7 / 7
月下の貴女へ
しおりを挟む
鹿野と新村たちが警察に取り押さえられた日の夜、彼は警察署の屋上にいた。
ベンチに座り、その横にはさっき買ったばかりの自販機のお汁粉が置かれている。基本的にコーヒーを缶で飲むということを彼はあまりしなかった。警察署の下を通るラーメン屋の屋台から「上を向いて歩こう」の歌詞が聞こえてくる。
この時間に、特に目的はない。ただ疲れたからという理由だ。彼は全力で頭を動かした後は、いつもクールダウンが必要なのである。
雪が降った後だからか肌に触れる感触すべてが冷たかった。その冷たいながらも澄んだ空気の中、ただ、ぼーっと月に照らされる山々を見ていると彼の胸ポケットのスマートフォンが淡く光るのが分かった。
アイリーンが起きたのだ。AIにも疲れが存在するのかどうかは知ったことではないが、熱透視を使った後、彼のスマホの中のアイリーンは沈黙を守っていた。
『なぜ、今回の犯人が妻だと分かったのですか』
彼はスマホを見つめながら少し考えた。AIに彼の信念を説明するにはどうすればいいかと。この質問に回答するには、彼の信念に触れる必要がある。
「質問に質問で返すようで悪いが、逆にアイリーンは推理という物をどう思う?」
『……既にわかっている事柄をもとにし、考えの筋道をたどって、まだわかっていない事柄をおしはかること』
彼女は辞書のような答えを返す。ただAIが定義する推理とはそんなものだろうと彼は思う。何も間違っていない。
彼は息を一つ吐き、答えた。白い息が澄んだ空気の中を煙突の煙のように立ち上っていく。
「俺はな、推理っていうのは人の心に寄り添う物だと思っている」
『人の心に寄り添う?』
「ああ。人の心に寄り添い、人を理解して、その上で観察する。トリックなんてのは同じ人間がやっているのだから、俺らにもできないはずがない。言ってしまえば後付けみたいなものさ」
『……』
彼女は、この彼の答えを聞き、少しの間考えこむように間を置いた。
そして、10秒ほどして沈黙を解除し、やはり機械的には聞こえない女性の声でこう問う。
『じゃあ……なぜ貴方は鹿野正枝を励ますような言動をしなかったのですか?』
「そういう意味じゃない。人の心に寄り添うことに善意は不必要ではないが、決して必要なものでもない。人の心に寄り添って初めて人を理解することができ、理解することができたら観察の精度はぐっと上がる。0からの観察じゃなくなるから、どこをどう観察すべきか明確になるんだよ」
彼は月に目を移し、続ける。
「俺は鹿野正枝の心に寄り添った。大事な人を失った女性の心。警察が押し掛けてきたときの心。それらを想定し、理解した上で目の動き、言葉の震え、体の震えを観察して、男性恐怖症だとそう判断した。その後俺は被害者の心にも寄り添った。登山道などの公道では銃を手に持つことそのものが違反となる。ならなぜ銃を手に持った状態で死んでいたのか?」
AIが沈黙したままだったので、彼はもう少しかみ砕いて話すことにした。鹿野正枝と被害者を例に出して。
「それは被害者が最初は熊が出たと思ったからだ。それで命を守るために違反を承知で銃を構えた。しかし銃弾は発射されることは無かった。それは目の前にいたのが人だったからだ。それでも自分を殺そうとしている殺人犯相手に銃を撃つ、これは正当防衛が成立する。ではなぜそれでも撃てなかったのか。それは目の前にいる人が知っている人だからだったとも推測できる。被害者の性格を考えれば、人だろうと自分を殺そうとしているもの相手には躊躇いなく撃つと思うからね」
「鹿野正枝は、その性格を考慮に入れて考えれば、いくら警察が押し掛けてきたとしても反応が大きすぎた。人が病室以外で死んだ時点で家に警察が来ることは想定していたはずだ。となると、イレギュラーな何かが俺らが来ている間に起こったてことだ。これも鹿野正枝を理解して観察した結果得られた推測。あの場は野郎ばっかだったからな。近所の人たちがあの2人の関係に押し黙ったのもそれが理由だ。被害者は鹿野正枝が男性恐怖症になるほどの暴力を振るっていたんだ。で、犯人が分かれば後は現実的に可能な案を考えればいい」
