92 / 409
第一部 嫉妬と情愛の狭間
第92話 療 其の二
しおりを挟むそう言って笑顔を見せる療に、まるで釣られるようにして、香彩もまた微笑む。
紫雨の言っていることに、無意識の内に盲信的になっていた自分を、香彩は不思議に思った。
紫雨の声には、人を従わせる力でもあるのだろうか。それが全てなのだと、それしかないのだと、思い込んでいた自分がいる。
そして紫雨のことを考えると、何故かふるりと香彩の手は震えた。
療に勘付かれないように、香彩は握られた療の手を、ぎゅっと握り返すことで誤魔化す。
「でもオイラに乗って行くんだったら、事前に竜ちゃんにだけは話、通しておいてね。オイラ変な八つ当たりされるのご免だし、香彩だって変な嫉妬されるの、嫌でしょ。ま、竜ちゃんのことだから、話が出た途端に俺も行くって言いそうだけど」
そうなったらオイラも竜ちゃんに乗せて貰うし、と療がけらけらと笑った。
竜紅人に話をするのは、当然のことだろうと思う。彼もまた神桜のことを気にしていたし、何より真夜中に療と中枢楼閣を出ることを、黙っておくわけにはいかないと香彩は思った。寧ろ一緒に来て欲しいのだと言おうと思った。
(……けど……)
(……その前に聞かなきゃ……)
自分の胎内に一体何があるのか。
それが成人の儀と雨神の儀に、どう関係しているのか。
(多分……療も知ってる)
聞けば療のことだ。教えてくれるに違いないと思ったが、それは筋違いだろうということは香彩もよく分かっていた。
(……竜紅人の口から、ちゃんと聞きたい)
再び震え出す手を香彩は、先程よりも強い力で握って抑えようとした。だが今度は握り拳ごと震える手に、どうすることも出来なくなった。
きっと療はもう知っている。
香彩は療からそっと視線を逸らせた。
まるでそれを見計らっていたのか、それとも待っていたのか。
小さくため息をつく、療の声が聞こえたと思った刹那。
力強く握り締められていた手の、その片方が引っ張られる。気付けは香彩の頬に固い物が当たった。そして頭に優しく添えられるものが。
それが療の胸であり、手であることを悟った香彩は、慌てて療から離れようとした。
だが。
「──さっきからずっと震えてるの、隠してるでしょ?」
療のその言葉に、びくりと香彩の身体がまるで返事でもするかのように反応を示した。
「……で? 今度は何? あ、何でもないよ、は通用しないからね。きっと無意識なんだろうなって思ってたんだけど、オイラ震えてるの見ちゃったから、とっとと白状するように」
「……白状って……おかしいな。療が僕に相談に来てたはずなのに」
「香彩もオイラの様子がおかしいって分かったように、オイラもこの部屋に香彩が入ってきた時に、何かあったなって思ったよ」
頭に添えられていた療の手が、軽く香彩を撫でる。
ほぅと吐息混じりに、敵わないなぁと呟きながら、香彩は身体の力を抜いて療に寄り掛かった。
今度は隠すことのない震えるその手で、軽く療の服を掴む。
「療にとったらさ、こんなことで悩むなんて、って思うことかもしれないよ」
そう香彩が言えば、盛大に大きな療のため息が、頭の上から降ってくる。
「今更感満載って感じなんだけど。この前まで竜ちゃんのこと、そんな感じだったの忘れてないよね香彩。第一さ、どんな悩みでも『悩み』は『悩み』でしょ?」
療の言葉に香彩からの応えはない。
「それに竜ちゃんの時は悩んでいたけど、こんなに震えてなかったじゃない」
「……」
香彩、と療が呼び掛ける。
念を押すように、そして勇気付けるように。
やがて、ぽそりと香彩が呟いたのだ。
接吻された、と。
「……それって、もしかしなくても……紫雨?」
応えの代わりに、香彩の身体が面白いようにびくりと震えた。
「あぁ……──それって儀式の前の、事務的なやつじゃない方ってことだよね」
療の言葉に香彩は、こくりと頷く。
確かに紫雨は言ったのだ。
──ほんの一時の夢であっても、慈しんだ花が手元に戻るとあれば、何としても離したくないのだと。心を砕くのは、間違いか……?
──ほんの一時一夜の夢物語よ。ならばいっそ廃退的に酔い痴れてみるのも、一興。
と。
まるで箍が外れたような、情熱的な接吻を思い出す。
あの熱さは想われてきた年数だ。
「療……僕は、僕が怖い。僕の心がとても怖い」
「……自分の心が怖いの?」
「だって……僕は竜紅人が好きなのに、紫雨のあの接吻は嫌じゃなかった。気付けば自分から求めに行ってた。けど……やっぱり何処かで何か大切なものを失った気がして悲しくて、心がそんな風に思ったのに、ようやく得難いものを得られたんだって、心の何処かがそう喜ぶんだ」
だから自分の心の有り様が、どうしてそうなってしまうのか、分からなくて怖かった。
紫雨のそれはまるで、香彩の存在ごと全てを奪い去ってしまいそうな想いの熱さ、激しさだった。
一夜だけだと彼は言いながらも、先程はその激しさの片鱗を覗かせていて、このまま成人の儀を迎えてしまえば、自分の心がどうなってしまうのか分からなかった。
きっとその危うさを竜紅人は、本能的に察知していたのかもしれない。だからこれでもかとばかりに、自身を香彩に刻み込んだのだ。
0
お気に入りに追加
141
あなたにおすすめの小説


鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。


ある少年の体調不良について
雨水林檎
BL
皆に好かれるいつもにこやかな少年新島陽(にいじまはる)と幼馴染で親友の薬師寺優巳(やくしじまさみ)。高校に入学してしばらく陽は風邪をひいたことをきっかけにひどく体調を崩して行く……。
BLもしくはブロマンス小説。
体調不良描写があります。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。



ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる