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第一部 嫉妬と情愛の狭間

第93話 療 其の三

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 竜紅人りゅこうと紫雨むらさめは、香彩かさいにとってどちらも大事で大切な人だ。だが香彩かさいの心の中で、ふたりは明らかに違う位置に立っているのだと自覚している。

 にも関わらず紫雨むらさめに特別な感情を抱いてしまうのは何故なのか。
 竜紅人りゅこうととはまた違う、想いを抱いてしまうのは何故なのか。


「……それはさ香彩かさい遠里故郷おりこきょうに馳せる、郷愁に似た感情なのかもしれないよ」 
「……郷愁……?」
「うん。いま香彩かさいは何か大切なものを失った気がして悲しいって言ったよね。それって今まで表に出ることのなかった紫雨むらさめの感情を目の当たりにして、『今までの紫雨むらさめ』を失くした気がしてるんじゃないかな。そして何処かで『今までの紫雨むらさめ』を求めてる。だけど今の紫雨むらさめに求められて、自分の存在そのものを認められたことが嬉しいと思う自分がいる」
「……うん」 


 香彩かさいりょうの服を、皺になるほどぎゅっと握り締める。
 りょうの言葉が胸にすとんと落ち、乾いた心に沁みていくようだった。
 失くしたものを懐かしく求める気持ちと、認められた嬉しさ。相反する感情は、恋い慕う気持ちはまた別の情を伴って、香彩かさいの心を占める。


「流石にその情だけは、竜ちゃんには歯が立たないんじゃないかな。きっと紫雨むらさめも同じくらいの情を持ってて、しかも一夜って割り切ってる分、余計に。一夜だからこその激しさだもの。翻弄されても仕方ないと思うよオイラは」 
「……」


 香彩かさいは無言だった。
 確かに紫雨むらさめは一夜の夢物語だと言った。それをりょうは『一夜だけだと割り切っている』と解釈したのだ。割り切るということは、あの一夜だけ己の持つ想いや感情を吐露し、翌日には何事もなかった顔をして、日常を過ごすということだ。
 紫雨むらさめは、それは見事に割り切るだろうと思われた。表情や感情を全て心の奥に隠して、いつも通りの顔をして自分の前に立つだろう。
 それがどこか嫌だと香彩かさいは思った。一夜だけと割り切るのならば、自分に対する感情を隠したままでいて欲しかった。激しい感情を向けられた自分は、きっと割り切るなんて器用なことは出来ず、心の何処かで忘れることが出来ず抱えているだろう。
 かといって紫雨むらさめが割り切らずに、その感情を向けられることも、また困るのだ。


(──りょうだったらきっと上手なんだろうな)


 こんな風に悩まず、紫雨むらさめの心情を理解して、紫雨むらさめ以上に割り切り、あけらかんとしているに違いない。


(僕よりも紫雨むらさめのこと理解してるし)


 何より紫雨むらさめのことをよく見ているなと、ふと思った時だった。



(──あ……)


 香彩かさいは寄り掛かっていたりょうの胸から、少し離れて顔を上げた。
 急な動きびっくりしたのか、りょうはその紫闇を丸くして香彩かさいを見ている。
 香彩かさいはそんなりょうの目を見ながらも、心のどこかですとんと答えが落ちてきた気がして、それが妙に腑に落ちたのだ。


(──りょうってもしかして)
 あの人のこと……。



「ねぇ? 香彩かさい


 りょうの呼び掛けに、香彩かさいのいま考えていたことが霧散する。


「ちょっと聞きたいんだけど、香彩かさいはさ、竜ちゃんよりも紫雨むらさめと、未来を一緒に歩きたいの?」
「え……」


 問われた内容に香彩かさいは戸惑いを感じた。どうしてりょうがそんなことを聞くのか、分からなかったのだ。
 だが困惑しながらも、香彩かさいが出した答えはたったひとつだった。


「──確かに紫雨むらさめも共に在りたいって思うよ。だけど……一緒にご飯を食べたり、一緒に眠ったり、一緒に喜んだり苦しんだり、時には喧嘩もしたり。そういった日々の生活っていうのかな。そういうものを感じて一緒に歩いて行きたいって思うのは」


 竜紅人りゅこうとだけだよ。


「もちろん紫雨むらさめも大事だよ。だけどね、やっぱり違うんだ」


 自分の心の中にある、ふたりの立ち位置が明らかに違うのだと、確かに何度も思ったはずだ。


「うん、きっとそれさえしっかり、心で分かっていれば大丈夫だよ香彩かさい


 りょうがそっと香彩かさいの頭を撫でる。
 されるがままに、うんと頷くのは香彩かさいだ。


「いまは色んなことがあり過ぎて、色んなもの見えなくなったり、激しい感情に晒されて戸惑ったりしてるけど、香彩かさいは一番大事なことを、心でちゃんと分かってる。竜ちゃんも嫉妬しながらも、香彩かさいが分かっていることをちゃんと知ってるし、信じてるんだと思う」


 だから大丈夫だよ。


 それはとても優しい声色だった。
 香彩かさいの頭を撫でていたりょうの手が、まるで勇気付けるように、軽くぽんぽんと弾む。
 何かに堪え切れなくなって、香彩かさいは勢いを付けてりょうの首に抱き付いた。
 丸椅子に座っていたりょうが、後ろへ倒れることなく香彩かさいを受け止める。背中に回された手が香彩かさいの背中を、宥めるように再びぽんぽんと叩いた。
 こうやってりょうに抱き止められるのは、もう何度目だろう。今でこそ泣いてはいないが、以前にどうしようもなく感情が乱れて、涙が溢れて止まらなくなった時、抱き締めてくれたのはりょうだった。
 この腕の中は、竜紅人りゅこうと紫雨むらさめとまた違った意味で安心する。特に欲を伴わない分、とても癒される。


 ごめん、りょう……と。


 
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