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六日目 金曜日 その2
しおりを挟む「た、大変だ! 鬼姫が殴りこんできた!」
それだけ怒鳴ると奇声を上げながら走り去っていった。
喚き散らす声が突然ぴたりと聞こえなくなった。
金田も不良少年もびっくりしたようにドアの方を眺めていた。
僕から注意が離れている今がチャンスだった。壁に身体を押しつけるようにして、痛む足がなんだと気合を入れて立ち上がる。
「や、やっぱり鬼姫なんかに手を出しちゃいけなかったんだぁ」
不良少年はビデオカメラを投げ捨ててドアに向かって駆け出した。
「おいバカ! 待ちやがれ!」
金田の制止を無視して不良少年はこの部屋から逃げるために必死に走る。ところがドアの直前で硬直したように立ち止った。
「ま―――――――!」
何か言おうとしたようだったけど、言葉にすることができないままその場で崩れ落ちた。
現われたのは姫乃だった。
僕の見たことのない、鬼姫の表情をした姫乃がいた。そして姫乃は制服姿で白木の柄の日本刀を引っ提げていた。不良少年もその日本刀で問答無用で打ちすえたようだった。最初はびっくりしたけれど峰打ちのようでホッと一安心だ。
と、人のことを心配している場合ではなかった。
姫乃は僕の姿を見つけると一瞬泣き笑いのような表情を浮かべた。
けれどもすぐに金田に向き直り、無表情だけど怒りに満ちた瞳で睨みつけた。
動いたのは二人同時だった。だけど倒れている不良少年の所為でほんのちょっとだけ姫乃の動きが鈍ってしまった。
僕もなんとか回り込んで姫乃に近寄ろうとした。なのにこんな時に、僕の足は突然力が抜けてしまい、足をもつれさせてしまった。
「逃がすかよ」
金田の手が僕の襟首をつかむ。そのまま腕が首にまわされて完全に捕まってしまった。
「それ以上、近寄るんじゃねえ」
僕の首にナイフを突き付けて金田は姫乃に向かって叫んだ。
あとたった一、二歩の差だった。手を伸ばせば届く距離だ。
金田は左腕で首回りを締めるようにして、右手に持ったナイフを首元に押し付けてくる。そのまま後ろ向きに下がりながら姫乃からの距離を取った。
「まずはその物騒な刀を捨てやがれ!」
壁を背にして金田は姫乃に要求した。
「早くしねえか。てめえの彼氏がどうなっても知らねえぞ」
ありきたりな脅し文句だ。それでも効果があった。姫乃は金田を睨みつけたまま黙って日本刀を床に投げ出した。
「優太さんにちょっとでも傷をつけてみろ。生まれたことをきっと後悔させてやるからな!」
はじめて聞く姫乃の乱暴な言葉遣いだった。普段よりも低い声で怖いくらいにドスが利いていた。姫乃の身体中から怒りのオーラがあふれ出してきそうで、押さえつけられた虎のような雰囲気だった。じっとしていられないのか手を開いたり閉じたりしている。
「他に武器があるんならそれも捨ててもらおうか。じゃないとこいつの目をえぐっちまうぞ」
そう言って金田はナイフの切っ先を左目のギリギリまで近づけてきた。尖端恐怖症ではないけれど、さすがにこれは恐ろしい。ナイフの切っ先が細かく震えている。下手にちょっとでも動いたら刺さってしまいそうだ。
「わかった。今から拳銃を取り出す。だからそのナイフを離してほしい」
「うるせぇ、俺に指図するんじゃねえよ。さっさとしやがれ」
金田が怒鳴るたびにナイフの先が不安定に動く。無意識なのだろうけど首にまわされている腕にも力がこもって苦しかった。それでも姫乃が自分のいうことを聞くことがわかったせいかナイフは眼球近くから移動されて再び首元に押し付けられた。
姫乃はゆっくりと両手を広げるようにしてから、人差し指と親指で挟むようにして腰の後ろから拳銃を取り出した。はじめて実物を見たけれど、絶対に本物だろう。
