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90. 君に

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 緑が走っています。
 鮮やかな緑に、目が眩みそうになりながら林を抜けていきます。

「もう少しだから。良く掴まっていてね」

 リズムよく走るバシリスの背で慣れない横乗りでいる私に、エーリック殿下の声が頭の上から聞こえました。両手でしっかり鞍を握っているので、首だけ上げて顔を向けます。

「はい。あの、エーリック殿下。どちらに向かっているのですか?」

 艶やかな黒髪が流れて、普段見られない額や耳から顎のラインが露になって見えます。やっぱり、お綺麗な顔です。でも、以前のような可愛らしさより、今は何だかとっても男性っぽく見えます。

 エーリック殿下も、お会いしてから5年で随分お変りになったという事でしょう。




 この方は、王族で、第三王子で、複数の魔法識別者で。抱えているモノも、私よりずっと大きくて重いモノのはずです。

「あのさ、シュゼット。そんなに見られると恥ずかしいんだけど?」

 その声にハッと我に返りました。じっとエーリック殿下のお顔を見上げていました。

「ご、ごめんなさい。こんな風に殿下を見上げる事が無かったので……つい……」

 慌てて目を逸らす私に、殿下もああ、そうだね。と相槌を打って微笑んだようです。
 確かに出会ってから何回も乗馬はしましたが、一緒の背に乗るなんて事はありませんでした。私も馬には乗りますが、あくまでもご令嬢の嗜み程度です。

「そう言えば、一緒に乗るなんて初めてだね。君は馬にも乗れるし、バシリスとも仲が良かった。だからかな、バシリスも随分気を使って走っている感じだ」
「そうですか? ありがとうバシリス」

 私の声が聞こえたのか、バシリスは一声いななくと少し歩みを緩めました。

「さっきの君の質問。どこかに行くかと言うと、君に見せたいところがあるんだ」
「見せたいところ? ですか」
「そう。それで少し急ぎたいんだ。でね、シュゼット」

 エーリック殿下は私に見せたい場所があるようです。その場所は少し離れているようですわ。急ぎたいという事は、これからもっと早くバシリスを走らせるという事ですね。
 私は、姿勢を正すと鞍の持ち手をぎゅっと握り締めました。

「ああ、シュゼット? あの、出来ればこうして欲しいんだけど?」

 ギュッと握っていた右手を優しく外すと、ご自分の肩に掴まらせました。そしてそのままバシリスに合図をしました。

「うっきゃぁっ!?」

 いきなり走り出したので、体勢を崩した私をエーリック殿下がグイっと引き寄せました。おっと!? 胸にもたれ掛かるように抱き込まれましたよっ!!

「あ、あの、で、殿下? ご、ごめんなさい!」

 直ぐに離れようと踏ん張りますけど、片手はしっかりと私の背を押えています! 

「スピード上げるから、このままでいて? 出来れば、君の手が私の肩にしっかりと掴まってくれた方が安全で、手綱を持つのにも良いんだけど?」

 そう言って、エーッリク殿下は、ご自分の肩の辺りを目で差しました。うっ。これではまるで、わ、私が殿下に、だ、抱きついている様に見えませんか!?

「シュゼット?」

 微笑むエーリック殿下は、私の気持ちなど気にしていない様に爽やかです。なんだか、私は自分がとってもイヤらしい考えをしたようで、恥ずかしくなりました。エーリック殿下は、本当にご心配して下さっているのですもの。
 多分、私は真っ赤になっていたと思います。離していた手をおずおずと伸ばして、示された肩の辺りに掴まりました。

「うん。そうだね、それで良い。じゃあ、もう少し急ぐから、良く掴まってね?」

 背中に当てられた手が熱く感じられます。服越しに、エーリック殿下の心臓の音まで聞こえそうです。でもね、この音って私なんでしょうか。それともエーリック殿下のモノなのでしょうか? どちらにしても、凄く、速い。はやい、感じがします!!






「まあ!」

 バシリスの脚が止まったのは、青々と広がる草原を見下ろす場所でした。
 魔法科学省の敷地から暫く馬を走らせ、王都の外れにある丘の上に着いたのです。丘の上からは、王都から真っ直ぐ伸びる街道が見えます。午前中のこの時間は、馬車や馬、人々の往来も賑やかです。

 草原を渡る風が、豊かに生える草を靡かせて緑の波の様に見えます。



「海ですね。まるで、海の様に見えます……」

 本物の海の様に、次々に波が押し寄せて来ます。爽やかな風に若草の爽やかな香り。

 緑の波が、私の気持ちまで優しく撫でていくようです。

「絶景でしょ? 本当に海みたいだよね。今は緑の草原だけど、真夏には青い小さな花が咲くんだ。そうしたら、本当に海の様に見えるよ」

 紫色の目を細めて、遠くを見つめるエーリック殿下。

「私が、初めてこの風景を見たのがの時だった。ダリナスからの馬車の中から初めて見たんだ。コレールにもこんな長閑のどかで、美しい風景があるなんて感動したよ。海から遠く離れたコレールの地で、海が見られるなんてって」
「そうだったのですか」