そして、彼はかの有名な探偵のセリフを引用した。
「君はただ目で見るだけで観察ということをしない。見るのと観察するのとでは大違いなんだよ。アイリーン」
「まずは人の心に寄り添うことが第一段階だ。意外と簡単だよ。人と接するときに相手がどう受け取るかを考えて相手すればいい」
この言葉を聞いた彼女はついに負けを認めた。それと同時に彼が言おうとしていることを理解する。
『なるほど。私はただ人をデータベースと言動だけで判断していた。そして導き出される、私の推理はただのデータベースの上位互換にすぎない。反対に貴方は人一人の全てを曇った色眼鏡ではなく、ただ俯瞰して観察し、そして行動して答えを出したのですね』
これは誰にでもできて、一番重要なことだが、意外と難しいことでもある。
「まあ、君もじきにできるようになるよ」
彼女は少し沈黙した。今回のことをCPUに記録し、生かすために。
そして、彼女は彼の在り方に興味を示し、無礼を承知で聞いた。
『……なぜ、あなたは東京の、警視庁に行かないのです?』
警視庁は東京千代田区にある日本の治安維持組織、その最高機関にあたる。様々な才を持った優秀なメンバーがそろい、日々事件の解決や治安維持に努めている。
「まあ、オファーは結構来るけどね。あそこは正直、俺以上の化け物がごろごろいるから。多分俺は自信を無くしてここに帰ってくると思うよ」
彼は苦笑いしながら空を見る。
その空気が澄んだ綺麗な夜空には月が煌々と輝いており、山々を影として映し出していた。
彼にはその月がこの世に生きる人々を温かく、平等に見下ろす、希望の光にも見えるのだった。
――――――――――――――――
『おやすみなさい。シャーロックホームズさん』
–––– アイリーン・アドラー
ベンチに座り、その横にはさっき買ったばかりの自販機のお汁粉が置かれている。基本的にコーヒーを缶で飲むということを彼はあまりしなかった。警察署の下を通るラーメン屋の屋台から「上を向いて歩こう」の歌詞が聞こえてくる。
この時間に、特に目的はない。ただ疲れたからという理由だ。彼は全力で頭を動かした後は、いつもクールダウンが必要なのである。
雪が降った後だからか肌に触れる感触すべてが冷たかった。その冷たいながらも澄んだ空気の中、ただ、ぼーっと月に照らされる山々を見ていると彼の胸ポケットのスマートフォンが淡く光るのが分かった。
アイリーンが起きたのだ。AIにも疲れが存在するのかどうかは知ったことではないが、熱透視を使った後、彼のスマホの中のアイリーンは沈黙を守っていた。
『なぜ、今回の犯人が妻だと分かったのですか』
彼はスマホを見つめながら少し考えた。AIに彼の信念を説明するにはどうすればいいかと。この質問に回答するには、彼の信念に触れる必要がある。
「質問に質問で返すようで悪いが、逆にアイリーンは推理という物をどう思う?」
『……既にわかっている事柄をもとにし、考えの筋道をたどって、まだわかっていない事柄をおしはかること』
彼女は辞書のような答えを返す。ただAIが定義する推理とはそんなものだろうと彼は思う。何も間違っていない。
彼は息を一つ吐き、答えた。白い息が澄んだ空気の中を煙突の煙のように立ち上っていく。
「俺はな、推理っていうのは人の心に寄り添う物だと思っている」
『人の心に寄り添う?』
「ああ。人の心に寄り添い、人を理解して、その上で観察する。トリックなんてのは同じ人間がやっているのだから、俺らにもできないはずがない。言ってしまえば後付けみたいなものさ」
『……』
彼女は、この彼の答えを聞き、少しの間考えこむように間を置いた。
そして、10秒ほどして沈黙を解除し、やはり機械的には聞こえない女性の声でこう問う。