「へへへ、いい物を持ってんじゃねえか。そいつを床に置いてこっちに滑らせな」
姫乃は言われたとおりに拳銃を床に置くとこちらに向かって滑らせた。金田は滑ってきた拳銃を足で踏んで受け止めた。
「他にはないだろうな?」
「もうない。わたしは丸腰だ」
それを証明するように姫乃は両手を広げてみせた。
「信用ならねえな。女はどこに何を隠してっかわからねえからな」
「どうしろというのだ?」
嫌な予感がした。そして予感は当たってしまった。
「脱げ。素っ裸になって何も持っていねえってことを証明しろ!」
「わかった」
無表情なまま姫乃はそっけなく答えた。そして何の躊躇もなく制服のスカーフに手をかける。
「姫! ダメだよ。そんなことしちゃダメだ!」
今まで黙って成り行きを見守っていたけれどもう我慢ならない。冗談じゃない。
首元にナイフが押しつけられている事も忘れて僕はもがいていた。金田を壁に押し付けようと体重を後ろにかけ、首にまわされた腕をほどこうと身体をひねった。
「てめえ動くんじゃねえよ。今すぐぶっ殺すぞ!」
「優太さんダメです! 動かないで!」
金田の怒鳴り声と姫乃の悲鳴が部屋に響く。
僕と金田はもみ合いになった。だけどすぐに僕は金田に抑え込まれてしまった。壁に押し付けていたはずがうまく体勢入れ変えられてしまっていた。僕の首を左手で掴んで締めあげながら顎の下にナイフの先を突き付ける。
狂気の浮かんだ目が僕を睨みつけていた。
「本当に殺っちまってもいいんだぞ。この状況だ、俺だって無事に逃げられるとは思っちゃいねえんだ。だがよ、鬼姫に苦痛を与えることができるんだったら俺は何だってするぞ。ほら鬼姫さんよ、手が止まってんぞ。それとも彼氏を先にぶっ殺しちまおうか?」
姫乃は僕の顔を見つめると微かに微笑んで見せた。
「優太さん、大丈夫です。きっと助けますから。だからじっとしていてください。わたしは平気ですから」
そう言って姫乃はスカーフをほどくとゆっくりと胸元から抜き取った。そしてスカーフから手を離す。スカーフはふんわりと浮かびながら床へと落ちていった。
姫乃は続いてセーラー服の首元のホックをはずしていく。白い首と鎖骨があらわになる。
「いいねえ、彼氏愛されてんじゃん」
にやけながら金田は顔を近づけてくる。馬鹿にした口調だった。
「うるせえ」
「ああん? 何か言ったか?」
「うるせぇっていったんだ。あんたは絶対許さない」
精一杯僕は金田を睨みつけた。金田が憎かった。それ以上に何もできない自分が、姫乃を窮地に追い込んでいる自分が許せなかった。
「言ってくれるじゃねえか。許さないってんならどうするんだ? ええ?」
「優太さん、大丈夫ですから」
姫乃が心配そうにこちらをうかがっていた。
わかっている。今の僕には何もできない。だけどきっとチャンスがあるはずだ。
だから今は耐えるしかないとわかっている。
悔しいし内臓がねじれるくらいに煮えくりかえっているけれど、がまんだ。
「てめえはとっとと脱ぎやがれ!」
救世主はシンさんだった。
姫乃が再びセーラー服に手をかけた時、シンさんが落ち着いた様子で部屋に入ってきた。
シンさんは一目で現在の状況を理解したようだ。
スッと目を細めると、あっけにとられるくらい平然と姫乃に歩み寄った。
「や、やろう、動くんじゃねえ」
金田が気づいて怒鳴り声をあげた時には、すでに姫乃の脇に控えるように立っていた。
「お嬢、ここ以外はすべて片付きやした」
「そうですか。ご苦労様でした。それでは優太さんを助け出して、このような場所から一刻も早く立ち去ることにしましょう」
シンさんの登場で頭に血が上っていた僕も冷静になることができた。シンさんは僕にも好意的だったけど、こういう場面ではまず第一に姫乃の安全を図ってくれるはずだ。状況は僕たちに圧倒的に有利になりかけていた。
