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1巻
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スターリング商会が拠点としているのは、大陸の東に位置するここファーレンデイン王国。しかし、国に属する軍や騎士団のように『国』というものに縛られない彼らの活動範囲は、大陸各国に広がっていると聞く。その影響力と財力は、各国の王家に勝るとも劣らないという噂である。
まさか、こんな若くてきれいな女性たちがそんな商会の一員とは、驚きだ。アシュレイはぎこちなく答える。
「アシュレイ・ウォルトンと申します。このたびは、よけいなことをしてしまったようで、申し訳ありませんでした」
鞭を持つ女王さま――もとい、あの美女がスターリング商会の構成員なら、アシュレイが手出しをしなくとも、あの男たちの攻撃くらい対処できたに違いない。
事情を知らず咄嗟に体が動いてしまったとはいえ、素人が出しゃばるなど、恥ずかしいにもほどがある。
顔を赤くしてうつむいたアシュレイに、美女が真剣な様子で声をかけてきた。
「え……ちょっと待って。あなた、いくつ?」
「あ、はい。十七歳です」
「十七歳!?」
美女が、くわっと目を見開く。それから彼女は、足早に近づいてくると、まじまじとアシュレイの顔をのぞきこんだ。
「挨拶が遅れたわね、アシュレイ。さっきは加勢してくれてありがとう。アタシは、スターリング商会のクラリッサ・ガーディナー。……ちょっと、失礼するわよ」
「は? え、あの……!」
抗う間もなく、アシュレイの『近所のおばちゃん』スタイルが、クラリッサの手によって解除されていく。
ひっつめていた髪は解かれ、眼鏡を外される。マスクも取られ、アシュレイは頬をうにっと引っ張られた。そして底光りする目で「何を入れているの、出しなさい」と命じられる。
アシュレイは軽く命の危険を感じ、おとなしく頬に含んでいた綿を出す。超絶美女の真顔というのは、結構怖い。
クラリッサは、すっかり元の十七歳の姿に戻ったアシュレイを眺め、深々とため息をつく。
「あなたねぇ……」
「な、なんでしょうか……?」
アシュレイがびくびくしながら問うと、クラリッサは眉間を指先で軽く揉んで言った。
「……うん。あなた、たしか短期雇用の使用人だって言ってたわよね。ここでの仕事が終わったら、フリー……えぇと、次の仕事は決まっていないのかしら? この屋敷の主人もこちらの男爵閣下と一緒に牢獄行きだろうから、少なくともここで働き続けるというのは無理だと思うのだけど」
その問いかけに、アシュレイは、はっとした。
この屋敷の主が犯罪行為に関わっていたなら、ここでの仕事はもうおしまいだろう。どちらにしろ、明日の夜までの契約ではあった。しかし、屋敷の主が牢獄行きとなると、給金はきちんと支払ってもらえるのかどうか、とても心配である。
どうやら自分は、つくづく仕事運がないらしい。アシュレイは、どんよりと肩を落としてうなずく。
「はい、次の仕事は決まっていません。次の雇い主は、犯罪に手を染めたり、使用人を客にオモチャとして差し出したりするような、ロクデナシ野郎でなければいいのですが……」
クラリッサが黙りこんだ。彼女の代わりに、銀髪の少女――ヘンリエッタが口を開く。
「アシュレイ。使用人をそのように扱うのは、立派な犯罪だ」
おぉ、とアシュレイは両手を打ち合わせる。
「言われてみれば、そうですね。うっかりしていました」
「ふむ。ところできみは、ウォルトン子爵家のご令嬢だろうか?」
漆黒の瞳でまっすぐに見てくる少女の問いに、アシュレイは驚く。
「はい。その通りですが……よくわかりましたね」
「きみの母君の写真を、何度か見たことがある」
そう言われ、アシュレイは頬を引きつらせた。やはりアシュレイの顔は母親とかなり似ているらしい。
母が写真に写るときには、必ず完璧な化粧と豪華な装いをしていたはずだ。一方、今のアシュレイが着ているのは、地味なお仕着せのメイド服。それにもかかわらず、初対面の相手に『親子なんですね』と言われるほど、自分の容姿は母に似ているのか。アシュレイは、ものすごくげんなりした。
そんな彼女の様子を見て、ヘンリエッタは続ける。
「なるほど。だからきみは、先ほどのような装いをしていたわけだ」
納得したようにうなずくヘンリエッタに、クラリッサが軽く眉間を寄せて問う。
「ちょっと、どういうこと? ヘンリエッタ」
「すまないが、これはアシュレイのプライベートに関わる問題だ。少なくとも、このような大勢の人間がいる場で語っていい話題ではない。まずは、この男たちを王宮側に引き渡すのが先ではないかな」
アシュレイも忘れていたが、この玄関ホールには屋敷の使用人たちとむっちむちのロースハム――ではなく、捕縛された男爵とその部下たちもいるのだった。男爵一行はともかく、使用人たちもアシュレイたちのほうをびくびくしながらうかがっている。それに気がつき、彼女は非常に申し訳ない気分になる。
ヘンリエッタの正論に、クラリッサは小さく息をついた。
「まったく、可愛げのない部下だこと」
「問題ない。可愛げがなくとも、私は優秀だ」
「そういうところが、ホントに可愛げがないのよ!」
顔をしかめてわめいても麗しい美女は、苛立たしげに鞭を持つ右手を一振りする。ハムのようにぐるぐる巻きにされていた男が、一瞬宙に浮いてからぼたっと床に落ちた。