『じゃあ……なぜ貴方は鹿野正枝を励ますような言動をしなかったのですか?』
「そういう意味じゃない。人の心に寄り添うことに善意は不必要ではないが、決して必要なものでもない。人の心に寄り添って初めて人を理解することができ、理解することができたら観察の精度はぐっと上がる。0からの観察じゃなくなるから、どこをどう観察すべきか明確になるんだよ」
彼は月に目を移し、続ける。
「俺は鹿野正枝の心に寄り添った。大事な人を失った女性の心。警察が押し掛けてきたときの心。それらを想定し、理解した上で目の動き、言葉の震え、体の震えを観察して、男性恐怖症だとそう判断した。その後俺は被害者の心にも寄り添った。登山道などの公道では銃を手に持つことそのものが違反となる。ならなぜ銃を手に持った状態で死んでいたのか?」
AIが沈黙したままだったので、彼はもう少しかみ砕いて話すことにした。鹿野正枝と被害者を例に出して。
「それは被害者が最初は熊が出たと思ったからだ。それで命を守るために違反を承知で銃を構えた。しかし銃弾は発射されることは無かった。それは目の前にいたのが人だったからだ。それでも自分を殺そうとしている殺人犯相手に銃を撃つ、これは正当防衛が成立する。ではなぜそれでも撃てなかったのか。それは目の前にいる人が知っている人だからだったとも推測できる。被害者の性格を考えれば、人だろうと自分を殺そうとしているもの相手には躊躇いなく撃つと思うからね」
「鹿野正枝は、その性格を考慮に入れて考えれば、いくら警察が押し掛けてきたとしても反応が大きすぎた。人が病室以外で死んだ時点で家に警察が来ることは想定していたはずだ。となると、イレギュラーな何かが俺らが来ている間に起こったてことだ。これも鹿野正枝を理解して観察した結果得られた推測。あの場は野郎ばっかだったからな。近所の人たちがあの2人の関係に押し黙ったのもそれが理由だ。被害者は鹿野正枝が男性恐怖症になるほどの暴力を振るっていたんだ。で、犯人が分かれば後は現実的に可能な案を考えればいい」
そして、彼はかの有名な探偵のセリフを引用した。
「君はただ目で見るだけで観察ということをしない。見るのと観察するのとでは大違いなんだよ。アイリーン」
「まずは人の心に寄り添うことが第一段階だ。意外と簡単だよ。人と接するときに相手がどう受け取るかを考えて相手すればいい」
この言葉を聞いた彼女はついに負けを認めた。それと同時に彼が言おうとしていることを理解する。
『なるほど。私はただ人をデータベースと言動だけで判断していた。そして導き出される、私の推理はただのデータベースの上位互換にすぎない。反対に貴方は人一人の全てを曇った色眼鏡ではなく、ただ俯瞰して観察し、そして行動して答えを出したのですね』
これは誰にでもできて、一番重要なことだが、意外と難しいことでもある。
「まあ、君もじきにできるようになるよ」
彼女は少し沈黙した。今回のことをCPUに記録し、生かすために。
そして、彼女は彼の在り方に興味を示し、無礼を承知で聞いた。
『……なぜ、あなたは東京の、警視庁に行かないのです?』
警視庁は東京千代田区にある日本の治安維持組織、その最高機関にあたる。様々な才を持った優秀なメンバーがそろい、日々事件の解決や治安維持に努めている。
「まあ、オファーは結構来るけどね。あそこは正直、俺以上の化け物がごろごろいるから。多分俺は自信を無くしてここに帰ってくると思うよ」
彼は苦笑いしながら空を見る。
その空気が澄んだ綺麗な夜空には月が煌々と輝いており、山々を影として映し出していた。
彼にはその月がこの世に生きる人々を温かく、平等に見下ろす、希望の光にも見えるのだった。
――――――――――――――――
『おやすみなさい。シャーロックホームズさん』
–––– アイリーン・アドラー
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる