それ、しってるよ。

eden

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「ま、松永くん」

 左目には眼帯をつけて、唇の端にテープを貼った、痛々しい様子の千宙が席に座っていた。

 千宙の身長は189センチである。ただでさえ高身長で目立つのに、顔中傷だらけで歩いていたら、嫌でも注目を浴びる。

 朝からたくさんの視線にさらされて、千宙は少し疲れていた。ふだんから見られることに慣れている千宙でも、いちいち見られてこそこそ憶測されるのはうっとおしいのだ。

 千宙は、教室に入って来た未子を見て、ほっとした。

「おはよ」

 いつもどおりの挨拶。未子は千宙の隣の席に座ると、千宙の顔を見た。昨日、あれだけ派手に殴られたのだ。あちこち腫れていても仕方がないのだが、見ていると心苦しくなる。

「山下さん、大丈夫?」

「わ、私は大丈夫。松永くんは、痛そう、だね……」

「平気だよ。そのうち治るから」

「で、でも……」

 そのとき、教室にアリスが入ってきた。アリスは千宙を見てぎょっとしたあと、気まずそうに顔をそむけた。

 この日、アリスとつるんでいた女子4人は全員欠席だった。アリスはひとりで過ごしていて、未子に絡んでくることはなかった。


 放課後、未子は千宙とともに将棋部の部室に向かった。千宙が部室に入るなり、馬屋原が千宙の肩を叩いた。

「ボコられたってのは本当だったのか」

 桑原は椅子に座ったまま千宙を見上げ、眼鏡の端をくいっと動かした。

「イケメンでも弱いならば、ようこそ非モテの世界へ!」

 だ、誰も心配してない……。未子はちょっとあきれた。それどころか、部員たちはなんだか嬉しそうな気配まである。どうやら、完璧と思われた千宙でも負けることがあるとわかって、嬉しいらしい。

