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第一部 嫉妬と情愛の狭間
第121話 発情 其の三
しおりを挟むゆっくりと後退しながら、療が少しずつ少しずつ気配を消していくのを真似て、香彩も自身の気配を薄くしていった。
やがて見つけた大きな岩場の影に身を寄せる。蒼竜から随分と離れたが、まだかろうじて目視できる距離だ。
蒼竜は大きな頭を動かしていたが、ほどなくその場に四肢を折り曲げて座り込む。だが荒い息を吐きながら何かを探しているかのような動作を、止めることはなかった。
療が大きく息をつく。
「いきなりさ、こんな話して戸惑うよね」
顔色を悟られたのだろうか。
岩影に身を隠し、蒼竜の様子を伺いながら、そう話を切り出した療に、香彩は苦い笑みを浮かべた。
療の気配が少し変わる。
明らかに蒼竜を警戒しているそれに、香彩は今更ながらに疑問に思った。
何故、現在が駄目なのか。
何故、現在、御手付きが蒼竜の発情期を治めてはいけないのか。
「でも大事なのはここからだから、聞いてて香彩。本当なら縁が繋がった『核』と『魂の光』は、すぐに結び付くんだけど、さっきも見た通り雨神が止めてる」
「雨神、が……?」
香彩は目を見張った。
祀りに関わる真竜は、本来ならば正式な儀式を経て召喚しなければ、この地に降りないとされている。たとえ降りることが出来ても媒体がない限り、その姿を保つことが出来ないのだ。
先程の雨神は『光玉』を止める為だけに顕現した。だが媒体と栄養源ともいえる『術力』が無かった所為か、療と蒼竜の神気を浴びただけで消えてしまったのだ。
「もし今の状態で香彩の胎内にある『核』と『魂の光』が結び付いてしまったら、香彩は術力の大半を彼らに喰らわれてしまう。それだけじゃない」
香彩達の血脈の宿命がある、と療は言葉を続ける。
「何も対策せず彼らを『生み出して』しまったら、血脈の宿命通りに香彩は『術力』そのものを失ってしまう。『生み出された』次代は『術力』を引き継がない。むしろそれを餌にして誕生する」
「──……っ!」
香彩は思わず自分の手を見つめた。
じっと凝らしていると、手の周りに青白く薄い膜のようなものが見える。
生まれた時から当たり前に存在し、まるで空気を吸うようにして、無意識に身体に張り巡らせている力、『術力』がそこにあった。
(……それが、失く、なる……?)
当たり前にあったものが、失くなってしまう。
全く想像のできない事柄に、香彩はどこか他人事のようにも感じてしまう。
実感が全く湧かないのだ。
術力が失くなってしまうなど。
(──ああ、だから、か)
だから急いでいたのかと、香彩は納得した。
放っておけば、いずれ喰らわれて失くなってしまうのならば、護るしかない。
「だから『成人の儀の後なら送り出してた』なんだね、療」
「……相変わらず変な所で察しがいいよね」
「失くなるのなら、失くならないようにすればいい。そう考えたら、紫雨が何であんなに『成人の儀』に対して忙しかったのか、分かる気がしたんだ。それに次の国行事までにっていうのも、ずっと引っ掛かってた。それはそうだよね。雨神が『光玉』を止めているんだもん。雨神の儀で僕の『深層意識』へ降りてしまったら、雨神がどんなに頑張ったって、『光玉』を止めることなんて出来ない。『核』も『光玉』も、お互いがお互いを求めているんだから」
そう話しをしながらも香彩は、自分自身に対して妙な違和感を覚えていた。自分のことを話しているというのに、まるで他人事のような違和感だった。自身の足がちゃんと地に着いているというのに、どこか高くて遠い所から、もうひとりの自分が見ているような、そんな感覚がする。
そのもうひとりの心は、泣いていた。
多分ずっと泣いているそれに、香彩は敢えて背を向ける。もしもいまそれを受け入れてしまうと、足元から自身が崩れてしまう。そんな予感がしたからだ。
自身の内面を知る者は限られている。
ひとりはもう、言葉が届かない。
もうひとりは、『今までとは違う人』になってしまった。
心の内側を相談出来る相手が違う存在になった今、壊れないように崩れないように自身の力で立つしかないのだ。
「……もうひとつあるんだ、香彩」
雨神の儀式以外で、『核』と『光玉』が結び付いてしまう出来事が、もうひとつあるんだと療は言う。
香彩は無言のまま、療の言葉を待った。
療は手振りで、後ろへ下がれと香彩に合図をする。
再びふたりは、ゆっくりと後退し始めた。
先程から療は話をしながらも、ずっと蒼竜を警戒している。刺激を与えないように後ろへ下がりながら、いつ蒼竜の個体距離から大きく離れようかと、機会を伺っているようにも見えた。
(……ああ、もしかして)
警戒しながら蒼竜から離れる理由、それは。
「そのもうひとつはね……──発情期の蒼竜と交接すること」
「──っ!」
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