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面影3.
しおりを挟むまるで冬の早朝のような、澄み切った空気が部屋全体に漂っていた。
神木と呼ばれる、清水の気を浴びせ閉じこめた木材から成るこの部屋は、全体が『場』の役目を果たしている。洗練された澱みのない空気は、入室した者に背筋を叩かれたかのような緊張感と圧迫感を与えた。
潔斎の場、と呼ばれている。
国を司り護る者を、敬い、使役し、または祀る。
その儀式が行われる場所だ。
今から行われる祀りを『天道の儀』という。
火輪之神と呼ばれるものを召喚し、夏の太陽の日差しを約束させる儀式だ。
趙飛燕は紫雨から渡された小さな護符を飲み込み、見習いだろうまだ幼い縛魔師達の後ろに紛れるように座った。
護符が上手く働いているのか、特に体にはなにも変化はない。
――――これを飲んでおけ。でないと苦しいだろう。あんな場所で苦しみ出す者など、払われても文句は言えんからな。
紫雨の言葉を思い出し、趙飛燕は少しむっとする。
護符は確かにありがたい。
だが、もう少し素直に渡してほしいものである。
(……もし香彩ちゃんが、あんな風になってしまったら、どうしよう)
不思議なことに、紫雨ほど嫌な気持ちにはならないのだと気付いて、趙飛燕は今日何度目かの溜息をついた。
どうもおかしい。
紫雨の中に彼を見つけて喜んでしまったり。
先程もそうだ。
遠目でしか見ていないのに、いつもと違う彼の服装に動揺して。
少しこちらを見てくれたような気がして、胸が高鳴ったり。
彼を見るのが、久しぶりだからだろうか。
今から近くで彼を見るというのに、逃げ出したくなる。
しゃん……と澄み切った空気を切るような鈴の音が、響き渡った。
潔斎の場の入口からまず入ってきたのは、神楽鈴を持った二人の『申し子』と呼ばれる先導役だった。
次に現れたのは、白衣を身に纏った、療と竜紅人だった。
彼らが一歩、潔斎の場に足を踏み入れた途端、神気が溢れ出し、『場』の空気はいっそう清らかになる。
そしてその影に映るのは、雄大な竜身だ。
そして。
「――――……っ!」
香彩の姿が見えた。
白衣に白の縛魔服を重ねて身を包み、深い翠の数珠を首から下げたその姿。
晩春の藤花のような髪は高く結い上げられ、彼が歩く度にさらりと揺れる。
縛魔服から時折見える手や足首、そして身体全体の線を見ても華奢そうに見えるが、実は綺麗に引き締まっていることを趙飛燕は知っていた。
そしていつもと全く違う、その粛然とした表情。
もし近くに趙飛燕を知る者がいれば、声をかけて貰えて我に返れただろうが、今の趙飛燕の周りは子供達だらけだ。
なぜ見ていたいのに逃げ出したくなるのか、分からない。
彼に自分がここにいるって、気付いてほしいのに、何故か気付かないでほしいと思う自分がいる。
彼は前を見据えて、趙飛燕の前を通り過ぎ、部屋の中央で止まった。
正面に座る城主、大宰、大僕に一礼し、彼は左へ向き直り座る。
趙飛燕から見て正面には、召喚のための大きな陣と、小さな祭壇があった。
奉る誓願を読む彼の声には、まだ深みがない。
だが意外にも低い声が出ることを、知っている。
「……において召されよ。火輪之神よ!」
香彩が立ち上がった。
懐から札を出し、それを陣に向かって投げる。
不思議なことに札は宙に浮き、陣の中央にとどまる。
打つのは柏手だ。
まるで水面に落ちる水滴が起こす波紋のように、柏手の波動が部屋に広がる。
そして今一度、柏手を打つ。
柏手は力を借りる者への挨拶だ。一度は地に住まう地霊や精霊。
そして二度目は『謳われるもの』……真竜の加護を願う時に打たれるもの。
「伏して願い奉る! 真竜御名、皇族黄竜、蒼竜、その御名において、我の呼応に応え給え。顕現召しませ、火輪之神焔竜よ!」
陣の中の札が目も眩むような輝きを見せる。
とても大きな竜身の影が、札から移し出されたような気がした。
次の瞬間だった。
真青の衣着に身を包んだ男が現れ、香彩を抱き締めた。
竜紅人には握手を交わし、療に膝を付く。
そして、城主の前に出て再び膝を付くと、その姿を消したのだ。
とても不思議な光景だ思った。
ただ、『謳われるもの』と呼ばれる真竜達の力を借りて采配し、使役をしているのが香彩なのだと心の中にすとんと落ちた時、趙飛燕はただ惚けて、香彩を見ていることしか出来なかった。
香彩と療と竜紅人が城主に一礼をし、潔斎の場から退出するために歩き出した。
途中、香彩が療と竜紅人と共に目を合わせ、困ったようににこりと笑う。
その笑みは先程見た紫雨のものとそっくりで。
そっくりなのに、可愛い笑みで。
思い出されるのは、柏手を打つ姿や、札を投げる時の仕草。
その真剣な表情。
今でもこんなに心がかき乱されるのに、ふと思ってしまった。
もし彼が大人になったら、どうなってしまうんだろう。
不意に視界に紫雨が入った。
紫雨も趙飛燕に気付いたのか、笑みを浮かべる。
(――――……あ……)
何故、気付かなかったんだろう。
さっきから自分でそっくりだと言っていたのに。
そう。
――――香彩が大人になったら、紫雨のような雰囲気の姿になる可能性。
(――――……わ……!)
骨張った長い手の指。
逞しい腕。
すらりと伸びた背丈。
彼特有の少し憂いを帯びたような笑みを、大人の顔でされたら。
想像をしてしまって、趙飛燕の顔が赤くなる。
胸の中で脈打つものが、痛くて仕方がない。
思わず紫雨から視線を外して、趙飛燕は自分の胸を手で押さえる。
だが、その手首を掴む者があった。
「――――えっ」
確か、退出の為に仲間とともに歩いていたのではなかっただろうか。
それがどうして。
何故自分の目の前にいるのだろう。
香彩の顔に表情はなかった。
ただ彼の綺麗な森色の瞳が。
ぎら、と怒りのような色を孕んでいた。
彼は趙飛燕の手首を引っ張ると、衆人環視の中、無言で彼女を潔斎の場から連れ出したのだ。
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