婚約破棄系悪役令嬢に転生したので、保身に走りました。

灯乃

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3巻

3-1

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   第一章 第二王子さまがお戻りです


 クリステル・ギーヴェ公爵令嬢。彼女は弱冠じゃっかん十七歳にして、すでに多くの人々から『レディのかがみ』と称賛されている。
 最高級の宝玉ほうぎょくもかくやというエメラルドグリーンの瞳、緩やかに波打つチェリーブロンドの髪、華やかな印象の美貌びぼうに、完璧なプロポーション。社交界における崇拝者は数知れず。
 そんな彼女は現在、スティルナ王国王立魔導学園の学生会室にいた。学園の一大イベントである学生交流会が終わって、今日でちょうど一週間だ。クリステルを含む学生会役員は、放課後この部屋に集まり、事後処理を進めていた。
 担当の書類仕事が一段落つき、クリステルはふぅと息をつく。顔を上げると、そこには手元の書類に目を通す金髪碧眼へきがんの美青年がいた。

(うーん……。まさに『書類を読んでいるだけでも絵になるイケメン』ですわね。文章にすると妙に陳腐ちんぷで笑えますけど、ウォルターさまのお姿が目の保養になるレベルでうるわしいのは、誰がなんと言おうと事実ですし)

 彼は、ここスティルナ王国王太子、ウォルター・アールマティ。この学園の学生会長で、クリステルの婚約者でもある。
 公爵令嬢であるクリステルは、幼い頃から、自分が将来結婚するのはこの国の王太子だと教えられていた。その言葉通り、一年半前にウォルターが立太子すると同時に、ふたりの婚約も成立したのだ。
 この婚約は政略的な目的で結ばれたものである、と国中の誰もが思っているだろう。クリステル自身、少し前まではそう考えていた。
 しかし、実際は違う。ウォルターは心からクリステルのことを望んで、彼女との婚約にこぎつけたのだという。その話を彼女が知ったのは、くだんの学生交流会のときである。
 それ以来、クリステルは、義務的なものだった彼との関係を、少しずつ変えていこうとしているところだ。

(まぁ……わたしはずっと『将来の旦那さまは、未来の国王陛下です』という意識でしたし、結婚に恋愛感情が絡むのは面倒だという考えだったのですもの。そのため、大変亀の歩みになりそうな予感はしているのですが)

 何しろクリステルは、幼い頃から厳しい王妃教育を受けてきたのである。自分の感情を抑えるすべをいやというほど学び、色恋いろこい沙汰ざたについてはむしろ忌避きひすべきものだと教わった。そのせいで、どうにもそういった方面への苦手意識が抜けない。
 その上、クリステルには『将来の旦那さま』であり、『未来の主君』であるウォルターにも断じて言えない秘密があった。
 つくづく荒唐無稽こうとうむけいな話だとは思うのだが、彼女にはいわゆる前世の記憶があるのだ。その記憶の中に、とある少女漫画のストーリーが存在する。
 それは、クリステルたちの通う学園を舞台に、ふわふわとした恋愛模様を描いた作品だった。その中で彼女は、いわゆる悪役令嬢――ヒロインの恋路を邪魔する当て馬として登場していたのだ。
 記憶がよみがえった当初、クリステルは自分の周囲で『物語』と同じことが起きるのではないか、と危惧きぐしていた。
 しかし、危険な精神支配能力を持つヒロインのマリアが学園を去ったためか、今の現実はクリステルが知る『物語』とかけ離れたものになっている。
 メインヒーローのウォルターは、マリアと砂糖菓子のような恋をするはずだった。しかし現状、クリステルに対してかなり重めの恋愛感情を抱いている。この国に次々と現れる人外生物たちも、『物語』の中で語られていた彼らとはまったく違う個性の持ち主だった。
 そのためクリステルは、今後自分が『物語』の悪役令嬢という役回りを演じる羽目はめになるかもしれない、という危機感は抱いていない。そのかわりに、というのもなんだか微妙だが、今の彼女はまったく別の危険を感じていた。

(お姿が美しいのは、もちろんですけれど……本当にもう、最近のウォルターさまのお声の、とんでもない破壊力ときたら! わたしの心臓の限界を、容赦なく試しにきているとしか思えません……!)

