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第一部 嫉妬と情愛の狭間
第126話 紫雨 其の三
しおりを挟むそれは蒼竜の目にどんな風に映ったのだろう。話の出来なくなった、本能に支配された真竜には、心奥に秘めた思いなど理解されないだろうと、香彩は思った。
今はどうしても蒼竜を、受け入れることが出来ないのだ。蜜月期である真竜を、御手付きが受け入れることが出来ない。発情期に入った真竜の発情を、治めることが出来ない。
ここまで蒼竜に対して出来ないことだらけで、どれひとつ取っても譲歩も出来ないのであれば、中途半端な優しさは却って、蒼竜を傷付けることにしかならないだろう。
突き放すしかないのだ。
それにたとえ蒼竜にとって裏切りともいえる行為だとしても、紫雨だけを悪者にはしたくなかった。
覚悟をしたのだ。
この人が持っている四神を受け継ぐのだと。そうすることで『竜紅人が香彩の術力を消してしまう事態』を防げる。竜紅人と一緒に笑う未来を見ることは、もう難しいかもしれないけれど、竜紅人が自分に対して罪悪感を持つよりはいい。少しでも竜紅人が笑っていられる未来を作るのだと。
覚悟を決めた、ただそれだけだった。
香彩はもう一度、熱くなった息を紫雨の肌に吹き付ける。貴方だけの所為ではないのだと、自分も共犯なのだと言わんばかりに、撓垂れ掛るようにして、身体を寄り添わせた。
ふと視線を感じて見上げれは、紫雨の深みのある翠水の瞳にぶつかる。
全くお前は……と、その言葉は音にならず、口だけが動いた。
紫雨の視線はすぐに外され、蒼竜の方へ流される。
それを追い掛けるかのように。
突き刺すような鋭い視線を覚悟して、香彩は蒼竜を見た。
「え……」
香彩を迎えたのは、がらりと様子の変わった蒼竜の、悲しげな眼だった。
「……なん、で……?」
視線だけで人を害してしまいそうな、目を向けられるのだと思っていた。憎しみと怒りに満ちた目で、見られるのだと思っていた。
だがどうだろう。
本能に返ったはずの蒼竜の瞳は、幾度か瞬きを繰り返し、しっとりと濡れているようにも思えた。
やがてほんの少し頭を上げた蒼竜は、まるで笛でも吹いているかのような、細い声を上げたのだ。
物悲しげに。
「……あ……」
喉の奥から絞り出すような声が、香彩の声帯を震わせる。
覚悟を決めたはずの心が、悲痛な蒼竜の鳴き声によって、脆くも簡単に覆されそうだった。
せめてその声を、細く悲しいその声をどうにかしてあげたいのだと、身体が動く。
蒼竜に向かって。
だがそんな香彩の身体を止めたのは、香彩の肩を掴んでいた紫雨だった。
二の腕辺りをきつく掴まれた香彩は、何でとばかりに批判的な目を紫雨に向けた。
何故彼は止めるのだろうと思った。
(……行ってあげなきゃ……!)
行って蒼竜の頭を、抱いてあげなきゃ。
そんな風に思っていた香彩だったが、紫雨の静かな深翠の目を見て、我に返ったかのように、大きく目を開いた。
(……いま、僕は何を……?)
何を思っていただろう。
いま、大きく揺らいだこの心は、何を思っていただろう。
「──仕掛けたのはお前だ、香彩。この泥船に乗るつもりなら、しっかり最後まで全うすることだな」
でないと……痛い目を見るぞ。
紫雨の官能的な低い声が、香彩の耳元を擽る。
近い。
紫雨との距離が。
気付けば痛いほどの力で、二の腕を掴まれながら。
不意に頤を掴まれ、上げられて。
「──っ……!」
降ってきたのは噛み付くような接吻だった。
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