百キロ近くありそうなあの巨体を、こうも軽々扱うとは――
(クラリッサさんの細腕のどこに、こんな力が秘められているのでしょうか……)
アシュレイは、戦慄した。
それから、ヘンリエッタがおもむろにどこからか取り出した笛を吹く。どうやら、先ほど鳴り響いた笛の音も、彼女が吹いたものだったらしい。
長い音と短い音を組み合わせて何度か吹き鳴らしてから、彼女はクラリッサを見た。
「回収班を呼んだ。外国の『お客人』のほうは、すでに確保している。――クラリッサ。あなたは以前から、格闘術の心得がある、若くてイキがよくて、上流階級にも通じる立ち居振る舞いを身につけた部下が欲しい、と言っていたな」
クラリッサが、にこりと笑う。
「えぇ、そうよ。私の部下はふたりともすごく優秀だけど、近接戦闘はまるでダメなんだもの」
「人間には、向き不向きというものがあるのだ。それで……欲しいのか? クラリッサ」
ひどく抽象的な問いかけに、クラリッサは笑みを深めてうなずく。
「そうね。すごく、欲しいわ」
なんだか内輪の話になってきたようだと察し、アシュレイはそっとその場を離れようとした。
「待ちたまえ」
「ぐぇっ」
クラリッサと会話をしていたヘンリエッタが、振り返りもせずにアシュレイの襟首を掴んで引き戻す。アシュレイは一瞬、息が詰まって涙目になった。
「何をするんです? 痛いじゃないですか」
「うむ、すまん。だが私は、目的を達成するためには、手段を選ばない人間なんだ」
先ほどから思っていたが、このヘンリエッタという少女は、かなり変わっている。表情が乏しいだけに、言動の風変わりさが一層顕著だ。
なんだか不安になってきたアシュレイに、それはそれは麗しい笑みを浮かべたクラリッサが言う。
「ねぇ、アシュレイ。あなた、うちに来ない?」
「………………はぃい?」
第二章 ご主人さまに、会いました
短期の勤め先で、大捕り物があった日から一週間後の午後。
アシュレイはスターリング商会の代表、エルドレッド・スターリングの私邸、ドリューウェット・コートにやってきていた。ちなみに交通手段は、クラリッサが手配してくれた馬車である。
なんでも先の大捕り物は、商会の代表であるエルドレッドが直々に指揮する部隊が担当していたのだという。
その部隊は、戦闘ありの仕事をこなす要人警護チームと、彼らのフォローをするメイドチームで構成されている。もっとも、メイドチームにもそれなりの『強さ』が要求されるという。
エルドレッドが部隊を作ったのは最近のことで、メイドチームといっても、その構成員は今のところ三名のみ。要人警護チームこそ商会の若い精鋭たちが揃っているが、メイドチームはなかなか人材が揃わないらしい。
(まぁ……ハイ。傭兵というのは、普通は男性のお仕事ですし。わたしだって、スターリング商会が女性の構成員も募集しているとは、知りませんでした)
そして、なぜかこのたびアシュレイは、メイドチームのリーダーであるクラリッサから『うちに来ない?』と勧誘されてしまったのだ。
新しい仕事を紹介してもらえるのは、正直嬉しい。
しかし、アシュレイは戦闘の経験などほとんどないド素人。幼い頃から近接戦闘技術を学んできたが、それはもちろんプロの手際には程遠い。当然ながら、自分の職場の候補として傭兵部隊を想像したことなど、一度もない。
尻込みをしていたところ、クラリッサが『とにかく一度、うちのボスに会ってみて!』と強くすすめてきたので、つい応じてしまった。
けれど、やはりとんでもなく場違いな気がする。
招かれた応接間を見回しながら、あらためてアシュレイはそう思う。
あまり派手ではないものの、一目で上質なものだとわかる調度品が揃っている。
スターリング商会代表の邸宅なのだから、豪華なものだろうと想定していたが、本当にどちらを見てもお高そうなものばかりだ。下手に触ると家具に指紋を残してしまいそうで、ちょっぴり怖い。お金の香りが漂う空間というのは、貧乏人にとっては威圧的なものなのだ。
落ち着かない気分で、この屋敷の主――エルドレッド・スターリングを待つ。
聞くところによると、彼はまだ二十四歳の青年らしい。
そして、クラリッサとヘンリエッタ曰く『見た目は悪くないし、財力も権力も社会的地位もあるのに、そこはかとなく不憫臭が漂う苦労人』なのだという。
大陸中に繋がるネットワークを誇る商会の代表を務める相手に対し、随分な言いようである。
そのとき、開け放たれていた応接間の扉を軽く叩く音がした。アシュレイが慌てて立ち上がって姿勢を正すと、穏やかそうな風貌の執事が「主が参ります」と伝えてくれる。
(うぅ……緊張のしすぎで、気持ちが悪くなってきました)
そうしてアシュレイは、吐き気をこらえながらスターリング商会代表と面会を果たしたのだが――
(……へ?)
「お待たせしてすまない。エルドレッド・スターリングだ」
落ち着いた声で挨拶をしてきた彼に、アシュレイは見覚えがあった。それだけでなく、わずかながら言葉を交わしたことすらある。
見上げるほどの長身に、スッキリと整えられた褐色の髪。鋭い目つきの瞳は、琥珀色。謹厳実直を絵に描いたような、端然とした佇まいの青年である。
初対面の相手には、少々威圧感を与える容貌かもしれない。しかしアシュレイは、彼が優しい人物であることを知っていた。
(まさかの、あのとき黒猫を助けてあげたお兄さんー!)