「部長、ケンカなんかしそうにないのに、何があったんですか?」

 中尾に訊ねられて、千宙はしれっと答えた。

「通り魔に殴られた」

「えーっ、警察には言ったんですか?」

「別に。俺も一人は倒したし」

「倒したって、え、そんな何人も通り魔がいたんですか」

 中尾はごつい男たちに囲まれている千宙を想像して、顔を青くした。けっこうヤバい事件だったんじゃ……。

「とりあえず、はい」

 千宙はリュックから学祭の景品の入ったビニール袋を取り出した。それを受け取った馬屋原は、机に景品を並べて出した。

「お~、あのひよこの文具ね! いいね~」

「結局、未子さんと買いに行ったのか?」

「うん」

 千宙がうなずくと、桑原、馬屋原、中尾の3人は立ち上がり、一斉に未子の前に集まった。

「未子さん、大丈夫!?」

「未子さんは襲われてないの!?」

「ケガしてませんか!?」

「あ……だ、大丈夫……」

 おされている未子の隣で、千宙は冷めた視線を3人に向けた。

「なんなの、このリアクションの差は」

「だって部長は男の子だもん!」

 桑原はドヤ顔で答えた。

「とにかく、これで明日の学祭の準備はばっちりですね」

「そう、もう学祭だ~」

「明後日は七夕なので、こんなの買ってみた」

 馬屋原は百円均一ショップで買った笹を机の上に出した。短冊セットまである。

「お~、風物詩じゃん」

「みんなで願い事を書こうぜ」

 馬屋原は短冊を部員全員に1枚ずつ渡した。薄い桃色の短冊を受け取った未子は、急な提案にとまどった。他の4人は、席についてさっさとペンを握っている。

 み、みんな、そんなにすぐに願い事が思いつくんだ……。

 未子は自然と千宙の正面に座って、カバンからペンケースを取り出し、ペンを握った。


 私の願い……。

 昨日、家に帰ってからずっと、松永くんが元気に学校に来てくれることを願ってた。学校で、松永くんに会えますようにって。


 千宙は長いまつげを伏せて、短冊にペンを走らせている。眼帯をつけているから、今は眼鏡を外している。傷だらけでも、やっぱり、きれいな顔をしている。

「できたー!」

 馬屋原は金色の短冊に一言、「全国制覇」と書いていた。どうやら、将棋の高校大会で優勝したいらしい。

 桑原は、水色の短冊に、「家内安全、健康第一」と書いている。中尾は、「将棋が強くなりますように」と書いている。

 ふと、千宙が視線を上げた。

「山下さん、まだ、書かないの?」

「あっ、や、か、書くよ……」

 未子は慌てて短冊を見つめた。


 私の願いは、今、ひとつだけ。松永くんの傍にいたい。ずっと、松永くんといっしょにいられたら。

 ……て、こんなこと、書けないよね。でも、せめて、少しだけでも素直な気持ちを書きたい。


「部長、書けた?」

 馬屋原に訊ねられて、千宙は「うん」と言った。それから未子に声をかけた。

「山下さん、なんて書いたの?」

「あ……あの」

 未子は短冊をそっと千宙に差し出した。

「将棋で松永くんに勝てますように……」

 千宙はふと笑った。

「じゃあ、一生いっしょに将棋ささないといけないかもね」

「えっ、ええっ!?」

 未子は顔を赤くした。一生かかっても俺には勝てないよってこと? それとも……。


 馬屋原がみんなの短冊を笹につけていく。千宙の赤い短冊も、である。

 部室の棚に飾られた七夕の笹。未子はこっそり、千宙の短冊を見た。

「誰にも負けない」

 ……これは、将棋でも、勉強でも、ケンカでもってことかな。

 昨日殴られたことが、相当悔しかったようである。未子はクスっと笑った。


 部活を終えて帰るときに、千宙は未子に声をかけた。

「田中さん、今日、何もしてこなかった?」

 田中アリスのことである。未子は「うん」とうなずいた。

「な、何もなかったよ」

「そう」

 千宙はほっとしたような表情を浮かべた。

「あんな場所に行ったこと、田中さんも学校側にはバレたくないだろうから。昨日のことは、誰にも言わないと思うし。もう大丈夫、と言いたいところだけど」

 ふいに、千宙は自分の顔を未子の顔に近づけて言った。

「もう、何かさせたくないから。俺の傍にいて」

 未子は、千宙の言葉を理解するのに時間がかかった。千宙は続けて言った。

「俺の目の届く範囲にいてくれたら、田中さんも下手に手出しできないと思うし。ヤンキー連れてきても大丈夫なように、対策考えたから」

 千宙はスラックスのポケットから防犯ブザーを取り出した。

「こんなものでも、持ってたら周りに危険を知らせられるしね」

 ……なるほど。俺の傍にいてって言うのは、攻撃されないようにするためってことか。未子はうなずいた。

 少し、期待してしまった。何もなくても、ただ、傍にいてほしいって意味なのかと。

 自分の願望である。自分に向けられる千宙の心は温かい。それをそのまま信じていいのか、どうしても、自信が持てない。

 でも、いいや。どんな理由であっても、松永くんが、傍にいてって言ってくれたから。


「そういえば、山下さん、スマホ持たないの?」

「あ……」

 ……スマホ。そういえば、プレハブ小屋で拾ったスマホを、カバンの中に入れっぱなしだ。誰のスマホかもわからないまま。

 返すタイミングもつかめないまま、他人のスマホを持ちっぱなしだとは千宙に言えず。

「スマホ持っててくれたら、連絡取りやすいんだけど」

 千宙に言われて、未子は、

「う、うちで頼んでみる」

と、答えた。

「山下さんがスマホ持ったら、すすめたい将棋アプリがあるんだ」

 千宙は将棋の話を始めた。将棋の話をする千宙の表情は生き生きとしている。心から楽しんでいる。それがわかって、未子は嬉しくなる。


 ずっと、こんな話をしていられたらいいな。


「明日、いよいよ学祭だね」

 未子が言うと、千宙は「うん」とうなずいた。

「空き時間、いっしょに展示見てまわろうか」

 千宙に誘われて、未子は瞳を輝かせた。

「うん!」
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