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1巻

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   プロローグ 親不孝な女子高生でした


「――クリステル? 久しぶりだね」

 剣と魔法の国スティルナ王国にある魔導学園。その食堂でひとりの少女が金髪碧眼きんぱつへきがんの王子さまに話しかけられた。
 少女はギーヴェ公爵令嬢、クリステル。
 ゆるやかに波打つ華やかなチェリーブロンドの髪に、最高級の宝玉ほうぎょくもかくやと輝くエメラルドグリーンの瞳。十七歳という年齢らしからぬパーフェクトなプロポーションに泣きぼくろが色っぽい、妖艶ようえんな雰囲気を持つ超絶美少女である。
 幼い頃から社交界の華と呼ばれ、崇拝者は数知れず。貴族の子女が多く通うこの学園でも、クリステルに憧れる者はたくさんいた。
 そして金髪碧眼きんぱつへきがんの王子さまは、この国の王太子であり、彼女の婚約者である。
 しかしクリステルは、この先とある少女に婚約者を奪われる、当て馬キャラなのだ。


 もちろん、彼女は今までそんなことを意識したことなどなかった。
 魔力持ちの人間が十五歳になると、必ず入学させられる魔導学園――この全寮制の学園に通いはじめて丸二年が経ったのだが、先日『貧乏だけどがんばりやさんな、庶民派男爵令嬢』であるマリアが入学してきた。
 そして彼女の姿を見た瞬間、頭に浮かんだ記憶。
 ――ようやく受験戦争が終わったぜヒャッハー! ずっと封印していた漫画もアニメもゲームも、思う存分堪能たんのうしてやらぁあああーっっ!!
 そう叫ぶ、の姿だ。
 いや、正確に言うと、それは前世のクリステルの姿のようだった。
 彼女は、大学の合格発表の帰り道、完全に浮かれまくり、スキップしながら書店とゲームショップを巡っていた。ずっと我慢していた漫画とゲームを買いあさり、それらを堪能たんのう。最後に、ツッコミどころ満載、なつかしの少女漫画を徹夜で読破。
 その少女漫画は、魔法を使える生徒が集まる、ヨーロッパ風の学園を舞台にしたものだ。
 ストーリーは、身分の低い男爵令嬢が周囲のイジメに耐えながら次々に現れるイケメンたちを最終的には味方につけ、その国の王子に愛されるというもの。小学生の頃に完結し、当時は純粋に『面白い……!』と感動した記憶がある。
 それをもう一度読みたくなって買ってきたのだ。けれど、思春期を越えてから読むと『うっひゃー、こんなことやっちゃう!? マジでやっちゃう!? ちょーウケるー!』と主人公の非常識な行動に、ツッコミを入れずにはいられなかった。そんな自分に、大人への第一歩を踏み出しつつあるのだなぁと、しみじみ感じ入ったものだ。
 そうしてらくに楽しく過ごして、三日間ほど経った頃だろうか。
 外の空気を吸いがてらコンビニに出かけたところ、連日の寝不足がたたって貧血を起こし転倒。道路の縁石えんせきに頭を打ってそのまま死亡した。
 前世の自分はそんな非常に親不孝な女子高校生だったのである。


