……大丈夫、ですか。どこか、痛くないですか?」
「イングリット……」
将軍が掠れた声で妻の名を呼び、ぎこちなくその細い背中に腕を回す。
「ありがとう。大丈夫だ。きみは……すごいな」
「……っうわあぁああああんっっ! よがったぁああああああっっ!!」
わんわんと泣き出した妻を抱きしめる将軍は、疲労困憊の様子だが、その魔力は本当に普通の人間のものにしか感じられない。
何度見ても信じられず、リヒトは思わず呟いた。
「嘘だろ……。肉体にあれだけ影響が出ていた精霊の魔力侵蝕が、完全に払拭されるなんて」
狙撃銃型魔導具を下ろしたアリーシャが、首を傾げて見上げてくる。
「それって、あり得ないことなのかい?」
その問いかけに、リヒトはうなずく。
「ああ。少なくとも、おれはあり得ないことだと教わっていた。精霊の魔力侵蝕は、精霊召喚に失敗した魔術師が、引き際を見誤った挙げ句になるケースがほとんどだ。精霊との接触時間は、さほど長いもんじゃない。それでも、彼らが普通の人間に戻れたという前例はなかったはずだ」
そういった者たちはみな、たとえ命が長らえたとしても、肉体や精神に某かの不具合を生涯に渡って抱え続けていた。なのに、彼らとは比べものにならないほど長期に渡り、深く魔力侵蝕を受けていた将軍が、まるで何事もなかったかのように五体満足でここにいる。
少なくとも、リヒトが学んだ知識に照らせば、まったくあり得ない奇跡だ。
アリーシャが、感心したように赤い髪の女性を見ながら言う。
「あのお姉さん、すごい腕の持ち主なんだねえ」
「それは認めるが……」
過去に精霊の魔力侵蝕を受けた者たちのそばにも、凄腕の魔術師はいたはずだ。彼らに叶わなかったことが、なぜこの女性には可能だったのか――不思議に思うリヒトの前で、女性がぐしぐしと涙を拭いながら言う。
「あのね、旦那さま。精霊の魔力侵蝕を受けると、人間の体内魔力がぐちゃぐちゃになっちゃうから、普通は子どもができない体になるのね」
「……そうか。すまない」
将軍が、沈鬱な表情で妻に詫びる。彼女の夢は、将軍の子どもを生んで、親子で蟲狩りに行くことだ。その夢を叶えられなくなったことに対する詫びを口にした彼に、その妻はふんぞり返って胸を張った。
「謝らなくても、いいんですよ! だからあたし、がんばったんです! ぐっちゃぐちゃのドロッドロだった魔力をぜーんぶ、結婚したときに覚えた、旦那さまの魔力の波長に書き換えちゃいました! あ、旦那さまの体に収まりきらない魔力は、ホラここに!」
そう言って彼女が手のひらにのせたのは、大量のきらめく魔導石。どれもこれも、溢れんばかりの魔力を孕んで眩しいほどに輝いている。目を丸くする将軍に、女性は『褒めてー、褒めてー』と言わんばかりの笑顔で言う。
「その辺に、ほとんど魔力が抜けちゃってた魔導石の残骸がありまして! ちょうどいいので、まとめて余剰魔力をぶち込んでみました!」
――その残骸は、イシュケルを支配していた呪具に使われていた魔導石の破片だろう。おそらく、相当に純度の高いものだったに違いないそれは、将軍の体を侵蝕していた魔力を封じるのに、充分な容量を持っていたようだ。
見事な再利用にリヒトが心から感心していると、女性はにっこにっこと笑って言った。
「今の旦那さまの魔力、以前の旦那さまのまんまです。どこにも、おかしな乱れはありません。こればかりは試してみないとわかりませんが、たぶん子どもだって作れます!」
「そ……そう、なのか……?」
妻の発言に困惑するのは構わないが、いい年をした将軍職にある男が、頬を染めて恥じらわないでいただきたい。アリーシャが、半目になってぼそりと呟く。
「社会的地位も名誉もある既婚者の野郎に、思春期の少年みたいな反応をされると、なんともいたたまれないものだねえ」
