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1巻
1-1
しおりを挟む第一章 メイドですが、何か?
――きゅっぽん!
とある貴族の屋敷の一室に、そんな大変小気味のいい音が響いた。
音を鳴らしたのは、メイド服姿の少女――アシュレイ・ウォルトン。彼女はたった今、手にしていた『武器』こと『水洗トイレのつまりを直すための道具』で、自分の敵とみなした中年男性の顔を吸い取ったところだ。
そして『武器』を一瞥すると、淡々とした声で言う。
「ご安心ください。これは、未使用品です」
その言葉ののち、タン! と高らかに足音を鳴らした。
彼女は『武器』をくるりと回しながら残る敵の方へ体の向きを変え、それを体の前で構え直す。ほっそりとした体つきの少女だが、その立ち姿は堂々として隙がない。
彼女の鮮やかなコバルトブルーの瞳は、凄絶な怒りを孕んでいる。目をわずかに細めて、アシュレイは口を開いた。
「……さて。あなたで最後になるわけですが、何か言い残すことはございますか?」
彼女の視線の先にいるのは、仕立てのいい服を着た中年の男だ。彼は腰を抜かして床に座りこみ、上ずった声を上げる。
「き……きさま……っこんなことをして、ただで済むと思って……!」
「こんなこと?」
アシュレイは、うっすらと笑って首を傾げる。
「おかしなことを言うものですね。成人男性五人がかりで、訪問先の屋敷に勤めるメイドの少女を手籠めにしようとするのは、犯罪行為でしょう。そんなゲス野郎どもに抵抗するのは、立派な正当防衛だと思いませんか?」
アシュレイは数カ月前からこの屋敷に勤める、掃除担当のメイドである。今日は屋敷の主人が貴族五人を招待して宴を開くと言い、彼女はなぜか客人の案内役に指名されたのだ。
そして屋敷を訪れた客人たちを宴会場に通した途端、彼らは襲いかかってきた。そこでブチ切れたアシュレイは、彼らの手から逃れ、掃除用具入れに入っていた『武器』を取り出し――今に至る。
彼女がすっと『武器』を突きつけると、男が顔を引きつらせて後ずさる。
男の周囲には、『武器』によってすでに制圧された者たちが転がっていた。気絶した彼らの顔の中心は、揃って円形に赤くなっている。
男はわずかでも『武器』から離れようとしつつ、再びわめく。
「おまえは、『太陽の歌姫』オーレリアの娘だろうが! メイドなどとは笑わせる。どうせ母親と同じで、男をたぶらかすのが好きなのだろう!? 大体、今夜の宴会前におまえと遊んでいいと言ったのは、この屋敷の主だぞ!」
「……なんだと?」
まだほのかに幼さの残るアシュレイの顔から、すっと表情が消える。
アシュレイは主にそんなことを言われていない。しかし男の話が本当であれば、主は彼女を客人の性的なお相手として宛てがったということになる。
男は下卑た笑みを浮かべて、言い募った。
「あぁ、そうさ。おまえは、出自を隠してこの屋敷へ勤めに入ったようだがな。ウォルトン子爵……甲斐性なしの父親が死んだのは、半年前だったか?」
アシュレイは、きゅっと唇を噛んだ。
そんな彼女を、男はねっとりとした目つきで見上げる。
「まったく、惜しいことだ。おまえの髪が金髪なら、まさに二十年前の『太陽の歌姫』オーレリアそのものだというのにな。だが、その瞳の色は、間違いない。我らが若い頃に焦がれたオーレリア・ブルーだ。この家の主人も、おまえの瞳を一目見てわかったと言っていたぞ!!」
瞳の色のせいで出自――娼婦だったオーレリアの娘だということがバレて、自分はこんな目に遭っているのだ。そう気がついて、アシュレイの目が据わる。
「黙れ!」
鋭く叫んだアシュレイは、手にしていた『武器』を男の顔面に叩きつけた。
ちょうど顔面に『武器』が吸いつき、ぱっこん! と軽やかな音が響く。