 ――クリステルは前世で、アニメと漫画をこよなく愛するオタク系女子高生だった。しかも、声優さま方の素晴らしい美声に全力でえたぎる、声フェチでもあったのだ。
 そんな彼女の身近な人々、もしくは人外生物たちは、びっくりするほどの美声揃いだった。クリステルにとって、彼らはとてつもないえの対象だ。ほんの少しでも気を抜けば、あっという間に腰砕けになってしまうだろう。
 もちろん、彼女とてそういった事態は避けるべく、彼らの美声への耐性をつける努力を続けている。
 しかし、クリステルへの恋情を隠さなくなったウォルターの、甘ったるい声ときたら――彼女の美声だましいをすさまじい威力で撃ち抜く、最終兵器に等しかった。

(わたしとしては、ウォルターさまのくださるお気持ちに恥じないよう、しっかり向き合いたいと思っておりますのに……。ウォルターさまったら、絶対ご自分の魅力みりょくをわかった上で、それを最大限に利用していらっしゃいますわよね。これだから、金髪碧眼へきがんのイケメン王子は……!)

 だが、そんなふうに気持ちを向けられるのが嬉しいとも思ってしまうから、乙女心は厄介だ。
 ウォルターは、クリステルが特別な存在だと――彼女のことが本当に大切なのだと、言葉や眼差まなざしで幾度となく伝えてくる。
 そんなとき、クリステルは心底思うのだ。
 彼を大切にしたい。そして――何があろうと、自分がかつてオタク系女子高生だったということを、彼に知られてはならない、と。
 そんなことを知られては、頭の具合を本気で心配されてしまう。もしかしたら、ウォルターの婚約者という立場さえあやうくなるかもしれない。それはいやだ。誇り高いギーヴェ公爵家の娘であるクリステルにとって、そんな恥さらしな真似は、断じて許容できるものではない。
 そういうわけで、クリステルはおのれの保身のためにも彼のためにも、この件については断固として秘匿ひとくすると心に誓っている。
 そんなことを考えていると、ウォルターがふと顔を上げた。そして彼はそれぞれの机で仕事をする後輩ふたりに声をかける。

「ロイ。ハワード。そろそろ、学生会の引き継ぎのことを考えなければならんのだが……。正直なところ、おまえたちのどちらを会長に指名すべきか、悩んでいてな。もし希望があるなら、考慮したいと思っている」

 そろそろ、次の代の学生会役員を選出し、引き継ぎをおこなわなければならない時期だ。
 スティルナ王国王立魔導学園は、学生たちの自立心を高めることを第一に考えている。よって、学生たちをべる学生会の権限は、極めて大きい。そのトップとなる学生会長ともなれば、滅多めったな人物にはまかせられない。
 この学園の学生会役員は、先代役員たちの指名によって任命される。もちろん、指名された側に拒否権はあるが、学生会役員を務めるというのは、大きなほまれだ。今まで、役員指名を蹴った学生はいない。
 順当にいけば、現学生会に所属している第二学年のふたり――ウォルターの側近候補でもあるロイ・エルロンドとハワード・レイスのどちらかになるだろう。
 童顔で小柄なロイと、大人びた容貌ようぼうで長身のハワード。
 彼らは互いに自分にないものを持っているという点で馬が合うのか、クリステルから見てもなかなかいいコンビである。どちらがウォルターの後を継いで学生会長になっても、互いに協力し合って、問題なく学生会を運営していけるはずだ。
 とはいえ、彼らのどちらが学生会長にふさわしいかというのは、両者の実力が拮抗きっこうしているだけに判断しがたいものがある。そのためウォルターは、本人たちに意見を求めたのだろう。だが、当のふたりは、きょとんと目を丸くした。