小さな声だったが、将軍とその妻にはしっかり聞こえていたらしい。将軍はいよいよ顔を真っ赤にし、その妻のほうはなぜか嬉しそうにもじもじとする。
「うわあ、どうしよう……。旦那さまが、可愛く見える」
「……頼むから、勘弁してくれ」
将軍が、うめくような声で言ったときだった。
「えー。これって、どういうこと? なんで、せっかくいい感じに混ざってきてた将軍が、ただのツマラナイ人間みたいになっちゃってるの?」
なんの前触れもなく、開け放たれていた窓から声がする。
どこか粘ついた響きの、若い男の声。将軍の妻以外の全員が反射的に銃口を向けた先、まるで枝で休む小鳥のように、なんの気負いもなく窓枠にしゃがんでいる青年がいた。
真っ先に目に入ったのは、くすんだ灰色の長い髪。背中の半ばほどの長さがあるそれは、太陽を浴びているはずなのに、まったく光を弾くことなく、ただ風になびいている。
銃口を向けられてなおヘラヘラと笑っている彼は、病的なまでに真っ白な肌をしていた。どこを見ているのかわからない瞳は、深淵をのぞき込むような漆黒だ。
顔立ちそのものは柔和に整っていると言ってもいいはずなのに、まるで感情の見えない瞳と、口元だけの作りものめいた笑みせいで、不気味な印象しか与えない。身につけているのは、ごく普通に街で見かけるような衣服だというのに、違和感ばかりが先に立つ。
(なんだ……コイツ)
目の前にたしかにいるのに、この青年からはまるで気配というものが感じられない。視覚から入る情報は、ここに敵がいると知らせている。なのに、それ以外の感覚は一切なにも教えてくれない。その齟齬が、ひどく気持ちが悪かった。
灰色の髪の青年が、ついと将軍の妻に向けて指先を伸ばす。
「おっかしいなあ。……ねえ、オマエ。ボクのオモチャに、何を勝手なことをしてるのさ」
不機嫌な幼子のような口調で言うなり、青年の髪が不自然に蠢いた。
(な……っ)
咄嗟に展開された防御シールドは、三枚。将軍とリヒトのそれは瞬時に砕かれ、最後の半球状に一同を覆ったアリーシャのシールドが、全方位から襲ってくる衝撃に明滅しながら揺れている。すさまじい圧とともに人間たちを貫こうとしているのは、異様なまでに長く伸びた青年の髪だ。
クスクスと笑いながら、青年が言う。
「すごい。人間のくせに、がんばっちゃうんだ?」
両手を床につき、懸命に防御シールドを維持しているアリーシャを背後に庇い、リヒトは将軍に鋭く声を掛ける。
「将軍! 自分と奥さんだけ守るシールドを、もう一度張れるか!?」
「可能だ! きみは、彼女を守りたまえ!」
妻を抱え込んだ将軍の答えにうなずきを返し、リヒトは改めて自分とアリーシャを対象に防御シールドを展開した。規模を小さくすれば、それだけ強度を上げられる。
こちらを小馬鹿にする口調で、無邪気な子どものように笑うこの青年は、いったいなんだ。もしや、将軍と同じように精霊の魔力侵蝕を受けた者だろうか。けれど、リヒトが師から教わった過去の事例において、外見が一切変貌することなくいられた者はなかったはずだ。将軍ほどの極端な例は少ないにせよ、その耳や目、肌や歯、爪などが、一見してわかるほど人外のそれに変容していた。
けれどこの青年は、己の髪を自在に武器として操っている以外は、どこも人間と変わらない姿をしている。黙っていれば、彼が人外の存在だと気づける者はそういないだろう。
「可愛いね。面白いなあ。じゃあ、もう少しボクと遊んで――」
唐突に、青年の体が窓枠の外に消えた。直後、窓枠ごと石壁の一部が音もなく消失する。まるで現実味のない光景だが、見事な真円を描く壁の穴の向こうを見たリヒトは、ほっと安堵の息をついた。
右腕を体の前に持ち上げ、黄金の瞳を危険な魔力で輝かせながら宙に立つスバルトゥルの声が、明確な怒りを孕んで空気を震わせる。