 なぜ前世の記憶がよみがえったのか。それは、クリステルが前世で死ぬ間際まで読んでいた少女漫画の主人公『マリア』と、新入生の『マリア』がそっくりだったからだ。
 そして、ここがあの漫画通りの世界ならば、クリステルはヒロインをいじめる『悪役令嬢』、クリステル・ギーヴェに転生したことになる。
 それに気がついたとき、クリステルは思った。
 どうせなら、血湧ちわ肉躍にくおどる少年漫画か、壮大な冒険が待っているロールプレイングゲームの世界に転生したかった――と。
 その少女漫画は、矛盾だらけの設定を楽しむのにはいいが、まったくクリステルの趣味ではなかったのだ。
 記憶がよみがえったあと、クリステルは三日ほど学園の寮の自室でしくしくと泣きながら寝込んだ。
 かつての自分が胸ときめかせた少年漫画の続きも、ゲームの新作も、血湧ちわ肉躍にくおどるアニメのブルーレイディスクも、決して手に入れることは叶わない。ネタやえをネットを通して共有する同志もいない。お絵かきサイトで、美麗なファンイラストを見て「とうとい……!」と悶絶もんぜつすることもできないのだ。
 ……死ぬ直前の行動が行動だったからなのか、かなりかたよった記憶と未練ばかりがよみがえってしまった。
 しかし、三日間泣き続ければ、さすがに落ち着きもする。
 改めて考えてみれば、今こうして前世を思い出したのは、とても幸運なことかもしれない。
 婚約者であるスティルナ王国の王太子ウォルター・アールマティとクリステルは、今のところ非常に良好な関係だ。よっぽどのことがなければ、漫画の中でクリステルが辿たどったような悲惨ひさんまつを迎えるとは思えない。
 それに、普通に考えれば、なんの王妃教育も受けていない男爵令嬢が王太子の正妃になることなど、ありえない。
 だが、恋とは人に理性的な判断を失わせるものだと聞く。
 そのうえ、記憶にある漫画の中には『ご都合主義』という、すべての矛盾をなかったことにできる最強魔法があった。
 物語が進むにつれてその魔法があちこちで発動し、『悪役令嬢』であるクリステルはウォルターに見限られ――
 そこまで考えて、クリステルは、ベッドに横たえていた体を勢いよく起こした。

(……だから、まずそこがありえないのよ! ウォルターさまが無事に王太子になったのは、わたしと婚約することで、実質ギーヴェ公爵家を後見としているからだもの!)

 このスティルナ王国の正妃に、子はいない。
 そのため、側室の生んだ男子の中で最も年長のウォルターが、昨年立太子したのだ。
 王家に生まれた子の人生は、いかに大きな後見を得られるかで決まる。
 ウォルターを生んだ女性は子爵家の出であり、王太子の後見としてはあまりに弱かった。
 そして、クリステルの生家であるギーヴェ公爵家は、スティルナ王国最強の剣とも称される名門中の名門。もしウォルターがクリステルを手放し、王宮でなんの力も持たない男爵家の令嬢を正妃にするなどと言い出したら、彼は即座に王太子の座を失うだろう。
 だからこそ、彼は幼い頃から一度だってクリステルをないがしろにしたことはなかったし、もちろんほかの女性に目を向けることもなかった。
 漫画の中でヒロインは『ウォルターはずっと、窮屈きゅうくつな暮らしをしてたんだね……。可哀想』などと言っていたが、その程度の窮屈きゅうくつさなど王侯貴族であれば当たり前。
 一応は貴族の末席につらなる身でありながら、何、寝言をほざいているのだこのヒロイン、と心の底からツッコみたい。
 トップが孤独なのは、当然だ。
 その妻に――次期国王の正妃に求められるのは、夫を優しく甘やかすことではない。
 何があっても夫の背中を守る覚悟と、彼のく道にある障害を減らせるほどの権力だ。
 ギーヴェ公爵家の愛娘まなむすめであり、厳しい王妃教育をクリアしてきたクリステルには、王妃に求められるものすべてがそなわっている。
 しかし、脳内が恋愛色で染め上げられた『愛し合うふたりで精一杯力を尽くせば、どんな困難だって乗り越えられるよっ』という世間知らずのヒロインにあるのは、ふわふわとしたいやしのみ。
 ウォルターがあの漫画通りにヒロインを選び、勝手にクリステルとの婚約を破棄したなら、彼らの行く先に待っているのは『恋におぼれてすべてを捨てたバカップル』という結末だけだ。まず、国の統治者になどなれないだろう。
 クリステルのほうは、婚約破棄されたら、それはそれで生きるのには困らない。
 嫁のもらい手はなくなるだろうが、彼女はパーフェクトな『悪役令嬢』。
 頭脳も美貌も魔術師としての実力も、上流階級における人脈もかなりのものだ。
 文官、武官、フリーの魔術師。どの道を選んでも、食うに困ることはない。
 一方、ギーヴェ公爵家のメンツをつぶし、王家の顔にも泥を塗ったウォルターとヒロインはどうか。