そのことに気づいていないのは金田くらいだ。
「なにのんきにおしゃべりしてんだよ。てめえら自分の立場ってのがわかってんのか? そこのお前、とっとと武器を捨てやがれ!」
「お断りしやす」
予想通りシンさんはあっさりと金田の要求を突っぱねた。
「んだと? こいつがどうなってもいいてのか?」
「もちろん無事に返していたたけりゃそれが一番ですが、どうしてもという場合は、加藤さんには申し訳ありやせんが、あたしとしてはお嬢の身を守るのが最優先なんで」
金田もようやく僕の人質としての価値が低下している事に気がついたようだ。
焦った様子で僕の身体を壁から離すと、また喉元にナイフを突き付けながら盾にするように後ろに回り込んだ。
これだってシンさんが拳銃を持っていれば最悪僕ごと撃ってしまえば一件落着だ。
金田はナイフを左手に持ち替えて、右手を床に伸ばした。床には姫乃が捨てた拳銃がある。
立ったままでは当然だけど床には手は届かない。金田は斜めに身を倒す不自然な格好をしてそれでも僕のことは離さずに拳銃を拾おうと必死に手を伸ばしている。
待ちに待ったチャンスだった。
金田の右手が拳銃に届いた瞬間、僕から注意がそれたのがわかった。僕は右足を大きく上げて全体重をかけて金田の左足を踵で踏みぬいた。
金田が絶叫する。
僕を掴んでいた腕の力も緩んだ。その隙を逃さないで強引に金田から身体を引き離した。もしナイフが刺さってしまったとしてもそれは覚悟の上だった。
姫乃とシンさんが同時に動いて金田に向かっていく。
あっという間に金田は叩きのめされた。
金田から離れた僕はバランスを崩してそのまま床に転がってしまった。手は使えないし足も然りと力が入らなくて踏ん張りがきかなかった。だから肩からもろに突っ込んでしまった。
でもナイフは運よく刺さらなかったし一件落着だ。
身体中痛いところはいっぱいあったけど、しばらくはこのまま寝転がっていたかった。
「殺せばいいじゃねえか。どうした。さあ殺せよ!」
金田が騒いでいた。姫乃とシンさんに叩きのめされて気を失っていないとはたいしたものだ。
「殺しませんよ。言ったはずですよ、生まれてきたことを後悔させたやると」
氷の様に冷たい口調だった。騒いでいた金田も黙ってしまった。
「それに人を殺すとお金がかかるんですよ。知らないのですか?」
「お、俺をどうするつもりだ?」
「寒いのと暑いの、どちらがいいですか? あ、海の底というのもありましたね。世界には労働力を必要としている場所はたくさんありますから。あなたが生きている間はわたしたちのもとに紹介料が払い込まれますから、できるだけ長生きしてくださいね」
「ふ、ふざけるな! 俺はそんな場所にはいかねえぞ」
「いい加減、静かにしてもらえませんかね。臭くってたまりませんわ」
そう言ってシンさんは金田の顎のあたりに一撃をくらわした。それだけで金田は白目をむいて失神してしまった。
「終わったっスか?」
タイミングを計っていたかのようにカツマ君が顔を出した。そして意識のない不良少年や金田を運び出していく。
そんな様子を僕は寝転がったままぼんやりと眺めていた。
不思議なことに姫乃は金田と話した後は僕に背中を向けてぽつんと立っていた。
「若様、ご無事で何よりでした」
突然耳元で声がして飛び上がるくらい驚いた。
「今回の件、風間忍一生の不覚です。あの金田という男、昨晩鬼塚家が潰した麻薬組織の下っ端の下っ端だったため、完全にリストから外してしまっていました。まさかこのような暴挙に出るとは……。完全にあたしのミスです。どのような罰も受ける所存です」
気配も姿もないのに声だけが聞こえてきた。
