半月の探偵

山田湖

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第三夜 伝説の贋作

獣と踊らされる人形

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 息が切れる、視界が真っ白になる、足が痛む、息が切れる、視界が真っ白になる……この循環を繰り返しながら白谷透はパトカーのある地下駐車場まで下りていた。エレベーターを待つということは思い浮かばなかった。近くに地下に降りることができる階段があったから走って下っている、それだけ。だが白谷の人生の中でここまで全力で走ったことはないのではなかろうか。

「そんなはずはない、まさか……ははっ」乾いた笑いが漏れる。脳が精神の均衡を保つために出したものだったが、やはり去来する不安には勝てなかった。

――切り裂きジャック、その模倣犯による最後の殺人事件は今まで犯行の舞台となっていた新宿ではなく、そこから総武線で3駅も離れた中野で起きた。
 そして、その場所は……白谷と白谷の姉である怜理、そしてその夫の住む一軒家。これが意味すること、それは姉か宗吾がこの惨劇に巻き込まれたことだった。

「多分、死体を家に……捨てたんだっ!そうだ……そうに違いない」
 その可能性は限りなく薄い。だがこの時の白谷は本気でこう思いこんでいた。
 白谷はシートベルトをし、パトランプを点灯、エンジンをかけ、アクセルを踏んだ。視界の隅に駐車場に到着した大津たちが何か言っているのが分かるが気に掛ける暇はない。パトカーは法定速度を超えたスピードで加速していった。



「おいおい、途中で事故起こすんじゃないだろうな」
 唯我がエレベーターに乗りながらながら、業平に言う。パトカーのタイヤが駐車場をこする音が閉鎖された環境にあるエレベーターまで聞こえてきた。
「まあ、サイレンの音聞こえたしある程度は大丈夫じゃないか?」
「あの刑事、すごい慌てようだったな」
「当たり前だろっ!俺だって家族が事件に巻き込まれたって分かったらこうなると思う」
 怒る業平に唯我はため息をつきながら少し声のトーンを落として言った。
「人間は理性を失った瞬間、化け物みてえになる」
「それがどうかしたのか?」業平は階段を駆け下りながらも意識は唯我の方に向けていた。なにか重要なことを言わんとしていることだけは慌てている頭でも十分に理解できる。

「あの刑事、おんなじことするかもしれないな。今回の犯人に」
「え? てか化け物って……」
「前にも見たことがあんだよ。交番勤務の時に。獣みたいな鳴き声がするっていうんで行ってみたら……。そこに、呆然とした白髪のガキがな、居たんだ。あの時のガキの目はやばかった。光を失っててな。今でこそだいぶ持ち直したのか知らねえけど、それでもたまに見るとすごいゾッとするんだ。なんて言うかすごいちぐはぐな感じだ。操り人形みたいに」
「ちぐはぐ……」
 業平はこれが誰の事を指しているのかよく分からなかった。





 彼と白谷を除く刑事局の刑事と刑事局と仕事をしていた新宿警察署の刑事は、2手に分かれてパトカーに乗り込んだ。
「まさか……透の……」
「いまはそんなこと考えるな……」
 震えた声でつぶやく国本を大津が叱咤する。だが大津の顔も少し青くなり、声も力がこもっていない。
 彼も白谷があそこまで冷静さを失った姿を見たことが無かった。それに彼よりもずっと白谷と過ごした時間の長い刑事局の面々もあの姿の白谷を見たことが無い。


「こんな時、あの人だったらどうしているのだろう」彼は流れていく景色を見ながらそう考えていた。
 パトカーはその車体に都会の景色を歪めて映し出していった。



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