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第一部 嫉妬と情愛の狭間
第129話 紫雨 其の六
しおりを挟む何の感情も乗せないまま、そう言って退ける紫雨に。
違う、と。
反射的に香彩はそう叫んでいた。
紫雨を恐いと、思ったことなどない。
だがどんなに否定の言葉を使ったところで、身体は震え、触れられればびくりと身体が揺れる。
温かくとても安心できる大きな手に包まれているというのに、この手は未だに震えているのだ。
「……違う……から……っ」
香彩は今度は紫雨と視線を合わせ、そう言った。
だがではこの震えは何だと聞かれたとしても、香彩には答えようがなかった。
療はこれを郷愁に喩えた。だが実際に震えに気付かれ、熱い体温に触れられれば、そんな綺麗なものでは顕すことの出来ない生々しさが、心の奥に澱のように溜まり、淀んでいく気がした。
香彩のそんな様子を、紫雨がじっと見つめている。深い翠水の一番奥に、じりと灼けるような熱を見つけてしまって、再び香彩の身体がびくりと反応する。
すとんと、心に落ちた気がした。
初めから分かっていたことだと、頭の隅にそんなことを思う。
(……紫雨が恐いんじゃない)
あなたが隠し持つ熱の、篤さが恐いのだと。想われた年数の深さが、その情が恐いのだと。
恐いと思うのに、得難い物をようやく得た悦びと、竜紅人への想いとが、香彩の心の中に同時に存在する。それは拮抗し、鬩ぎ合い、香彩の感情を苛ませる。
まるで香彩のそんな想いを全て見透かしているかのように、紫雨が喉奥で、くつりと笑った。
そして香彩に特に何かを話すわけでもなく、視線を空へと向け、手を差し出す。
「──白虎よ」
主の呼び声に、夜気の漂う虚空から春風に紛れ、応じ参上したのは、柔らかそうな白い毛並みに、黒い縞模様を持った、大きな虎竜だった。
白虎と香彩は、ほんの一瞬だが視線を交わしたが、白虎の従順な瞳は真っ直ぐに紫雨を見つめていた。そして粛然と控え、その命を待っている。
そんな白虎の様子に、香彩は心の何処かで小さな悲鳴を上げていた。
本来の主が呼んだのだ。白虎が紫雨に従う当然のことだというのに、何処か安定しない心は、普段は『当たり前だ』と思う出来事を受け入れられずにいる。
それどころか白虎と交わしたあの視線に、次代としての品定めをされたような気がしていた。
「──香彩」
艶のある低い声に名を呼ばれて、香彩の身体がびくりと跳ねる。
返事も出来ないままに、まるで声に導かれるように見遣ると、紫雨の深みのある優しげな翠水とぶつかった。
「このまま蒼竜屋敷に向かうが……お前はどうする。身体が辛いのであれば、先に白虎で城へ戻るか?」
「……」
紫雨の言葉に香彩は、首を横に振る。
「……結界を書き変えて、蒼竜を封じるんでしょう?」
「ああ」
「……だったら、ちゃんと」
見届ける。
幽閉され封じられるその瞬間まで、自分は見届ければならない。
蒼竜がいま、この時期に発情期になってしまった最大の要因は、自分にあると香彩は思っていた。
罰として人形を封じられ、不安定だった所に、己の御手付きに迫る成人の儀。自分がもう少し竜紅人の気持ちを考えて行動していれば、竜紅人の存在を拒否してしまうような出来事は、起こらなかったかもしれないのだ。
だから、ちゃんと見届ける。
蒼竜が屋敷に封じられるところを。
「だから、連れて行ってほしい。紫雨」
「──相分かった」
紫雨はそう応えを返すと、香彩の身体を支えていた腕をそのままに、軽々と香彩を横抱きにした。
じっと香彩を見つめる深翠は、いっとう優しげに細められる。
そして宥めるようであり、慰めるようでもあり、愛しいと言わんばかりでもある口唇が、香彩の額に降りてきた。
やがてそれは目蓋に、鼻梁に落ち。
紫雨が白虎に跨がる頃には、啄むような接吻が、香彩の色付いた唇に落とされた。
欲を伴うわけではない優しい接吻に、竜紅人を想う気持ちと、紫雨を慕う気持ちが心内で複雑に絡んでは、暗い影を落としていた。どうしようもない罪悪感に押し潰されそうになりながらも、もう縋る者は紫雨しかいないのだと言わんばかりに、香彩は接吻を素直に受け入れる。
そして熱い舌を絡め合う頃には、白虎は空高く飛翔し、蒼竜屋敷に向けて進路をとったのだ。
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