――動揺のあまり、アシュレイは叫びそうになったが、なんとか踏みとどまる。危なかった。
一方、エルドレッドはまったく動じた様子はない。
どうやら彼は、先日の出会いのことを覚えていないようだ。
それはそうだろう。彼にとってアシュレイは、ほんの少し言葉を交わしただけの通りすがりなのだから。
エルドレッドは、あのとき彼女が『こんな雇い主の下で働けたなら、どんなにいいだろう』と思った人である。クラリッサがアシュレイを勧誘してくれた理由がなんにせよ、ここは彼女の厚意に最大限感謝しよう。今さらではあるが、精一杯気合いを入れて、この面接に臨むことにする。
エルドレッドにソファを勧められ腰かけたアシュレイは、背筋を伸ばして向かいに座る彼を見た。
「はじめまして、スターリングさま。アシュレイ・ウォルトンと申します。このたびは、貴重なお時間をいただきありがとうございます」
「こちらこそ、突然の申し出を受けていただき感謝する。それから、先日私の部下が、危ないところをきみに助けてもらったと聞いている。そちらについても、改めて礼を言わせていただきたい」
危ないところ、と言われても、まったく心当たりがない。
クラリッサに襲いかかった連中を倒したことは、完全によけいな手出しだった。アシュレイは、困って首を傾げた。
「スターリングさまにお礼を言われるようなことなど、わたしは何もしておりません」
エルドレッドが小さく笑みを浮かべる。何やら、面白がっているような雰囲気だ。
「いいや。きみはたしかに、あの屋敷で私の部下を救っている。本人も、もしきみがいなければ大怪我をしていたに違いないと申告していた。当時は、潜入捜査の最中だったため、きちんとした礼もできずに申し訳なかったと言っている。今度、改めて本人が挨拶するだろう」
(潜入捜査の最中……?)
アシュレイが男たちを成敗したとき、クラリッサは女王さまモードで鞭を振るっていた。まるで立場を隠していなかったあの時点での出来事を、『潜入捜査の最中』とは言わないだろう。
つまり、エルドレッドが言っているのは、クラリッサの件ではないということか。
しかし、そうなると――
(おぉ?)
アシュレイは、思わず目を瞠ってエルドレッドを見た。
「スターリングさま。もしや、あのお屋敷で『ディーン』と呼ばれていた従僕の方も、あなたの部下なのですか?」
エルドレッドが笑みを深める。
「その通りだ。あの従僕の本名は、ジェラルディーン・ファーナム。私の大切な部下であり、メイドチームの一員だ。彼女を救ってくれたこと、心から感謝する、ウォルトン嬢。もし今後、何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくれたまえ」
「………………はい?」
なんだか今、とても面妖なことを聞いた。
たしかにアシュレイは、窓から落ちてきた灰皿が、従僕姿の人物にぶつかりそうになったところに居合わせた。咄嗟にその人物の腕を引き、災難から逃れられたのを喜び合ったことを覚えている。
しかし、その相手はとんでもない美少年だった。美少年というのは、男性のことだ。
それにもかかわらず、エルドレッドが今、件の従僕を『彼女』と言ったということは……
状況を整理し終えて、アシュレイはおそるおそる彼に問う。
「あの……わたしが知っている『ディーン』という方は、とてもきれいな顔立ちをした、男性のように見えたのですが……」
「あぁ。本人もそれを自覚していて、ああいった際には従僕姿になるのだよ。なんでも、あの格好をしていると、若いメイドたちが進んで情報提供をしてくれるため、大変効率がいいそうだ」
爽やかな笑顔の美少年従僕は、乙女心を弄ぶ男装の麗人だった。
ちょっぴり世知辛い気分になったが、たしかに従僕姿のジェラルディーンにほほえみながら質問されたら、純情可憐な少女たちは進んで答えてくれそうだ。
使えるものは、なんでも利用する。その心意気は、立派なものだ。
つまり、エルドレッドの部隊のメイドチームに所属する三名は、超絶美女のクラリッサ、拳銃つかいのヘンリエッタ、男装の麗人ジェラルディーンということか。
「それに、ジェラルディーンはああ見えて、針仕事がとても得意でね。メイドチームが着る服にそれぞれの武器を仕込めるよう、その都度改造してくれるのだ」
「改造……ですか?」
首を傾げたアシュレイに、エルドレッドがうなずく。
「いずれわかる。――さて、ウォルトン嬢。そろそろ、本題に入らせてもらいたいのだが、その前にひとつ詫びねばならない。きみをこの屋敷に招くにあたり、私はきみの経歴や現在の状況について、一通り調べさせてもらった。不愉快なことだろうが、ご寛恕いただきたい」
エルドレッドが真摯に詫びる。たしかに、誰かに自分のことを調べてまわられるのは、あまり気持ちのいいことではない。
だが、スターリング商会ほどの組織のトップが、人員の勧誘に際して相手の身上調査をするのは当然だろう。
(ちょっとびっくりしましたけれど、そもそもわたしには、調べられて困るようなことなど何もありませんし。……あぁ、誇るものが何もないのも、バレバレということですか)