「俺の契約者に手を出そうとは、いい度胸だ。死ぬ覚悟は、できているんだろうな?」
「……ふうん?」
灰色の髪を元の長さに戻した青年が、ゆるりと姿を現した。不愉快そうな顔でスバルトゥルを見た彼は、わざとらしい仕草で肩を竦める。
「キミにボクは殺せない。ボクが始末しておきたいのは、せっかくのオモチャをつまらない人間に戻した女だけ。ほかのオモチャまで、同じようにされちゃあつまらないもん」
そうして青年が視線を向けた先で、将軍に抱きしめられた妻が大きく目を見開く。
「はぁあーっ!? 旦那さまをオモチャ呼ばわりするとかマジふざけるなだけど、旦那さま以外の人の魔力なんて、元通りにできるわけないじゃん! あたしが旦那さまの魔力を元通りにできたのは、元々の波長をバッチリしっかり覚えてたから! ほかの人のなんて、ぜえええーっったい、無理!! 想像するだけで気持ち悪いというか、現実的に不可能です!!」
全身に鳥肌を立てる勢いでその可能性を否定する女性に、やや困惑した様子で灰色の髪の青年が問う。
「不可能って、どうして? ひとりできたなら、ほかのやつだってできるんじゃないの?」
「できるわけがないでしょー!? あたしが旦那さまの魔力を覚えたのは、初夜のとき! 処女喪失の衝撃で、そりゃもう脳髄にキッチリ刷り込まれたよね! だから、旦那さまの魔力ならどんなにぐちゃぐちゃになっても元に戻せるけど、ほかの人のなんて無理無理無理!」
――束の間、沈黙が落ちた。
ややあって、スバルトゥルがぼそりと呟く。
「それはたしかに、ほかの人間の魔力を元に戻すのは不可能だろうな。いや、女のその瞬間の衝撃というのが、どの程度のものなのかはわからんが……」
将軍の妻が、ハキハキと言う。
「内臓を、力尽くでぶち抜かれる程度だよ! 正直、死ぬかと思ったよね!」
「いいか、奥さん。アンタなら、旦那の魔力の波長を覚えているだろう。今の旦那は、壊れかけの魔導武器だと思え。旦那の体に触れて、可能な限り本来の波長に近くなるよう調整するんだ」
かなり乱暴な説明だが、幸い魔導武器職人を目指している彼女には、直感的に理解しやすい表現だったようだ。力強くうなずき、今は鋭い爪を備えている将軍の手を両手で掴む。そして彼女は、カッと目を見開いた。
「うっひょおう! すごい! ぐちゃぐちゃ! ……あっ、待て待て! 今、ちらっと旦那さまっぽい音を見つけたんだってば! ああもう、雑音うるさいー! ハウス! あとでまとめて構ってやるから、ちょっとどいてろ!」
……支離滅裂な言葉の羅列に思えるが、どうやら彼女なりの魔力の調整方法らしい。鬼気迫る形相で彼女が何かわめくたび、どろどろに濁っていた汚水が澄んでいくように、将軍のまとう魔力が変わっていく。
(すごい、な……)
リヒトは、息をひそめながらその様子を見つめる。
現在進行形で、召喚獣たちに魔力を食われている自分よりはマシだろう、と将軍の魔力を整える役目をその妻に委ねた。けれど、この女性の魔力操作は、精度も速さも本当にすさまじい。おかしな波長を即座に識別、解析して瞬時に的確な修正を施していく。
夫の命が掛かっているプレッシャーの中、これほど緻密な作業を一切のミスなく続ける集中力と胆力。何より、これほど歪んだ魔力の波長を、あっという間に整えていくセンス――こればかりは、天賦の才としか言いようがない。
やがて、瞬きすらしないまま作業に没頭していた女性が、鋭く息を詰めた。
「……よっしゃああああぁあ! 見つけたぞオラァっっ!!」
勝利の雄叫びを上げた彼女が、将軍の手を思い切り握りこむ。直後、黒い汚泥のように気持ち悪いばかりだった魔力の渦が、瞬時に通常の人間のそれに変化した。
(え……はぁあっ!?)
