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第一部 嫉妬と情愛の狭間
第103話 馥郁たる土の香 其のニ
しおりを挟む(……温かい湯に、ちょっと浸かりたい)
療の私室は第一層だ。
手っ取り早く湯に浸かりたいのならば、同じく第一層にある大浴場だろう。だが大浴場は文字通りとても大きな湯殿で、この中枢楼閣に勤めるたくさんの官達が利用する。この刻時まで働いている者もいれば、これから執務する者もいる為か、大浴場に人がいなくなる時間というものがあまりない。
なるべく今の自分の姿を見られたくないと、療は思った。体温は戻ってきているとはいえ、時折こう震えていては、周りは何事かと思うだろう。
すぐそこに大浴場があるんだから、私室に湯殿なんていらないだろうと、思っていたことを後悔する。
(……六層かぁ……)
誰にも会わずに湯に浸かりたいのなら、第六層にある『司』の付く役職及び、それ以上の位の者だけが入れる専用の禊場だろう。入る者が限られている上に、この湯殿は内側から鍵が掛けられる為、貸切状態に出来る。
億劫ながらも療は、自分自身の存在を確かめるように、ゆっくりと立ち上がった。今の療にとって、第六層までの道のりはとても長く感じられる。
大きくため息をついてから、療は私室を出た。
第六層に行くついでだ。
香彩にもう一度、話を聞いて貰おうか。
(……夜半過ぎには少し早いけど)
湯を浴びて迎えに行ってもいいのかもしれない。そこまで思い立って、療はふと我に返る。
昼間に竜紅人が香彩を、無理矢理連れて行ったことを思い出したのだ。
(──あぁ……)
あの後ふたりはどうしたのだろう。
ちゃんと政務に戻ったんだろうか。
(……って戻れるわけないか)
きっとふたりとも、私室かどこかに籠っているに違いない。そんな所に迎えに行って、友人らのあられもない姿を見てしまって、お互いに気まずい思いをするのは避けたかった。
それでもやはり気になるのだろうか。
無意識の内に気配を探る。
(──えっ……?)
感じるのは香彩ただひとりの気配だけだった。側にあると思っていた、竜紅人の気配がない。
(竜ちゃん……どこに……?)
深く気配を探ると、香彩から離れた場所で竜紅人の気配を見つける。だが敢えて見つかりにくくしているのか、その気配は希薄だ。
「また何か拗らせちゃったのかなぁ、これ」
あんなことがあった後に、ふたりが一緒にいない。しかも竜紅人に関しては、気配を敢えて読みにくくしている。この時点で既にもう、何かありましたと言っているようなものだ。
やはり少し早いが香彩の所へ行こう。
そう思って歩き出した時だった。
ぞくりとした寒さが背筋を駆け上がる。
まるで氷でも背中に滑らされたかのような冷たさと痛さに、療は顔をしかめ、身震いをした。
ぶわりと。
辺りを占めるのは、濃厚な馥郁たる土の香。
それは紅竜の意識下に落とされた時に、よく香っていた物と同じ物だ。
療は思わず、肘裏で口と鼻を覆う。
本来ならそれは豊潤な土の恵みの香りのするものだった。
だがいまは違う。
腐臭と死臭に似たものが、本来の香りの中に混ざっている。
療はその臭いを知っていた。
まさにそれは堕ちかけた、真竜の臭いだった。
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