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第二部 嗣子は鵬雛に憂う
第341話 撞着憤む 其のニ
しおりを挟む少し酒に灼けて掠れた官能的な低い声に自分の名前を呼ばれて、療は無意識の内に紫雨に視線を向けた。
そこには獲物を定めたかのような、獰猛な熱を深い翠水の内に秘めた、紫雨の目があった。
「──っ!」
ぞくりとした粟立つものが背筋を駆け上がる。
捕食関係の中でも高位に位置する自分が、捕食される側になってしまったかのような、そんな気分になる。頭の中に警鐘がけたたましく鳴り響くが、まるであの視線に身体全体を絡め取られているかのようで、療はこの場から自由に動くことが出来なかった。
ただ呼ばれるがままに、彼の近くに歩むことが出来るのみ。
紫雨は椅子に座り、粗野にも長い足を組んで酒杯を呷っていた。
卓子には空だろう爵酒器と酒甕がいくつか並び、床にも転がっている。
一体どれほどの量を飲んだのか。
全く酔った様子のない紫雨だったが、顔に出ていないだけかもしれないと療は思う。いくら紫雨が酒に強いとはいえ、度の高い辛口の神澪酒を何甕開けたのか分からないのだ。
現に療が卓子に近寄れば近寄るほど、その酒気は濃厚さを増していく。
ふと卓子の上にもうひとつの酒杯が目に入った。
(……ああ、そう、だよね)
それが誰の物だったのか、嫌でも分かってしまう。
きっとここで盃を交わしたのだ。
(一体ここで、どんな会話をしたのだろう)
(二人はどんな風に変わったのだろう)
必要に駆られたからとはいえ、一度は契りを交わしたのだ。きっと以前とは雰囲気も違うはずだ。
(分かってて、あの時見送ったのに)
蒼竜屋敷の門上で、覚悟して見送ったというのに。
いざ彼を目の前にして溢れ出す醜い感情を、療は自分らしくないと心の奥に閉じ込めた。ここで溢れ出ても仕方ないのだ。これは彼にとって全く関係のない感情なのだから。
「──蒼竜の見張り、ご苦労だった、療」
そんな療の心情など知る由もない紫雨が、療に話し掛ける。
「お前がいなくては全て上手く行かなかっただろう。お前の働きに感謝している」
その言葉に療は、彼の瞳に潜む熱いものを振り切るかのように、くすりと笑った。
「……んじゃ、約束通り、金葉茶店の甘味一年分ね!」
「前にも聞いたが本当にそれでいいのか?」
「うん! オイラにとったら紫雨の神澪酒並みなんだよ、あのお店の甘味って」
「ほぉう? 神澪酒並みとは恐れ入った。そういえば金葉茶店に酒は出るのか?」
「酒? 確か……夜だけだったんじゃないかなぁ?」
「成程、夜か。甘味を食べながらの酒は、また違った味わいだと聞く。それでは政務が終わってからだな、療」
「うん! そうだね! ──……って、え?」
療がきょとんとした表情を浮かべながら、紫闇の目を零れそうなほどに大きく開けて、紫雨を見る。彼が一瞬何を言ったのか分からなかった。しっかりと聞こえていたのに、頭の中が中々彼の言葉を理解しようとしないのだ。
(え? え?)
(だって、今の言い方だと)
まるで政務が終わった後に、一緒に金葉茶店に行くと言っているようではないか。
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