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第一部 嫉妬と情愛の狭間
第113話 花盗人 其の五
しおりを挟む本当ならもうこれ以上、移動しない方がいい。指先から滴る血は、地面へと落ちている。療にとってそれは穢地となる。
真竜は神気を使って、神秘とも奇跡ともいえる様々なことを行うことが出来る。だが総じて穢れに弱い。上位の竜になるほど、強大な力を振るうことが出来るが、その反面、血の穢れや怨恨の気、邪気に敏感になる性質を持っていた。
香彩の血は、縛魔師の血であり、真竜の加護を持った者の血だ。流れた血が少量ならば何の問題もない。
だがそれも一定量を超えると穢れに変わる。
一度血に酔ってしまえば、療は穢れを身の内に抱え込んでしまうことになる。
そうなれば『力』が振えない。
もしも穢れを抱え込んだまま『中』に壌竜の『光』を入れてしまえば、壌竜の『光』は穢れを取り込んでしまい、真竜としての生を受けることが出来なくなる。辛うじて生まれたとしても、引き継がれた穢れによって再び堕ちることになるのだ。
(……救える可能性を、もうこれ以上……)
減らしたくない。
香彩は肉塊の奥に潜む神桜の一枝の気配を捉えながらも、肉塊からの執拗な攻撃を避ける。
内にある神桜の気配を捉えられていることが、余程気に食わないのか。肉塊の抵抗が更に激しさを増した。
ぎしぎしと鎖が今までにない音を立てる。
ぷつり、と。
鎖の切れる音が聞こえた。
先程とは違う場所が、大きく綻びを見せる。
顕れた触手の数に、香彩の背筋を冷たい汗が滑り落ちた。
果たして療と距離を取りながら避け切れるのか。
避けながら火神を誓願する術を形成できるのか。
(……その前にもう一度……)
療の、黄竜の『力』を誓願して、拘束し直す方が懸命か。
香彩が考えた、その時だ。
あらぬ方向から顕れた触手の先端が、香彩の足を掠めた。
紺色の袴が破れ、一線の赤い筋が走る。
「──っ!」
それに気を取られた刹那の時を狙って、触手が香彩の目の前に迫る。
(──だめだ……!)
避けきれない。
腕で目を庇いながら。
尖った触手の先端に皮膚を裂かれ、身体を貫かれる痛みを想像しながら。
ぎゅっと固く双眸を閉じ、衝撃に備える。
香彩、と叫ぶ療の声が遠くで聞こえた気がした。
だが。
その衝撃は、いつまで経っても香彩を襲うことはなかった。
感じるのは水の気だ。
まるで背後から包み込まれるように、ふわりと水の気が香彩の身体を覆う。
そして鼻を掠めるそれは、森の香りだ。
『──お前は、いつも詰めが甘い』
耳元で、そして脳内で聞こえる声。
肩の重みは、果たしていつから感じていたのだろうか。
「──竜ちゃん!」
「……りゅこ……と……?」
少し向こうで療の、竜紅人を呼ぶ声が聞こえる。
茫然としながら香彩は、その名前を呼んだ。
まさかと思った。
喧嘩をして受け入れることを拒否した自分の元へ、蒼竜が来てくれたことに香彩は信じられない思いがした。
だが同時に彼ならきっと来てくれると、自分を見ていてくれていると、思っていた自分もいた。ふたつの心は反発し合い交差しながらも、やがて溶け合って、素直に『蒼竜が助けてくれたのだ』という事実を受け入れる。
蒼竜は、びょうと竜翼独特の風切りの音を立てて、香彩の肩の上で翼を広げた。
香彩に向かっていた肉塊の触手は、蒼竜が展開した水の気の神気によって弾かれる。
『……っ!』
竹のしなる様な乾いた音が響き、ずんっと地から突き上げられるかのような衝撃があった。
『……相性は最悪だな』
蒼竜は荒々しく息をつきながら、そんなことを言った。
その息遣いに香彩は目を見張る。
確かに土の気を持つ肉塊に対して、水の気を持つ蒼竜は相性が悪い。土が水を濁し、吸い取り、溢れようとするそれを塞き止めるように、土の気は水の気に対して抑え込む力を持っている。
だが単純に『力』だけならば、堕ちてしまった壌竜よりも、蒼竜の方が上だ。たとえ相性が悪くても、『力』が勝ればそれを打ち消すことも可能なはずだった。
蒼竜が息を乱す。
離れている間に何かあったのだろうか。
(……もしかして僕が抵抗したから)
身体に何か異変を来しているのだろうか。
『力』の相対だけではなさそうなそれに、大丈夫なのかと香彩が蒼竜に声を掛けようとしたその時だ。
『これも長くは持たない。今の内にもう一度肉塊を縛れ! 香彩』
荒く乱れた息を隠すことなく、蒼竜がそう香彩に言い放つ。
ぴしゃりと鞭で打つような言葉遣いに、心の何処かで衝撃は受けるものの、今はそんなことで心痛の思いに駆られている場合ではない。
邪気を払うことが出来るのは、自分しかいないのだ。
香彩はそう心を切り替えると、胸元から不思議な紋様の描かれた札を取り出した。
そして再び打つのは、柏手だ。
一度目は地に住まう地霊や精霊に。
二度目は真竜の加護を願い、『力』を借りる為の挨拶。
「伏して願い奉る。真竜御名、皇族黄竜、蒼竜、その御名において、我の呼応に力を貸したまえ」
香彩の声に反応して、札が仄かに光り出す。
『──縛!』
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