アシュレイは父が亡くなるまで、ウォルトン家に集う人々の世話ばかりをして生きてきた。そのため、世間知らずのアシュレイにできるのは掃除、洗濯、料理くらいのものである。
彼女には、クラリッサたちのようにエルドレッドの部下として役に立てるスキルが、何もない。
それを知られたということは、彼に雇ってもらうのは無理だろう。
しょんぼりと肩を落としたアシュレイに、エルドレッドが少し慌てた様子で言う。
「いや、この調査は我が商会が勧誘をする際に必ず行う、定型的なものだ。きみのプライベートについては、ほとんど関知していない」
ほとんど、という言葉と、『それでは何を知られたのだろう』ということが若干気になるが、アシュレイは気を取り直して彼を見た。
「了解しました。それはその、必要な調査なのですよね?」
「あ……あぁ。やはり安全管理上、最低限の情報収集は必要なのだ」
アシュレイの様子を見て、エルドレッドはほっとしたように息をつく。彼は思いのほか、気を遣うタイプのようだ。
それから彼は、まっすぐにアシュレイの目を見て言った。
「ひとつ聞かせてもらいたい。きみは、きみに武術を教えた師が何者なのか、知っているかね?」
「え? あ、はい。若い頃、ご夫婦で義勇軍に参加されたことがあるとうかがっています」
数十年前、この国が隣国との戦に明け暮れていた頃、民衆たちは自分たちの生活を守るべく、その手に武器を持って立ち上がった。彼らは、自らを『義勇軍』と称し、国境を越えてくる異国の兵士たちと勇敢に戦ったという。
アシュレイに武術のいろはを教えてくれたご老体は、そんな勇気ある者たちの一員だったのだ。
彼は大変お似合いの連れ合いとふたり、近所の子どもたちと遊びながら武術の心得を伝授する日々を過ごしている。とても羨ましい夫婦だ。
なるほど、とエルドレッドが苦笑する。
「私も、きみの経歴に関する調査報告を受けたときに、はじめて知ったのだがな……きみの師は、かつて私の父を指導したこともある、大変な強者だ。クラリッサの報告からして、きみは彼の教えを相当受けているのだろう」
その言葉に、アシュレイは戸惑う。
「よく……わかりません。わたしはただ、おじいさんの言う通りにしていただけなので」
幼い頃のアシュレイは、ひたすら『お父さまは、わたしが守るぞ、がんばるぞ』という心意気で、ご老体の指導についていった。
(……そういえば、今になって思えば、『壁に垂らした縄を、腕の力だけで上りきれ』や、『投げたナイフが百回同じところに当たるまでは、寝るでない』というのは、子どもには少々ハードな訓練だったような気がします)
過去の苦行を思い出し、遠くを見たい気分になったけれど、そのおかげで今のアシュレイがあるのである。改めて師に感謝を捧げていると、エルドレッドが言う。
「ウォルトン嬢。私はきみを育ててみたい」
アシュレイはハッと顔を上げる。すると、彼の琥珀色の瞳と視線が絡んだ。
「私は、ご覧の通りの若輩者だ。信用できる部下も、まだまだ少ない。もちろん、きみが望むならという条件付きではあるが――私はきみに、どんなことがあっても信じられる部下になってもらいたいと思っている」
心臓が、大きく音を立てる。掠れそうになる声で、アシュレイは問うた。
「わたしで、いいのですか? スターリングさま」
「きみは若く健康な体と、咄嗟のときに他人のために動ける心を持っている。それ以外に必要なものは、すべてこれから私が教えよう。――私は、きみが欲しい」
まっすぐな目と声に、胸の奥がざわめく。心臓がどきどきして、自分を見つめる彼の姿がなぜだか輝いて見える。
このトキメキに、アシュレイは覚えがあった。
これは――アレだ。
武術の師と仰ぐご老体が、血気盛んな若者を相手取り、見事に技を決めたときと同じ高揚。
その雄姿を見た近所の少年は、たしかこう叫んでいた。
――イカすぜ、じーさん! ちょーカッコイイー!
(スターリングさまのお年ですと、やっぱり『イカすぜ、お兄さん!』でいいのかしら? 兄さん? 兄ちゃん? いえ、もっとズバンといい感じの呼び方があったはず……っ)
悶々と悩んだアシュレイは、ふと脳裏に浮かんだ言葉に、思わず両手を打ち鳴らしそうになった。
(そうよ! ――イカすぜ、アニキ! ちょーカッコイイー! ああぁああ、スターリングさま! あなたさまのことを、今後は密かに心のアニキと呼ばせていただきます!)
アシュレイは、興奮して弾みそうになる声をどうにか抑え、口を開く。
「ご指導、よろしくお願いいたします」
深々と一礼すると、エルドレッドが満足げにうなずいた。
「こちらこそ、よろしく頼む。今後、私のことは、エルドレッドと呼ぶように。こちらもきみのことは、アシュレイと呼ぶ」
「了解しました、エルドレッドさま!」
心のアニキ認定をした雇い主に、アシュレイは気合いを入れていい子のお返事をする。
(この若さで、スターリング商会を率いる商魂のたくましさ。おそらく、ご本人もかなりの武闘派。――繊細な芸術家たちに入れこんだ挙句、さっさと天に召されてしまったお父さまとは、本当に真逆の方ですね! エルドレッドさま!)