アシュレイは、はっと目を見開いたあと小さく息をつき、辛うじて震えを抑えた。そして、声を絞り出す。
「……武器を持った相手を前に、ペラペラとよけいなことをしゃべるな、阿呆」
彼女が『武器』を引くと、「きゅっぽん!」という音とともに、赤くなった男の顔が現れる。呆然とした様子の相手に、アシュレイは冷ややかに告げる。
「おまえたち中年貴族が、かつてわたしの母と遊んでいたことは知っている。だが、わたしはおまえたちのような下劣で貧弱な男どもと遊ぶほど、安くない。わたしと遊びたいのなら、せめてわたしと一対一の勝負で勝てるくらいになってから来い」
言い終えると同時に、アシュレイは全力で男の股間めがけて足を踏み下ろす。
「~~っ!!」
男は声もなく悶絶した。アシュレイとしても、大変不快な作業ではあったが、残りの男たちにも同様にとどめを刺す。
ひと仕事を終えたアシュレイは、それにしてもと考えこんだ。
(まさか雇い主本人が、わたしをこのゲス貴族どもに売っていたとは……)
来客の男たちが共謀して襲ってきただけなら、雇い主に罪はない。今回の件は済んだこととして、この屋敷に勤め続ける選択肢もあったかもしれない。
しかし、屋敷の主人が、客人の『遊び相手』としてアシュレイを提供するつもりだったのであれば、話は別である。
(わたしは、お掃除担当のメイドです。お客さまの夜のお相手は、メイドのお仕事には含まれません! まさか、お母さまが若い頃に貴族男性の愛人をしていたことが、こんな形で仇になるなんて……)
ぐっと、両手に力をこめる。
幼い頃に家を出ていった母オーレリアのことを、アシュレイはほとんど覚えていない。
聞いた話では、若い頃の母は、桁外れの美貌と素晴らしい話術、そして見事な歌声で、多くの貴族男性を虜にする高級娼婦だったらしい。
母に一目ぼれをした父は、周囲の反対を押し切って、遠縁の貴族と彼女を養子縁組させ、その上で正妻に迎えたそうだ。『娼婦を正妻に迎える』ことは、この国の貴族社会のタブーであるにもかかわらず、である。
そんな無茶をしたからか、ウォルトン子爵家は父の代で没落してしまった。そして父は、半年前に流行り病で亡くなった。
十七歳のアシュレイに残されたのは、住民がいない荒れ放題の領地と、ボロボロの屋敷のみ。借金こそないものの、生活していけるだけの資産もなかった。
ちなみに爵位は、継承者不在で宙に浮いている状態である。この国では爵位継承は男性にのみ許されており、直系が女性のみの場合はその婚姻関係にある男性に継承権が発生する。
いずれアシュレイが結婚すれば、爵位はその相手が継ぐことになる、というわけだ。
しかし、子爵家を立て直すためには莫大な金銭が必要となる。それを思えば、アシュレイが結婚相手を見つけられる可能性は限りなくゼロに近い。
そのため彼女は、父親が亡くなってから、この屋敷に掃除担当のメイドとして勤めていたのだ。
子爵家の令嬢ではあったが、裕福ではなく、父や居候していた者たちの面倒を見ていたため、家事は身についている。もちろん掃除もお手のものだ。
(順調にやれていると思っていたのに、まさかこんなことになるとは。小さな頃は、お父さまによく『おまえは、母さまにそっくりだ』なんて言われていたけれど……)
父と自分を捨てて出て行った母親に似ていると言われても、まったく嬉しくない。
しかも母は父と離縁したあと、しばらく元の稼業に戻っていたらしい。その後、大金持ちの妻だか愛人だかに収まって、新たな子どもを産んだという。
アシュレイにとってそんな母は、他人よりも遥かに遠く感じる人物だ。できることなら、一生関わり合いになりたくない。
とはいえ、アシュレイが母の娘であることはどうしようもない事実だ。