(……まず、この国では生きていけないわよね)

 そんな危険な人物とかかわったところで、周囲から白い目で見られこそすれ、なんのメリットもありはしない。
 ヒロインの実家は、爵位と領地の没収はまぬかれないだろう。
 ウォルターは優秀な頭脳と、王太子としての誇りと、覚悟を持つ青年だ。ちょっと考えただけでも、クリステルを決して手放したりなどしないように思う。
 ヒロインとどれほど激しい恋に落ちたところで、ギーヴェ公爵家に頭を下げて側室に迎えるのがせいぜいのはずだ。
 クリステルは、幼い頃から『次代の王妃』として相応ふさわしくあるよう、厳しい教育をほどこされてきた。
 自分以外の女性が愛妾あいしょうとしてウォルターに仕えることになったとしても、「まぁ、そうですの」で対処できる自信がある。
 もし当代の正妃のように次代の国王となる子を得られなかったら、ほかの女性にその役割をゆだねるのは当たり前のことなのだ。
 だからといって、国王の子を生んだ愛妾あいしょうに好き勝手に振る舞われては、王宮内の秩序ちつじょが乱れてしまう。
 その点、当代正妃とウォルターの生母は、今のところまったく問題なくやっていると聞く。
 ウォルターを生んだ女性は少々体が弱く、滅多めったなことでは政治の表舞台に出てこない。
 クリステルは、昨年彼との婚約が調ととのったときに一度挨拶あいさつしただけだ。
 彼の生母はとても線の細い美しい女性で、クリステルにも、非常に礼儀正しく挨拶あいさつをしてくれた。
 王宮の女主人は正妃であり、自身は彼女に仕える身なのだという立場を、きちんとわきまえているのだろう。
 もし将来、ウォルターが側室を迎えることになったら、現正妃とウォルターの母に側室と上手くやっていくコツを伝授してもらおうと思ったほどだ。
 だから、ウォルターが無理にクリステルと別れなければいけない理由もそれほどない。
 クリステルは、次代の王妃。
 ずっとそのように育てられてきたし、それが自分の進むべき道なのだと理解している。もちろん、その誇りもある。

『目指せ、ギーヴェ公爵家の名に恥じない立派な王妃!』

 これが、クリステルのアイデンティティなのだ。
 政略目的で婚約を定められたウォルターには、今まで甘い感情を抱いたことはない。
 そんな感情を持ったりしたら、いずれ彼がほかの女性の手を取ったとき、つらい思いをするだけだと家庭教師から教わっている。
 これからウォルターがヒロインを選ぶなら、それは仕方のないことだ。
 ふたりの恋路を邪魔するつもりはないし、彼は非常に頭のいい青年である。
 一時の恋愛感情に流されるまま、ウォルターがおろかな選択をしないよう、さりげなくフォローしていけば問題ないだろう。
 けれど、ヒロインが王妃の座を望むなら話は別だ。
 自分以上の力と覚悟を手に入れてから出直してこい、と正面から堂々と言ってやる。
 それが、今までギーヴェ公爵家で次代の王妃たるべく育てられてきた、クリステルの義務だ。
 そこまで考えて、はたと気づく。

(わたしがこうして三日間も授業を休んでいるのに、ウォルターさまからなんのお見舞いもないなんて……変よ)

 今までの彼であれば、クリステルが体調を崩したときにはちょっとした見舞いの品を贈ってきたし、それには必ず彼女を気遣う手紙が添えられていた。
 今回に限ってそれらがないのは、彼がヒロインと出会ったことで、なんらかの変化があったからだろうか。

(それにしても、たったの三日で婚約者に対する最低限の礼儀さえなくしてしまうなんて)

 そう思ったところで、クリステルは息を呑んだ。
 彼女が今まで生きてきた、そしてこれから生きていく世界は、あの少女漫画とは違う。ヒロインとヒーローが結ばれてしまえば終わるような、都合のいい物語などではないはず。
 その先の未来がある、現実だ。
 クリステルは、震える指先でひたいに触れた。

(ちょっと、待って……。今の『現実』から、あの『物語』のような結末を迎えるには、どんな要素があったら可能なの?)

