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面影4.

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「──香彩ちゃん……」

 こんなに力が強かったのかと趙飛燕は思った。
 掴まれ引っ張られている手首が痛い。 
 彼は無言のまま、半ば強引に趙飛燕を連れて歩いていた。
 ここからだと顔を見ることもできない。
 ただ雰囲気から、とても怒っているのだと伝わってきて、趙飛燕の中に戸惑いが生まれた。


 そう、分からないのだ。
 何故彼が、こんなに怒っているのか。


 やがて人気のあまりないところに出る。
 どこをどのように歩いたのか、分からないくらい歩いた後だった。
 香彩は引っ張っていた手首を強引に持ち上げて、どこかの建物の漆喰の壁に打ち付けた。
 手首と、壁に背中を打った痛みで、趙飛燕の顔が少し歪む。
 香彩のもうひとつの手は、趙飛燕が逃げることができないように、彼女の顔の横の壁に付く。
 彼は射抜くような目で趙飛燕を見ていた。
 その瞳の強さと、いつもと違う『男』の表情に、趙飛燕は微妙に震え出した手を、香彩に見つからないようにぐっと握る。
 香彩を怖いと思う気持ちがあることを、香彩には知られたくなかったのだ。
 
「……どうして、あの人の私室にいた?」

 いつもと違う、低く掠れた声。

「なんで、あの人に触らせた? あの人を見て、赤くなってたのは何故?」 

 見られていた。
 そんな気持ちと、あまりにも近い香彩の顔に、いたたまれない気持ちになって、趙飛燕は視線と顔をそらす。 
 それが彼の怒りを増やすことを知らずに。

 彼は壁に付いていた手で趙飛燕の頤に触れると、強制的に正面へと向き直させた。
 それはまるで獣が肉に喰らいつくかのような口づけだった。
 思いやりもないもない、ただ奪うだけのもの。



 ──……可愛い成りをしているが、あれも男だ。  


 息苦しさの中で思い出されるのは、紫雨の言葉だ。

(ああ、もしかして、これって……)

 嫉妬。

 趙飛燕はようやく香彩の行動の意味が分かり、その怖かった気持ちがなくなりつつあった。
 むしろこころの中に温かい気持ちが生まれてくる。
 だがこれから自分の口で香彩に説明しないといけないことに、趙飛燕は恥ずかしさでいっぱいになる。
 唇が離れる。
 息を整える間もなく香彩が言う。

「……あの人の方がいいの?」

 説明をしようとしていた趙飛燕は、香彩のこの言葉に妙に苛立ちを感じていた。
 香彩が怒っているからと大人しくしていた自分が馬鹿だったのか。
 趙飛燕がきっ、と香彩を睨む。
 先程とは打って変わった趙飛燕の様子に、わずかながら香彩が怯む。

「冗っっ談じゃないわよ! 何で私が紫雨様となのよ! 私は貴方に会いたくて……会いたくて来たのに。もう! 手首痛いから放してよ!」

 趙飛燕の言葉に手首の力を少し緩めた香彩だったが、放す様子はなさそうだった。

「じゃあ、どうして……」
「私、国に黙ってきたの。話してもどうせ反対されるって思って。だけど……やっぱり国にはばれてて、私が行くって連絡されてたみたいで、紫雨様が城門まで迎えにきてくれたの」

 趙飛燕が息をつく。

「来るのなら、ちゃんと話してから来いってお説教されて。初めは帰れって言われてたんだけどね。でも当然だよね……私、今日祀りだって知らなくて」

 ここまで話して趙飛燕は口籠る。
 だが意を決したように、語る。

「……紫雨様と話をしているうちに、困ってる笑い方とか仕草とか、貴方にすごくよく似てて、私、紫雨様の中に、貴方を見てた」

 手首を掴む力が少し強くなるのを感じながら、それでも怯まず趙飛燕は語り続ける。

「祀りでの貴方の真剣な表情とか仕草に、今でもこんなに気持ちが振り回されるのに、貴方が大人になったらどうなってしまうんだろうって考えてしまって」

 貴方にそっくりな紫雨を見て、貴方の大人になった姿を想像してしまったら。

「たまらなくな……」 

 いつの間にか手首の痛みは消えていた。
 趙飛燕を押さえ、逃げないようにしていた二本の腕は、彼女の背中に回っていた。
 その力のあまりの優しさに、痛いくらいに胸が高鳴る。

「なんでそんな可愛いこと、言うのかな」

 顔を紅潮させる香彩の姿につられるように、趙飛燕の顔も熱くなった。
 頬に手を添えて、そっと触れるだけの優しい口づけを交わす。 

「手首……ごめん。ひい

 少し熱を孕んだような、掠れた低い声。
 香彩が趙飛燕から離れ、その手首にも口づけた。 
 くすぐったさに少し身を捩りながら、趙飛燕がふるふると首を横に振る。

 彼しか呼ばない、名前の呼び方。
 それをそんな声で呼ぶのは反則だ。
 彼は知っているのだろうか?
 その声に、呼び方に、心がどれほど翻弄されるのか。
 切なく甘いくやしさに、いたずら心が芽生えたのも、事実で。


「大丈夫だから、ね? 香彩」 


 一瞬きょとんとした香彩が。 
 初めて敬称もなく、名前を呼ばれたことに気付いたのは少し後のお話。 


 手で口を覆い再び頬を染める香彩を、趙飛燕はしてやったりと笑んで見つめていた。 

                〈終〉
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