たしかに、肖像画の中でほほえむ母と自分の瞳は、同じ色をしていた。化粧を落とした母の顔はよく覚えていないが、母娘なのだから似ているかもしれない。
しかし、あちらは『太陽の歌姫』などという、こっぱずかしい二つ名をいただくほどの、見事な金髪。一方、アシュレイの髪は父譲りのオレンジがかった赤い髪。
それだけで、随分印象が違うはずだ。そもそも、母のように男性を魅了する妖艶な微笑を浮かべることなど、アシュレイにはひっくり返っても無理である。
(出自を隠しておけば、『太陽の歌姫』の娘だとバレないと思っていたのに……。この瞳の色が珍しいことは知っていましたが、まさかそんなに有名だなんて。隠さずにいたのは迂闊でした。なんにしても、バレてしまったものは仕方がありませんね)
……ぐだぐだとよけいなことを考えてしまったが、今はのんきに時間を浪費している場合ではない。この屋敷の主人が彼女に求めている仕事が、かつての母のように男性をもてなすことだというなら、ここで働き続けることはできない。アシュレイは、そんな仕事などまっぴらごめんである。一刻も早く、ここから出ていかねばなるまい。
アシュレイは、泡を吹いている男たちを放置したまま、部屋を出た。
更衣室で手早く着替えると、その足でメイド頭のもとへ向かい、一身上の都合により辞職する旨を伝える。
アシュレイにとってここは完全な敵地になった。最低限の筋を通せば、それ以上の義理を感じる必要はない。
メイド頭が目を丸くしている隙に頭を下げ、アシュレイはさっさと屋敷から出た。我ながら、なかなかの早業だと感心するスピードである。
アシュレイは外の空気を吸って、ようやく一息ついた。
(うぅー……。気持ち悪い、キモチワルイ、気持ち悪い)
今になって、『男たちに襲われかけた』という現実に、吐き気を覚える。
怒り、生理的嫌悪、屈辱――そんなもので胃の底が焼けついて、目眩がした。
けれど、護身術を身につけていたおかげで、こうして自分を守れたことに、ほっとする。
アシュレイに護身術を教えてくれたのは、子爵家のボロ屋敷の近所に住む、武術好きのご老体だった。彼は趣味で、近所の子どもたちに武術を教えていた。幼い頃の彼女は、金勘定に疎く頼りがいのない父を守るため、ご老体に弟子入りしたのである。
『お父さまのことは、わたしが守るぞ、がんばるぞ』という彼女の気迫は、ほかの子どもたちとは一線を画していたのだろう。ひとつ技を覚えるたび、『もっと先を』と教えを乞うアシュレイに、彼は愉快そうな顔で次々に技を授けてくれた。
そのおかげで、こうして身を守ることができたのだから、あのご老体にはいくら感謝してもしきれない。いつかお給料を貯める余裕ができたら、酒でも持って挨拶に行こう。
吐き気をこらえながら早足で大通りまで出ると、緑豊かな公園が見えた。
老人たちが憩いの場とし、大勢の子どもも遊ぶ明るい場所だ。彼らのほのぼのとした様子に、アシュレイはほっと息をつき、その大きな公園で少し休むことにした。
空いていたベンチに腰掛け、空を見上げる。-
(まぁ……うん。とりあえず、最後のお給料日が三日前だったことは、不幸中の幸いでした。でも、すぐにでも次のお仕事を探さなければ、あっという間に干からびてしまいます)
生活を考えれば、仕事探しは最重要事項である。
とはいえ、今回のような事態に遭遇したことを踏まえると、次の働き口を探す前に、いろいろと考えなければなるまい。あんな不愉快極まりない状況に再び陥るのは、心の底から御免被る。
――オーレリア・ブルーの瞳。
先ほど男が言っていたのは、母親譲りの緑がかったコバルトブルーの瞳のことだろう。この国では珍しい色で、アシュレイは自分と母親以外にこの瞳を持つ者を知らない。