 かつて漫画というカタチで楽しんだストーリーは、ヒロインが見目も家柄もいいイケメンたちとガンガン恋愛エピソードを作りながら、素晴らしい鈍感力どんかんりょくを発揮して彼らの好意を総スルー……ラストは『みんな、あたしとウォルター王太子の恋を応援してくれてありがとう!』という、夢見る乙女の妄想を具現化ぐげんかしたようなものだった。
 彼女をとりまくイケメンたちは、ウォルターの側近候補としてこの学園に通っている者たちだ。
 彼らの中には、もちろん婚約者を持つ者がいる。
 ヒロインに婚約者の心を奪われ、泣き暮らす彼女たちの描写も、漫画の中にあった気がする。

(……ありえないわ。だってみなさん、ご自分たちの家同士の力関係をきちんと理解していらっしゃるし……。いえ、だからその『ありえない』を現実に起こすとしたら――)

 クリステルは、ぞくりと身を震わせた。

(まさか――精神干渉系の、魔術を発動させているの?)

 そもそも、ヒロインの性格からしておかしいのだ。十五歳にもなった貴族の娘が『純粋』だの『天真爛漫てんしんらんまん』だのという性格を維持しているなど、ありえない。
 政略結婚のこまとなれない貴族の子女は、自力で将来自分を養ってくれる結婚相手を捕まえなければいけない。
 彼女たちは物心ついたときから、男性を誘惑するすべを必死に学ぶ。
 ヒロインがそれを学ばずにいたなんて、あまりにも不自然すぎる。
 だが、もし彼女が今まで誰からも否定された経験がなく、ひたすら愛情のみに包まれて成長してきたなら。
 そんな仮定が頭に浮かんだ瞬間、クリステルは再び息を呑んだ。
 もしや彼女は、周囲を自分の都合のいいように動かす能力を、幼い頃から持っているのではないだろうか。無意識に望むことで、周りの人間が勝手に彼女の都合のいいように動くのだとしたら……
 今まで周囲の誰からも否定された経験がなく、無邪気に生きてきたというのもうなずける。
 他人の心をねじ曲げる精神干渉系の魔術は、戦時下の敵国の捕虜ほりょに対してしか使用を許されない禁術。
 そんなものを日常生活の中で発動させる者がいるなど、誰も想像しないだろう。ましてやここは学園内。教員の許可なく魔術を使えば厳罰とされる。その教員の目さえあざむいて魔術を使えるのだろうか。
 クリステルは、ぐっと両手を握りしめた。
 落ち着け、と何度も繰り返し自分に言い聞かせる。
 こうして自分がヒロインに対して否定的な思考をできているのだ。もしヒロインが本当に精神干渉系の魔術を発動させていたとしても、さほど強力なものではないだろう。
 何より、ヒロインの魔力保有量は平均レベル。
 王族や上級貴族と比べれば、微々びびたるものだ。

(……えぇと。とりあえず、〈状態異常解除〉でどうにかできるか、試してみようかしら。精神干渉系の魔術をブロックする術式を組み込めるものは――あぁ、この指輪がちょうどいいわね)