父親の生活能力の低さで大変苦労してきたアシュレイは、エルドレッドに対し、大変高めの好感を抱いていた。彼の部下になれてとても嬉しい。
その上、これで明日の食事を心配する必要がなくなるのだ。寄る辺のない不安が払拭されて、アシュレイはなんだか泣きたい気分になった。
雇用関係を結ぶことに合意が取れたところで、エルドレッドは今後のことについて、いろいろと説明してくれた。
ここドリューウェット・コートは、スターリング家の本邸とは別に、エルドレッドが個人的に所有している屋敷なのだという。そして、使用人たちの住む西棟の一室を、アシュレイのために用意してくれるそうだ。
ちなみにこの屋敷には女性だけでなく、厨房で働く料理人や従僕などの男の使用人もいる。彼らは東棟で寝起きしているらしい。
そのほかにもこまごまとした事柄を一通り説明すると、彼は最後にアシュレイを見て言った。
「これから、きみには住みこみで働いてもらうことになる。あとで荷物は運ばせるが……何か、質問はあるかね?」
住みこみとは、ますますありがたい。必要なものは、当座の着替えと洗面道具といったところか。
しかし、これからしばらく実家の屋敷を空けるとなると、やはり大切なものは持ち出しておくべきだろう。
今のウォルトン家には、金目のものはほとんどない。
――否、ひとつしかない、というのが正しい。
ウォルトン子爵家の当主であることを示す、豪奢な金の指輪だ。爵位を与えられた際に国から授かったものである。
あればかりは、国の許可がなければ所有者の変更ができないため、売り払うことができなかった。
そこでふと、アシュレイは気になることを思い出し、エルドレッドに問う。
「エルドレッドさま。ひょっとして、メイドチームのみなさまは、異国の文字を使った手紙で秘密のやり取りをしていらっしゃるのでしょうか?」
まさか、こんな若くてきれいな女性たちがそんな商会の一員とは、驚きだ。アシュレイはぎこちなく答える。
「アシュレイ・ウォルトンと申します。このたびは、よけいなことをしてしまったようで、申し訳ありませんでした」
鞭を持つ女王さま――もとい、あの美女がスターリング商会の構成員なら、アシュレイが手出しをしなくとも、あの男たちの攻撃くらい対処できたに違いない。
事情を知らず咄嗟に体が動いてしまったとはいえ、素人が出しゃばるなど、恥ずかしいにもほどがある。
顔を赤くしてうつむいたアシュレイに、美女が真剣な様子で声をかけてきた。
「え……ちょっと待って。あなた、いくつ?」
「あ、はい。十七歳です」
「十七歳!?」
美女が、くわっと目を見開く。それから彼女は、足早に近づいてくると、まじまじとアシュレイの顔をのぞきこんだ。
「挨拶が遅れたわね、アシュレイ。さっきは加勢してくれてありがとう。アタシは、スターリング商会のクラリッサ・ガーディナー。……ちょっと、失礼するわよ」
「は? え、あの……!」
抗う間もなく、アシュレイの『近所のおばちゃん』スタイルが、クラリッサの手によって解除されていく。
ひっつめていた髪は解かれ、眼鏡を外される。マスクも取られ、アシュレイは頬をうにっと引っ張られた。そして底光りする目で「何を入れているの、出しなさい」と命じられる。
アシュレイは軽く命の危険を感じ、おとなしく頬に含んでいた綿を出す。超絶美女の真顔というのは、結構怖い。
クラリッサは、すっかり元の十七歳の姿に戻ったアシュレイを眺め、深々とため息をつく。
「あなたねぇ……」
「な、なんでしょうか……?」
アシュレイがびくびくしながら問うと、クラリッサは眉間を指先で軽く揉んで言った。
「……うん。あなた、たしか短期雇用の使用人だって言ってたわよね。ここでの仕事が終わったら、フリー……えぇと、次の仕事は決まっていないのかしら? この屋敷の主人もこちらの男爵閣下と一緒に牢獄行きだろうから、少なくともここで働き続けるというのは無理だと思うのだけど」
その問いかけに、アシュレイは、はっとした。
この屋敷の主が犯罪行為に関わっていたなら、ここでの仕事はもうおしまいだろう。どちらにしろ、明日の夜までの契約ではあった。しかし、屋敷の主が牢獄行きとなると、給金はきちんと支払ってもらえるのかどうか、とても心配である。
どうやら自分は、つくづく仕事運がないらしい。アシュレイは、どんよりと肩を落としてうなずく。
「はい、次の仕事は決まっていません。次の雇い主は、犯罪に手を染めたり、使用人を客にオモチャとして差し出したりするような、ロクデナシ野郎でなければいいのですが……」
クラリッサが黙りこんだ。彼女の代わりに、銀髪の少女――ヘンリエッタが口を開く。
「アシュレイ。使用人をそのように扱うのは、立派な犯罪だ」
おぉ、とアシュレイは両手を打ち合わせる。
「言われてみれば、そうですね。うっかりしていました」
「ふむ。ところできみは、ウォルトン子爵家のご令嬢だろうか?」
漆黒の瞳でまっすぐに見てくる少女の問いに、アシュレイは驚く。
「はい。その通りですが……よくわかりましたね」
「きみの母君の写真を、何度か見たことがある」
そう言われ、アシュレイは頬を引きつらせた。やはりアシュレイの顔は母親とかなり似ているらしい。
母が写真に写るときには、必ず完璧な化粧と豪華な装いをしていたはずだ。一方、今のアシュレイが着ているのは、地味なお仕着せのメイド服。それにもかかわらず、初対面の相手に『親子なんですね』と言われるほど、自分の容姿は母に似ているのか。アシュレイは、ものすごくげんなりした。
そんな彼女の様子を見て、ヘンリエッタは続ける。
「なるほど。だからきみは、先ほどのような装いをしていたわけだ」
納得したようにうなずくヘンリエッタに、クラリッサが軽く眉間を寄せて問う。
「ちょっと、どういうこと? ヘンリエッタ」
「すまないが、これはアシュレイのプライベートに関わる問題だ。少なくとも、このような大勢の人間がいる場で語っていい話題ではない。まずは、この男たちを王宮側に引き渡すのが先ではないかな」