生前の父も、アシュレイの瞳を見ては美しいと褒めそやしていた。もしかしたら、彼らの世代の貴族男性にとって、母と同じ色のアシュレイの瞳は、かなり思い入れが深いものなのかもしれない。
アシュレイは、うむ、とうなずいた。
(ちょっと鬱陶しいですけれど、色付きレンズの入った眼鏡でもかけて、瞳の色をごまかしてみましょうか)
眼鏡をかければ、瞳の色がわかりにくくなるだけでなく、顔の印象もだいぶ変わるはずだ。あとで、古道具屋を巡って探してみよう。
そうしてアシュレイが今後の方針を決めたとき、ふと視界の端で小さなものが奇妙な動きをしていることに気づいた。
一体なんだ、とそちらを見ると、公園の木の高い枝で、一匹の黒猫が震えている。
(えぇと……もしかして、『高いところに登ったはいいけれど、怖くなって下りられなくなった猫』というやつでしょうか。実物を見るのは、はじめてです)
アシュレイはなかなかレアな事態に遭遇したことに驚きながら、黒猫のいる木の下に行ってみた。
武術の修業着にしている父の古着を着ていれば、木に登るくらい造作もないことである。だが、今のアシュレイが着ているのは、外出着のワンピースだ。この姿で木に登ったら、スカートの中が見えてしまうだろう。
どうしたものかと思っていると、ほかの人々も黒猫の災難に気づいたらしく、続々と人が集まってくる。そこで子どもの高い声が響いた。
「あぁっ、ローニャ! あなた、どうしてそんなところにいるの!?」
どうやら、声の主の幼い少女が、木の上で震える黒猫の主人らしい。駆け寄ってきた彼女は、今にも泣き出しそうな顔である。
「ローニャ! 大丈夫だから、ゆっくり降りてきて!」
少女が懸命に声をかけるものの、黒猫は震えていて動かない。
それを見ていた友達らしき男の子たちが、次々に木に登ろうとする。しかし、どうにも上手くいかないようだ。
一度屋敷に帰って父の古着に着替えてこようか、とアシュレイが考えたときである。
「――きみ。すまないが、少しの間これを持っていてもらえないだろうか」
「え?」
突然、背後から声をかけられて、アシュレイは振り返る。
すると、そこにいたのは、背が高い青年だった。
まるで軍人のように姿勢がいいが、身につけているのは体にぴったりと合ったウエストコートと、トラウザーズ。胸元のポケットからは、しゃれたハンカチーフが見えている。その洒落っ気から見るに、軍人ではなさそうだ。
かといって、荒事とまったく無縁の人物ということもなさそうだ。彼の体躯は見事に引き締まっているし、佇まいにまったく隙がない。日頃からかなり体を鍛えているのが見て取れた。
少々目つきが鋭くて近寄りがたい強面だが、青年の顔のつくりそのものは、端整な美形である。
髪色は暗い茶色で、少し長めの前髪が自然にサイドに流されていた。そのおかげで、きれいな琥珀色の瞳がはっきり見える。
彼がアシュレイに差し出しているのは、見るからに高価そうな生地でできた上着だった。戸惑いながらも受け取ると、その重みがずしりと腕にのる。
「感謝する」
青年はアシュレイに短く告げ、木に近づいていく。
そして、恨めしげに枝を見上げる男の子たちに声をかけてから、見事なスピードで木に登りはじめた。大きな体躯が嘘のように、まるで重力を感じさせない動きだ。
アシュレイは、思わず感嘆の声を上げる。
「おぉー!」
(あれほど大きな体でも、あんなふうに上手に木に登ることができるんですね。遠い南の森の中には、普通の人間よりも遥かに大きなお猿さんがいるそうですが……。あの方なら、そのお猿さんたちとも一緒に木登りができるかもしれません)
周囲では、子どもたちが目を輝かせて青年を応援している。子どもたちにとって、彼はヒーローなのだろう。
しかし、大きな体の青年は、パニック状態の黒猫にとっては恐怖対象にほかならなかったらしい。黒猫はますます細い枝先に逃げて、全身の毛を逆立てている。