「まあいいさ。無事だったんだから」
「しかしそれでは……」
「じゃあさ、この手錠外せる? いい加減手も痛いしさ」
「……承知いたしました」
なにをどうやったのかわからないけれど、あっさりと僕は自由を手に入れることができた。
「ではまた後刻」
忍は手錠を外すと完全にどこかに行ってしまった。本当に忍者っているんだ。
両手を使って身体を起こし立ち上がろうとして失敗した。
情けないことに腰が抜けてしまっていた。
「姫、ちょっといいかな?」
声をかけると姫乃は肩を震わせて、恐る恐るといった様子で振り向いた。
姫乃は泣いていた。
目を赤く充血させて声を出さずに泣いていた。
「姫、ごめんね。いっぱい心配かけちゃったし、迷惑もかけちゃったね」
姫乃は頭を振る。長い黒髪が姫乃の動きに合わせて左右に揺れる。
「それと昨日は変な態度とっちゃってごめんね。実はさ、ある人から姫とつき合っちゃえばなんて言われちゃって、それで照れちゃったというか変に意識しちゃったっていうか。とにかく嫌な気分にさせちゃったよね。許してくれるかな?」
姫乃は頷いてくれた。
「わ、わたしは、優太さんに、その、嫌われちゃったのかと、思ったので、違うとわかってうれしいです。で、でも、わたしはやっぱり………優太さんと……仲良くするわけにはいかないみたいです」
姫乃は泣いていた。
泣き笑いの表情を浮かべて、決意をしたようすで泣いていた。
「わたしは、優太さんに友達だと言ってもらえて、とてもうれしくて、優太さんのことは大好きだったから、とてもうれしくて……迷惑をかけちゃうと思ったけれど、どうしても我慢できなくて……わたしは友達を作っちゃいけないのに……優太さんに友達だと言ってもらえたのがすごい幸せで……」
姫乃は泣いている。
両目からたくさんの涙を流して泣いていた。
「お弁当をおいしいといってもらえたのがうれしくて……一緒にお弁当を食べている時間が幸せで……一緒の学校から帰るのが楽しくて……席が隣同士になれて学校に行くのがものすごく楽しみになりました。でも、やっぱりもう一緒にいるのは無理みたいです」
「それは僕とはもう友達ではいられないってこと?」
「はい、大好きな優太さんと過ごせた一週間は忘れません。本当に幸せでした。どうもありがとうございました」
姫乃は泣いていた。
僕のために身を引く決意をして泣いていた。
僕に負担をかけないために泣いていた。
「わかった。友達でいるのはやめよう」
さすがにショックを受けた様子で姫乃の顔が強張る。
離れた場所にいたシンさんも驚いたような表情を浮かべている。
なんだかすっきりした。
晴れ晴れとした気分で僕は姫乃に笑顔を向けた。
そして腰が抜けて座ったままなのが情けないけれど、右手を差し出した。
「僕も姫乃のことが好きだよ。だからつき合ってください」
はじめて姫乃のことを呼び捨てにした。でもこれが僕の決意だった。
「えっ?」
姫乃は驚きで固まっていた。
涙は止まっていた。
「姫からの告白の返事なんだけど、僕じゃダメかな?」
「そんな、ダメじゃないです。で、でもいっぱい迷惑をかけちゃうと思いますよ」
「うん、そうだね」
「今日みたいなこともあるかもしれませんよ」
「うん、そうだね。でもその時はまた助けに来てくれるんでしょ?」
「は、はい必ず、必ずお助けします」
「だったら問題ないじゃん。僕も捕まったりしないよう気をつけるし。あと何か問題あるかな?」
「あ、あの本当にわたしでいいんですか?」
「うん、そうだよ。姫じゃないと嫌だな」
「わ、わたしも優太さんじゃないと嫌です」
姫乃が飛びついてきた。
こうして僕たちはつき合うことになった。
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