驚愕に目を見開くリヒトの前で、将軍の背中から突き出ていた巨大な翼が、幻のように消え失せる。先ほどまで、額に脂汗を浮かべて苦悶していた将軍が、呆気にとられた様子で瞬く。その瞳は、瞳孔が縦に裂けた爬虫類のそれではなく、ごく普通の人間のものに戻っている。口からのぞいていた牙も、どんなものでも引き裂けそうな爪も、今はない。
汗だくになって大きく肩で息をしていた女性が、そんな将軍の姿を認め、くしゃりと顔を歪めた。
「旦那さまぁ……」
へたりと床に座りこんだ彼女が、将軍の様子をうかがう。
「だ……大丈夫、ですか。どこか、痛くないですか?」
「イングリット……」
将軍が掠れた声で妻の名を呼び、ぎこちなくその細い背中に腕を回す。
「ありがとう。大丈夫だ。きみは……すごいな」
「……っうわあぁああああんっっ! よがったぁああああああっっ!!」
わんわんと泣き出した妻を抱きしめる将軍は、疲労困憊の様子だが、その魔力は本当に普通の人間のものにしか感じられない。
何度見ても信じられず、リヒトは思わず呟いた。
「嘘だろ……。肉体にあれだけ影響が出ていた精霊の魔力侵蝕が、完全に払拭されるなんて」
狙撃銃型魔導具を下ろしたアリーシャが、首を傾げて見上げてくる。
「それって、あり得ないことなのかい?」
その問いかけに、リヒトはうなずく。
「ああ。少なくとも、おれはあり得ないことだと教わっていた。精霊の魔力侵蝕は、精霊召喚に失敗した魔術師が、引き際を見誤った挙げ句になるケースがほとんどだ。精霊との接触時間は、さほど長いもんじゃない。それでも、彼らが普通の人間に戻れたという前例はなかったはずだ」
そういった者たちはみな、たとえ命が長らえたとしても、肉体や精神に某かの不具合を生涯に渡って抱え続けていた。なのに、彼らとは比べものにならないほど長期に渡り、深く魔力侵蝕を受けていた将軍が、まるで何事もなかったかのように五体満足でここにいる。
少なくとも、リヒトが学んだ知識に照らせば、まったくあり得ない奇跡だ。
アリーシャが、感心したように赤い髪の女性を見ながら言う。
「あのお姉さん、すごい腕の持ち主なんだねえ」
「それは認めるが……」
過去に精霊の魔力侵蝕を受けた者たちのそばにも、凄腕の魔術師はいたはずだ。彼らに叶わなかったことが、なぜこの女性には可能だったのか――不思議に思うリヒトの前で、女性がぐしぐしと涙を拭いながら言う。
「あのね、旦那さま。精霊の魔力侵蝕を受けると、人間の体内魔力がぐちゃぐちゃになっちゃうから、普通は子どもができない体になるのね」
「……そうか。すまない」
将軍が、沈鬱な表情で妻に詫びる。彼女の夢は、将軍の子どもを生んで、親子で蟲狩りに行くことだ。その夢を叶えられなくなったことに対する詫びを口にした彼に、その妻はふんぞり返って胸を張った。
「謝らなくても、いいんですよ! だからあたし、がんばったんです! ぐっちゃぐちゃのドロッドロだった魔力をぜーんぶ、結婚したときに覚えた、旦那さまの魔力の波長に書き換えちゃいました! あ、旦那さまの体に収まりきらない魔力は、ホラここに!」
そう言って彼女が手のひらにのせたのは、大量のきらめく魔導石。どれもこれも、溢れんばかりの魔力を孕んで眩しいほどに輝いている。目を丸くする将軍に、女性は『褒めてー、褒めてー』と言わんばかりの笑顔で言う。
