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第二部 嗣子は鵬雛に憂う

第271話 偽りなき真実 其の六

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 香彩かさい、と。
 官能的な欲に掠れた低い声が、自分の名前を呼ぶ。


「お前は……生まれて来ない方が幸せだった。生まれて来なければ……よかった。そう思ったことが、何度も……何度も、ある」


 ああ、やはり否定されるのか。
 そんなことを心の隅に思う。
 もうこれ以上、何も考えたくなかった。聞きたくなかった。
 だが蒼竜はいたのだ。
 闇を払い、偽りなき真実を視よと、いたのだ。
 香彩かさいを奮い立たせるように、見えない手が香彩かさいの手の甲を優しく撫でる。指と指の間を柔く摺り合わせて絡める。その何とも言えない感覚に、ただひたすら慰められる。やがて力強く自分の手を握るその感覚に、逃げるなと言われている気がした。
 香彩かさいは、ぐっと奥歯を噛み締めてから、再びあの時の情交を見つめる。
 紫雨むらさめ香彩かさいの頬に触れたまま、ほんの僅かに触れるだけの接吻くちづけを落としていた。
 愛しいのだと、いわんばかりのそれ。


「生まれて来なければ、お前は辛い心の傷を負わずに済んだ。『力』に目覚めることもなかった。こうして『力』を護り、引き継ぐ為の儀式の為に、俺と目合わずに済んだ。それでも俺は……っ! お前が生まれてきてくれて、良かったと思っている。これは俺の我が儘だ。勝手だとお前は怒るだろうが、それでも俺は……俺はお前がいてくれて良かったと思っている。お前が生きがいだ。お前が生きていてくれたことが、生きていることが俺の何よりの幸せだ。これからもお前を見ていたい。お前があいつと、どんな人生を歩むのか見ていたい」 


 それは胸が詰まりそうな程に、張り詰めた声で話す紫雨むらさめの独白だった。
 ぽたり、と。
 何かが香彩かさいの頬に落ち、滑らかに首筋へと流れていく。


「だがお前は……俺の過去に振り回されて、心身の傷を俺に偽り続けてきた。そんなお前の幸せを、考えてやる余裕が、俺にはなかった」


 すまない、と。


 そう言いながら紫雨むらさめは、香彩かさいの身体から熱楔を引き抜いた。無言のまま、熱の溢れ出す花蕾に指を差し入れ、胎内なかに残るものを丁寧に掻き出すと、元々着ていた儀式用の白衣を香彩かさいの身体に被せる。
 そのまま潔斎の場を離れた紫雨むらさめが、次に戻って来た時には、湯を張った桶を持っていた。
 固く絞った布で、香彩かさいの身体を拭き清めていく紫雨むらさめが、酷く穏やかな顔をしている気がして、香彩かさいの心を先程とはまた違った感情が締め付ける。

 否定されてなどいなかった。
 寧ろ求められていたことを、知ってしまった。
 紫雨むらさめ、と。

 名前を口にしてしまえば、心から溢れ出してしまうものがある。その感情のままに、気付けば香彩かさいの頬に一筋の涙が伝った。
 それを見えない指が掬い上げる。
 やがて慰めるように吸われ、涙の通った跡を優しい接吻くちづけが辿る。


(──竜紅人りゅこうと……) 


 どんなに目を凝らしても、彼の姿は見えない。
 ただ闇の中で彼の存在を、温もりとして感じるのみ。
 それ程までにこの招影しょうようの闇は深かった。
 『力』を光によって削がれていくことを知った招影しょうようが、より濃く鮮明に幻影を視せ続ける。
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