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第一部 嫉妬と情愛の狭間
第101話 隠された想い 其の二
しおりを挟むそう言って引き戸を開くのは、大きな木車を押した見覚えのある食事処の者だ。
食事処の者は慣れた様子で、食事や休憩を取るための卓子の上に配膳していく。
きょとんとしてそれを見ていた香彩だったが、我に返って慌てて言ったのだ。
部屋を間違っていないかと。
「僕、今日は頼んでないんだけど」
香彩の言葉に食事処の者は、にっこり笑って言うのだ。
竜紅人様からのご依頼です、と。
「──……竜紅人、の……?」
「ええ。朝に昼餉のご予約を取られたんですが、政務で来られなくなったから、夕餉に届けてやってほしいと伝言されまして」
それでは後程下げに参りますので、と食事処の者は政務室を去る。
卓子の上に並ぶのは、まだ温かい料理だ。その中には、先程食べたいと思っていた川魚の煮付けがあった。それに柔粥と根菜の煮付け、葉物の香漬だ。自分の好きな物ばかりだ。とてもいい匂いに再び、くぅと腹の虫が鳴る。
(……あの時)
少憩室で蒼竜を見たあの時。
竜紅人はお昼を誘いに来てくれたのだ。
どこかぼぉうとした心地のまま、香彩は椅子に座る。
(朝に……予約までして)
(しかも……)
夕餉に届けてやってほしいと、食事処に伝言する機会があったのは、自分と喧嘩した後しかないのだ。
香彩は食を頂く礼を執ったあと、好物の川魚の煮付けを一口、口に入れる。甘辛く煮付けられた川魚の美味しさが口の中に広がるのと同時に、香彩は感じた彼の深い優しさに胸がいっぱいになった。
今すぐ蒼竜を探して、その背中に抱き付いてしまいたくなる衝動をなんとか抑える。
会ってしまえば、先程怒っていたことなど、きっとどこかへ行ってしまう。そしていま心の中に溢れている『ありがとう』と『好き』の感情のままに、拒否したはずの接吻を受け入れてしまう。
それでは駄目なのだ。
蒼竜がまた嫉妬で苦しみ、激しく香彩を抱いて、一時的に満足を得られたとしても、今度は激しくしてしまったことを後悔する。蜜月を得られない真竜の渇きを満たすことは、今の香彩では不可能なのだ。
「……りゅう……」
いつか何の憂いもなく、笑い合いながら、時には見つめ合いながら、一緒に食事を取ることが出来るようになるのだろうか。
香彩は夕餉が美味しいと感じることが出来るようになったことを、心の中で噛み締めながらもそんなことを思う。
少し刻が経って、食事処の者が膳を下げにやってきた。御馳走様でしたと、香彩が礼を言う。膳を見て食事処の者が目を見張る様子が伝わってきた。
いつ振りぐらいなのかもう、自分でも覚えていない。夕餉を完食したのは。
食事処の者が軽く挨拶をして、政務室を去る。きっと明日には食事処の人達に伝わるのかもしれない。
(……人の倍ほど食べてた常連が、急に粥の一杯も食べられなくなったら、どうしたんだろうって思うよね)
粥しか食べられなかった頃、少しでも栄養をと、食事処の者が気を使って、粥の中に乾燥させた葉物や、干した肉を削った物を入れてくれていたことを思い出す。
食事処の人達にはもう、感謝しかないのだ。
きりのいいところまで仕事を進めて、香彩は仮眠を取る為に、隣の少憩室にある寝台にごろりと寝転がった。
急ぎの仕事の分は、夕餉前に全て片付けてある。いまやっていた仕事は、いずれは片付けなければならないものの、今すぐにというものではない。完全に自分の私室へ戻らないようにする為の時間稼ぎなのだ。
見慣れた天井を見つめて、香彩は小さくため息をついた。
竜紅人はいま、どうしているのだろう。
そんなことを思う。
気配を探ればきっと、どの辺りにいるのかすぐに分かるというのに、香彩は敢えてそれを探ろうとはしなかった。
どこにいても嫌だと思ったからだ。
竜紅人が自身の私室にいれば、追いやってしまったのだと思う。香彩の私室にいれば、自分を待っているのだと罪悪感が募る。この城のどこにもいなくて、どこか遠い所に気配を感じてしまったら、自分のことを棚に上げて、そんなところで何をしているのかと不安になる。
「……りゅう……」
天井に向かってそう呟いた。
もしも蒼竜が香彩の私室にいたら、この呟きが聞こえているのかもしれない。
それでも無意識の内に呼んでしまう程、心の中は竜紅人で占められていた。
「……りゅう……」
結局彼と話が出来なかったのだ。
自分の胎内に何があるのか聞くことが出来なかった。
そして今夜、中枢楼閣を出ることも彼に言うことが出来なかった。
せめて夜半過ぎに中枢楼閣を出て、療と南の国境に行くことだけでも伝えられたら。
そんなことを思いながらも、朝から色々あった所為か、香彩の目蓋は次第に落ちていった。
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