アシュレイも忘れていたが、この玄関ホールには屋敷の使用人たちとむっちむちのロースハム――ではなく、捕縛された男爵とその部下たちもいるのだった。男爵一行はともかく、使用人たちもアシュレイたちのほうをびくびくしながらうかがっている。それに気がつき、彼女は非常に申し訳ない気分になる。
ヘンリエッタの正論に、クラリッサは小さく息をついた。
「まったく、可愛げのない部下だこと」
「問題ない。可愛げがなくとも、私は優秀だ」
「そういうところが、ホントに可愛げがないのよ!」
顔をしかめてわめいても麗しい美女は、苛立たしげに鞭を持つ右手を一振りする。ハムのようにぐるぐる巻きにされていた男が、一瞬宙に浮いてからぼたっと床に落ちた。
百キロ近くありそうなあの巨体を、こうも軽々扱うとは――
(クラリッサさんの細腕のどこに、こんな力が秘められているのでしょうか……)
アシュレイは、戦慄した。
それから、ヘンリエッタがおもむろにどこからか取り出した笛を吹く。どうやら、先ほど鳴り響いた笛の音も、彼女が吹いたものだったらしい。
長い音と短い音を組み合わせて何度か吹き鳴らしてから、彼女はクラリッサを見た。
「回収班を呼んだ。外国の『お客人』のほうは、すでに確保している。――クラリッサ。あなたは以前から、格闘術の心得がある、若くてイキがよくて、上流階級にも通じる立ち居振る舞いを身につけた部下が欲しい、と言っていたな」
クラリッサが、にこりと笑う。
「えぇ、そうよ。私の部下はふたりともすごく優秀だけど、近接戦闘はまるでダメなんだもの」
「人間には、向き不向きというものがあるのだ。それで……欲しいのか? クラリッサ」
ひどく抽象的な問いかけに、クラリッサは笑みを深めてうなずく。
「そうね。すごく、欲しいわ」
なんだか内輪の話になってきたようだと察し、アシュレイはそっとその場を離れようとした。
「待ちたまえ」
「ぐぇっ」
クラリッサと会話をしていたヘンリエッタが、振り返りもせずにアシュレイの襟首を掴んで引き戻す。アシュレイは一瞬、息が詰まって涙目になった。
「何をするんです? 痛いじゃないですか」
「うむ、すまん。だが私は、目的を達成するためには、手段を選ばない人間なんだ」
先ほどから思っていたが、このヘンリエッタという少女は、かなり変わっている。表情が乏しいだけに、言動の風変わりさが一層顕著だ。
なんだか不安になってきたアシュレイに、それはそれは麗しい笑みを浮かべたクラリッサが言う。
「ねぇ、アシュレイ。あなた、うちに来ない?」
「………………はぃい?」
第二章 ご主人さまに、会いました
短期の勤め先で、大捕り物があった日から一週間後の午後。
アシュレイはスターリング商会の代表、エルドレッド・スターリングの私邸、ドリューウェット・コートにやってきていた。ちなみに交通手段は、クラリッサが手配してくれた馬車である。
なんでも先の大捕り物は、商会の代表であるエルドレッドが直々に指揮する部隊が担当していたのだという。
その部隊は、戦闘ありの仕事をこなす要人警護チームと、彼らのフォローをするメイドチームで構成されている。もっとも、メイドチームにもそれなりの『強さ』が要求されるという。
エルドレッドが部隊を作ったのは最近のことで、メイドチームといっても、その構成員は今のところ三名のみ。要人警護チームこそ商会の若い精鋭たちが揃っているが、メイドチームはなかなか人材が揃わないらしい。
(まぁ……ハイ。傭兵というのは、普通は男性のお仕事ですし。わたしだって、スターリング商会が女性の構成員も募集しているとは、知りませんでした)
そして、なぜかこのたびアシュレイは、メイドチームのリーダーであるクラリッサから『うちに来ない?』と勧誘されてしまったのだ。
新しい仕事を紹介してもらえるのは、正直嬉しい。
しかし、アシュレイは戦闘の経験などほとんどないド素人。幼い頃から近接戦闘技術を学んできたが、それはもちろんプロの手際には程遠い。当然ながら、自分の職場の候補として傭兵部隊を想像したことなど、一度もない。
尻込みをしていたところ、クラリッサが『とにかく一度、うちのボスに会ってみて!』と強くすすめてきたので、つい応じてしまった。
けれど、やはりとんでもなく場違いな気がする。
招かれた応接間を見回しながら、あらためてアシュレイはそう思う。
あまり派手ではないものの、一目で上質なものだとわかる調度品が揃っている。
スターリング商会代表の邸宅なのだから、豪華なものだろうと想定していたが、本当にどちらを見てもお高そうなものばかりだ。下手に触ると家具に指紋を残してしまいそうで、ちょっぴり怖い。お金の香りが漂う空間というのは、貧乏人にとっては威圧的なものなのだ。
落ち着かない気分で、この屋敷の主――エルドレッド・スターリングを待つ。
聞くところによると、彼はまだ二十四歳の青年らしい。
そして、クラリッサとヘンリエッタ曰く『見た目は悪くないし、財力も権力も社会的地位もあるのに、そこはかとなく不憫臭が漂う苦労人』なのだという。
大陸中に繋がるネットワークを誇る商会の代表を務める相手に対し、随分な言いようである。
そのとき、開け放たれていた応接間の扉を軽く叩く音がした。アシュレイが慌てて立ち上がって姿勢を正すと、穏やかそうな風貌の執事が「主が参ります」と伝えてくれる。
(うぅ……緊張のしすぎで、気持ちが悪くなってきました)
そうしてアシュレイは、吐き気をこらえながらスターリング商会代表と面会を果たしたのだが――
(……へ?)
「お待たせしてすまない。エルドレッド・スターリングだ」
落ち着いた声で挨拶をしてきた彼に、アシュレイは見覚えがあった。それだけでなく、わずかながら言葉を交わしたことすらある。
見上げるほどの長身に、スッキリと整えられた褐色の髪。鋭い目つきの瞳は、琥珀色。謹厳実直を絵に描いたような、端然とした佇まいの青年である。
初対面の相手には、少々威圧感を与える容貌かもしれない。しかしアシュレイは、彼が優しい人物であることを知っていた。
(まさかの、あのとき黒猫を助けてあげたお兄さんー!)
