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第一部 嫉妬と情愛の狭間
第124話 紫雨 其の一
しおりを挟む蒼竜が凄まじい咆哮を上げた。
それは黄竜から発せられた神気と、込められた命令を何としてでも跳ね返すのだと、言わんばかりのものだった。
立て続けに蒼竜は大きく吠える。
黄竜に対してそれが、どれほどの効果があるのか香彩には分からない。
だが香彩には直感があった。
来る、と。
それは香彩が想像し、警戒した通りの出来事だった。
唸り声を上げた蒼竜は、巨体に似合わない速さで低空を飛んで来た黄竜の、巨体であるが故の隙を付いた。
速さなら蒼竜の方が分があるのだろう。
黄竜の横を擦り抜け、突き飛ばされて出来た森の道を、戻るようにして蒼竜は飛ぶ。
真っ直ぐ香彩に向かって。
そんな蒼竜の動きを気配として捉えていた香彩は、後退しながらも前に突き出していた手に『力』を集める。
呼吸をすることが無意識なように。
当たり前にあるべきものとして、借りた神気に術力を合わせて、障壁を織り成そうとしたその刹那。
とん、と。
何かが香彩の肩に当たった。
背中に感じた温かいもの。
それは思わずその庇護に縋り、泣き出してしまいそうな温もりだった。
「ぁ……」
親しんだ気配が、香彩の背中から全身を包み込む。同時にぞくりとした何かが、背筋を駆け上がった気がした。
僅かに身を震わせる。
背後に感じた気配に気を取られ、織り成した術力が見事に霧散したことに気付くのに、瞬刻を要した。
頭上から仕方のないとばかりに、息をつく様子が伝わってくる。
まるで初めから香彩の『力』がこうなると知っていたかのように、逞しい腕が前に突き出された。
香彩が織り成そうとしていたものと同じ、障壁を作り出す術が、目の前で展開される。
巨体を感じさせない速さで、香彩に向かって低空を飛んで来た蒼竜が、障壁によって弾き返され、低い呻き声のようなものを上げながら、地を滑った。
「……っ!」
竜紅人、と。
思わず声を上げてしまいそうになる香彩の肩を、ぐっと掴む大きな手がある。その力強さを、体温の熱さを、とてもよく知っていた。
視界の端に映る金糸に、嫌でも身体が強張る。
術を発動させた反動なのか、荒く吐かれる息が香彩の髪を揺らした。それすらもまた、背筋をぞくりとさせる材料だ。
理由も分からずに、どうしても震えてしまう身体と声を何とか堪えて、それでもまだ消え入りそうな声で香彩は、後ろにいる者の名を呼ぶのだ。
紫雨、と……。
己が発した声の、あまりの弱さに香彩はどこか愕然とした思いがした。喉の奥から押し出した声に、微かな狼狽が透ける。
彼が自分の元へ現れると、心のどこかで分かっていたはずだった。確かに彼は言ったのだ。
状況が変わり次第、迎えに行くと。
まさか夜半過ぎに城を出て、南の国境近くにいるとは思いもしなかっただろう。だがそれでも彼は香彩を迎えに来たのだ。
紫雨からの応えはなかった。
だが返事の代わりなのか、ぐっ、と肩を掴む手の力が増す。引き寄せられるようにして、香彩の背に彼の胸部が付く。
否応なしに触れる衣越しの体温に、思わず身を竦ませた香彩だ。
恐る恐る肩越しに振り返り、紫雨を見上げる。香彩の視線に気付いているだろう紫雨は、決して香彩の方を見ようとはしなかった。
ただ無言で真っ直ぐに前を見据え、息を整えている。
障壁を張っただけだというのに、息を乱す紫雨の姿に、香彩は心のどこかで頽れそうになる感情を必死に繋ぎ止めた。
酷使した紫雨の術力は、ここ数年の間に徐々に衰えを見せ、悪化の一途を辿っている。
昨年に至っては雨神の儀で、雨神を召喚することが出来ず、香彩が遂行した。
雨神に食わせる術力が足りなかったのだと言ったのは、紫雨の言葉だっただろうか。それとも竜紅人の言葉だっただろうか。
自分の所為なのだと、香彩は知っていた。自分が宿った時に父親の『力』の大半を、生まれてくる十月の間に、少しずつ母親の『力』を奪って誕生した命だ。
生まれてからも一人で自分を育てる為、術社会で身体を『力』を酷使している姿を、ずっと見てきたのだ。
自分の中で絶対に揺るがないだろうと思っていた人の『揺るぎ』を改めて目の当たりにして、香彩の中に生まれたのは、頽れそうになりながらも、この人が持っているものを引き継ぐと決めた覚悟だった。
それがやがて『竜紅人が笑っていられる』未来に繋がるのだ。竜紅人によって術力を失った未来よりも、遥かに良いだろうと信じるしかない。
香彩は紫雨の見ている方向を見据える。
障壁によって弾き返され、地を滑るようにして吹き飛ばされた蒼竜の先には、黄竜が待ち構えていた。
黄竜はその巨体を利用して、身体全体で蒼竜を受け止めると、長く太い首に食らい付いた。
蒼竜の悲鳴にも似た声が上がる。
だがそれに構うことなく黄竜は、深々と鋭牙を突き刺し、まるで獲物でも捕らえたかのように、蒼竜の竜体を引き摺り出したのだ。
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