青年は太い枝の根元に片足で立ち、しばし悩んでいるようだった。そして、ゆっくり口を開くと、まん丸の毛玉状態の黒猫に声をかける。
「怖がらなくても大丈夫。ゆっくりこちらへおいで」
優しい声色に、黒猫はぴくりと耳を動かし、青年の方を見た。猫の毛が心なしかおさまっている気がする。
「ほら、おいで」
黒猫はおずおずと、彼のほうに足を動かす。そして次の瞬間、いきなり青年のもとへ駆け出して――
「おぉぉーー!」
子どもたちとアシュレイが歓声を上げると同時に、黒猫は青年の腕の中に飛び込んだ。
「はあぁぁぁー……!」
安堵の声が満ちる中、青年は身軽に木から下りてくる。
少女は笑顔で彼に駆け寄った。
「よかったぁ……! おじさん、ローニャを助けてくれて、ありがとう!」
礼儀正しいのは、大変結構なことではあるが――見たところ、彼は二十代半ば。『おじさん』呼ばわりするには、ちょっぴり早いお年頃ではなかろうか。
アシュレイは心配になったけれど、彼は気にする様子もなく、少女に黒猫を預ける。そして、片手を上げて彼女に応じてから、アシュレイのところへ戻ってきた。
「突然、すまなかった。ありがとう」
「いいえ、お疲れさまでした。木登り、お上手なんですね」
上着を返しながらほほえむアシュレイに、青年はうなずいた。
「お役に立てて何よりだった」
青年は、アシュレイから受け取った上着に腕を通すと、会釈してあっさり去っていく。
困っている人を自ら助け、それも驕らず、去り際もスマートとは……なんとかっこいいのだろう。
最後までねちねちと鬱陶しかった先ほどの中年男たちとは、正反対な御仁である。アシュレイは、そっとため息をつく。
(次の職場の上司は、あの方のような……と言っては贅沢すぎるでしょうが、せめて使用人の貞操を無断で客人に差し出すような方ではありませんように)
そんな祈りを捧げながら、アシュレイは仕事探しをはじめることにした。
それから、三日後。
アシュレイは、短期雇いの使用人として、郊外にある貴族の屋敷で働けることになった。できれば、長期雇用であるほうがありがたかったのだが、当面の生活のためにはわがままは言っていられない。
それに、短期でも昼夜に食事がつくので、とても嬉しい。何より、給料が日給で即日払いというのがありがたい。
仕事の内容は、とにかく臨機応変にメイド頭の指示に従うというもの。そのざっくりとした内容から、『人手が足りていないんです!』という切迫感が滲み出ている。
何はともあれ、アシュレイは新たな職場の初出勤の日を迎えた。
なんでもこの屋敷には、現在、異国からの客人が大勢逗留しているという。屋敷に入ると、いたるところでさまざまな国の言葉が飛び交っていた。
そんな雑多な空気は、アシュレイにとってなじみ深いものだ。
彼女の父、ウォルトン子爵は妻に出ていかれてから、芸術の世界に傾倒した。画家や作家、音楽家という芸術家のたまごたちに対し、乞われるままに援助していたのだ。その芸術家のたまごたちの中に、異国出身の者も大勢いたため、アシュレイは日常会話程度ならばいくつかの言語を理解できる。
もしかしたら、その旨を屋敷側に伝えていれば、もう少しいい条件で雇い入れてもらえたかもしれないが――それは、今さら言っても仕方があるまい。
そういうわけでアシュレイは、これから十日間、この郊外にある屋敷で働くことになった。
忙しく立ち働いていれば、いやなことなど忘れてしまえるものだ。それに、今のアシュレイは前の職場で遭ったような、不快な出来事に巻きこまれる心配は、ほとんどない。
なぜなら――
(ふ……ふふ、ふっふっふ。我ながら、実に見事な『近所のおばちゃん』スタイルです。この姿なら、誰もわたしが『太陽の歌姫』の娘だとは思わないでしょう!)