――動揺のあまり、アシュレイは叫びそうになったが、なんとか踏みとどまる。危なかった。
一方、エルドレッドはまったく動じた様子はない。
どうやら彼は、先日の出会いのことを覚えていないようだ。
それはそうだろう。彼にとってアシュレイは、ほんの少し言葉を交わしただけの通りすがりなのだから。
エルドレッドは、あのとき彼女が『こんな雇い主の下で働けたなら、どんなにいいだろう』と思った人である。クラリッサがアシュレイを勧誘してくれた理由がなんにせよ、ここは彼女の厚意に最大限感謝しよう。今さらではあるが、精一杯気合いを入れて、この面接に臨むことにする。
エルドレッドにソファを勧められ腰かけたアシュレイは、背筋を伸ばして向かいに座る彼を見た。
「はじめまして、スターリングさま。アシュレイ・ウォルトンと申します。このたびは、貴重なお時間をいただきありがとうございます」
「こちらこそ、突然の申し出を受けていただき感謝する。それから、先日私の部下が、危ないところをきみに助けてもらったと聞いている。そちらについても、改めて礼を言わせていただきたい」
危ないところ、と言われても、まったく心当たりがない。
クラリッサに襲いかかった連中を倒したことは、完全によけいな手出しだった。アシュレイは、困って首を傾げた。
「スターリングさまにお礼を言われるようなことなど、わたしは何もしておりません」
エルドレッドが小さく笑みを浮かべる。何やら、面白がっているような雰囲気だ。
「いいや。きみはたしかに、あの屋敷で私の部下を救っている。本人も、もしきみがいなければ大怪我をしていたに違いないと申告していた。当時は、潜入捜査の最中だったため、きちんとした礼もできずに申し訳なかったと言っている。今度、改めて本人が挨拶するだろう」
(潜入捜査の最中……?)
アシュレイが男たちを成敗したとき、クラリッサは女王さまモードで鞭を振るっていた。まるで立場を隠していなかったあの時点での出来事を、『潜入捜査の最中』とは言わないだろう。
つまり、エルドレッドが言っているのは、クラリッサの件ではないということか。
しかし、そうなると――
(おぉ?)
アシュレイは、思わず目を瞠ってエルドレッドを見た。
「スターリングさま。もしや、あのお屋敷で『ディーン』と呼ばれていた従僕の方も、あなたの部下なのですか?」
エルドレッドが笑みを深める。
「その通りだ。あの従僕の本名は、ジェラルディーン・ファーナム。私の大切な部下であり、メイドチームの一員だ。彼女を救ってくれたこと、心から感謝する、ウォルトン嬢。もし今後、何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくれたまえ」
「………………はい?」
なんだか今、とても面妖なことを聞いた。
たしかにアシュレイは、窓から落ちてきた灰皿が、従僕姿の人物にぶつかりそうになったところに居合わせた。咄嗟にその人物の腕を引き、災難から逃れられたのを喜び合ったことを覚えている。
しかし、その相手はとんでもない美少年だった。美少年というのは、男性のことだ。
それにもかかわらず、エルドレッドが今、件の従僕を『彼女』と言ったということは……
状況を整理し終えて、アシュレイはおそるおそる彼に問う。
「あの……わたしが知っている『ディーン』という方は、とてもきれいな顔立ちをした、男性のように見えたのですが……」
「あぁ。本人もそれを自覚していて、ああいった際には従僕姿になるのだよ。なんでも、あの格好をしていると、若いメイドたちが進んで情報提供をしてくれるため、大変効率がいいそうだ」
爽やかな笑顔の美少年従僕は、乙女心を弄ぶ男装の麗人だった。
ちょっぴり世知辛い気分になったが、たしかに従僕姿のジェラルディーンにほほえみながら質問されたら、純情可憐な少女たちは進んで答えてくれそうだ。
使えるものは、なんでも利用する。その心意気は、立派なものだ。
つまり、エルドレッドの部隊のメイドチームに所属する三名は、超絶美女のクラリッサ、拳銃つかいのヘンリエッタ、男装の麗人ジェラルディーンということか。
「それに、ジェラルディーンはああ見えて、針仕事がとても得意でね。メイドチームが着る服にそれぞれの武器を仕込めるよう、その都度改造してくれるのだ」
「改造……ですか?」
首を傾げたアシュレイに、エルドレッドがうなずく。
「いずれわかる。――さて、ウォルトン嬢。そろそろ、本題に入らせてもらいたいのだが、その前にひとつ詫びねばならない。きみをこの屋敷に招くにあたり、私はきみの経歴や現在の状況について、一通り調べさせてもらった。不愉快なことだろうが、ご寛恕いただきたい」
エルドレッドが真摯に詫びる。たしかに、誰かに自分のことを調べてまわられるのは、あまり気持ちのいいことではない。
だが、スターリング商会ほどの組織のトップが、人員の勧誘に際して相手の身上調査をするのは当然だろう。
(ちょっとびっくりしましたけれど、そもそもわたしには、調べられて困るようなことなど何もありませんし。……あぁ、誇るものが何もないのも、バレバレということですか)
アシュレイは父が亡くなるまで、ウォルトン家に集う人々の世話ばかりをして生きてきた。そのため、世間知らずのアシュレイにできるのは掃除、洗濯、料理くらいのものである。
彼女には、クラリッサたちのようにエルドレッドの部下として役に立てるスキルが、何もない。
それを知られたということは、彼に雇ってもらうのは無理だろう。
しょんぼりと肩を落としたアシュレイに、エルドレッドが少し慌てた様子で言う。
「いや、この調査は我が商会が勧誘をする際に必ず行う、定型的なものだ。きみのプライベートについては、ほとんど関知していない」
ほとんど、という言葉と、『それでは何を知られたのだろう』ということが若干気になるが、アシュレイは気を取り直して彼を見た。
「了解しました。それはその、必要な調査なのですよね?」
「あ……あぁ。やはり安全管理上、最低限の情報収集は必要なのだ」
アシュレイの様子を見て、エルドレッドはほっとしたように息をつく。彼は思いのほか、気を遣うタイプのようだ。