「その辺に、ほとんど魔力が抜けちゃってた魔導石の残骸がありまして! ちょうどいいので、まとめて余剰魔力をぶち込んでみました!」
――その残骸は、イシュケルを支配していた呪具に使われていた魔導石の破片だろう。おそらく、相当に純度の高いものだったに違いないそれは、将軍の体を侵蝕していた魔力を封じるのに、充分な容量を持っていたようだ。
見事な再利用にリヒトが心から感心していると、女性はにっこにっこと笑って言った。
「今の旦那さまの魔力、以前の旦那さまのまんまです。どこにも、おかしな乱れはありません。こればかりは試してみないとわかりませんが、たぶん子どもだって作れます!」
「そ……そう、なのか……?」
妻の発言に困惑するのは構わないが、いい年をした将軍職にある男が、頬を染めて恥じらわないでいただきたい。アリーシャが、半目になってぼそりと呟く。
「社会的地位も名誉もある既婚者の野郎に、思春期の少年みたいな反応をされると、なんともいたたまれないものだねえ」
小さな声だったが、将軍とその妻にはしっかり聞こえていたらしい。将軍はいよいよ顔を真っ赤にし、その妻のほうはなぜか嬉しそうにもじもじとする。
「うわあ、どうしよう……。旦那さまが、可愛く見える」
「……頼むから、勘弁してくれ」
将軍が、うめくような声で言ったときだった。
「えー。これって、どういうこと? なんで、せっかくいい感じに混ざってきてた将軍が、ただのツマラナイ人間みたいになっちゃってるの?」
なんの前触れもなく、開け放たれていた窓から声がする。
どこか粘ついた響きの、若い男の声。将軍の妻以外の全員が反射的に銃口を向けた先、まるで枝で休む小鳥のように、なんの気負いもなく窓枠にしゃがんでいる青年がいた。
真っ先に目に入ったのは、くすんだ灰色の長い髪。背中の半ばほどの長さがあるそれは、太陽を浴びているはずなのに、まったく光を弾くことなく、ただ風になびいている。
銃口を向けられてなおヘラヘラと笑っている彼は、病的なまでに真っ白な肌をしていた。どこを見ているのかわからない瞳は、深淵をのぞき込むような漆黒だ。
顔立ちそのものは柔和に整っていると言ってもいいはずなのに、まるで感情の見えない瞳と、口元だけの作りものめいた笑みせいで、不気味な印象しか与えない。身につけているのは、ごく普通に街で見かけるような衣服だというのに、違和感ばかりが先に立つ。
(なんだ……コイツ)
目の前にたしかにいるのに、この青年からはまるで気配というものが感じられない。視覚から入る情報は、ここに敵がいると知らせている。なのに、それ以外の感覚は一切なにも教えてくれない。その齟齬が、ひどく気持ちが悪かった。
灰色の髪の青年が、ついと将軍の妻に向けて指先を伸ばす。
「おっかしいなあ。……ねえ、オマエ。ボクのオモチャに、何を勝手なことをしてるのさ」
不機嫌な幼子のような口調で言うなり、青年の髪が不自然に蠢いた。
(な……っ)
咄嗟に展開された防御シールドは、三枚。将軍とリヒトのそれは瞬時に砕かれ、最後の半球状に一同を覆ったアリーシャのシールドが、全方位から襲ってくる衝撃に明滅しながら揺れている。すさまじい圧とともに人間たちを貫こうとしているのは、異様なまでに長く伸びた青年の髪だ。
クスクスと笑いながら、青年が言う。
「すごい。人間のくせに、がんばっちゃうんだ?」