――今の彼女は、母親から譲り受けた諸々の外見要素を、大変イイ感じに隠せているのだ。
古道具屋で見つけてきた古風な色付き眼鏡に手袋。ひっつめた髪は、黒のリボンネットでまとめた。極めつきに、頬がふっくらと見えるよう、口に綿を含んでいる。
この姿の彼女を見て、十七歳のうら若き乙女だとわかる者は、そういないはずだ。
とはいえ、声の若さだけはごまかせない。そのためアシュレイは、同年代の少女たちとのおしゃべりに興じることもなく、指示されるまま黙々と仕事に励んでいた。
ここは、貴族の屋敷としてはさほど広い建物ではない。簡素ながら堅牢なつくりや、ところどころに施された古い意匠が、歴史を感じさせる。
そんな屋敷が、アシュレイの新しい職場となった。
そして短期の仕事期間が折り返し地点を過ぎ、だいぶ使用人仲間の顔と名前が一致するようになった、ある日の午後。
アシュレイは、厨房の外の水場で泥付き野菜を洗っていた。
そのとき一緒にいたのは、十代の少女たちが数名。どんなときでも、気の合う相手がいれば尽きることなくおしゃべりをするのが、少女というものだ。
ただ残念ながら、今のアシュレイは『近所のおばちゃん』モードなので、楽しいおしゃべりにまざることはできない。
仕方なく、いつも通り黙って仕事をしていると、不意に少女たちの声が高く弾んだ。
何事かと思えば、ちょうど厨房そばの倉庫の陰から、ひとりの従僕少年が出てくるところだった。少女たちが、頬を赤く染めてひそひそと言い合う。
「やっぱり、ディーンは素敵ねぇ。私、この間、古雑誌の束を運んでいたら、彼が『重そうですね』って、手伝ってくれたのよ」
「何よそれ、羨ましい!」
「ホント、そこらの男なんて、メじゃないわよね。あんなにカッコイイのに、全然調子に乗ったところがないじゃない? あぁ……あと五日でお別れなんて、寂しすぎる。ディーンがこのお屋敷で、ずっと働いてくれたらいいのに」
まったくだ、と少女たちはうなずき合う。
その話からして、従僕少年はディーンと呼ばれていて、アシュレイと同じ短期雇用で働いているようだ。見ると、たしかに少女たちが騒ぐ気持ちがよくわかる、とてもきれいな少年だった。
すらりと背が高く、明るい金髪が日に透けて美しく輝いている。穏やかな瞳の色は、モスグリーン。地味な従僕のお仕着せを着ているのがもったいないほど、華がある美少年だ。ぴんと背筋が伸びていて、歩き方も美麗だった。
今は『近所のおばちゃん』モードではあるが、アシュレイとて、年頃の少女である。
きれいな少年を見るのは、実に楽しい。これはいいものを見た、とほくほくしながら野菜洗いを終える。
きれいになった野菜たちを厨房に運ぶと、次に命じられたのは食料庫の在庫確認である。先ほど、業者がそこに大量の食材を運び入れたらしい。それがきちんと伝票通りに納品されているかを確かめるのだ。
アシュレイが確認を命じられたのは、厨房から一番離れた食料庫だった。そこには、主に根菜が収められている。
納品書を手に、端から根菜の数を確認していたとき、アシュレイは倉庫の隅で何か小さなものが揺れていることに気がついた。
近づいてみると、それは床とよく似た色の布きれだ。ゴミだろうか、と思って拾い上げると、裏側に貼られた紙に、異国の文字が書かれている。アシュレイも知っている文字だ。何気なくそれを読んだ彼女は、首を傾げた。
(……『やぁ、親愛なる同僚。今回は、この布があんまりイイ感じに床っぽかったから、保護色になるかなーと思って貼ってみました。どうだった? 少しは、見つけるのに苦労したかな? そうそう、ここの食事が足りないのは、最初からわかっていたことじゃないか。あとで、可愛いメイドさんたちから差し入れてもらったお菓子を分けてあげるから、それまで気合いでがんばりな。間違っても〝えーい面倒だ、全部まとめて爆破しちゃえ〟なんて、ヤケになったらダメだからね。J』……? えぇ……食事が足りなくて、爆破しちゃえ? なんでしょう、さっぱり意味がわかりません)
Jというのは、この手紙を書いた者のイニシャルだろう。女性が書くような繊細で美しい文字だが、語り口が妙に少年っぽい感じだ。いまいち、人物像を掴みにくい。
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