「え? 次の会長は、ハワードですよね?」

 さも当然のように、ロイが言う。一方ハワードは、その反対の意見を口にする。

「次期会長は、ロイに決まっているではありませんか」

 彼らの言葉に、ウォルターがなんとも言いがたい顔になって、口をつぐむ。
 そして後輩たちは、同時に顔を見合わせた。その見事なシンクロっぷりに、クリステルはほっこりする。仲よきことは、美しきかな。
 そんなロイとハワードに、苦笑まじりの声で言ったのは、ウォルターの同級生で側近候補筆頭のカークライル・フォークワースだ。

「それだけ息が合っていれば、オレたちが引退したあとも大丈夫だとは思うが……。ウォルの参考にはならないな」

 カークライルは、ウォルターのことをウォルと愛称で呼ぶ。非常に付き合いの長い彼らは、主君とその臣下であるのと同時に、親しい友人同士でもあった。
 一方、後輩たちにほほえましい視線を向けるのは、ネイト・ディケンズだ。学生会役員最後のひとりで、クリステルの幼馴染おさななじみでもある。彼は、少し考えるようにしてからうなずいた。

「まぁ、どちらが会長になっても問題はないだろう。どうせ、互いのフォローなしに務められるような役職ではないからな」

 この学園の学生会運営は、将来人の上に立つことが決まっている者たちにとって、がたい予行演習の場でもある。いずれウォルターの側近になるふたりにも、いい経験になるだろう。
 しかし、そんなふうに呑気のんきに構えていたクリステルたちとは裏腹に、第二学年のふたりはひどく慌てた様子だ。
 ロイが中腰になって言う。

「ちょっと、待ってください! そもそも、僕とハワードを比べて悩むところが理解できないんですけど!? 学生会長に必要な冷静さとか、落ち着きとか、いざというときの決断力とか! そういうのを持っているのは、どう見たってハワードじゃないですか!」

 そんな彼の言葉にかぶせるように、ハワードがいつもより少し速めの口調で言った。

「それは、違うと思います。学生会長には、ロイのように明るく大らかで、周囲の者たちが自然と集まってくるような者がなるべきでしょう。おれは、補佐役が適任です」

 ロイはすかさず、きりっとした顔でハワードを見る。

「いや! 学生会長には、絶対おまえのほうが向いてるから! この間の座学のテストだって、おまえがトップだったし!」
「それは、たまたまだ。戦闘実技のテストでは、おまえのほうが上だっただろう」

 淡々と返したハワードに、ロイがますます眉を吊り上げる。

「それこそ、たまたまだろー! 魔導剣では僕が勝ったかもしれないけど、近接戦闘ではおまえが首席だ!」
「総合ランキングでは、おまえがトップだった」

 ……どうしたものだろうか。
 クリステルは――おそらくウォルターたちも、頬が緩みそうになるのを懸命にこらえている。互いに互いの長所を褒めまくり、相手のほうが学生会長に向いていると主張し続ける後輩たちが、可愛すぎてツライ。
 そんなことを思いながら、ほっこりした気分で彼らを見守っていたクリステルだったが――次第に彼らの様子が変わってきた。ロイがわった目つきで言う。

「大体、僕のような小柄で童顔の可愛い系美少年がトップになったりしたら、周りからナメられて終わりになるに決まってるだろう!」
(あの……ロイさま?)

