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四日目 水曜日 その3
しおりを挟む「署長さん?」
「あれ? 信じられないかね?」
僕は思わず頷きそうになってしまった。慌てて誤魔化す。
「あ、いえ、そんなわけじゃないんですけど、なんていうか……」
「なんていうか?」
「えっと、警察署長って、そのおっさんのイメージがあったから」
鼻の頭をかきながらぼそりと答えると、婦人警官、じゃなくて警察署長の栗原洋子さんは大爆笑だった。
「なるほどなるほど。確かにそうだ」
目の端に浮かんだ涙を指でぬぐいながら署長さんはまだ笑っている。
笑いながら胸の内ポケットから小さな手帳のようなものを取りだした。
「こればかりは信じてもらうしかないのだが、これを一枚、君に渡しておこう」
小さな手帳のようなものを開くと、中から一枚の名刺を取り出して、机の上を滑らせて僕の目の前に置いた。
名刺には栗原洋子という名前の他にいくつかの役職が書いてあった。
一つは、警察署長という肩書で、もう一つは警視という階級だった。
名詞と署長さんの顔を交互に見比べる。目の前で楽しそうに笑っている女性と名刺の肩書がいまいちぴんとこなかった。
けれども嘘をついているようにも見えない。第一、警察署の中でこんな嘘をつくような婦人警官がいるわけもなかった。
ため息が出る。
昨日はやくざの親分で、今日は警察署長ときた。僕の交友関係も随分とバラエティに富んできたものだ。
「ため息などついてどうかしたかね?」
「いやぁ、えらい人だったんだなぁと思って」
「うん、偉かったのだよ」
あっさりと肯定して、頬杖をつく。まったく嫌みのない感じだった。
「これでも世にいうキャリア組というやつだったのだよ。昔は女性初の警視総監だとか言われていたこともあったのだよ。すごいでしょ」
「すごいですね」
素直に感心していると、署長さんはうれしそうにほほ笑んだ。これって自慢話なのかもしれないけれど、全然偉ぶっているところもないし、自然な様子だ。
「でもそんなすごい署長さんがなんで僕のことを知っているんですか?」
署長さんのペースに巻き込まれてしまっていたけれど、腑に落ちないことがたくさんあった。
なぜ連れてこられたのかもそうだし、なんで僕のことを知っているのかも疑問だ。それにどうしてこんなにフレンドリーなのかも気になるところである。
「君の質問はもっともだけど、私から一つお願いがあるのだけどいいかな?」
「なんですか?」
思わずちょっと身構えてしまう。そんな僕の様子を気にする風もなく署長さんは、
「私のことは署長さんではなく、洋子さんと呼んでくれたまえ」
と、ウインクしながら茶目っ気たっぷりに言ったのだった。
「いやあの署長さん?」
「違うだろ。洋子さんだ」
冗談ではないらしかった。
「……」
「…………」
いたずらの結果を待つ子供のように目をキラキラさせた瞳を署長さんは向けてくる。純粋に期待に満ちた視線にさらされて、僕は負けを認めた。
なんだって警察署長を名前で呼ばなきゃならないんだと思いながらも、呼ばないと話が進みそうになかった。
「えっと……洋子さん?」
「なにかな?」
署長さん、じゃなくて洋子さんは両手で頬杖をついたまま返事をする。
「お願いを聞いたんですから、僕の質問には答えてくれるんですよね?」
「もちろん。それにお願いを聞いてくれなかったとしても私は君の質問に答えるつもりだったぞ」
「……」
僕は疑いの目で洋子さんを見た。絶対に僕が洋子さんと呼ぶまで話を進める気がなかったのは明白だ。
もしかして僕はからかわれているだけ?
「その前にその名刺はちゃんと仕舞っておくことを勧めるな。その名刺も持っていると何かの役に立つだろう。それに困った時は、名刺に書いてある私の携帯にいつでも連絡してきてくれて構わないぞ」
確かに警察署長の知り合いがいれば、何かあった時に助けになるかもしれない。でもなんだって洋子さんは僕に好意的なのかは分からなかった。
とりあえず財布を取り出して名刺は中にしまっておく。
「それにしても随分と時間がかかるな」
洋子さんは腕時計を見て呟いた。
「何かあるんですか?」
「うん。カツ丼を持ってきてくれるように頼んでおいたのだが……そろそろ届けられてもいい頃だと思ってな」
「……さっきのカツ丼が好きとか嫌いとかってそういう意味だったんですか?」
取調室にはカツ丼がつきものとかいっていたけれど、本当に注文していたとはびっくりだ。
洋子さんはどこまで本気で僕と話しているのか疑問だ。
「君のご両親は長期の海外出張中なのだそうだな。時間も夕食時なのだし、ここでカツ丼を食べたとしても問題はないだろう? それに取調室でカツ丼を食べる機会というものはなかなか得がたい経験だぞ」
できれば一生しないで済んだ方がいい経験だ。
「もちろん私のおごりだから安心してくれたまえ」
「はあ、どうも」
ぺこりと頭だけでおじぎをする。
「君は知っていたかね。刑事ドラマなどで取り調べ中に容疑者がカツ丼などの食事をする場面があるが、実際は本人が自分で料金を支払うのだぞ」
「そうらしいですね」
あきらめの心境で相槌を打つ。昔はただで食べさせたもらえるものだと思っていたけれど、この話は最近だと結構有名な豆知識だ。
「って、なんでうちの親が海外出張中だってこと知ってるんですか?」
危うく聞き逃すところだった。たしかにうちの親は一年の半分くらいは仕事の関係で家を開けることが多い。僕が中学生のころまでは父親だけで出張に行っていたけれど、高校生になったのを機に母親も一緒についていくようになったのだ。
僕の質問に洋子さんはにやりと口の端をあげて、わざとらしく「チッチッチ」といいながら人差し指を顔の前で振って見せた。
「だから君のことは昔から知っているといったはずだぞ」
「……」
相手は警察署長だし、考えてみれば国家権力なわけだし、調べようと思えばこんなことは簡単にわかることでもある。でもなんで僕のことなんか……。結局は堂々巡りになってしまう。
なんだか面白くない気分だ。
「さてどうして君のことを私が知っているかという話だったかな」
ようやく本題に戻ることができた。
僕は勢い良く頷いた。自然と姿勢も改まってしまう。
「よしカツ丼が届く前に、君の質問に答えてしまおうか。と思ったが、君に確認しておきたいことがあったのを忘れていた。先にこっちの片づけさせてもらっても構わないかね?」
「構わないかねって……僕の質問に答えてくれるんじゃなかったんですか?」
「まあ待ちたまえ」
文句を言う僕の目の前に洋子さんはさっと手を広げてみせた。
「でも……」
「君の言いたいことはわかる。しかし重要なことなのだ。それに君の聞きたいことにも関連したことだ。そう目くじらを立てないでほしい」
「……わかりました。それでなにが訊きたいんですか?」
仕方なく、納得はできないけれど洋子さんの要件から片づけてしまうことにした。なんだかうまいこと言われて丸めこまれている気がする。
それにさすがは警察署長というべきか、強く文句を言えないような雰囲気もあった。
「では訊くが、三日前の日曜日のことだが、君は乱闘事件を起こしているね?」
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