 懐かしそうなエーリック殿下のお話に、私もその風景を想像します。小さな青い花が一面に広がる海のような風景……

「それから気になって、季節が変わる毎にここに来た。ここは、土も風も、空も陽の光も、海も感じる場所。ああ、それに人も生き物も感じるな」

 確かに、ここにいると自分がとってもちっぽけに感じます。





「……」

 頬を撫で、髪を靡かせる風。暖かい日差し。草の匂い。囀さえずる鳥達の愛らしい声。

 ぐちゃぐちゃになった気持ちと、頭の中を優しく優しく撫でてくれる……
 思わず私は空を見上げました。青い空は光に満ちて、雲一つなく広がっています。





「どうしたら良いのでしょう……」

 ぽろりと言葉が出ました。
 レイシル様の言った事も判ります。でも、でも、今のモヤモヤした気持ちのまま一体何が出来るのでしょうか。

 エーリック殿下は何も答えずに手綱を緩めると、ひらりとバシリスの背から降りました。そして、下から私に向かって両手を差し出します。

 私は差し出された手に自分の身体を預けて、抱き留められるようにエーリック殿下の傍に降り立ちました。
 並んで丘から遠くを見下ろします。バシリスの背にいた時より、草の匂いを感じて深呼吸をした時でした。

「あのね、シュゼット」

 隣のエーリック殿下を見上げます。

「この草原の遥か先の場所で、コレールとダリナスとの戦争があった。コレールは遂に王都近くまで攻め込まれてもう駄目かというところ迄追い込まれたんだ」

 静かに話される言葉に、じっと耳を傾けます。

「ダリナスが優勢だったとは言え、ダリナスの王太子は瀕死の重傷を負って、生死の境を彷徨っていた。両国ともすでに満身創痍。これ以上の犠牲は、どちらにも大きな痛手になる。その時に、第三国の襲撃があったんだ」

 ああ、聞いた事があります。三国間戦争の事です。確か、100年程前に起きた戦争で、結果的にその戦がコレールとダリナスの友好の礎になったという。

「第三国は、ダリナスとコレールに奇襲を掛けた。その攻撃は、大火事となってコレールの王都に迫り、ダリナス軍の駐屯地まで覆う程だった」

 コレールの国史では第三国の参戦に両国の利害が一致し、共闘する事によって第三国を退けたと伝えられています。敵の敵は味方という事でしょうか。確か、大きな戦だったと思いますが余り詳しくは記されていないですし、大火事があったなんて聞いた事もありません。

「その戦で、大火事を鎮火させて第三国を退け、ダリナスの王太子の命を救ったのが……」









「先代の、光の識別者なのですね……?」

 ここまでお話を聞いていれば、何となく判りました。

「君が眠っていた時に、光の識別者についての文献を調べまくった。その中にあった史実だ。戦の鎮静に光の識別者が力を使ったと記されていた。私も初めて知ったよ。ダリナスでもそんな風に聞いていなかったから」

 エーリック殿下が草の上に腰を下ろし上着を脱ぐと、草の上に広げて私に座る様に促します。
 イヤイヤ! そんな、恐れ多い!! 滅相も無い! そう思って首を振ると、グイっと手を引っ張られて上着の上に座らせられました! 

 殿下は満足そうに微笑むと、再び口を開きました。

「光の識別者であった彼女は、ああ、女性だったのだけど、魔力のすべてを使って癒しの魔法術を行使したんだ。その範囲は広大で、対象とした人数も多かった。そして、魔法術の効果は絶大で、その恩恵は奇跡の様だったと」

 それが真実なら、どうして史実はその通りに伝えられていないのでしょう。

「エーリック殿下……その後、光の識別者はどうされたのですか?」

 私はふと疑問を口にしました。三国間戦争があったのは100年前、先代の光の識別者が亡くなったのも100年前です。

「彼女は……。光の識別者は……」
「……亡くなった……のですね?」

 言い難そうに唇を歪めた殿下の代わりに、私が小さな声で言いました。何となくですが、そんな感じがしました。そんな大きな魔力を使う代償なんて、考えられることは一つですもの。

「……そう。力尽きた彼女は静かに息を引き取ったという。彼女の奇跡にダリナスも最上級の敬意を見せた。それからは、史実にある通り、コレールとの不可侵条約の締結と、両国の王族の婚姻を以て友好を深めた。彼女の献身によって両国は救われたという事だ」
「……」

 そんな偉大な先人がいたなんて、知りませんでした。

「私が君にこの話をしたのは、君にそうなって欲しいと思って言っている訳では無いよ?」
「えっ?」

 エーリック殿下は、私が光の識別者になることを望まれているのでは無いのですか? だから、先代の事を教えてくれたのでは無いのですか?

「君が何者であろうと、君が何者になろうと、私の気持ちは変わらない。ただ、君が光の識別者について知らずに否定するのはダメだと思った。それだけは、判って欲しい。出来れば、君の望む未来に、私も関わって行きたいけど……まあ、それはアイツが目覚めてからでイイか……」

 そう言ってエーリック殿下は立ち上がりました。

「覚えておいて? 君の事を想っている人間は沢山いるんだ。君が君でいる事を皆望んでいるんだよ? 多分、あの、レイシル様もね?」

 私はくすっと笑いながら、手を引いて立たせて貰うと、眼下に広がる草原に眼を向けました。






「その時の魔法の影響で、未だにここは草原のままなんだって。彼女は、何を思ってこの草原を作ったんだろうね?……」



 波の様に寄せる草原。
 海のように見える花の時期。
 何時までも見ていられる穏やかな風景。
 慈愛の満ちた空間。






「さあ、行こうか。セドリックも待っているよ?」

 バシリスの背から、声を掛けられます。
 エーリック殿下が、手を差し伸べて微笑んでいます。

「はい!」

 私は笑顔でその手を掴むと、ふわりと馬上に引き上げられました。

「これって、やっぱり役得かな?」
「えっ?」

 頭の上から呟かれた言葉が聞き取れずにいると、何でもないよ。とにっこり微笑むエーリック殿下がいました。はて?


 さあ、セドリック様の待つ医術院に戻りましょう。

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