 ロイが突然、自慢のようでありながら、完全な自虐じぎゃくでしかないネタをぶちこんできた。クリステルたちが顔を引きつらせる中、ハワードが眉ひとつ動かさずに応じる。

「それを言うなら、おれみたいな愛想のない、他人とのコミュニケーション能力がいちじるしく欠如けつじょした人間など、周囲から遠巻きにされるだけで終わりだ」
(ひぃ……っ)

 ふたりの言い合いが、まさかの自虐じぎゃく方向にシフトした。一気に緊迫した空気の中、カークライルがつぶやく。

「あいつら……そんなに、ウォルの後任を務めるのがいやなのか……?」

 ネイトが、若干じゃっかん青ざめながら言う。

「自分のコンプレックスをさらけ出してまで、拒否の姿勢を示すとは……いっそ、見事と言うべきだろうか」
「ネイトさま、そこは感心するところではございませんわ」

 クリステルは、思わずツッコんだ。
 そんな先輩たちに構わず、後輩たちはなおも言い合う。

「大体、僕らはウォルター殿下の側近候補なんだから、学園のトップになったって大したメリットはないんだよ!」
「たしかに、そうだな。おれたちに求められている仕事は、たとえどんな無茶ぶりをしてくるあるじであろうとも、慌てず騒がず的確にフォローすることだ。学生会会長になったところで、そのスキルを磨くことはできない」

 幸いなことに、彼らはこれ以上自虐じぎゃくてきな方向へ進むのはやめたようだ。クリステルは、ほっと胸をで下ろした。
 そんな彼女の耳に、ウォルターのぼそぼそとした声が届く。

「……俺は、そんなに無茶ぶりをするあるじか?」

 ウォルターと同い年の三人は、同時に彼を振り返る。そして、そっと目をらした。ウォルターが黙りこむ。
 室内が大変微妙な空気になってしまったが、とりあえずロイとハワードがともに学生会会長の座にくことを、全力で拒否したがっているのは理解した。
 実際、彼らの気持ちはわからないでもない。ふたりの言う通り、ウォルターの側近候補にとって、『集団のトップに立って、すべての責任を取る』という立場は、経験値としてあまり魅力的みりょくてきではないのだ。
 それくらいなら、ほかの誰かをトップに立たせてその補佐を務めるほうが、よほど将来の役に立つ。かといって、今の学園には、ロイとハワード以上に学生会会長にふさわしい学生はいない。
 一体どうしたものか、という雰囲気の中、ウォルターがため息まじりに口を開く。

「まぁ、正式に指名をするのは夏の休暇明けのことだからな。それまでに、じっくり検討することにしようか」

 後輩たちは、各々おのおのの主張が受け入れられないことに不満げだったが、それ以上は何も言わなかった。
 クリステルは、ちらりとウォルターの横顔を見る。
 彼は知力、体力、時の運まで文句のつけようのない、立派な学生会長ぶりであった。それに加え、王太子という立場に恥じない言動が、学生たちの心をしっかりと掴んでいる。
 しかしそんな彼も、なんの努力もなく今に至るわけではない。
 彼は、国王の庶子だ。歴代王族の中でも群を抜いて高い魔力を持って生まれたが、彼を産んだ側室の女性は子爵家の出。ろくな後見もなく、王太子になるとは思われていなかった。
 もし彼が王座を望み、それを得るための努力をしなかったなら、今頃ほかの王子の誰かが立太子していただろう。そしてクリステルは、その誰かの婚約者となっていたかもしれない。
 今となってはそんなことは考えたくもないが、それは充分にありえた話である。
 中でも、かつて王宮内で最有力王太子候補だったのは、ジェレマイア・メイリーヴスという名の王子だ。王宮で大きな発言権を持つ公爵家出身の側室を母に持ち、ウォルターより半年ほどあとに生まれた弟である。学年は、自分たちの一つ下だ。
 本来ならば彼は今頃、このスティルナ王国王立魔導学園の第二学年に在籍していたはずだった。しかしジェレマイアは一年半ほど前、ウォルターの立太子がほぼ確実となった春から、隣国の学園に留学している。
 クリステルが最後にその姿を見たとき、彼はまだまだ幼さの残る少年だった。あのときのジェレマイアは、自分の置かれた状況の変化についていけず、ひたすら呆然としていたように思う。
 とはいえ、どんな勝負の世界でも、強い者が生き残って力を得、敗者は黙って舞台を降りるもの。
 隣国の学園がどんなところかは知らないが、のびのびと過ごせているなら、それはそれで幸せかもしれない――
 クリステルがそんなことを考えていたとき、突然、学生会室の扉が勢いよく開いた。