 自分が守るべき国がめちゃくちゃにされるかもしれないという危機を前に、黙ってはいられない。
 さくさくと準備を整え、制服に着替えてクリステルは校舎に向かった。


 クリステルが教室に着くと、ちょうどお昼時だった。
 三日間も休んでいたことを気遣うクラスメイトたちに、ウォルターの居場所を聞けば、食堂だろうと教えてくれる。

「あの……クリステルさま。その、とても申し上げにくいのですけれど、もしかしたら殿下のおそばに、大変わきまえのない女生徒がいるかもしれませんわ」

 クラスメイトの言葉に、クリステルはほっとした。
 やはりウォルターとヒロインは、随分ずいぶん親しくなっているようだ。しかしヒロインの力は周囲の人間すべてに干渉できるようなものではないらしい。
 にこりと笑って、礼を言う。

「お気遣いありがとうございます。もし殿下に捨てられたら、みなさんなぐさめてくださいね?」
「まぁ、クリステルさまったら」

 彼女もクラスメイトもそんなことはありえない、と理解しているからこその軽口だ。
 場の空気が、少しゆるむ。
 クリステルは、ひっそりと息をついた。

(このまま『物語』の通りに殿下が婚約を破棄するなんて言い出したら、最悪、国が沈んでしまうものね)

 王家とギーヴェ公爵家が決別したら、国がまっぷたつに割れて内乱が起きてもおかしくない。
 もしクリステルが予想したように、ヒロインが精神干渉系の魔法でウォルターたちをあやつっているのでなければ、これから彼女がしようとしていることは無駄かもしれない。
 ウォルターと側近候補の青年たちを正気に戻すことができなかったら、すぐに父と国王に連絡しよう。そう考えながら、クリステルは食堂に向かう。
 果たして、食堂の中でも王族とそれに近しい者にしか許されない席で、ウォルターとその側近候補たちはひとりの少女を囲んで楽しげに談笑していた。
 周囲の生徒たちがそろって困惑し、あるいは眉をひそめて彼らの様子を眺めている。
 許されない席に堂々と座る少女を、秩序ちつじょを重んじる生徒は苦々にがにがしく思っているのだろう。
 まっすぐにウォルターたちに近づいていくクリステルに気がつくと、周りの生徒はほっとしたような、気遣うような視線を彼女に向けてきた。
 この学園内で王太子の行動に正面から苦言をていすることができるのは、クリステルだけだ。

「ごきげんよう。ウォルターさま」

 クリステルは、穏やかに声をかけた。
 こちらから声をかけるまでウォルターがクリステルに気がつかないなんて、今までならばありえなかったことだ。
 彼はどこか不自然な動きで振り返ると、何度かまばたきしてからぼんやりと口を開く。

「――クリステル? 久しぶりだね」

 その声を聞いたとき、クリステルは『悪役令嬢』にあるまじきことに、鼻血を噴きそうになった。


(シ……、シスコンをこじらせたイケメン皇帝陛下と同じ声えぇえええーっっ!?)

 ――前世でセカンドシーズンまで一気見した、ロボット・学園・恋愛・異能という要素を矛盾なく融合させた神アニメ。その主人公である、高笑いさせたら世界一! の美青年皇帝キャラと同じ声が、ウォルターの口から発せられた。
 クリステルはその場に座りこんで床を叩きながら、力一杯悶絶もんぜつしそうになる。
 彼女の貴族としての誇りと義務感は、超絶美声を間近で聞いたオタク系女子高生のたぎりに、あっさり瞬殺された。

『超好みの美声で、自分の名前を呼んでもらう』

 これほど、オタク女子の煩悩ぼんのうを満たしてくれるものがあるだろうか。いや、あるまい。
 クリステルは、そっと両手を組み合わせてウォルターを見つめる。
 なにげに、その瞳はうるんでいた。