それから彼は、まっすぐにアシュレイの目を見て言った。
「ひとつ聞かせてもらいたい。きみは、きみに武術を教えた師が何者なのか、知っているかね?」
「え? あ、はい。若い頃、ご夫婦で義勇軍に参加されたことがあるとうかがっています」
数十年前、この国が隣国との戦に明け暮れていた頃、民衆たちは自分たちの生活を守るべく、その手に武器を持って立ち上がった。彼らは、自らを『義勇軍』と称し、国境を越えてくる異国の兵士たちと勇敢に戦ったという。
アシュレイに武術のいろはを教えてくれたご老体は、そんな勇気ある者たちの一員だったのだ。
彼は大変お似合いの連れ合いとふたり、近所の子どもたちと遊びながら武術の心得を伝授する日々を過ごしている。とても羨ましい夫婦だ。
なるほど、とエルドレッドが苦笑する。
「私も、きみの経歴に関する調査報告を受けたときに、はじめて知ったのだがな……きみの師は、かつて私の父を指導したこともある、大変な強者だ。クラリッサの報告からして、きみは彼の教えを相当受けているのだろう」
その言葉に、アシュレイは戸惑う。
「よく……わかりません。わたしはただ、おじいさんの言う通りにしていただけなので」
幼い頃のアシュレイは、ひたすら『お父さまは、わたしが守るぞ、がんばるぞ』という心意気で、ご老体の指導についていった。
(……そういえば、今になって思えば、『壁に垂らした縄を、腕の力だけで上りきれ』や、『投げたナイフが百回同じところに当たるまでは、寝るでない』というのは、子どもには少々ハードな訓練だったような気がします)
過去の苦行を思い出し、遠くを見たい気分になったけれど、そのおかげで今のアシュレイがあるのである。改めて師に感謝を捧げていると、エルドレッドが言う。
「ウォルトン嬢。私はきみを育ててみたい」
アシュレイはハッと顔を上げる。すると、彼の琥珀色の瞳と視線が絡んだ。
「私は、ご覧の通りの若輩者だ。信用できる部下も、まだまだ少ない。もちろん、きみが望むならという条件付きではあるが――私はきみに、どんなことがあっても信じられる部下になってもらいたいと思っている」
心臓が、大きく音を立てる。掠れそうになる声で、アシュレイは問うた。
「わたしで、いいのですか? スターリングさま」
「きみは若く健康な体と、咄嗟のときに他人のために動ける心を持っている。それ以外に必要なものは、すべてこれから私が教えよう。――私は、きみが欲しい」
まっすぐな目と声に、胸の奥がざわめく。心臓がどきどきして、自分を見つめる彼の姿がなぜだか輝いて見える。
このトキメキに、アシュレイは覚えがあった。
これは――アレだ。
武術の師と仰ぐご老体が、血気盛んな若者を相手取り、見事に技を決めたときと同じ高揚。
その雄姿を見た近所の少年は、たしかこう叫んでいた。
――イカすぜ、じーさん! ちょーカッコイイー!
(スターリングさまのお年ですと、やっぱり『イカすぜ、お兄さん!』でいいのかしら? 兄さん? 兄ちゃん? いえ、もっとズバンといい感じの呼び方があったはず……っ)
悶々と悩んだアシュレイは、ふと脳裏に浮かんだ言葉に、思わず両手を打ち鳴らしそうになった。
(そうよ! ――イカすぜ、アニキ! ちょーカッコイイー! ああぁああ、スターリングさま! あなたさまのことを、今後は密かに心のアニキと呼ばせていただきます!)
アシュレイは、興奮して弾みそうになる声をどうにか抑え、口を開く。
「ご指導、よろしくお願いいたします」
深々と一礼すると、エルドレッドが満足げにうなずいた。
「こちらこそ、よろしく頼む。今後、私のことは、エルドレッドと呼ぶように。こちらもきみのことは、アシュレイと呼ぶ」
「了解しました、エルドレッドさま!」
心のアニキ認定をした雇い主に、アシュレイは気合いを入れていい子のお返事をする。
(この若さで、スターリング商会を率いる商魂のたくましさ。おそらく、ご本人もかなりの武闘派。――繊細な芸術家たちに入れこんだ挙句、さっさと天に召されてしまったお父さまとは、本当に真逆の方ですね! エルドレッドさま!)
父親の生活能力の低さで大変苦労してきたアシュレイは、エルドレッドに対し、大変高めの好感を抱いていた。彼の部下になれてとても嬉しい。
その上、これで明日の食事を心配する必要がなくなるのだ。寄る辺のない不安が払拭されて、アシュレイはなんだか泣きたい気分になった。
雇用関係を結ぶことに合意が取れたところで、エルドレッドは今後のことについて、いろいろと説明してくれた。
ここドリューウェット・コートは、スターリング家の本邸とは別に、エルドレッドが個人的に所有している屋敷なのだという。そして、使用人たちの住む西棟の一室を、アシュレイのために用意してくれるそうだ。
ちなみにこの屋敷には女性だけでなく、厨房で働く料理人や従僕などの男の使用人もいる。彼らは東棟で寝起きしているらしい。
そのほかにもこまごまとした事柄を一通り説明すると、彼は最後にアシュレイを見て言った。
「これから、きみには住みこみで働いてもらうことになる。あとで荷物は運ばせるが……何か、質問はあるかね?」
住みこみとは、ますますありがたい。必要なものは、当座の着替えと洗面道具といったところか。
しかし、これからしばらく実家の屋敷を空けるとなると、やはり大切なものは持ち出しておくべきだろう。
今のウォルトン家には、金目のものはほとんどない。
――否、ひとつしかない、というのが正しい。
ウォルトン子爵家の当主であることを示す、豪奢な金の指輪だ。爵位を与えられた際に国から授かったものである。
あればかりは、国の許可がなければ所有者の変更ができないため、売り払うことができなかった。
そこでふと、アシュレイは気になることを思い出し、エルドレッドに問う。
「エルドレッドさま。ひょっとして、メイドチームのみなさまは、異国の文字を使った手紙で秘密のやり取りをしていらっしゃるのでしょうか?」
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