「やぁ、兄上! ご機嫌いかがですか? などという質問は無意味ですね! あなたのご機嫌がうるわしくなければ、あなたに蹴落とされた我々弟たちの立つ瀬がありません! 我々を踏み台に王太子の座にいた以上、常にご機嫌うるわしくあるのは、もはや兄上の義務なのです!」
(うわぁ……)

 クリステルは多大な厄介ごとの予感を覚え、げんなりする。
 ノックもせずに扉を開けた青年は、ツカツカと室内に入ってきた。学生会室へ突撃してくるという、大変非常識で無礼な振る舞いである。
 華やかな銅色の髪を持ち、ウォルターと同じあざやかなスカイブルーの瞳をしている彼は、この学園の制服に身を包んでいた。
 まったく、なんというタイミングなのだろうか。
 彼の名は、ジェレマイア・メイリーヴス。たった今クリステルが思い出していた、このスティルナ王国の二番目の王子さまだ。
 隣国にいるはずの彼が、なぜ今この学園に――しかも、自分たちと同じ制服を着ているのか。
 そんな一同の疑問を知ってか知らずか、ジェレマイアは歓迎ムードとは真逆の空気の中で、ひょいと肩をすくめてみせた。十六歳の少年がするには、気障きざな仕草だ。
 しかし、若干じゃっかんタレ目がちの派手な容貌ようぼうの彼には似合っているのが、なんだかムカつく。

「あぁ、そんなに怖い顔をなさらないでくださいよ。兄上。こちらだって、好きでこの国に戻ってきたわけではないんです」

 わざとらしく腕を組んで言うジェレマイアに、ウォルターがわずかに眉根を寄せた。

「……陛下の、ご意向か?」
「ご名答! さっすが、兄上!」

 ジェレマイアは両手を叩いて腹違いの兄をたたえる。しかし彼のスカイブルーの瞳はまるで笑っていない。少しクセのある髪を無造作にかき上げ、ジェレマイアは一段声を低めて言う。

「あなたと同じく陛下の血を引く者の中で、あなた――王太子殿下の『予備』に最もふさわしいのが、メイリーヴス公爵家出身の側室を母に持つ、オレだった。……そういうわけで、あなたにもしものことがあったときのために、きちんと正しい『予備』でいろ、というのが陛下からのご命令です。正式な編入は来週になりますが、一足先にご挨拶あいさつにまいりました」

 なるほど、とウォルターがうなずく。
 少し考える素振りをした彼は、仲間たちを見た。

が現れたようだな」

 その一言で、ウォルターの考えが一同に伝わる。
 ひとつ年下の少年たちは、無言で首肯を返す。ロイは笑いをこらえるような顔を、ハワードはどこかほっとした顔をしている。
 それを見たクリステルは、思わず同学年のカークライル、ネイトと視線を交わした。
 彼らは、苦笑をこらえようとして失敗したらしく、なんとも微妙な表情を浮かべている。

(えぇと……。こういうのを、『以前』の世界ではなんと言ったかしら?)