「もう一度……呼んで、いただけませんか? ウォルターさま」

 え、とウォルターがわずかに目をみはる。
 彼女の様子を見たウォルターの側近候補の面々や、周囲の学生たちもそろって息を呑んだ。
 クリステルは、幼い頃から厳しい王妃教育を受け続けてきた少女だ。
 彼女が常に浮かべている優雅なほほえみは、決してその本心を映すことのない完璧かんぺきよろい
 よろいを脱いだ、のままの彼女を見たことがある者は、おそらく家族だけだ。
 そのクリステルが白い肌をほんのりと上気させ、切なげにうるんだ瞳でひたとウォルターを見つめている。
 がれてならない熱を、隠すことなくたたえているエメラルドグリーンの瞳。
 その瞳の持ち主は『めちゃくちゃえる声優さんの声で名前呼び、カモーン! はよう!』としか考えていないのだが、客観的にはまさしく恋する乙女にしか見えないものであった。
『悪役令嬢』に相応ふさわしい妖艶ようえんな美貌の持ち主が、婚約者にはじめて見せた、ひたむきな好意。
 それはもう、すさまじい破壊力を持っていたようだ。

「……クリステル! 駄目! 俺以外の男がいるところで、そんな顔したら駄目だからああぁあああーっっ!!」

 至近距離でその直撃を喰らった婚約者が、即座に理性をすっ飛ばして彼女を抱きしめ、周囲の目から完全に隠そうとする。
 だが、自分がR18指定の入りそうなとろけた顔をしてたことなど、クリステルは知るよしもない。美声とはほど遠い裏返った声で名前を叫ばれ、彼女は我に返った。
 むっとしながら、ぐいぐいとウォルターの体を押し返す。

「離してくださいませ、ウォルターさま。こんな公共の場で、不躾ぶしつけにもほどがありますわ」

 キッとウォルターを見つめると、彼は困惑したような声で言った。

「クリステル……?」
(はう……っ)

 耳元でささやかれたかすれ声に、クリステルは再び煩悩ぼんのうモードに引き戻される。
 ぷるぷると震えながら、自分の顔や耳に熱が集まるのを感じた。
 オタク系女子高生を仕留めるのに、刃物はいらない。
 好みの声優のささやきひとつで、即座に陥落かんらくする。
 クリステルのひざがあっさりと役目を放棄した。腰砕けになった彼女の体を、ウォルターが慌てて支える。

「ク、クリステル……? 大丈夫?」
「ウォルターさまぁ……」

 公爵令嬢としてあるまじきおのれの失態に、クリステルはじわりと涙をにじませた。すがるようにウォルターを見上げる。
 うるうるの上目遣いであった。
 カーン!
 そのとき居合わせた人々は、ウォルターの理性と煩悩ぼんのうのフルコンタクト一本勝負開始の合図を聞いたという。
 ウォルターの顔から、完全に表情が消えて三秒後。
 ふふ、とうつろな笑みをこぼし、彼はゆっくりと深呼吸をした。
 そしておもむろに、低い声で呪文を唱える。

「――〈状態異常解除〉!」

 ウォルターのチートな魔力が全開で発動され、その波動がぶわりと学園中に広がる。一瞬にしてすべてがあるべき姿に正された。

(……あら?)

 クリステルは、おのれの中でえ上がったオタクだましいまで沈静化されていることに気づく。
 それにしてもなぜ彼は突然、すべての魔術の効果をキャンセルする〈状態異常解除〉を発動したのだろう。
 ……ひょっとして、クリステルのたぎりっぷりが、魔力暴走の前兆のように見えたのだろうか。
 魔力持ちの幼い子どもや、体調を崩した魔術師が起こすことのある魔力暴走。それは、自分の意思で制御しきれない魔力が暴走する現象で、周囲を無差別に破壊するため、本人も周囲も非常に危険だ。
 魔力暴走は、発動範囲内すべての魔力の流れを正常化する〈状態異常解除〉で防ぐことができる。
 クリステルは『王国最強の剣』であるギーヴェ公爵家の娘だ。
 彼女の魔力が暴走すれば、周囲への被害は甚大じんだいなものになる。
 その可能性を察知したウォルターが危機感を覚え、魔術を発動させたのだろうか。
 オタクだましいたぎりが、魔力暴走と同じ術式で抑えられたというのがなんとも微妙だ。


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