両手を床につき、懸命に防御シールドを維持しているアリーシャを背後に庇い、リヒトは将軍に鋭く声を掛ける。
「将軍! 自分と奥さんだけ守るシールドを、もう一度張れるか!?」
「可能だ! きみは、彼女を守りたまえ!」
妻を抱え込んだ将軍の答えにうなずきを返し、リヒトは改めて自分とアリーシャを対象に防御シールドを展開した。規模を小さくすれば、それだけ強度を上げられる。
こちらを小馬鹿にする口調で、無邪気な子どものように笑うこの青年は、いったいなんだ。もしや、将軍と同じように精霊の魔力侵蝕を受けた者だろうか。けれど、リヒトが師から教わった過去の事例において、外見が一切変貌することなくいられた者はなかったはずだ。将軍ほどの極端な例は少ないにせよ、その耳や目、肌や歯、爪などが、一見してわかるほど人外のそれに変容していた。
けれどこの青年は、己の髪を自在に武器として操っている以外は、どこも人間と変わらない姿をしている。黙っていれば、彼が人外の存在だと気づける者はそういないだろう。
「可愛いね。面白いなあ。じゃあ、もう少しボクと遊んで――」
唐突に、青年の体が窓枠の外に消えた。直後、窓枠ごと石壁の一部が音もなく消失する。まるで現実味のない光景だが、見事な真円を描く壁の穴の向こうを見たリヒトは、ほっと安堵の息をついた。
右腕を体の前に持ち上げ、黄金の瞳を危険な魔力で輝かせながら宙に立つスバルトゥルの声が、明確な怒りを孕んで空気を震わせる。
「俺の契約者に手を出そうとは、いい度胸だ。死ぬ覚悟は、できているんだろうな?」
「……ふうん?」
灰色の髪を元の長さに戻した青年が、ゆるりと姿を現した。不愉快そうな顔でスバルトゥルを見た彼は、わざとらしい仕草で肩を竦める。
「キミにボクは殺せない。ボクが始末しておきたいのは、せっかくのオモチャをつまらない人間に戻した女だけ。ほかのオモチャまで、同じようにされちゃあつまらないもん」
そうして青年が視線を向けた先で、将軍に抱きしめられた妻が大きく目を見開く。
「はぁあーっ!? 旦那さまをオモチャ呼ばわりするとかマジふざけるなだけど、旦那さま以外の人の魔力なんて、元通りにできるわけないじゃん! あたしが旦那さまの魔力を元通りにできたのは、元々の波長をバッチリしっかり覚えてたから! ほかの人のなんて、ぜえええーっったい、無理!! 想像するだけで気持ち悪いというか、現実的に不可能です!!」
全身に鳥肌を立てる勢いでその可能性を否定する女性に、やや困惑した様子で灰色の髪の青年が問う。
「不可能って、どうして? ひとりできたなら、ほかのやつだってできるんじゃないの?」
「できるわけがないでしょー!? あたしが旦那さまの魔力を覚えたのは、初夜のとき! 処女喪失の衝撃で、そりゃもう脳髄にキッチリ刷り込まれたよね! だから、旦那さまの魔力ならどんなにぐちゃぐちゃになっても元に戻せるけど、ほかの人のなんて無理無理無理!」
――束の間、沈黙が落ちた。
ややあって、スバルトゥルがぼそりと呟く。
「それはたしかに、ほかの人間の魔力を元に戻すのは不可能だろうな。いや、女のその瞬間の衝撃というのが、どの程度のものなのかはわからんが……」
将軍の妻が、ハキハキと言う。
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