 前世で学んだ知識の中には、いろいろと興味深いものもある。特に、慣用句というのは実に面白い。

(『渡りに船』? 『棚から牡丹餅ぼたもち』? いいえ、もっとズバンと的確にこの状況を表す言葉があった気がするのですが)

 うんうんと頭を悩ませる彼女の前で、ウォルターが文句のつけようのないほど美しい笑みを浮かべ、ジェレマイアを見る。
 現在この国の王位継承権第二位にある青年は、半歩下がった。

「な……なんですか? 兄上」

 どうやら、警戒しているらしい。
 彼は『公爵家の血を引く王子さま』として、幼い頃から大切に育てられたお坊ちゃまだ。もちろん、王宮という魔窟まくつで生き抜くための教育は、きちんとほどこされているだろう。
 しかし、所詮しょせんはお坊ちゃま。
 ろくな後見を持たず、戦場で幻獣たちと命がけの戦いを重ねて王太子の座を勝ち取ったウォルターに比べて、きもわっていない。
 完全に腰が引けた様子の弟に、ウォルターはにこやかな笑みをキープしながら言った。

「そういうことなら、仕方がない。ジェレマイア。おまえを次期学生会会長に指名しようじゃないか」
「………………は?」

 ジェレマイアの目が、丸くなる。
 クリステルは、胸のうちでぽんと両手を打ち合わせた。この状況は、アレだ。『飛んで火にいる夏の虫』。
 楽しげに笑みを深めたウォルターは、硬直した弟に構わず、引き出しから書類を取り出した。学生会長の任命状だ。それの次期学生会長名の欄に、ウォルターはさらさらとジェレマイアの名を書く。


 書式に不備がないかどうかを確認し、彼は最後に任命日と署名を入れてペンを置いた。

「さて。これで来期の学生会長も決まったことだし、さっそく引き継ぎの準備をはじめられるな」

 クリステルは、すかさず両手の指先を合わせてうなずく。

「ええ、ウォルターさま。ちょうどいいときにジェレマイア殿下が帰っていらしてくださって、本当によかったですわ」

 うふふ、と笑って言った彼女の言葉に、カークライルが乗っかる。

「そうですね。さすがは陛下のご指示です。実に無駄がない」

 普段は無口なネイトまでが、生真面目に表情を引き締めて言う。

「まったくです。学生会経験者のロイとハワードが補佐にくことですし、きっとジェレマイア殿下も、つつがなく学生会長の任を果たすことができましょう」

 口々に言う最終学年のメンバーの様子から、ジェレマイアはようやく状況を察したらしい。自分はたった今、来期の学生会長職を押し付けられたところなのだ――と。
 彼は何度かぱくぱくと口を開閉したあと、声をひっくり返してわめいた。

「はぁあー!? ちょ、何をおっしゃってるんですか、兄上!? いくらなんでも、編入してきたばかりのオレが学園トップの学生会長になるだなんて、無茶です! 誰からも認められるはずがないじゃありませんか!」

 それは、ジェレマイアの言う通りである。
 代々、この学園の学生会長となれるのは、その実力のみならず、家柄、人望のすべてがその立場にふさわしいと認められた者だ。
 いくらジェレマイアがこの国の第二王子でも、学園における人望はほとんどないと言っていい。彼はここ一年半の間、ずっと隣国で過ごしていた。当然ながら、生徒たちの多くは彼の実力を知らないはずである。
 しかしそれは、ジェレマイアの生家であるメイリーヴス公爵家が、そうなるように望んだからだった。
 ジェレマイアを隣国に送ることで、メイリーヴス公爵家はウォルターに敵対する意思を完全に失ったと、明確に示したのだ。

(あのときメイリーヴス公爵家は、ジェレマイア殿下から人脈という力をぐ目的で、彼を国外に出したのですものね……。ウォルターさまへ恭順の姿勢を示すのに必要な措置だったとはいえ、お気の毒でしたわ)

 たしか、彼が向かったのは大陸最北端に位置するアールクヴィスト王国。
 スティルナから最も近い異国だが、の国とここスティルナをへだてているのは、危険な幻獣の跋扈ばっこする深い森である。こうしてジェレマイアが無事に帰ってきたということは、さぞ優秀な護衛がついていたのだろう。
 しかし、温室育ちの王子さまにとっては、行きも帰りも地獄のような道のりだったに違いない。王宮内部の安定を図るための政治的な判断によるものとはいえ、これはちょっとグレても仕方のないシチュエーションだと思う。


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