それ、しってるよ。

eden

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 ……さん、ろく、ひ。いち、なな、ぎょく。さん、きゅう、かく。いち、はち、ぎょく……。

 千宙の声が聞こえる。千宙が声に出して言っているのではない。頭のなかで唱えている。

 いち、ろく、ひ。に、なな、ぎょく。さん、ろく、ぎん。

 いったい、なんのことだろう?

 未子は気になった。いったい何を唱えているのだろう。未子はうっすら瞼を開けて、スマホの画面から顔をあげて宙を見ている千宙の顔を見上げた。

 眼鏡越しでは、千宙の顔はよく見えない。千宙の唱えていることの意味もわからない。だからこそ、未子は無防備に訊ねることができた。

「に、はち、かく。って、何?」

 千宙が驚いた様子で未子を見た。未子もまた、はっとした。

 なんで訊いちゃったんだろう!

 この人が心の中で唱えていたことなのに。口に出していなかったことなのに。どうしよう。気持ち悪いよ、絶対。

 未子の目に涙が浮かんでくる。


「見えたの?」


 千宙に問われて、また、息が止まりそうになる。

「えっ……」

「スマホの画面。てか、将棋わかるの?」

「えっ、あ、えっと……」

 さっきの呪文みたいなのって、将棋のことだったのかな。でも、私、将棋なんて全然知らない。

 未子が答えに困っていたところ、保健室のドアをノックする音がした。

「失礼します」

 ハスキーな少女の声。千宙はその声の主のほうに顔を向けた。

「松永くん、サボりだね」

 その少女は、千宙にいたずらっぽく話しかけた。


 誰?


 未子はそっと少女の顔を見た。

「っ」

 少女のショートカットの髪は薄い水色で、肌の色は驚くほど透き通って見える。切れ長の目に、筋の通った鼻、薄い唇。派手な髪色をしているが、知性的な顔立ちをしている。

「鎌田の授業なんかくだらないって思ってるんでしょ」

 少女に言われて、千宙は立ち上がった。

「別に」

 そう言って、千宙は保健室から出て行った。

 少女は千宙の背中を見送ったあと、千宙がさっきまで座っていた丸イスに座って、未子を見た。

「ボク、同じクラスの天城璃星アマキリセ。よろしく」

 女子でボクって言う子、初めて会ったかも。未子は少しとまどいながら、「よろしく……」と答えた。

「山下さん、下の名前は?」

「えっと、未子……」

「未子ね。とりあえずライン交換しようよ」

「えっ、あっ、えっと……」

 未子は気まずそうに璃星から視線をそらした。璃星は不思議に感じている。

 なんだこいつ。ライン交換もすっとできねえのかよ。

 なんて、悪態は聞こえてこない。

 今までの経験上、自己紹介やライン交換の場面で、すぐに何か答えないと、うっとおしがられる。少しでもイラっとされると怖くなり、ますます何も言えなくなる。すると、相手が我慢できなくなって、自分から離れていく。


 つまんないやつ。

 そんな一言を残して。あっさり離れていくんだ。


 しかし、璃星からはそういった声は聞こえてこない。ただ、じっと、未子の返事を待っている。

 未子は口元からハンカチを少しずらして、答えた。

「あの、私、ライン、してない……くて。だから、あの、交換、できない……」

「そうなんだ。ほかに、なんかSNSやってないの?」

「あっ……えっと、やってなくて、あの」

「スマホは持ってる?」

「いや、あの、スマホ、学校に持ってきてない……です」

「今時珍しいね」

 璃星が感心したように言った。未子に伝わってくる感情にも、悪意はない。

「転校してきたばかりでいろいろ聞きたいことがあるかもって思ったから。ラインだと、いつでも聞けるしって思ったんだけど」

 セリフの裏に、雑味がない。本当に、善意で声をかけに来てくれたようだ。

 璃星は未子に笑いかけた。

「困ったことがあったら、ボクに言ってよ。気を遣わなくていいからさ」

 未子は顔が熱くなった。


 今までこんなこと、同級生に言われたことなかった。

 少し話したら、みんな自分から離れていく。

 めんどくさい。とろい。面白くない。イライラする。

 そんな印象を抱いて、去っていく。


 初めてだ。こんなふうに、自分を気にしてくれた人。


 未子の両目から涙が溢れたのを見て、璃星は穏やかに言った。

「緊張していたんだね。さっきも、過呼吸になっていただろう? それ、知ってるよ。ここに来るの、怖かったんだね……」

 璃星が未子の頭をなでようとしたとき、未子は反射的に身体を震わせた。

「あっ……」

 璃星の顔から一瞬、笑みが消えた。まずい。未子は慌てて言った。

「あの、わ、私、人に触られるのが苦手で……あの、天城さんが嫌とか、そんなんじゃなくて、その……」

 未子が申し訳なさそうにしていると、璃星の顔に笑顔が戻った。

「そうなんだね。全然、気にしなくていいよ。あと、ボクのことは璃星って呼んで」

「……璃星」

「そう。ボクも未子って呼ぶから。ボクの前では、緊張しなくていいからね」

 未子は小さくうなずいた。

 そのとき、保健室のドアが開き、少し年配の女性の養護教諭が入ってきた。

「あら、天城さん、どうしたの」

「今日転校してきた子が体調悪くて。少し様子を見に来ました」

「そうなの。もう次の授業始まってるんじゃない?」

「今から戻ります」

 璃星は立ち上がった。

「じゃあね、未子。落ち着いたら、教室に戻っておいで」

 未子はもう一度、うなずいた。

 女性の養護教諭が、未子の様子をちらっと見たあと、自分のデスクに向かった。未子に声はかけなかった。

 休みたければ休めばいいし、教室に戻りたければ戻ればいい。そんなスタンスだ。

 未子に、養護教諭の心の声が流れてくる。


 今日の晩御飯、何にしよう。


 これが、自然。こんなふうに、人の心の声が流れてくることが、日常。


 ……あの男の子は、将棋のことを考えていた。璃星は……何を考えているのか、よくわからなかった。

 不思議。

 こんな不思議な人たちがいる。この新しい学校で、私、やっていけるのかな。

 ううん、やっていかなくちゃ。

 私は、普通に生きていかなくちゃならないんだから。
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